第4話 夜は、暗いからこそ美しい
「ご苦労様」と言ったのは、断罪所に控える騎士団達だった。彼らは部屋の中に少年達を迎え入れると、何処か虚ろな顔で少年達の動きを眺めていた。少年達の事(「捕まえるのが襲い!」や「
騎士団達は感情の読めない表情、その視線にすら仮面を付けて、堕天使の少年をしばらく見ていたが、やがて少年達に視線を戻すと、穏やかな声で少年達の労を改めて労った。
「大変だったでしょう?」
少年達はその言葉に瞬いたが、すぐに「いや」と微笑んだ。
「これも、俺らの仕事だからさ。アンタらに労われるような事は、していねぇ。俺らは、俺らの役を果たしているだけだ。アンタらだって同じだろう? 大天使様のお裁きを上手く回すためにね。毎日、懸命に働いている。今日だって」
「はい」と応えたのは、堕天使の前に立っていた少女だった。「お裁きがあります。社会の秩序が崩れて以降、罪人の出現は後を絶ちませんから。払っても、払っても、湧いて来る。まるで渇きを知らない湧き水のようです。水源を絶たない限り、彼らの出現は収まらない。彼らの出現を抑えるには、その水源を絶たなければなりません。どんな手段を使っても」
少女は、少年達の顔にそっと目をやった。
「大天使様は今日も、その難敵と睨み合っています」
「……そうですか」と、礼儀正しそうな少年。「それは、本当に難儀な事ですね。他の方々は、マクマート様のご葬儀に行かれたのに。お一人でお裁きをなさるのは、やっぱり辛いモノがあるでしょう」
少年は大天使の心中を察したが、少女の方は至って冷静だった。
「胸が痛みます」の言葉も、何となく嘘臭い。まるで周りの空気に合わせたような言い方だった。「私なら絶対に耐えられません」
少女は「クスッ」と笑って、堕天使の少年にまた視線を戻した。
観客達の歓声が聞こえたのは、正にその瞬間だった。壁の厚さを無視して、「ワーワー」と響く歓声。その声は、天使でありつつも、天使である事を忘れた、獣達が吠える雄叫びのように思えた。
騎士団達は「それ」に声に眉を潜め、少年達は顔を強ばらせた。
「お裁き、ですか?」
「はい」
「罪人の男は、確か」と、また礼儀正しそうな少年。「『モラン』と言いましたね? ウェステリアの法に従わなかったとか?」
「はい」と、先程の少女が頷く。「何とも情けないお話ですが。私達の生活は、そのすべてが『保障されている』と言うのに。彼は、『それ』に噛み付いたんです。何が不満だったのかは分かりませんが、『とにかく納得行かない』と、自分で自分の人生をふいにした。私達には、到底分からない行いです。自分の立場をきちんと弁えてさえいれば」
「裁かれる事もなかったのに。僕も、貴女と同意見です。僕達は住む家にも困っていないし、それに」
「はい、生きる意味さえも与えて頂いた。普通なら一生気づけないかも知れないそれを。この国は、初めから与えて下さったのです。私達が生まれた瞬間から。私は、『それ』を『幸せだ』と思います。意味も無く生きつづけるのは、やっぱり辛いですから。天使が天使として生きるためには、その目標がどうしても必要です。しかもそれは、社会的に有意義なモノでなければならない。無意味な行為は、その周りにも悪い影響を及ぼします。それは、生きる意義にも反する事ですから」
「『命は、集団の為に使え』ですね?」
「そう、『命は、集団のために使え』。有名な聖典の一節です。私は、その一節がとても好き」
少年達はその言葉に微笑んだが、次の大きな歓声が聞こえて来ると、互いの顔から視線を逸らし合って、眼前の騎士団達に頭を下げた。
「そんじゃ! 俺達は、これで」
「はい」
少年達は騎士団達にもう一度頭を下げたり、隣の仲間と仲良く笑い合ったりして、部屋の中から楽しげに出て行った。
騎士団達は、その背中を見送った。最初はやはり、感情の読めない顔で。だが少年達の姿が見えなくなると、それまでの空気が嘘のように、ある者は床に唾を飛ばし、またある者は部屋の壁を殴ったりして、自分の感情を次々と表しはじめた。
彼らは先程の少女に目をやり、呆れ顔で溜め息をついた。
「命は、集団のために使え……か。ふん、何とも素晴らしい言葉だ。己を殺して、集団のために尽くす。統一国家には、最高の言葉だろうよ? あらゆる者が、国家を第一に考えているんだからな。理想郷以外の何モノでもない。誰も国家を疑わず、それを『ただ正しい』と信じる。妄信的な馬鹿には、天国みたいな所だ。自分で考える必要もないし、その本質を」
「ダメ」と、先程の少女。「それ以上は、いけない。批判は、術の力を弱らせる」
少女は、青年の言葉を制した。
青年はその言葉に「ハッ」とし、慌てて少女に頭を謝った。
「すまない」
周りの騎士団達も、その謝罪に口を閉じた。彼らは互いの顔を見合うと、真剣な顔で観客達の声に眉を潜めたり、それを見下ろしているだろう大天使に苛立ったりした。
大天使は、罪人の顔を睨み付けた。罪人の顔は……一言で言えば、
大天使の眼光にまったく怯んでいない様子からも、その雰囲気がしっかりと伝わって来る。罪人は(20近い若者であった事もあるが)自分が罰せられる立場でありながら、その立場自体を何処か楽しんでいるようだった。
大天使はその態度に苛立ち、声の怒気をより一層に強めた。
「貴様の言い分など知った事ではない! 貴様は、ただの堕天使だ! 堕天使は、黙って」
「はい、はい」の返事も軽い。大天使の事を完全に舐めている。「『下界へ追放されろ』って言うんでしょう? ふん、上等じゃないですか? アタシは、下界の知識をちょいとばかり
「そんな物は、必要ない! 先程も言った筈だ! 貴様の言い分など、知った事ではないと。貴様は、ふんっ! これ以上話しても、時間の無駄だな」
大天使は臣下達に代って、直属の部下達に命を出した。
「やれ!」の言葉から、すぐさま現れる騎士団達。彼らは罪人の周りを取り囲み、例の儀式をやりはじめた。その光景に興奮する観客達。大天使も得意げな顔で「それ」を見下ろしていたが、当の本人は慌てるどころか、その光景を楽しんですらいた。「ふん」と笑った顔からも、その余裕が窺える。「お得意の公開処刑か。素敵な光景だね。まあ、アタシとしては最低だが」
罪人は「ニヤリ」と笑い、両目の瞼を閉じた。
「さらば、我が愛しき故郷よ」
を最後に消える罪人の姿。
観客達はその光景に狂喜したが、大天使はその声を制した。
「次の罪人を呼べ!」
騎士団達はその命に従い、部屋の中で眠る堕天使を叩き起こして、意識がまだはっきりしていない彼を審議場まで引っ張り、その頬をもう一発殴って、審議場の中心に彼をしっかりと立たせた。
レウードは頬の痛みに苛立ちつつも、周りから聞こえて来る観客達の怒声や、自分が今立たされている場所、断罪席の中央に立つ大天使を見て、今の自分が置かれている状況をすぐさま理解した。
……俺は、あのヒトと同じ場所に来たんだ。
言葉では言わなかったが、きつく握られた彼の拳には、その思いがはっきりと見えていた。
レウードは地面の上に目を落とし、それからまた、大天使の顔に視線を戻した。
大天使は、眼下の少年を嘲笑った。
「先程、治安部隊の者から報告があった。『町の中で現行者を捕まえた』と」
観客達は、その言葉に響めいた。特に「現行者」の部分には、強い興味を抱いたらしい。「なに?」の声が、いつも以上に震えていた。「『現行者』だって!」
他の観客達も、その驚きに続く。
「そいつは、本当に珍しいな。『現行者』と言えば」
「同胞の前で堕天使になった者。あるいは、その姿を現した者。現行者の堕天使は、我々の髪とは違うからな。一発で分かってしまう」
「なのに捕まってしまうとは。大方、町の中心部にでも逃げたんだろう?」
彼らは、少年の短慮さを笑った。
レウードはその声に苛立ったが、それに対して言い返す事はしなかった。彼らから言われなくても、そんな事は充分に分かっている。金髪しかいない天使達の中に居て、自分の黒髪は正に異質な存在だ。どんなに上手く隠せても、その黒だけは決して誤魔化せない。単色の世界に違う色が混ざれば、その色は絶対に目立つのだ。
レウードは、自分の足下に目をやった。彼の足下にはまだ、「紋章」は描かれていない。審議場の中央まで彼を引っ張って来た騎士団達も、彼から少し離れた場所でこちらをじっと眺めてはいたが、それ以上の事はまだ何もしていなかった。
レウードは、心の中で思った。逃げるなら今しかない、と。騎士団達は治安部隊よりも数倍強い相手だが、今の状況から何とか逃げ出したい彼としては、その絶望的な低確率にどうしても賭けざるを得なかった。身体の神経を研ぎ澄ませ、その瞬間を何も言わずにじっと待つ。
レウードは最初の一歩に全力を込めて、今の場所から勢いよく走り出そうとした。
だが、「うっ!」
現実はそう、甘くはない。最初の数歩も走らない内に、自分の足が何故か動かなくなってしまった。足への命令が突然遮られ、身体全体が石になったような感覚。その理解し難い怪現象の中で数少なく動かせたのは、動揺を隠せないでいる目と、「どうして?」と驚くばかりの口と、何故か向きだけが変えられる身体の筋肉だけだった。
レウードはギコチなくなった動きで、大天使の方にゆっくりと向き直った。
大天使は、その有様を嘲笑った。
「捕縛の秘術。貴様も聞いた事があるだろう? 相手の動きを制し、その行動範囲を縮める。これでもう、貴様は動けない。俺が術を解かない限りは、な。己の醜態を晒しつづける」
「くっ」
レウードは、大天使の顔を睨んだ。身体の自由はもちろん、自分の尊厳を踏み付けられても、その抵抗だけは決して止めない。眼前の敵から視線を逸らすのは、自分の信念に嘘を付くのと同じだった。自分は何も間違っていない。何も間違っていないなら、そこから視線を逸らす必要もない。
彼が今の状況で考えているのは、ただ一つ、自分の信念を曲げない事だった。
「それがどうした?」
「なに?」
「俺の身体を縛ったからって、その心までは縛れやしない。お前は、心の力を甘く見ている」
大天使は、彼の言葉に目を細めた。どうやら、かなり不遜な子どもらしい。
「ほう。では、その心の力とやらで」
それをどうにかしてみろ、と、大天使は言った。
「貴様の言葉が真なら、俺の力からも逃げられる筈だ」
レウードは彼の術から逃れようと足掻いたが、その術からは結局逃れられなかった。
大天使は、その結果に溜め息をついた。
「まあ、現実とはそんな物だ。心の中では、どんな理想も語れる。それがたとえ、どんなに叶わぬ夢であっても。花畑を作れるのは、何も庭に限った事ではない」
「くっ」
二人は、互いの目を睨み合った。
「少年」
無言の返事。
「諦めよ」
慈悲に溢れた言葉。「すべての反抗を棄てて、世界の枠に収まれ」と言う助言。天使達にとっては最高の恩赦だったが、それを受け入れない少年にとっては、最大の侮辱に他ならなかった。
レウードは両目の涙を必死に抑えつつ、大天使の目をじっと睨みつづけた。
「諦めるわけには、いかない。俺には、まだ」
「『何だ?』と言うのだ? ええ?」
「それは……くっ」
「どうした? 答えられないのか? それとも、答えたくないのか?」
レウードは、彼の挑発に舌打ちした。
「くそっ」
考えろ! 考えろ! 考えろ! ここままじゃ、俺は下界へ追放されてしまう。
そうなったら、「くっ」
ここへはもう、戻って来られない。自分の夢を叶える事も……。アレは、俺のすべてなんだ。自分の一生を賭けても良いくらいの。
「俺は」
「まあいい、貴様の考えを知った所で。貴様は、下界へ追放される。その運命からは決して、逃れられない」
レウードは、今の言葉に腹が立った。今の言葉は、どうしても許せない。
「そんな事は、ないよ! 自分の運命は、自分の手で切り開く。お前だって昔、あのヒトの言葉を聞いていたじゃないか? 『未来は、自分の手で掴み取らなくちゃいけない』って。俺は、その言葉を信じて戦って来た。何年も、何年も、お前が
「俺が堕天使を裁いている間に?」
大天使は、少年の顔をまじまじと見た。
「貴様は一体」
「レウード」
「その姓は?」
「ウィル」
「レウード・ウィル、か。ふむ、聞いた事があるぞ。ウィルの姓は……まさか!」
「そうだよ! お前に仕えている文士の、くっ! 俺は、そこの息子だ!」
大天使は、少年の正体にせせら笑った。
「なるほど。その話が本当ならば、貴様は実に親不孝だな。貴様の親がどれだけ尽くしてくれているか、感謝の言葉も無い。貴様は、その心を踏みにじった。自分勝手な思いで。貴様のような」
「『クズ』って言いたいんだろう? お前から見れば……俺は、確かに救いようのないクズだろうさ。堕天使にもなって。けど! そんな俺でも、今をこうして生きている。自分の心をちゃんと持って。お前にも、相手を思う心はあるんだろう? 相手が何を思っているのか、それを感じ取る力が。お前には」
「それで? だから、『貴様の事も考えろ?』と。下らない。誰が堕天使の事など考えるか。堕天使はウェステリアの社会に背いた罪人、つまりは『生きる』に値しない存在だ。全体の調和を乱す者は、早急に取り除かなければならない。それがたとえ、何者であっても」
大天使は、眼下の騎士団達に命じた。命令の言葉はもちろん、「やれ」の一言である。その言葉で騎士団達は動き、少年の足下に紋章を描いて、例の呪文をゆっくりと唱えはじめた。
レウードはその光景に脅えたが、視線の方は決して逸らさなかった。彼にはまだ、最後の希望が残っている。ほんの小さな希望では、あったけれど。その希望には、彼の魂が書き残されていた。その魂を大天使に向かって叫ぶ。
「机の上!」
「なに?」
「俺の部屋には、今の社会を考察した資料がある。帝国の歴史書や、断罪所の裁判記録も。それらの資料には」
そう言っている間も、光の鱗粉はキラキラと舞いつづけた。
「お願いします! 一度で良いから、その内容を読んで下さい! あのヒトが居ない今、
それが最後の言葉だった。本当はまだ、何やら喋っていたようだけれど。鱗粉が彼の声を掻き消して仕舞ったので、その部分しか上手く聞き取る事ができなかった。
観客達はその光景に歓喜し(少年の言葉に共感したわけではない)、大天使の護衛を仰せつかっていた兵士も、観客達程でないが、楽しげに「クスクス」と笑っていた。
「帝国の未来を変えるとは、かなり傲慢な資料ですね。大天使様、そんな資料は見るに値しませんよ? 文字通り、時間の無駄です」
大天使は、兵士の声に応えなかった。兵士が言う通り、それは時間の無駄だろう。自分は帝国の
「あんな悪ガキでも、ウィル夫妻にとっては大事な子どもだ。その子どもを失う悲しみは、計り知れない」
「大天使様……」
「今日の夕刻……少し遅れるかも知れないが、ウィル家の屋敷に向かう」
「承知しました。では、馭者の方にもそう伝えて置きます」
「頼む」
大天使は悲しげに笑い、審議場の騎士団達に向き直った。
「次の罪人を呼べ!」
夕刻よりも遅い時間。
馭者は兵士の言伝に従い、断罪所の前に馬車を停めて、大天使がそこに現れるのを待った。
大天使は、数分程で現れた。
「行き先は、分かるな?」
「ウィル家のお屋敷、で御座いますね?」
「そうだ」
大天使は馬車の中に乗り掛けたが、アダムスと……あれは聖天騎士団の団長か? 二人が彼の前に現れると、地面の上に足を戻して、二人の顔にそっと目をやった。
「今日の断罪は、終わったぞ?」
「その様ですね」
アダムスは「ニコッ」と笑って、大天使の前に歩み寄った。
「観客達の声が聞こえて来ない」
大天使は、彼の目を見つめた。
「葬儀の方は、良いのか?」
「はい。私にできる事はもう、無いので。後の事は、家の者達に頼みました。先輩も皆様も、我が家の持てなしに喜んでおられますし。今頃は、亡き父との思い出話に花を咲かせていると思います」
「そうか、それは」
良かったな、とは言えない。自分の臣下が愛されていたのは嬉しいが、それに微笑んで「良かった」と評する事はできなかった。同胞の死は、やはり悲しい。普段は無愛想な騎士団長も、この時ばかりは何処か陰鬱な表情を浮かべていた。
大天使は、団長の顔に視線を移した。
「ガリスタも、すまなかったな。騎士団の代表とは言え、葬儀の参加を頼んでしまい」
「いえ」
ガリスタはアダムスの顔に目をやり、また大天使の顔に視線を戻した。
「生前、私もマクマート様にお世話になったので。そこは、『天使の義理』と言うヤツです」
「そうか」と頷きつつも、大天使は眼前の青年に感心していた。「この青年は無愛想に見えて、本当は情に厚い男である」と。自分と似た印象を持つ彼は、「何処までも己の役目に従順な男だ」と思っていたが、その恵まれた体躯には、20代の青年らしい熱いモノを持っていた。
ガリスタは、宮殿の馬車に目をやった。
「何処かに行かれるのですか?」
「ああ、ウィル家の屋敷に。今日の事を伝えようと」
「今日の」と言いかけた所で、ガリスタは言葉を飲み込んだ。話の内容は何となくだが、察せられる。沈鬱に俯く大天使の顔からは、言葉にできない感情、怒りとも悲しみとも言えない雰囲気が感じられた。
ガリスタは、その表情に口を閉じた。
アダムスは優しげな顔で、眼前の大天使に話し掛けた。
「大天使様」
「ん?」
「私達も、ご一緒して宜しいですか?」
「予期せぬ自体が起きるかも知れませんし」と、ガリスタもうなずく。
大天使は、二人の厚意に微笑んだ。この厚意は、流石に無視できない。
「分かった。宜しく頼む」
三人は大天使から順に、馬車の中に乗り込んだ。
アダムスは馭者の男に命じ、宮殿の馬車を走らせた。
馬車は、町の道路を進んだ。それこそ、天馬が夜空を駆けるように。道路の曲がり角では速度が若干落ちたが、それから真っ直ぐな道路に出ると、馭者が馬の尻に鞭を入れて、また元の速度に戻らせた。
大天使は、馬車の窓から外を眺めた。窓の外には、美しい町並みが広がっている。良質の煉瓦で造られた資料館から、美しい形容の美術館まで。正に天界の理想郷だ。美術館の前には、若い天使達も集まっている。彼らは各々に学門書を持って、「ウェステリアの社会がどんなに素晴らしいか」を語り合っていた。
大天使は……彼らの声は聞けなかったが、その光景に胸を打たれた。「なんて素晴らしい光景だ」と。彼らが居れば、帝国の未来も明るい。彼らは帝国の未来を照らす、掛け替えの無い松明なのだ。
彼はウィル家の屋敷に着くまで、その感覚にずっと酔い痴れつづけた。
屋敷の召使いは、大天使の訪問に仰天した。
「だ、大天使様! このような時間に」
「まだ、それ程でもないだろう? ウィル夫妻は、おるか?」
「ダリッシュ様とラフィア様ですか?」」
「ああ、そうだ。二人に会って、話がしたい」
「……畏まりました。少々お待ち下さい」
召使いは屋敷の奥に向かい、大天使達が待つ玄関まで二人を連れて来た。
ウィル夫妻は彼らの来訪に驚きつつも、穏やかな顔で彼らに頭を下げた。
「お久しぶりです、大天使様。お元気そうでなりよりです。本日は、どのようなご用件で?」
大天使は、わざと声を潜めた。
「中で話せるか?」
夫妻は彼の口調から何かを察し、慌てて屋敷の応接間に来客達を案内した。
ラフィナは応接間の長椅子に客達を座らせると、今度は自分と夫もそこに座って、眼前の来客達にもう一度頭を下げ、怖い顔で屋敷の召使いに目をやった。
「皆様にお茶を」
「はい」
召使いは彼女の命令に従い、応接間に人数分のお茶を運んで、テーブルの上にそれらを置き終えると、彼らに頭を下げて、応接間の中から出て行った。
ダリッシュは、大天使の目を見つめた。
「それで、ご用件は?」
大天使も、彼の目を見つめ返した。
「今日の昼間、貴様の息子を下界へ追放した」
「……そう、ですか。それは」
言葉に詰まったのか、ダリッシュの声が一瞬止まった。
「うちの息子がご迷惑を」
「いや」からの沈黙。
沈黙は、数秒程で終わった。
「息子が堕天使になった事は?」
「知っておりました。今朝、この目で見ましたので」
「そうか」
また、数秒の沈黙。
「それは、残念だったな。ああなってしまったら、もう」
大天使は長椅子の上から立ち上がり、優しげな顔で彼の肩に手を置いた。
「気を落とすなよ?」
「い、いえ! 僕……私達のために、そんな」
「貴様は、良く働いている。これは、当然の事だ」
ダリッシュはまた、彼の言葉に頭を下げた。その隣に座っているラフィナも。二人は大天使の慈悲に感動したまま、眼前の彼に何度も頭を下げつづけた。
大天使は、その態度に微笑んだ。
「実に素晴らしい夫婦だ。皇帝への礼儀と言い、その言葉遣いと言い、己の立場を良く弁えている。それに比べて! 貴様らの息子は、いつからああなったのだ?」
夫妻はその答えに戸惑ったが、やがて「実は」と話しはじめた。
大天使は長椅子の上に座り直し、それから二人の眉を潜めた。
「思想家に影響された?」
「ええ、『ヘジューイ・シモ』とか言う思想家に。息子はその思想に感化されて、あのような。私も不安に思っていたんです。アイツが堕天使の真似事をはじめたのは、今から一、二年前の事ですが。私達は、アイツの行動に驚きました。最初の頃は、何をしているのかまったく分からなかった。毎日、毎日、町の断罪所に出掛けて。アイツの雑記帳は、ご覧になられたでしょう?」
「雑記帳? いや、見ていないが。その雑記帳がどうかしたのか?」
「アイツは、そこに裁判の内容の書き留めていたんです。昨日の朝だって! 内容の方は、私達も見た事がありませんが。しかし」
「大凡の察しは付く、か?」
「はい、その通りです。アイツは頭も良く、行動力もあるんですが。何処かこう、『ずれている』と言うか。とにかく、『普通』ではないんです。私達の価値観とは、まるで違う。見えている世界がまったく違うんですよ。天使の『個性』だの『自立心』だの。そんなモノが、『何だ?』と言うんです? 私達の先祖は、その呪いに苦しめられて来ました。周りの欲望に翻弄されて」
「確かに。俺も、先代の大天使から良く聞かされたよ。『我々は、平和な時代に生まれたのだ。それに感謝できぬ者は、そこに生きる資格は無い』とね。先代の言葉は、尤もだった。己の心を極めた先に待っているのは、破滅。そこには、一つの救いも無い。俺達は、犬畜生ではないのだ。その理性を以て、天使の命を真っ直ぐに生きている。『今の現実に不満がある』と言う理由だけで社会に反するのは、理性の欠片も無い猿のする事だ」
「私達も、そう思います。だからこそ、私達は恥ずかしくて堪りません。『死ね』と命じられれば、今すぐにでも死んでしまいたい気分です。明日からどう生きて行けば良いのか?」
「貴様達の気持ちは分かる。だか、死んではならんぞ? 罪人の為に死ぬ事はない。貴様達には、貴様達の命があるのだ。この帝国に必要な。貴様達に死なれては、俺も悲しい」
「大天使様……」
「生きよ、ダリッシュ。それにラフィナも。二人は俺にとって、掛け替えの無い存在だ。身分の線引きが無ければ、正に『友人』と言って良いだろう。友人の幸せは、俺の幸せだ。そして同時に、不幸は俺にとっての不幸でもある。国の統制が甘いばかりに。明日からはもっと、その統制を強くしよう。国の社会に逆らうのは、『愚か者がする事だ』と、な」
「申し訳ありません、大天使様」
「そんな事は、ない。俺はただ、先代達がやって来た事を引き継いでいるだけだ。『世襲』の制度を廃し、己の資産や……ふっ。先代の大天使が俺を選んだ時、俺はまだ14歳だった。社会の事は、ほとんど分からない。貴様達の息子も?」
「はい、14歳です。先月、誕生日を迎えたので」
「ふふふ、そうか。俺は、先代の大天使から教育を受けた。帝国の歴史から、現代(当時)の社会まで。俺は、必死だった。先代の大天使は妥協を許さないお方だったが、その熱意にも並々ならぬモノがあった。俺は、それを『苦しい』とは思わなかったな。『自分は、とても意味のある事をしている』と思っていた。今の頑張りはやがて、多くの天使の救いになる」
「今も、私達を救っておられますよ?」
「ありがとう。そう言って貰えると。今の俺があるのは、貴様達が力を貸してくれたからだ。何が正義で、何が悪か。あの少年は」
「息子は?」
「『罪』に魅せられたのだな。反逆者の声に唆されて。あの少年が作った資料は」と言った瞬間だ。大天使の中でふと、ある考えが浮かんだ。
大天使は「それ」に従って、長椅子の上から立ち上がった。
「すまないが、息子の部屋を見せて貰っても良いか?」
「え?」と、顔を見合わせる夫妻。「それは、構いませんが」
二人は、大天使の顔に視線を戻した。
「しかし、何故?」
「貴様らの息子が言っていたのだよ。『俺の作った資料を読んで下さい』とな。俺はこの目で、その資料とやらを見たくなった」
アダムスは、彼の好奇心に目を細めた。ガリスタも、それと同じ反応を見せた。二人は大天使の態度に倣い、夫婦の答えをじっと待った。
夫婦の答えは、「分かりました」だった。
「では、お部屋の方にご案内します」
三人は夫婦の案内で、少年の部屋を訪れた。少年の部屋は、暗かった。燭台の蝋燭はもちろん、机の灯りも点けられていない所為で。部屋の窓から月明かりが差し込んでいなければ、自分の手さえも見えなくなる程の暗さだった。
ダリッシュは慌てて、蝋燭の先に灯りを点けた。
「申し訳ありません。普段でしたら、息子が」
大天使は彼の謝罪を無視し、何処か子供じみた顔で、部屋の中を見渡した。
「ほう。こいつは、凄いな。部屋中に資料が散らばっている。床の上にも、そして」
アダムスも、彼の動きに倣った。
「机の上にも」
アダムスは、机の資料をじっと眺めた。
大天使は少年の机に歩み寄り、その椅子に座って、机の資料に手を伸ばした。最初に開いたのは、ウェステリアの歴史書。次に「社会に対する考察」と題された資料を開いて、それを読み終えたら「改善点まとめ」の頁を捲り、最後に断罪所の裁判記録を開いた。
大天使はそれらの資料を黙って読んでいたが、裁判記録の内容を読み終えた所で思わず吹き出してしまった。
「ふふふ、これは」
「どうなされました?」と、アダムス。「何かおかしな所があったとか?」
アダムスは、好奇心の
大天使は彼の視線に首を振りつつ、彼に少年の裁判記録を渡した。
「とても14歳の少年が作ったとは思えない。裁判の内容を一つ一つ、その感想や考察も含めてしっかりと書き留めている。まるで宮殿の記録簿を見ているようだ」
「そこまで……」
アダムスは少年の努力に目を見開き、真面目な顔でその内容を読みはじめた。
大天使は、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「アダムスが読んでいる途中で悪いが。そいつは、正に机上の空論だな。そんな物を発表しても、ウェステリアの社会は変わらない。下界へ追放して正解だった。その方が奴にとっても幸せだろう。下界には、天使を崇める人間も多い。それがたとえ、『堕天使』であっても。屋敷の一つくらいは、与えてくれる筈だ」
数秒の
沈黙よりは短いが、それでも呼吸を忘れるには充分な時間だった。
「ありがとう、実に面白い資料だった。そこからは何も得られなかったが、良い暇つぶしにはなったよ」
ウィル夫妻は、彼の言葉に頭を下げた。
「そ、そうですか! それは、本当に嬉しいです。その内容がどうであれ、我が息子の道楽を」
「ん? どうした?」
「あっ! いえ。うちの息子は、どうしようもないバカ息子ですが。そんな息子でも」
「ラフィナの気持ちは分かる。だが、案ずる事はない。下界へ追放された天使は……。ダリッシュ、ウィル家の天術は?」
「は、はい。ラウント……中毒性のある夢で御座います。相手に催眠効果のある光を当てて、心地よい夢を見せる。それから」
「中毒性のある夢……」
「どうした? アダムス?」
「い、いえ、何でもありません」
「そうか」
大天使は、屋敷の主人に向き直った。
「息子は、その事を?」
「ええ、まあ。一応は知っていると思いますが、それを扱えるかどうかまでは」
「そうか。なら、心配は要らないな。完全武装の兵士よりも安全だ」
大天使は椅子の上から立ち上がり、連れの二人にも退室を促した。
「それでは、失礼する。しつこいようだが、あまり気を落とすなよ? 息子の事は、仕方ない。あんな奴は、元から居なかったのだ。『レウード』と言う名の少年も存在しない。貴様達の息子は……そうだな、宮殿の記録係で良いだろう。都の常備軍でも良いが……。聖天騎士団の事はもちろん、知っておるな?」
「はい」
「その中には、奴と同じくらいの少年もいる。そいつらの事を息子だと思って、これからも俺のために励んで欲しい」
「はい!」
夫妻は大天使達に続く形で、応接間の中から出て行った。
大天使は夫妻を隣に、屋敷の廊下を歩いた。
アダムスは三人の少し後ろを歩いて、見送り役にやって来た召使いの男と歩調を合わせた。
彼らはガリスタの身体を壁にしつつ、前方の三人には聞こえないように小声で話しはじめた。
「どうして話してくれなかったんです? レウード君の事を。彼はわた、僕達の幹部にすらなれたかも知れないのに」
「あの子は、暴力を嫌っていたからね。同族殺しには、したくなかった」
「なるほど。相変わらず」
「私は、優しくはないよ? ただ、あの子の事が好きだっただけだ。彼と同じ目をした、あの子の事を。ヘジューイは、偉大な思想家だった」
「地上へ追放された親友ですね?」
「ああ。彼は、私の師匠だった」
「僕にとっても、ですよ? あのヒトは、僕達に道を示してくれた。『このままでは、いけない』とね。今でも鮮明に覚えています。母の気まぐれで偶々見せられた……。あの覚悟に魅せられたのは、レウード君だけではないんです」
アダムスは大天使の後に続いて、屋敷の中から出て行った。
大天使は馬車の中に乗り、アダムス達もその後に続いた。
馭者はアダムスの命で、宮殿の馬車を走らせた。
大天使はまた、窓の外を眺めはじめた。
「美しい世界だ。すべての調和が……一部にはおかしな物も混じっているが、綺麗に保たれている。それを壊そうとする者は……レウードよ! 貴様の夢が『ウェステリアの社会を変える事』なら、俺の夢は『それ』を叩き潰す事だ。夢には、己の為にあってはならない。広く世間のため、公益のために、『それ』を使わなければならないのだ。レウードよ! 貴様の夢に『それ』があるか? 己の家族を泣かせて、その家名にも泥を。レウードよ! 俺は、貴様の夢を認めない。貴様も俺の夢を認めないだろうが……それでも!」
「大天使様」
「アダムス……すまない。つい、熱くなってしまった」
「大天使様のお気持ちは、良く分かります。彼は、確かに不遜な少年だ。社会の秩序を乱して。今回の事は、当然の報いです。堕天使になるのが、如何に愚かな事か。彼は、相応の罰を受けたんです。上手くやれば、隠し通せた筈の罰を」
大天使の顔が変わったのは、決して偶然ではない。彼は青年の発した言葉を、そこに込められた真意を、刹那に理解してしまったのだ。
「アダムス、貴様は」
「はい?」の返事を聞けたのは、一瞬。
次の瞬間には、ガリスタに身体の動きを封じられていた。
「くっ!」
大天使は、アダムスの顔を睨み付けた。
「いつからだ?」
「え?」
「いつから、これを狙っていた?」
「それを知ってどうなります?」
「くっ!」
大天使は、馭者の男に叫んだ。
「馬車を停めろ!」
男は「それ」に応えて、馬車を停めたが……。ゴロンと転がる、馭者の首。それに続いて、残りの部分も地面に転げ落ちた。
大天使は、その光景に目を見開いた。
「馬鹿な! 何故?」
「天術は、貴方だけの専売特許ではない」
アダムスは、馬車の御者台から大天使の顔に視線を戻した。
「僕も、天術が使えるんです」
「なっ、くっ! そんな事は、有り得ない。貴様達の力は」
「パプリルースが封じた、ですか?」
「……ああ」
「物事には必ず、『例外』があります」
「……貴様がその、『例外だ』と言うのか?」
「はい。『それ』に気づいたのは、随分前の事ですが。僕には、三つの天術があります。相手の天術を封じ、その力を弱らせて……馭者の首を落としたのは、ガリスタですが。本来の姿を、偽りの姿で覆い隠す。僕の髪は、『黒』になっていないでしょう?」
「貴様も、堕天使なのか?」
「はい。ちなみに
ガリスタは、大天使の喉元に短剣を近づけた。
「そう言う事だ」
大天使は、相手の脅しに怯まなかった。
「アダムス」
「はい?」
「貴様は、他人の正体も隠せるのか?」
「ええ、もちろん。その範囲には、限界はありますが」
「そうか」
アダムスは、馬車の壁に寄り掛かった。
「降参して下さい」
「『嫌だ』と言ったら?」
「こうする」と言ったのは、ガリスタ。彼は何の躊躇いもなく、大天使の鳩尾を殴った。
大天使は、その痛みに悶えた。
「う、ぐっ」
「流石は、大天使。一発では、やはり無理か」
そう言いつつ、大天使の鳩尾にもう一撃。
「ぐっ、うっ」
まだ、落ちない。だから、もう一撃。
「ガハッ」
これで、ようやく落ちた。
ガリスタは、倒れ掛けた大天使の身体を支えた。
「やれやれ。『男を抱く趣味は、ない』って言うのに。このジジイは、どうする?」
「晒すよ? 当然じゃないか? そうでないと何も変わらない。舞台の観客は、僕が集めるよ」
「了解。なら、騎士団の方は俺に任せてくれ」
「ああ」
二人は互いの言葉に頷き合い、一方は大天使の顔に視線を移し、もう一方は夜空の月に目をやった。
「今夜の月は、満月か。満月は正直、好きじゃない。夜は、暗いからこそ美しいんだ。そこに光を与えるなんて」
アダムスは不満げな顔で、夜空の月を眺めつづけた。
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