第6話 それは、救いか? 災いか?

 若い頃に感じた朝は、今よりもずっと活気に溢れていた。寝室の窓から差し込む朝日にはもちろん、その朝日が様々な物を照らす光景にも、今日のはじまりを告げる空気、明日への自分に繋がる希望が感じられた。「お前がこれから進もうとする道には、険しい道はいくつもあるが、お前が抱く理想が描かれているのだ」と。人間の耳には聞き取れない声だが、その衣装箪笥に当たる朝日や、短剣の鞘を煌めかせる光からは、その激励がしっかりと伝わって来た。


 今は、その朝日がまったくの逆……つまりは、正反対に光っている。朝日の本質自体はまったく変わっていなくても、それを受ける物体のすべてが、彼の心に陰鬱な印象を与えていた。部屋の机は何となく憐れに見え、彼の足下を支えている床も、その表面自体は丁寧に磨かれていた(屋敷の召使い達がきっと、一生懸命に磨いてくれたのだろう)が、「表面の上にまた埃が積もれば、今までの努力がすべて徒労に終わってしまう」と言った雰囲気が、あらゆる事物を通して、無音の内に表されている。その表現を無視して元気に飛び回っているのは、地上の呪縛から解き放たれた可愛らしい小鳥達だけだった。


 ジエルはベッドの中から起き上がり、近くの水差しに手を伸ばして、コップの中に水を注ぎ、沈鬱な顔でその水を飲み干した。コップの水は温かったが、これから服を着替える彼にとっては、熱過ぎず、冷た過ぎず、丁度良い温度だった。


 彼はコップの水をもう一杯飲んで、自分の部屋に召し使いがやって来るのを待った。召使いの男は、いつもの時間にやって来た。「お早う御座います」の声を合図にして、部屋の扉を軽く叩き、相手の許しを受けてからすぐ、主人の待つ室内にゆっくりと入って行く。


 召使いは長年屋敷に務めている特権として、他の召使い達よりは親密に、周りが「旦那様」と仰ぐ主人の事を「ジエル様」と言い表した。


 ジエルは彼の声にホッとしながらも、真面目な顔でその挨拶に微笑み返した。


「おはよう」


 召使いはいつもの定位置に彼を立たせ、彼の纏う寝間着を丁寧に脱がして、眼前に現れた主人の背中を「ニコリ」としながら眺めはじめた。


「お背中が逞しくなりましたね、ジエル様」


「え?」と驚くジエルだったが、やがて「ふふふ」と笑い出した。


 ジエルは淋しげな顔で、召使いの方をそっと振り返った。


「それは、皮肉か? それとも、何かの冗談か?」


 召使いは彼の言葉に目を見開いたが、すぐに「ニコリ」と笑って、主人の思った誤解に首を振った。


「いいえ、冗談では御座いません。わたくしは、本当の事を申したまでです。ジエル様のお背中は、本当に逞しくなられた。あの若鳥だった頃とは、比べ物にならないくらいに。今のお背中には、貴方の生きた年輪がしっかりと刻まれている。貴方が味わって来た痛みが、その痛みに隠された真理が、貴方の肢体を通して、じっくりと伝わって来るのです。そのお背中は、本当に美しい。わたくしはもちろん、その嫡子にも堂々と見せられる立派なお背中です」


 ジエルは彼の言葉に胸を打たれる一方で、「立派」の部分だけはどうしても苦笑せずにはいられなかった。


「お前の言葉は、嬉しいが……すまない。私にはやはり、そうは思えないよ。自分の理想を叶える事もできず、それどころか」


 彼の言葉が途切れたのは、その想いが涙を浮かべる程に悔しかったからだ。彼はその涙を浮かべたまま、悲しげな顔で己の拳を強く握りつづけた。


 召使いは、その様子をじっと眺めつづけた。「母親は」から少し溜めて、また「母親は」とつづける召使い。「その胸で、自分の子どもを育てる。父親はその背中で、自分の子どもに『人生とは、何か?』を教える。世の息子達が求めているのは、格好が良い父親ではありません。格好が悪い人生の中で、自分はどう生きて行くべきなのか? 『それ』を教えてくれる父親を求めているのです。『人生』と言う名の悪路を進む先人として、その教えを請おうとしている。まあ……『それ』を見せるのは、なかなか難しい事ですが。貴方の息子もきっと、その教えを求めている。昔の貴方がそうであったように」


「昔の私が……」


 召使いは主人に「クスッ」と笑い、その足を静かに促した。


「食堂に参りましょう。貴方の家族が待っておられます」


 家族、の言葉が、ジエルを「ハッ」とさせた。ジエルは彼の促しに頷いて、屋敷の食堂に向かった。食堂の中では、妻と息子が今日の朝食を食べていた。屋敷の召使い達が、テーブルの上に運んで来たそれを。彼らは召使い達に「ありがとう」の言葉こそ使うが、その動きが「遅い」と罵らないのはもちろん、料理の味が「不味い」とも言わなかった。


 召使い達は、自分達と同じ人間。彼らの中にある「貴族」や「召使い」と言った意識は、その所属を明瞭にした単なる役割分担でしかなかった。その身なりを整え、食堂の隅に控えているイアラも、ロハ家の嫡子に仕える世話係としてではなく、その少年を純粋に愛する少女として、彼の事を穏やかに見つめていた。


 ジエルはその光景に目を潤ませたが、アイリの「おはようございます、あなた」や、イアラの「お早う御座います、旦那様」が耳に入ると、目元の涙を必死に隠して、それらの挨拶に「おはよう」と返しつつ、自分の席にゆっくりと歩み寄った。


「おはよう、メリテ」


 メリテは食事の手を止めて、父親の顔に目をやった。


「お早う御座います、父上」


 ジエルは自分の席に座って、その眼前にある朝食を食べはじめた。メリテが自分の朝食を食べ終えたのは、ジエルが朝食の野菜を飲み込んだ時だった。


 メリテは周りの人々に「ごちそうさま」と言い、自分の席から立ち上がって、床の上に置いてあった荷物を持ち、その腰にも剣を差して、イアラの待つ場所に向かって歩き出した。


 ジエルは、その背中に問いかけた。


「今日も散歩か?」


 息子の返事は、「はい」だった。「今日も苛々するので」


 メリテは父の方を振り向かないまま、イアラの隣に並んで、食堂の中から出て行った。


 ジエルは、その背中をじっと見送った。


「行ってしまったか……」


「淋しい?」と訊くアイリだったが、その表情を見る限り、彼女の方が淋しそうに見えた。「息子の背中をただ見送るだけの自分が」


 アイリは皿の上に葡萄を置いて、夫の顔を静かに見つめた。


 ジエルは、その瞳から視線を逸らした。


「そんな事は、ないよ? あいつの事は、あいつ自身が決める事だ。己が何を成すべきなのかも……。私が不安に思っているのは」


「暗殺……。昨日の朝、私が話していた。あなたは、あの想像を恐れているのね?」


「ああ。でも」


「でも?」


「私はやはり、『そんな事は有り得ない』と思っている。あいつが毎晩、屋敷の庭で剣の修行に励んでいるのは。たぶん」


「たぶん?」


「好きな異性に自分を見せたい。あいつぐらいの少年には、良くある事だ。自分が何かに励んでいる姿、その汗を光らせる事で、意中の相手を振り向かせようとする。現実は、美の輝きに負ける事が多いが。それでも自分の魂を光らせようとする。その光がいつか、相手の心に届くと信じて、魂の美を輝かせつづけるんだ。『そうやって振り向かせた者こそ、自分にとって本物である』と。現に」


「ふふふ、あなたも気づいていたのね?」


 ジエルは、その言葉に笑みを浮かべた。


「恋の芳香には鈍感だが、愛の無臭には敏感なつもりだ。あいつは、良い娘を選んだよ。あんなに美しい娘は、なかなか居ない。あの子は、少年達の憧憬しょうけいだ。多くの少年が、一度は夢みる憧れの少女。あいつが彼女を見つめる眼差しは」


「昔のあなたと同じ、だったのね?」


「私にだって、少年の頃はある」


「……そうね。でも、人はいつまでも子どもじゃいられない。大人になれば、敵も増える。あなたの敵は」


「敵は、居ないよ。ただ、自分と意見の違う者がいるだけだ」


 ジエルは悲しげに笑って、自分の席に立ち上がり、自分の妻に「行って来ます」と言って、食堂の中から出て行き、屋敷の廊下を進んで、その玄関から出て行き、玄関の外にある庭を歩いて、馬車の前に向かった。馬車の前には、その馭者が立っている。主人の心が沈まないように朗らかな笑みを浮かべて、主人が自分に笑い返す時はもちろん、馬車の中に乗り込む姿も、「それ」を見守るように眺めつづけていた。

 

 ジエルはいつもの定位置に座り、その背もたれに寄り掛かって、馭者の男に「出してくれ」と頼んだ。

 

 馭者はその命に従い、ロハ家の馬車を走らせた。

 

 ジエルは馬車の振動に身を任せつつ、何処か憂鬱な顔で窓の外に目をやった。窓の外には、いつもの光景が広がっている。この世の無慈悲を押し詰めたような光景が、人の傲慢を塗り付けたような世界が、地獄絵図のように広がっていた。彼を乗せた馬車が進む道にも、人の嘆きが止まる事なく聞こえている。「どうか、この苦しみから救って欲しい」と。彼の乗る馬車をじっと見つめたり、皇帝派の貴族達(正確には、その子息達)から蹴られる痛みに耐えたりして、今の悲惨さを必死に訴えていた。

 

 ジエルは、その光景から視線を逸らした。眼前の現実から目を逸らしたかったからではなく、その光景があまりにも惨すぎてしまったからだ。こんな光景は、人の世にあってはならない。彼が見つめる眼前の世界は、人の世を借りた、悪魔の住処そのモノだった。

 

 ジエルはその悲惨さに奥歯を噛み締めたが、馬車が議会場の前まで行くと、その力を少し緩めて、馭者が設けてくれた足場をゆっくりと降りて行った。


 馭者は、眼前の主人に頷いた。


「この世は、何処までも中立です。善に媚びる事もなければ、悪に肩入れする事もない。『それ』をどちらに引き寄せるかは、そこに生きる人間次第です。貴方には、『それ』を決する権利があります」


 主人の瞳が潤んだのは、今の言葉に感動したからではない。それが馭者の送った、最大の激励だったからだ。

 

 ジエルはその激励に感謝し、身分の垣根を忘れて、眼前の馭者に頭を下げた。


「ありがとう」


 馭者はその態度に驚いたが、すぐに「いえ」と微笑んだ。


「旦那様」


「ん?」


「ご武運を」


「……ああ」

 

 ジエルは「ニコッ」と笑って、己が戦場、宮殿の議会場に赴いて行った。議会場の中では、皇帝派と穏健派の貴族達が既に睨み合っていた。一方は皇帝の後光に寄り掛かって、もう一方はその光を必死に掻き消そうとして。彼らは(一見すると)互角の勝負を繰り広げているように見えたが、穏健派の頭目が不在な事や、皇帝の眼光がいつより鋭く光っている事もあって、実際は穏健派の貴族達が圧倒的に不利、喉元に突き付けられた敵の主張を必死に撥ね除けている状態だった。

 

 ジエルはその状態に苛立ったが、冷静さをすぐに取り戻して、議会場の中を堂々と、穏健派の貴族達が待つ所へ足を進めた。


「皆、遅れてすまない」


 穏健派の貴族達は、彼の登場にホッとした。正に「救世主の登場」と言わんばかりに。彼に向けられた「お早う御座います、ジエル様」、「貴方のご到着を心よりお待ちしておりました!」の言葉にも、その安堵が窺える。それを忌まわしく思うのは、彼らの反対側に座る貴族達、議会場の椅子に踏ん反り返る男達だった。


 男達は最初こそ彼らの事を睨んでいたが、ジエルが自分の席に座ると、その頭目を先頭にして、相手の事を「ここぞ」とばかりに嘲笑った。


「『烏合の衆』とは、正にこの事ですね。頭がいなければ、何もできない。貴方方が先程まで叫んでいたのは、『ピーピー』と鳴く小鳥の囀りです」


 囀り、の部分は、男達を大いに満足させた。今の冗談は、どんな揶揄やゆよりも面白い。相手の尊厳を踏みにじる行為は、その快楽さえ覚えてしまえば、娼婦の身体すら忘れてしまう程に気持ちいいのだ。


 穏健派の貴族達は「それ」に爆発し掛けたが、寸前の所で、その頭目に「止せ」と止められてしまった。


 ジエルは仲間の顔を見渡し、それから眼前の政敵達に視線を戻した。


「余裕ですな」


「え?」と応えたのは、皇帝派の頭目である。「余裕?」


 ウヴァイは冷たい目で、相手の目を睨んだ。


「何が余裕なんですか?」


「高が穏健派の一人、その頭目が遅れたくらいで。私には、とても考えられない。私なら、相手の牙に恐れを抱きます」


「ふふふ。それは、かなりの臆病者ですね。世の中には、こう言う俗諺ぞくげんがあります。そんな物は、まるで問題にしない。『歯牙にもかけない』と言う言葉は、貴方も聞いた事はあるでしょう? 自分の牙が相手よりも強ければ、相手の牙なんて気にする事はないんです」


「我々の牙は、貴方方よりも弱くない」


「それは、貴方の決める事じゃありません。我々の神がお決めになる事です」


 ウヴァイは「ニヤリ」と笑って、議長席の皇帝に目をやった。


「そうでしょう? 皇帝陛下」


 皇帝も「ニヤリ」と笑って、その言葉に頷いた。


「ああ、そうだ。お前達がいくら喚こうと、正義は我々の側にある。私の後ろには」


 天使様が付いている、と。彼はおそらく、そう言いたかったのだろう。皇帝派の貴族達はもちろん、穏健派の貴族達も含めて、その場にいる誰もがそう思った。「彼は天使の存在を使い、自分の絶対的地位を唱えるものだ」と。だが、その予想は見事に外れてしまった。

 

 議会場の中央に突然現れた目映い光。光は床の上に奇妙な紋章を描いて行ったが、その紋章をすべて描き終えると、今度は鱗粉のように舞い上がって、人々の心に不思議な感情、この世の物とは思えない不可思議な感覚を覚えさせた。

 

 議会場の貴族達は、その光景に唯々息を飲んだ。光の鱗粉がゆっくりと消え、代わりに一人の少年がスウッと現れた時も。議長席の皇帝は「それ」に目を細めたが、彼以外の者達は、眼前の状況がまったく理解できず、辛うじて自分の席から立ち上がる事はできても、それ以外の行動はまったく以て行う事ができなかった。


「これは、一体?」と呟いたのは、ジエル。「何が起きたのだ?」


 彼は眼前の奇跡に、床の上に横たわる少年(気絶しているのか?)にただ呆然としつづけた。


 皇帝は議長席の上から、少年の姿を見下ろした。少年の姿は……なるほど、これは確かに美しい。国の伝説にあった通りだ。歳の頃は14程度に見えるが、その美は人間を遙かに超えるモノ、天使だけが持つ至高の美に溢れていた。身長も丁度、14歳の平均と同じくらい。体型の方はそれよりも少し痩せていたが、不健康な印象は見られず、その端正な寝顔と相まって、彼の心に純粋な感動を与えていた。その真っ黒に染まった髪も……あれは確か、「罪人」にだけ見られる物だったか? 地上に追放された印として、首の左側に刻まれた十字架の紋章も、それを裏付ける確かな証拠となっていた。


 皇帝は少年が目を覚ました後も、妖しげな眼差しで眼下の少年をじっと見下ろしつづけた。

 

 少年は鉛のような身体を起し、未だ覚めない頭の思考も何とか起して、自分の周りに広がっている世界、特に「それら」が伝える情報を一つ一つ推し測って行った。

 

 ここは下界の……何処の国かは分からないが、部屋の内装や雰囲気などから察して、「会議場」、あるいは、「議会場」であるのが窺えた。会場の中には仕切り線、議員達の乱闘を防ぐソードラインも描かれている。ソードラインの左右に座っているのはたぶん、今日の会議(あるいは議会)に参加した貴族達だろう。その服装を見れば、容易に想像できる。服に使われている上質な生地はもちろん、それを彩る豪華な装飾品も、それらは……いや、違う。確かに華やかではあるが、華やかなのは左側に座っている貴族達だけで、右側に座っている貴族達はとても質素な服装だった。


 彼らよりも一段上の、会場の議会席に座っているのは王、あるいは皇帝。彼は大天使よりも一回り若い感じだったが、その恰幅の良さは、大天使に決して負けていなかった。それこそ、密林をせる虎のように。彼が豪奢な衣服で隠している筋骨は、その強さを物語る、一種の象徴のように思えた。あの拳に殴られたら……たぶん、たたでは済まない。天使はその寿命もそうだが、「腕力」と言う点では、人間とほとんど変わらなかった。人間が生身では虎に敵わないように。天使もまた、「天術」と言う名の専売特許を使わなければ(常備軍や聖天騎士団のように鍛えている連中は別だが)、虎のような猛獣には敵わないのだ。

 それ故に……まあ、人間から「知恵」を奪ったようなモノだろう。パプリルースはその力を封じ、天使達を家畜同然にしたのである。彼らが国に対して反旗を翻さぬように。彼の眼前に座っている男も……いや、この男は違う。「圧迫」と言う意味では大天使とまったく同じだったが、その眼光には厭らしさ、大天使のそれとは違う人間臭さが感じられた。

 

 レウードはその事に勘付きながらも、表面上では「それ」に気づかないフリを貫いた。


 皇帝は声を潜めて、眼前の奇跡にほくそ笑んだ。


「ふふふ。まさか、まさか、私の前に天使様が現れるとは。正に神の与えた僥倖ぎょうこう。天はどうやら、何処までも私の味方であるようだ」

 

 彼の呟きはもちろん、少年の耳には届かなかった。皇帝は議長席の上から立ち上がると、嬉しそうな顔で足下の段差を降り、仕切り線の中央をわざと歩いて、少年の前にゆっくりと歩み寄った。


「つかぬ事を伺いますが」


「何でしょう?」


「貴方はもしや、『天使様』では御座いませんか?」


 貴族達は、その言葉にざわついた。皇帝派、穏健派を問わず。彼らにとっての天使様は、国の記録に記された単なる伝説でしかなかった。「この少年が、まさか!」の言葉に、「その天使様だって!」の声が続く。彼らは普段の威厳を忘れて、眼前の少年をポカンと眺めつづけた。


 レウードはそれらの視線には目もれず、皇帝の目をただ真っ直ぐに見つづけた。


「そうですけど? 貴方は?」


「天授代帝! 私はこのガルバ帝国を預かる皇帝、シュベール・ガルバと申します。天使様の事は、良く存じておりますよ? 天の国から降りて来て」


 今の「降りて来て」は嘘、少年に嫌われないための単なる方便ほうべんに過ぎない。皇帝は眼前の少年と同様、表面上では「相手の事情を知らない、ただの親切な人」のフリを貫いた。


 レウードはその演技には気づかなかったが、彼の言った「降りて来て」には激情を抑えられなかった。


「降りて来たんじゃありません。追い出されたんです! 国の思想が、あまりに歪んでいた所為で。俺は、その歪みに負けたんです」


「そうですか。それは、大変で御座いましたね? もし宜しければ、私の宮殿でしばらく」


「い、いえ、それは! お気持ちは、嬉しいですけど? でも」


 皇帝はそれを聞いて、如何にも善人っぽく笑った。


「ご遠慮なさらず。貴方は、ご存知ないかも知れませんが。私達は、天使様の事を厚く信仰しております。それこそ、心の拠り所とするくらいに。貴方様のお役に立てるのは、我々にとって大変名誉な事なのです。だから、ご心配なさらずに。どうか」


 レウードは、誘いの返事に迷った。先程の直感が正しければ、彼は決して良い人ではない。右側の貴族達が着ている衣服を見ても、その根底には腹黒い何か、己の利を第一とする卑しい根性が潜んでいる筈だ。そうでなければ、(自分が天使とは言え)見ず知らずの少年にここまでしてくれない。彼は「自分」と言う存在を使って、何かしらの利益を得ようとしているのだ。


 レウードは「そこ」まで考えつつも、今の自分が置かれている状況(住む場所が無いとか、食べ物を得る術が無い、など)をおもんぱかって、相手に怪しまれないギリギリの折衷案を考えた。


「分かりました。では、お言葉に甘えて」


「はい!」


「しばらくお世話になります。でも、特別扱いはしないで下さい。俺は所謂、『余所者』ですから。生活の資金は、自分の力で稼ぎます。もちろん、宮殿の外で。この国にも、お金はあるんでしょう? 『国』と言う体制が成り立っているんですから」


 皇帝は彼の折衷案に驚いたが、先程の嘘がある手前、その言葉に「ええ」と頷かざるを得なかった。


「なら、。私の指示に従って頂き。それで宜しいですか?」


「はい」


 皇帝は皇帝派の貴族達に目をやり、その一人に「おい」と話し掛けた。


「天使様にお部屋を。今は使っていない空き部屋がいくつかあった筈だ。その中で一番良い物をご用意しろ」


「はっ、畏まりました」


 皇帝に指名された貴族の男は、自分の席から立ち上がって、少年の前に歩み寄った。


「こちらへ」


「はい」


 二人は貴族の男を先頭に、議会場の中から出て行った。


 レウードは彼の案内に従いつつ、その隣をしばらく歩いていたが、ある廊下の角を曲がった所で、隣の彼に「あの?」と話し掛けた。


「これは、なんですけど。この建物には、図書室はありますか?」


 男は、その質問に驚いた。


「え、ええ、御座いますけど? 図書室をご利用なさるんですか?」


「はい」と頷く声には、何の邪念も感じられなかった。「お世話になる以上、の事は色々と知って置きたくて」


 レウードは、少年らしい純粋な笑みを浮かべた。


「俺は言わば、この地に初めて訪れた旅人です。ここの事は、何も知らない。余所者が他国で暮らして行くには、その知識がどうしても要るでしょう? その国がどう言う政治体制なのか、それを学ばなきゃ暮らして行けない。俺は……どう言う理屈か分かりませんが、貴方達の言葉は分かっても」


「その字を読めるとは、限らない?」


「はい」


「それは、私達も同じですよ。貴方の言葉は何故か分かりますが、その原理はまったく分からない。まったく不可思議な現象です。まるで神の悪戯のようだ」


「神の悪戯……」


 レウードは、その言葉にしばらく俯いてしまった。


「あのヒトは、その悪戯に弄ばれたんですね」


 男はその呟きが聞き取れず、彼を宮殿の図書館まで案内した後も、穏やかな顔でその出入り口に掌を向けた。


「こちらが宮殿の図書室になります」


「有り難う御座います。凄い量の本ですね」


「ここは、帝国の頭脳ですから。が置いてあります」


、ですか」


 レウードは、「資料」の部分に胸を躍らせた。その内容さえ知れれば、相手の内面を丸裸にできる。あの男が考えている企みも、すべてはこの中に隠されているのだ。


「これは、調べ甲斐がありますね」


「はい?」


 男は彼の言葉に首を傾げたが、自分に課せられた本来の役割を思い出して、図書室の前からそっと歩き出した。


「お部屋の方は、こちらになります」


「待って下さい」


「はい?」


「部屋の案内は、後でも構いません」


「え? いや、でも」


 レウードは「ニコッ」と笑って、図書室の中に入った。


「話し合いが終わるまで、ここで待っていますから」


 男は「話し合い」と言う表現に苛立ったが、選民思想が染み付いていた所為で、それも一つの考え方、自分達の事を特別に扱う、「天使の慈悲だ」と思い直していた。


「畏まりました。では、今日の議会が終わった後にまた伺います」


「よろしくお願いします」


 レウードは案内役の男に頭を下げたが、その男が居なくなると(かなり上機嫌だったが)、真面目な顔で自分の正面に向き直った。



 今日の議会は時間こそいつもと変わらなかったが、そこに漂っていた雰囲気は普段のそれと明らかに違っていた。貴族達の表情がまるで違う。彼らは各々の思想自体はまったく変えていなかったものの、それに対する姿勢、特に信念の部分は、朝の時とはまったく違う反応を見せていた。一方の信念は、水を得た魚のように悠々と泳いでいる。もう一方の信念は、本来の力を奪われたようにぐったりと、水の中をただ沈みつづけていた。沈んだ先に待っているのは、底のない真っ暗な深海だけ。すべての希望を食らい尽くす、ただ大きな深海魚だけだった。

 

 彼らはその深海魚に憤りながらも、最後の足掻きとして、皇帝派の貴族達を睨みつづけた。

 

 相手は、その睨みに怯まなかった。天使が自分達の側に微笑んだ時点で、自分達の勝利は決して揺るがない。政敵の連中が尚もつづける抵抗は、彼らからして見れば、好きな玩具を買って貰えなかった子どもの不満、親に駄々を捏ねる幼子のそれと変わりなかった。

 

 彼らは勝利の余韻に浸りつつ、自分の席から悠々と立ち上がった。

 

 穏健派の貴族達は、その姿にただ俯きつづけた。「これでもう、終わりなのか?」と。ここで終わってしまったら、今までの努力がすべて無駄になってしまう。愛する人々を守ろうと、死に物狂いで戦いつづけたあの日々が。その日々は彼らにとって、本当に価値ある日々だった。長い歴史の中で、自分達のできる事は少ない。その子ども達にしてやれる事も。だったらせめて、子ども達の夢を叶えてあげよう。子ども達の未来を明るく照らしてあげよう。辛い思いをするのは、自分達だけで充分だ。その思いで頑張りつづけた努力は、最悪の形で踏みにじられてしまった。「天使の登場」と言う、ただ一つの悲劇によって。彼は穏健派の貴族達が必死に積み上げて来た物を簡単……いや、簡単なんて言葉では言い足りない。ただの一拭きで吹き消した、文字通りの堕天使だった。

 

 彼らは現実に項垂れながらも、悲しげな顔で議会場の床を睨みつづけた。


 皇帝は、その光景を無視した。


「それでは、諸君! 議会の中でも言ったが、明日は演説台の前に集合。天使様には、私からその旨を伝えて置く。だから、何も心配は要らない。皆は、時間に遅れぬ事だけを考えよ」


 皇帝派の貴族達は揃って、その命に頷いた。


「承知致しました!」


 穏健派の貴族達も、その声に立ち上がった。彼らとしては立ち上がりたくなかったが、それを許さない皇帝が「何をしている? さっさと帰らぬか!」と怒鳴りつけたからだ。皇帝にそう言われれば、流石の彼らも動かざるを得ない。彼らは皇帝派の貴族達に続いて歩き出したが、自分達の頭目がまだ椅子に座っているのを見ると、彼の周りに集まって、その足を悔しげに促した。


「ここに残っていても仕方ありません。今日は、一旦帰りましょう?」


 頭目は、その言葉に応えない。それどころか、一人の胸倉を掴んで「お前達は、悔しくないのか?」と怒鳴りはじめてしまった。「こんな結果になって。私は……」


 彼は相手の胸倉から手を放して、せっかく持ち上げた腰をまた椅子の上に沈めた。


 仲間達はその様子に胸を痛めたが、仲間の一人が「申し訳ありません」と歩き出すと、それに続いて彼の前から次々と歩き出してしまった。自分達の敗北が決してしまった今、そこから目を逸らすのは実に無意味な事だったからである。彼らは後ろ髪を引かれる思いで、頭目の前からすっかりいなくなってしまった。


 ジエルは、その淋しさに涙を呑んだ。


 皇帝は、そんな彼の肩を叩いた。


「お前の気持ちは分からんでもないが、ふふふ。天はどうやら、我々の側に味方したようだ」


 無言の抵抗は、できなかった。「くっ」と流れ出した涙が、何よりの証拠。ジエルは両目の涙を拭って、皇帝の顔をじっと見つめた。


「しかし!」


 皇帝は、彼の「しかし」に溜め息をついた。


「分からぬ奴だな。お前にはもう、天の加護は無い。天は、人の世に墜ちたのだ」


 絶望の言葉だった、頭の思考がすべて焼かれてしまう程の。ジエルは自分の席から立ち上がった所までは覚えているが、それからどうやって自分の屋敷に帰ったのかは、まったく覚えていなかった。


 馭者は食堂の席に彼を座らせて、それを見つめる妻や息子達に……自分の知る範囲ではあるが、この異常な事態を伝えた。


「詳しい事は、分かりませんが。議会場の中から出て来た時にはもう、この有様でしたので」


「そう」と応えたのは、アイリだった。「それは、大変だったわね」


 彼女は優しげな顔で、彼の労を労った。


「ありがとう」


「いえ」


 馭者は彼女に頭を下げて、食堂の中から出て行った。

 

 アイリは、夫の口に水を飲ませた。正気の方はまだ戻っていなかったが、水の感触は一応分かったらしく、アイリが彼の口に水を注いだ時は、最初は何度かむせていたが、コップの半分程を注ぎ終えた時には、その水を滑らかに飲んでいた。

 

 アイリはテーブルの上にコップを置き、夫の背中を何度も撫でて、夫が落ち着くのを待った。


 夫は、十分程で落ち着いた。


「ありがとう、もう大丈夫だ」


「そう」


 アイリは、夫の様子にホッとした。それを見ていたメリテやイアラ、屋敷の召使い達も。彼らは穏やかな顔でその様子を眺めていたが、老人の召使い(長年この屋敷に務めている、あの召使いだ)が彼に「議会場で何かあったのですか?」と聞くと、今までの空気を忘れて、彼の答えを待ちはじめた。


 彼は「それ」に答えられず、無言のままに俯いてしまった。


 メリテはその様子から、最悪の事態を想像した。


「まさか! 今日の議会で」


「……議論では」と応える声は、あまりに弱々しかった。「負けていないよ」


「では、どうして?」


 その答えは、ここから遠く離れたカミュ家の屋敷に住む、ウヴァイ・カミュが答えてくれた。彼の話に驚いた、娘の「天使様が現れた?」に頷く形で。彼はコップの酒を一気に飲み干すと……今日のアレが余程嬉しかったのか、椅子の背もたれに寄り掛かって、「ゲラゲラ」と笑いはじめた。


「そう、あの歴史書に出てくる! 著者の名前は確か、『ファタリテルス』と言ったかな? 彼は、帝国でも有名な歴史家で」


「お父様! 今は、そんな事」


「あっ、ごめん! お前を怒らせるつもりはなかったんだ。僕も、興奮しているんだよ! 宮殿の議会場にまさか、天使様が現れるなんて。天使様は」


 の続きを言った瞬間だ。父親の話に驚いたメリテが、その内容に思わず「俺と同じくらいだった」と驚きはじめた。

 

 彼は自分の剣に目をやって、それからまた、父親の顔に視線を戻した。

 

 ジエルは、彼の目をじっと見返した。


「ああ、背格好が良く似ていたよ。身長は、お前の方が少し高いが。天使様は」


  の続きに重なって、ビクトリナが「陛下が保護なさったんですか? 『他に行くあてもない』と言う理由で」と言った。彼女は興奮気味の心を抑え、父親の目をじっと見返した。

 

 ウヴァイは、その瞳に「クスッ」と微笑んだ。


「うん、彼」


 の続きは、ロハ家のご当主が話してくれた。


「追放者だ。天界の世界で罪を犯した堕天使。だが」


 メリテは、その言葉に眉を潜めた。


「アイツにとっては、どうでも良いでしょう。堕天使だろうと何だろうと。そいつは、シュベールに利用される。絶対に!」


「そうだろな。だが、『それ』も受け入れなければならない。陛下の本心がどうであれ……」


「父上?」


「明日の朝、演説台の前に集まる事になった。皇帝派、穏健派の貴族を問わず。その家族も」


「え?」と驚いたのは、メリテではなく、カミュ家のビクトリナだった。「うそ?」


 彼女は興奮のあまり、思わず前のめりになった。


「天使様に会えるんですか?」


「うん! 陛下は、そうおっしゃっていたけれど。アレは、相当に喜んでいた」


「喜ばない方がおかしいです! 天使様には、美形の方が多いんでしょう? その方は、『あたしと同い年くらいだ』と言うし。これはもう、見に行くししかありません!」


 リュオンは、そのハシャギように微笑んだ。


「ふふふ、すっかり上機嫌になって。さっきまでは、あんなに不機嫌だったのに」


「不機嫌だった?」と、ウヴァイが驚いた。「何に対して?」


 ウヴァイは不思議そうな顔で、妻の顔に視線を移した。


 リュオンは、その視線に妖しく笑った。


「彼よ、ロハ家の嫡子君」


「ああ」


「違うわ!」と、ビクトリナが叫んだ。「今日は、その世話係よ!」


 ビクトリナは両親の驚きを無視し、テーブルの上を思いきり叩いた。


「『奴隷の手が好き』なんて。ああ! 思い出しただけでも苛々するわ! ホント」


 ウヴァイは娘の怒りを宥めつつ、穏やかな顔で彼女に微笑んだ。


「その子も、奴隷?」


「いいえ、平民です。あたしと同い年の」


「ふーん、なるほど。それは」


「お父様?」


「お前達の世代は、極端だね。物事の道理がちゃんと分かっている者と、それがまったく分かっていない者。お前は、分かる方で良かった」


「そんな。お父様のご教育がよろしいからですよ?」


「ふふふ。それじゃ、その成果を見せて貰おうか?」


「はい! 今日は、早めに休ませて頂きます」


 彼女はそう言って自分の部屋に戻ったが、メリテは自分の部屋には戻らず、その腰に剣を携えて、屋敷の庭に出て行った。世話係のイアラも、その後に続いた。


 二人は庭の真ん中辺りで止まり、夜空の月をしばらく見上げていたが、その月が雲に隠れて見えなくなると、沈鬱な顔で互いの目に視線を移した。


「イアラ」


「はい?」


「明日の集まりだが、お前も一緒に来てくれないか?」


「私も、ですか?」


「ああ。お前は、オレの世話係だからな。どんな時も一緒にいて欲しい」


「分かりました。なら、私も一緒について行きます」


 イアラは優しげに笑ったが、それもすぐに消えてしまった。


「メリテ君」


「うん?」


「不安に思わないで下さい」


「……不安になんて思っていないよ。ただ」


「ただ?」


 メリテは鋭い目つきで、腰の剣に手を伸ばした。


「討たなきゃならない奴がもう一人、増えるかも知れない」



 「嵐の前の静けさ」と言うべきか、図書室の窓から差し込む朝日が穏やかだったが、その光には、これまでの均衡(ある方向から見れば、決して均衡ではなかったが)を壊す物、世情の流れを変える前触れが潜んでいた。テーブルの上に置かれている資料にも、その片鱗が僅かながらに光っている。資料の頁を彩る歴史にも、その歴史が訴える真実にも、「情報」と言う術を使って、見る者にある種の危機感、思考の中枢に潜む恐怖感を伝えていた。


 その恐怖感に震えていないのは、テーブルの上に頭を乗せて、幸せそうに眠るあの男だけ。彼は「天使様」が朝の気配に目を覚ました時も、その気配に気づくどころか、今の眠りにより一層酔い痴れて、その口からだらし無い液体を垂らしつづけていた。

 

 レウードはその光景に呆れたが、頭の方は既に別方向、自分が今居るガルバ帝国の事を考えていた。ガルバ帝国の歴史や政治体制、その他諸々について。一夜漬けではあったが、その情報から得た知識は、彼の義憤を激しく揺さぶるモノだった。それこそ、両手の拳を握らせる程に。


 彼はその震えから、ある結論に辿り着いた。「この国は、思った以上に大変な所らしい」と。現皇帝のシュベール・ガルバは……天界の皇帝もアレだが、彼はそれ以上の屑だった。天使の力を悪用した政治、何が「天授代帝」だ? ふざけやがって! お前は、「神」ではない。天の使いからたとえ、地上の代理支配を任された者であっても。

 お前は、周りの人々と同じ人間なのだ。決して特別などではない。選民思想、「天使から選ばれた自分は、特別な存在」なんて思想を唱えても。その真理からは、決して逃げられない。人の命は、平等だ。天使の命も。彼らは「それ」を唱えて、物事の真理から目を逸らしているのだ。


 レウードは隣の男を起さぬよう、椅子の上から静かに立ち上がった。


「俺の直感はやっぱり、正しかった。ここから早く」


 逃げないと。そう思って歩き出しはしたが……やはり、思う所があるのだろう。支配の目的こそ違うが、この国もまた、自分の故郷と同じような苦しみを抱いていた。「自由」と「尊厳」が踏みにじられる苦しみを。この国は「理不尽」と言う叫びを使って、彼の心に「それ」を訴えていた。


 レウードは、その叫びに立ち止まった。


「俺は……」


 そこから逃げ出して良いのか? と思った瞬間だ。図書室の出入り口から「お早う御座います」と言う声が聞こえて来た。


 レウードはその声に驚いたが、表情はあくまで冷静に、図書室の出入り口に視線を移した。出入り口の前には、ガルバ帝国の皇帝が立っていた。わざとらしい笑顔を浮かべて、こちらの様子をじっと眺めている。まるで新しい玩具を喜ぶ子どものように。レウードの前に歩み寄った時も、一瞬だけ眼光が鋭くなったが、それ以外は謙った笑みを浮かべつづけていた。


 レウードは怖い顔で、眼前の男を見つめた。ここからは、「天使」と「悪魔」の思想対決である。


「シュベール・ガルバ」


 皇帝は、彼の不遜を咎めなかった。


「同胞の一人が教えてくれました。『貴方が図書室で調べ物をしている』と。お探しの資料は、見つかりましたか?」


「……ええ、お陰で。貴方の同胞にも手伝って頂きましたし」


「ほう。それは、良かった。で、何をお調べになったのです?」


「ガルバ帝国の歴史、それと政治体制です。……ラザルク・ガルバの興した帝国は」


「ふふふ、初代皇帝の名ですね? 彼が興したこの国は、貴方の国と同じですか? それとも?」


「ええ、酷いです、本当に。大天使の目指した世界は……俺からして見れば、最悪の世界ですが、『永遠の平和』を礎にした世界です。そのやり方はどうであれ、『彼』は私欲で国を支配しようとはしなかった。自分の与えられた役割に従って。でも!」


「はい?」


「貴方は、違う。初代皇帝のラザルクも。ラザルクは、天界から追放された」


「ラマコットですね? 初代皇帝は、その堕天使を保護した。彼の事があまりにも……まあ、そんな嘘は止めにしましょう。貴方にはどうやら、その嘘が通じないようですし」


 レウードは、その言葉に目を細めた。どこで気づいたのかは分からないが、この男は勘が良く、また悪知恵も(自分が思った以上に)働く人物であるようだ。ならば、こちらも遠慮は要らない(まあ、元から遠慮はしていないが)。


「利用したんですね? ファタリテルスの書物には、書かれていませんでしたけど」


「ファタリテルスは、帝国の歴史学者です。今では、とっくに死んでいますが。当時は、ガルバ帝国の忠実な臣下でした。彼の書き残した史料、一般には『天使について』と呼ばれているようですが。貴方もお読みになったのでしょう? それには、天使と人間の出会いからはじまって」


「『天使の存在とは何か?』が書かれている。だから、俺の事も知っていたんだ。自分達にとって……いや、貴方にとって都合良く」


「ファタリテルスは、その真実に苦しみました。己の好奇心で書きはじめた資料がまさか、自国の民を苦しめる材料になってしまうなんて。彼は、必死に戦いましたよ? 『国民には、真実を告げるべきだ』とね。だが、彼の願いは聞き入れられなかった」


「ええ、ラマコットと一緒に。ラマコットの方は、自分から言い出したようですが。きっと辛かったのでしょう。『自分が天界から追放されなければ』と。そして」


「ガルバ帝国の皇帝に出会わなければ。ラマコットを追放したのも、初代の大天使でした。パプリルースは、彼の思想に怒って」


「どんな思想に怒ったのですか?」


「心の自由です。『天使は、自分の心にどんな願いを抱いても良い』と」


「それは、欲張りな願いですね。だから、我らが初代皇帝の事も止められなかったわけだ。たとえ、自国の民を苦しめる暴君であったとしても。自分の事を救ってくれた恩人には、変わりありませんからね。恩を仇で返すわけには、行かなかったのでしょう」


 レウードは、皇帝の笑みから視線を逸らした。


「すいません、シュベールさん。俺は、貴方の願いには応えられません。それに応えてしまったらきっと、多くの人を苦しめる事になりますから」


「天使様……」


 の後に訪れたのは、沈黙。二人の平行線を形容する、重苦しい沈黙だった。


 二人は、その沈黙に立ちつづけていたが……「そうですか」

 一方は、その沈黙に耐えられなかったらしい。


「それは、残念です。私としては、もう少し」


 皇帝は「ニヤリ」と笑って、堕天使の鳩尾を殴った。


「居て欲しかったのですが」


 レウードは腹の痛みに悶え、床の上に倒れてしまった。「うっ、ぐっ」の声からも、その苦しみが伝わって来る。彼が皇帝の外見から推し測ったアレはやはり、間違いではなかったようだ。皇帝の腕力は、人間のそれを遙かに超えている。皇帝が自分の鳩尾を殴る瞬間に、「それ」を(反射的ではあるが)僅かながらも防がなければ、その腹を貫きかねない威力だった。


 レウードは腹の痛みに悶えるあまり、彼に身体の自由を許してしまった。


 皇帝は、彼の口にある液体を注ぎ込んだ。


「ふふふ、脅える事はありません。これは」


「うっ、ぐっ、なにを、のませ、たんですか?」


「薬ですよ」


「く、す、り?」


「はい、貴方の心を壊す。本当は、文字通りの劇薬なのですが。天使の貴方なら、きっと。ふふふ」


 レウードは彼の右足に手を伸ばしたが、それが右足を握った所で、その意識をすっかり手放してしまった。



 その演説台は、初代皇帝ラザルクが「人間と天使の出会い」を記念して設けた演説台である。演説台の高さは、それが設けられた広場のすべてを見渡せるくらい。その演説台から眺める景色は、宮殿の窓から眺める景色よりは劣っているものの、そこで語る人物にある種の高揚感、都に建てられたすべての建造物が、まるで自分の物であるかのような満足感を与えていた。「自分は今、国の中心に立っているのだ」と。その全能感を与えている広場も、その地面に敷かれた敷石が円形に広がっている事で、演説台の前にあらゆる視線が集まるように仕向けていた。


 ここは、。聖域の体裁を繕った、だった。


 その本質を分かっている貴族達は……特に穏健派の貴族達は、「それ」に激しく憤りながらも、自分や自分の家族を守るのに精一杯で、本当は停めたくもない広場の隅っこに、家々の馬車を次々に停めて行っては、そこから悔しげに降りて行くしかなかった。ロハ家やカミュ家の人々も……その心中は正反対ではあったが、周りの貴族達に倣って、馬車の中から次々と降りて行った。

 

 ジエルは周りの空気に苛立ちつつ、広場の中をゆっくりと見渡した。広場の中には、既に多くの貴族達が集まっている。悔しげな顔で俯く穏健派の貴族達も、その様子を嘲笑う皇帝派の貴族達も、その立場や表情に違いこそあったが、皆、皇帝の言葉を律儀に守っていた。


 ジエルはその光景に憤ったが、同胞達の事は決して咎めなかった。「昨日の事がある」と言っても。それをどう言う権利は、自分にはない。彼らは苦労を共にして来た仲間、こんな自分について来てくれた掛け替えの無い同胞達なのだ。彼らが居なければ、今の自分はない。


 ジエルは「己が独りになってしまった事」に悲しみつつも、その現実からは決して目をそらなかった。たとえ独りになっても、自分は最後まで戦いつづける。彼は、心の剣を常に構えた、根っからの戦士なのである。


 メリテは、その闘志を本能的に感じ取った。「父さん……」の言葉は、ジエルの耳に届かなかった。メリテがそれを言った瞬間、イアラの両親が涙を浮かべて、娘の雇い主に「あ、あの?」と話し掛けたからだ。


 彼らは不安な顔で、自分達の周りを何度も見渡した。


「本当によろしかったのですか? 私達のような者が、このような場所に。これでは、貴方様が」


 ジエルは、彼らの言葉に首を振った。


「貴方達の娘さんには、いつも良く働いて貰っています。私達の息子に良く尽くしてくれて。だからこれは、ほんのお礼に過ぎません。私としては、その恩にもっと報いてやりたいのですが」


「そ、そんな! 勿体ないお言葉で御座います。お礼を申さなければならないのは」

「いいえ」と応えたのは、彼らの前にいるアイリだった。「そんな事は、ありません。私達は、あなた達の友人です。友人には、その礼を尽くす。それは、当然じゃないですか」


 アイリは優しげな顔で、トゥエーゼン夫妻に微笑んだ。


 彼らはその笑みに感動したが……皇帝派の頭目、ウヴァイには「やれやれ」と笑われてしまった。どうやら彼らが話している間、家の者達(タヌホなど、家の召使い達も含む)を引き連れて、彼らの所に歩み寄っていたらしい。


「それが当然、とは。『偽善』もそこまで行くと、呆れてしまいますね。私なら死んでも言えませんよ? そんな」


 メリテは、相手の嘲笑に舌打ちした。


「大丈夫です。誰もアンタの言葉なんか期待しちゃいない。言っても無駄ですから。外道は外道らしく、地獄の業火に焼かれれば良いんです」


「何だと! 誰に向かって!」


「そうよ!」と、ビクトリナも怒鳴った。「今の言葉は、あまりに無礼だわ! お父様に謝って! 今すぐ!」


 彼女は幼馴染の顔を睨んだが、相手は「それ」にまったく怯まなかった。


 メリテは反対に、相手の目を睨み返した。


「本当の事を言ったんだ。どうして、謝る必要がある? こっちは、何の非も無いんだから」


 そうだろう? と、彼は、幼馴染の下僕に目をやった。彼女は少年の視線に思わずドキッとしたものの、また暗い顔で「ううっ」と俯いてしまった。


「俯いていたって何もはじまらない。お前も、堂々としていれば良いんだ。自分の身分がたとえ、奴隷でも。お前の中にだって、心はある」


「こころ、は?」


「そうだ。自分の魂を支える心、自分が自分であるための柱だ。その柱は、お前になんて言っている? コイツらの支配に納得して」


 の続きは、リュオン・カミュに遮られてしまった。


「納得する、しないの問題じゃないわ。これはもう、制度の問題よ。君は貴族で、彼女は奴隷。その関係は、決して変わらないわ。今も、そして、これからもずっと。君はまるで、自分に正義があるような口ぶりだけど。あたしからすれば、単なる子どもの戯れ言にしか聞こえないわ。郷に入っては、郷に従え。君だってもう、14歳でしょう? 生まれたばかりの赤ん坊じゃないんだし。そろそろ、物事の道理を分かるようになった方が良いんじゃないかしら? それが分からないと」


「アンタに言われなくても、もうとっくに苦労していますよ。お前達のような」


「分からず屋は、君の方だよ」と、ウヴァイが割り込む。「さっきから黙って聞いていれば」


 ウヴァイは柔らかな表情の裏に、確かな怒りを浮かべていた。


 メリテは、その怒りに目を細めた。


「なんです? 俺を斬りますか? 穏健派の頭目がいる前で」


「くっ!」


 ウヴァイは腰の鞘から剣を抜こうとしたが、かつての政敵に「怒りを収め下さい」と止められてしまった。

 

 ジエルは、眼前の男に頭を下げた。


「息子の気持ちも分かりますが。今は、息子の方に非がありました」


「なっ、父上!」


「前にも言った筈だ。『暴力では、何も解決しない』と。今は、耐えるんだ。そして、然るべき方法で、然るべき平和を勝ち取る。それが」


「ふふふ」と笑ったのは、リュオンである。「果たして、そう上手く行くでしょうか?」


 ジエルは、その挑発に動じなかった。


「それは、どう言う意味ですか?」


 リュオンは、演説台の方に目をやった。


「少し待たされましたが。どうやらお出でになられたようですよ、天使様が。そのお隣にも」


「皇帝陛下!」と響き渡る声。その大半は、嬉しそうに笑う皇帝派の貴族達だった。穏健派の貴族達は恨めしい顔で、その登場に眉を震わせている。それを気配から感じ取ったメリテも……彼の近くで「ああ、なんてお美しいお姿なんでしょう! あの書物に書かれてあった通りだわ!」と叫ぶビクトリナは論外だが、ジエルやイアラ達と同様、何か得体の知れない者に触れる感覚、天使の放つ不思議な雰囲気に、言いようのない畏怖を覚えていた。


 ……アイツが、か。


 メリテは隣の皇帝を完全に無視し、周りの歓声すらも忘れて、演説台の堕天使をじっと見はじめた。堕天使の容貌は……なるほど、確かに自分と似ている。その真っ黒に染まった髪も、何処か少年臭さのある顔も、「特別な存在」と言うよりは、人間のそれと変わらない、「ごく普通の少年らしさ」を感じさせた。その美しい瞳も……いや、確かに美しい瞳だが、その表面からは色が完全に抜け落ちている。まるで元来の光を奪われたかのように、底の無い真っ黒な空洞が広がっていた。貴族達の顔を眺める顔も、「眺める」と言うよりは、「ただ見ている」と言った方が正しい。彼は演説台の上にしっかりと立ってはいたが、自分の意思でそうしているのではなく、誰かが操る糸に従って、ただ突っ立っているだけの「操り人形」に近い雰囲気を放っていた。

 

 メリテはその違和感に眉を上げたが、周りが「それ」に気づいていない事にも、より一層の苛立ちを覚えた。


「チッ、まあいい。アイツが何者だろうと」


 世に害悪をもたらすなら、剣で始末するだけだ。そう眼光を光らせるメリテだが、皇帝にとっては単なる景色の一部に過ぎなかった。


 皇帝は嬉しそうな顔で、広場の貴族達を見渡した。


「お早う、諸君。昨日の夜は、良く眠れたか? 私の方は興奮して、良く眠れなかったよ。普段から早起きを心がけてはいるが、今日は、日の出前に起きてしまった」


 皇帝派の貴族達は、彼の冗談(本当は、冗談ではないが)を笑った。


 皇帝も、その反応に満足した。


「さて、冗談はこのくらいに。早速本題に入ろう。諸君らは、既に知っていると思うが。昨日の事、宮殿の議会場に天使様が現れた。天使様の名は」


「『レウード・ウィル』と言います。故郷の天界から追放されて、このガルバ帝国に来ました。このガルバ帝国は」


 レウードは、無機質な笑みを浮かべた。


「とても良い所です。皇帝陛下は凄く親切だし、貴族の方々も人間的に素晴らしい人ばかりだ。俺は、この国の平和を願っています。人々が決して争わない。でも、現実は残酷だ。聞けば、その平和を乱そうとしている人達がいるそうじゃないですか? 国の人々から『穏健派』と呼ばれている貴族達。俺は、その人達を絶対に許しません。現行の社会制度に逆らって。貴族なら、今の社会に従うべきです。何の疑問も持たずに。穏健派の貴族達には、その意識が足りていません。自分の命を生かしているのは、誰なのか? それが分からない人は」


 皇帝は、その言葉に(わざとらしく)頭を下げた。


「申し訳御座いません、天使様。すべては、私の責任です。私がもっと」


「いいえ、貴方の所為じゃありません。悪いのは、彼らです。我々は……まあ、良い。貴方は優しい人だから、人の死に胸を痛めてしまう。それがたとえ、己の意に反する政敵であっても」


 皇帝は、今の言葉を笑った。ここまで完璧に操れると、流石に興奮を覚えてしまう。


「そうで御座いますね。できれば、彼らの事も『生かしたい』と思っております。彼らは言わば、私の子どものようなモノですから。馬鹿な子ども程可愛い」


「ふふふ、そうですね。なら、こう言うのはどうでしょう? 宮殿の大広間でパーティーを開くんです。親子の関係を修復するための、ね? これには、その兄弟達にも参加して貰う」


 皇帝派の貴族達は、彼の提案に歓喜した。彼の言わんとした事を理解したからである。一方の穏健派達は、その意図が理解できず、不安な顔で互いの顔を見合っていた。


 皇帝は、彼らの反応を嘲笑った。


「素晴らしいお考えです! 皇帝派おまえたちも、異論は無いな?」


「はい」


「では夕刻、貴族達は宮殿の大広間に集まるように。その際は平民や奴隷……まあ、『世話役』としてだが。彼らの入城も許可しよう。人数に関しては、制限を設けない。以上だ」


 皇帝は堕天使と連れ立って、演説台の上から降りて行った。


 メリテは、その様子をじっと見つづけた。


「イアラ」


「はい?」


「好機が来たぞ」


「好機?」


「ああ。と、使。その両方をやれる好機が。そいつら二人を葬れば、この国にも平和が訪れる。レウード・ウィルは、この国を滅ぼす厄災だ」

 

 イアラは、彼の言葉に確かな決意を感じた。


 

 宮殿の大広間が使われるのは決して特別な事ではなかったが、今回に限ってはいつもと違う空気、陰鬱な気配を華やかな内装で誤魔化す雰囲気があった。黄金色こがねいろに輝く部屋の内壁はもちろん、テーブルの上に置かれた豪華絢爛な料理も、それらの気配を掻き消す化粧……もっと言えば、下手くそな厚化粧に過ぎない。すべては、虚偽の美しさに溢れている。皇帝が「これ」のためにわざわざ呼び寄せた音楽隊も、普段の自分達では考えられない程の待遇を受けて、どう見ても買い換えさせられたばかりの民族楽器を使い、大広間の中に重厚ながらも軽薄な、上質ながらも滑稽な音楽を奏でていた。


 皇帝は、その音楽に満足した。彼にとっては、それが本物である事……つまり、「本質」である事は、さほど重要ではない。それを聴いた同胞達が、自分に尻尾を振る事の方が大事だった。人は所詮、本能に知恵を得ただけの動物に過ぎない。知恵の奥には野蛮な、原始の法理が潜んでいる。「強い者には媚びへつらい、弱い者には大層偉ぶる」と言う法理が。その大原則があるからこそ、人間は群れを作り、土地を拓き、国を興して、法を整えて来たのだ。


 すべては、生存のために。自分の利を最大にするために。「悪」と言う生存戦略を得たのも、それが人間にとって理想的な、自己を生き残らせるのに最も有効な手段だったからだ。圧倒的な悪の前では、どんな知恵も無力。知恵は他者を助け、自己を磨くのには役立つが、「それ」を平然と踏み潰せる悪の前では、親の殴打に脅える子どもよりも非力なのだ。どんなに正しい事を叫んでも、それが非力な子どもだったら、親は決して耳を傾けない。彼らが耳を傾けるのは、「自分が子どもよりも優れている」と言う事実だけだ。


 他者に対する圧倒的な優越感と優位性、己が意のままに操れる魅力的な性行相手と下僕、一生困らない金と資産があれば、人は幸せに生きて行ける。「善」を礎に生きて行こうとする人間は、神が書き連ねた美文に己の不幸を慰める……まあ、「愚か者」と言う奴だ。広間の中で項垂れている穏健派かれらを見ても分かるように。愚か者の辿る末路は、見るも無惨な最期……彼らが生きた人生そのモノの否定と、それがもたらす圧倒的な虚無感しかないのだ。それは、周りから笑われても仕方ない。横目で彼らを一瞥する皇帝派の貴族達は、皇帝からしてみれば、至ってまともな人間に見えた。


 皇帝は自分の隣に堕天使を立たせて、広間の感想をわざとらしく訊いた。


「如何ですか? 天使様」


「素晴らしい光景です! あれ程啀み合っていた両者がこんなにも。ここには、帝国の平和が詰まっている」


 皇帝派の貴族達は、彼の言葉に歓喜した。


「最高のお言葉です! 我々がどれだけ、その言葉を待っていた事か」


 穏健派の貴族達は「それ」に俯いたが、ビクトリナは飛び上がらんばかりに喜んだ。今の言葉は、彼女にとっても最高の賛辞だったらしい。それを見ていたメリテは呆れ顔だったが、彼女は「それ」に気づかず、嬉しそうな顔で堕天使の前に駈け寄って行った。


 レウードは(虚ろな目で)、眼前の少女を見つめた。少女の容貌は……なるほど、これはかなりの上玉だ。ふわりとした黒髪も可愛らしい。少々聞かなそうな、我が儘そうな雰囲気はあるが、自分と歳も近い事も……って? あれ? おかしい。普段の自分なら、「彼女のような人間」は寧ろ、嫌いな部類に入るのに、今に限っては何故か、そのスラリとした足や、僅かに赤らんだ頬を見て……恋心ではないが、心の内から迸る感情、所謂劣情を抱いてしまった。


 レウードは、その劣情に僅かな嫌悪感を覚えた。


 ビクトリナは、彼の両手を無遠慮に握った。


「ご無礼を承知でお願いします! あたしとどうか、一緒に踊って頂けませんか? 天使様の事は、ずっと」の言葉はもちろん、当て付けだ。「自分の想い」にちっとも気づかない幼馴染に対する。幼馴染の隣には、自分よりもずっと格下の女、平民の少女が並んでいた。


 ビクトリナは二人の顔を睨んだが、堕天使の顔に視線を素早く戻して、彼にまた彼女お得意の懇願を披露した。


「憧れていたんです! 『自分の生きている間に天使様と出会えたら良いな』って! その願いがまさか、こんな形で叶うとは思いませんでしたけど。あたしは今、とても幸せです! 周りの人達にどう思われようと。この気持ちだけは、抑えられません。ですから、どうか!」


「良いですよ」が、相手の答えだった。「俺も、君と一緒に踊りたい」


 レウードは自分の意思とは反対に、彼女に何故か満面の笑みを見せてしまった。


 ビクトリナは、その笑みに胸を躍らせた。


 二人は音楽隊の音楽に乗って、広間の中を優雅に踊りはじめた。


 メリテは、その光景に呆れ果てた。


「呑気に踊りやがって。イアラ、オレ達は絶対に踊らないぞ。アイツらに踊らされて堪るか!」


「はい。……でも」


「イアラ?」


 イアラは、大広間の隅に目をやった。大広間の隅には、ビクトリナの下僕が一人ポツンと立っている。


「ごめんなさい。私は、彼女と踊ります。一人であんな隅っこにいるのは」


 イアラは優しげな顔で、彼女の前に歩み寄った。


「こんばんは、タヌホさん。今は、お一人ですか?」


 タヌホは突然の事に驚きながらも、またいつもの調子に戻って、彼女の質問に「は、はい!」と頷いた。


「お嬢様が、その……踊りを楽しんでおられますので」


「そうですか。なら、私と一緒に踊りませんか? 私も踊る相手が居なくて」


「え? あっ、うっ、でも! 『彼』は?」


「メリテ君は、踊るのが嫌なんです」


「うっ、うううっ。でも、わたし」


「大丈夫です、貴族のように踊れなくても。私達は私達のやり方で、自由に踊れば良いんですから」


「わたしたちのやり方、で」


 イアラは彼女の手を引いて、やや強引に彼女と踊りはじめた。二人の踊りは、無茶苦茶だった。「ステップの踏み方」と言い、「呼吸の合わせ方」と言い、すべてが無秩序だったが、それが何故か、多くの人々を惹き付けてしまった。既成の枠に捕らわれないからこそ、二人の踊りには無限の可能性がある。それこそ、大空を舞う鳥達のように。二人の創り出した世界は、純真無垢な思いで溢れていた。


 イアラは、その感動に微笑んだ。タヌホもそれに釣られて、笑い出した。二人は大勢の人に見られたまま、その奇妙な舞を踊りつづけた。


 ビクトリナは「それ」に苛立つあまり、堕天使との踊りを止めて、二人の前に苛々しながら歩み寄った。


 メリテは、その好機を見逃さなかった。堕天使に近づくには、この時宜しかない。彼は剣の鞘をひと撫でし、それから音もなく、堕天使の所に向かって歩き出した。


 ビクトリナは、自分の下僕を怒鳴り付けた。


「場を盛り上げてくれるのは、良いんだけどね。でもちょっと、調子に乗り過ぎているじゃない? いくら天使様のお許しが出たからって」


「も、もうしわけ」と謝り掛けたタヌホに代って、イアラが「申し訳ありません」と謝った。


 イアラは相手の睨みに怯む事なく、相手の目を静かに見返した。


「でもそれは、あなたも同じじゃないですか? 天使様とあんなに。天使様は、神聖な存在です。それをあなたは」


「そうだな」と、メリテも頷く。「確かに独り占めは、良くない」


 メリテは、堕天使の目で足を止めた。


 レウードは(無言で)、眼前の少年を見つめた。眼前の少年は……何故だろう? 自分を無性に苛々させる。その青み掛かった黒髪はもちろん、自分よりも若干高い背にも、別に苛立つ要素は無いのに、その真っ直ぐな目に睨まれると、まるで自分の魂が焼かれるような感覚に襲われてしまうのだ。その腰に差した剣や、不器用ながらも必死に鍛え上げた身体(直感的にそう思った)を通して、自分の本質を引っ張り上げるように。彼が自分の目から視線を逸らした時も、ある程度の緊張は解れたが、それも一瞬の安堵、束の間の安らぎでしかなかった。自分の喉元にはまだ、剣の切っ先が突き付けられる。


 レウードは、その切っ先に汗を浮かべた。……彼は、只者ではない。言葉では表さなかったが、その直感は、レウードを確かに震えさせた。「……くっ」

 

 メリテは「それ」に気づかず、真面目な顔で皇帝の顔を見つめつづけた。


「皇帝陛下」


「ん?」


「ご無礼は、重々承知ですが。お願い致します。天使様と二人だけでお話がしたいのですが?」


 レウードは、皇帝の顔に目をやった。彼の指示を仰ぐために。


「シュベールさん」


 皇帝は堕天使の目を見返したが、やがて「分かった」と頷き、メリテの顔に視線を戻した。


「許可しよう。天使様に失礼の無いように、な」


 レウードはその言葉に目を見開き、少し不安な顔で隣の皇帝に耳打ちした。


「良いんですか? そんな事を許して?」


 皇帝も、隣の堕天使に耳打ちした。


「もちろん、用心にこした事はありません。この子は、ロハ家の嫡子ですからね。この子にもし、何かあったら。穏健派の連中も黙ってはいない。それこそ、反乱すら起すかも知れません」


「なら!」


「ですが。、です。天使様は、我々の側に微笑んだ。穏健派の子どもがいたぶられた所で、その世情は最早変えられない。彼らは、文字通りの泣き寝入りです。この好機は、それを促す見せしめにもなる」


 皇帝は、厭らしく笑った。


「私は、人の死が嫌いです。彼への制裁は、程々にして下さい。その信念を挫く程度に。貴方の知恵を使えば、それも容易にできる筈です」


 レウードはその命に戸惑ったが、最終的には「分かりました」と頷いた。


「できる限り、やってみます」


 レウードは、メリテの方に向き直った。


「ごめん、待たせて。それじゃ、行こうか?」


 メリテは彼の言葉を訝しんだが、自分の目的を思い出して、その促しに「はい」と頷いた。


 二人は並んで大広間の中から出て行き、その廊下を通って、宮殿の庭に向かった。宮殿の庭には、誰もいなかった。宮殿の窓から漏れ出す灯りは見えても、二人の視界に入ってくるのは、宮殿の庭を彩る華やか草花と、その草花を照らす綺麗な月明かりだけだった。


 二人は、庭の隅で足を止めた。ここなら誰かに見られる事もない。宮殿の外壁が、丁度良い遮蔽物になってくれる。


 レウードは、メリテの顔に目をやった。


「それで? 話したい事って言うのは?」


 メリテは、相手の目を見返した。


「面倒な訊き方は、しない。お前は、どうして?」


「礼儀がなっていないな。俺にはちゃんと、敬語を使えよ」


「くっ」


 メリテは、彼の指摘に(不本意だが)頭を下げた。


「申し訳御座いません、天使様。貴方は何故、アイツの側を支持していらっしゃるのですか?」


「アイツの側?」


「ええ、そうです。アイツの……シュベール・ガルバの政治は、どう考えても圧政だ。自分の事しか考えず、なのに! 『堕天使』と言えば、国の政治に異を唱えた反逆者でしょう? 『独裁政治は、許さない』って。貴方も、その内の一人だった筈だ! 今のオレと同じ」


 レウードは(内心で泣きながら)、その言葉に微笑んだ。


「天界から追放された天使は、もう二度と天界に戻れない。どんな手段を使っても。だから、彼の力を借りる事にしたんだ。彼には、富も権力もある。自分の言葉に従う忠実な下僕達も。俺は、そのお零れを貰いたい。皇帝の圧政が何だ? 圧政は、国の秩序を保つ一手段。ようは、それと上手く付き合えれば良い。自分の大事な人を守りたいなら。君にだって、守りたい大事な人はいるんだろう?」


 それがメリテの闘志に火を点けた。


「お前の言う通り。オレには、大事な人がいる。でも!」


 メリテは腰の剣を抜いて、正面の堕天使に斬り掛かった。


「オレは、この手で守りたい。お前らの保護に入るなんて、死んでも御免だ!」


 レウードは、相手の剣を躱した。剣の動きは確かに速かったが、その速さは、皇帝の拳には遠く及ばない。相手の動きを良く見て、そこからある程度の予測を立てれば、かすめる事は何度かあっても、それが綺麗な一撃として決まる事はなかった。正に「発展途上の剣」と言って良いだろう。純粋な剣の熟練度なら、治安部隊の方がずっと上だった。


 レウードは天界の時よりも少し余裕を持って、彼の剣を何度も躱しつづけた。


「当たらない。威勢が良いのは、そいつを振り回す根性だけか?」


「くっ」


 メリテは相手の侮辱に苛立ちながらも、内心では「このままでは不味い。何とか打開策を考えなければ」と焦っていた。相手の動きは、自分が思っている以上に素早い。「ふふふ」と笑う顔からは(若干、息が上がっていたものの)、余裕すら窺える。「お前の力は、こんなモノか?」と、その目や、態度から、自分の事を嘲笑っているのだ。


 メリテは、その嘲笑に舌打ちした。


「馬鹿にしやがって」


 オレの力は、と思い掛けた所だ。彼の中である直感、閃きにも似た光明が走った。


 ……アイツは今、オレの武器が「剣だけだ」と思い込んでいる。オレが両手で持つ剣を必死に振り回す姿、その無様な姿を見て。アイツの取っている行動も、「それ」を上手く躱して、自分の側が有利になるように促し、オレが作った僅かな隙を突いて、「その戦意を完全に挫く」と言った感じだった。オレの命を奪おうとは、微塵も思っていない。アイツはその知恵を使って、オレの絶対的優位性である剣をどうにか無力化しようとしているんだ。


「そう言う事なら」


 メリテは、空に向かって自分の剣を投げ上げた。自分の分身とも言える剣を、魂の半分が染み込んだ片割れを、「勝つ」と言う絶対的な信念に従って、星が煌めく夜空に投げ上げたのだ。


 メリテは、眼前の敵に視線を戻した。眼前の敵は思った通り、その片割れに意識を奪われている。……好機だ。相手の注意がそちらに向けられている今こそ!


 メリテは敵との距離を一気に詰め、その身体を思いきり殴りはじめた。……徒手空拳。剣がダメでも、けんがある。彼が暗殺のために鍛えて来た技術は、何も剣術だけに限った事ではなかった。


 メリテは頬への一撃だけでは終わらず、相手の至る所に拳と蹴りを入れつづけた。


 レウードは最初の一撃を躱せなかった所為で、今までのアレが嘘のように、彼の攻撃をすべて受けつづけてしまった。腹への攻撃はもちろん、背中や脚などへの攻撃も。その一撃一撃は決して重くは無かったが、攻撃の沼地にすっかり嵌まってしまったレウードには、それが幾重にも重なった木板のように感じられた。


「うわぁああ、ぐっ」


 メリテは、その悲鳴に「ニヤリ」とした。


「思った通りだな。お前は、。オレの剣を躱せたのも、単にだ」

 

 彼は相手の後ろに回って、その首を思いきり締め上げた。

 

 レウードはその力に抗ったが、どう抗っても、その力からは抜け出せなかった。だんだんと薄れて行く意識。彼はその中で、己の死を覚悟したが……。


 彼の魂は、「それ」を決して許さなかった。

 

 ……こんな所で死んでどうする? ……お前には。


「まだ」


 ……やるべき事があるんだろう?


「くっッ!」


 魂は、彼に残された最後の鎖を切った。


「使い、方は?」


 ……教わる事はない。……ただ、


「わか、った」


 レウードは相手の腕を何とか振り解き、その相手に向かって勢いよく振り返った。


が教えてくれた。こうすれば良いんだろう?」

 

 彼は右手の光、中毒性のある夢ラウントを光らせた。

 

 メリテはその光に驚いたが、それも長くは続かず、視界の幕が下りた時にはもう、その意識を手放して、地面の上に倒れていた。

 

 レウードは息の乱れを何とか落ち着かせて、地面の上に倒れている少年をじっと見下ろした。

 

 ……さて、これからどうするか?


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