第7話 堕天使の夢

 大広間の空気も大分砕けた頃だ。穏健派の貴族達は相変わらず俯いていたが、皇帝派の貴族達は「無礼講」と言わんばかりに、普段の上下意識もすっかり忘れて、互いに肩を組み合っては、酒への強さを競い合ったり、その速さを称え合ったりしはじめた。正に「酒池肉林」の光景。それを見ているビクトリナが「クスクス」と笑っていなければ、子どものタヌホ達にはとても耐えられない、大人の醜態を晒した光景だった。


 タヌホはその光景に不安がったが、イアラは別の意味で不安を抱いていた。「メリテ君の帰りが遅い」と。あれから結構な時間が経つが、彼の帰って来る気配はもちろん、それを匂わせる予感すらも感じられなかった。彼の身に何かあったのかも知れない。確かな証拠は何も無かったが、今の状況に不安を抱いたイアラには、それが何かの警告のように感じられた。


 イアラは怖い顔で、アイリの前に歩み寄った。


「奥様」と、彼女が話し掛けた瞬間だ。皇帝も近くの同胞に「おい」と話し掛けた。「ちょっと良いか?」


 皇帝は周りの貴族達に悟られぬよう、慎重な態度で相手を手招きした。


 相手は「それ」に従って、彼の前に恐る恐る近づいた。


「なんで御座いましょう?」


 皇帝は自分の隣に彼を近づけ、彼にそっと耳打ちした。


「天使様の帰りが遅い。ロハ家の息子と一緒に出て行かれたが。そいつとの間に何かあったのかも知れない。穏健派の奴らに騒がれても厄介だ」


 男は、皇帝の言わんとした事を察した。


「畏まりました。では、


「ああ。


 男は皇帝に頭を下げて、彼の前から歩き出した。アイリがイアラに微笑んだのは、彼が大広間の扉に向かって歩いている時だった。

 

 アイリは彼女の肩に手を置いて、彼女にまた微笑んだ。


「ごめんなさい。あなたにも心配を掛けて」


「いえ」と微笑み返すイアラ。「私も、好きでやっている事ですから」


 イアラは眼前の女性に頭を下げて、大広間の中から出て行った。


 ビクトリナは(偶々目に入ったらしい)その光景に驚いたが、彼女のように大広間から出て行こうとはしなかった。


 イアラは胸の不安を抑えつつ、メリテの姿を捜しつづけた。宮殿の廊下を歩いている時はもちろん、その廊下を進んだ先にある玄関まで行った時も。だがいくら捜しても、彼の姿は見つけられなかった。玄関の外に出た時は「もしかして?」と思ったが、その庭を真っ直ぐに進んでも、目に入ってくるのは「」と言う現実だけだった。


 イアラはその現実に項垂れたが、それでも彼の姿を捜しつづけた。彼の姿は、すぐに見つかった。彼女の進み方が正しかったのか? それとも、単に運が良かっただけなのか? その要因は分からないが、とにかく、建物の影に隠れていたメリテを見つけたのだ。彼の近くには、あの堕天使も立っている。彼は宮殿の外壁に寄り掛かって、(理由は分からないが)気持ちよさそうに「スヤスヤ」と眠っていた。

 

 イアラはその光景にホッとする一方、やはり不安の方が勝ったらしく、彼の前にそっとしゃがんで、その頬を優しく触った。


「メリ」


「大丈夫だよ」と言ったのは、メリテではない。彼女の不安を察したレウードだった。「彼はただ」


 レウードは彼女の隣に歩み寄ったが、彼女が自分の方に振り向いた瞬間、その瞳に思わず見惚れてしまった。なんて美しい瞳だろう。相手の心を静かに浄めてくれるような、そんな神聖さがその輝きを通して伝わって来る瞳だった。夜空の闇に負けない黒髪も、「黒髪」でありながら宝玉のようにキラキラと輝いている。正に「少年の憧れる女神」と言った感じだ。彼女の見せた態度から、彼女と彼の関係を察しなければ、決して実らない少年の初恋を抱く所だった。それ程に……あれ? だ。彼女を見たのは、これが初めてな筈なのに。これが初めてでは、ない気がする。言葉のやり取りは無かったような気もするが、視界の隅には「彼女」が確かに映っていた。

 

 レウードはその感覚を隠しつつも、眼前の少女を慮って、彼女にまた優しく微笑んだ。


「彼はただ、眠っているだけだから」


「眠っているだけ。力の一部を抑えたからね。直に目覚めると思うよ?」

 

 彼が言った通り、メリテは数分後に目を覚ました。


 イアラは、メリテの身体に抱き付いた。


「ああ、良かった! メリテ君」


「イアラ、か?」


 メリテは頭の方は朦朧としていたが、彼女の感触には少年らしくドギマギしてしまった。


 レウードは、その光景を微笑ましく思った。


 メリテはその視線を感じ、地面の上から慌てて立ち上がった。彼にはまだ、眼前の少年が「堕天使」に見えていたのだ。彼は自分の後ろに恋人を下がらせて、眼前の堕天使を思いきり睨んだ。


「お前は、そこにいろ。コイツは」


「危険じゃないよ、今の俺は。少なくても」


「なら!」


「今までの俺は、じゃない。俺はたぶん、ここの皇帝に


「アイツに操られていた?」


 メリテは、戦闘の構えを解いた。


 イアラは彼の後ろから、レウードに訊いた。


「どう言う事ですか?」


 レウードは、その質問に視線を落とした。


「俺も良く、覚えていないけど。彼に薬を飲まされたんだ。細い容器に入った液体を。俺は、その薬を飲まされて」


「おかしくなったんですか?」


「う、うん、頭の中がぼうっとして。自分がまるで自分じゃないように。今も、それの記憶が行ったり来たりしている。意識の方は、元の自分に戻っているけど」


「意識はいつ、戻ったんですか?」


 レウードは、メリテの顔に視線を移した。


「彼と戦っている時に。俺の魂が、その意識を戻してくれたんだ」


 メリテは彼の話に目を細めたが、イアラの方にすぐに振り返った。


「イアラ」


「はい?」


「コイツの話を信じるか?」


 イアラはまた、レウードの顔に視線を戻した。


「レウードさん」


「はい? って、どうして俺の名前を?」


「覚えていないんですか?」


「う、うん」


「あなたが自分で名乗ったんです。演説台の上で、自分の名前を。レウードさん」


「は、はい!」


「あなたは、陛下の味方ですか?」


「味方、じゃないよ。味方になれるわけがない! 彼は……」


「レウードさん?」


「彼は、この国を腐らせている。自分の意にそぐなわない、自分よりも弱い人達を虐げて。俺は宮殿の図書室で、帝国の歴史を調べた。現在の社会体制も。俺は、彼の事を軽蔑している」


「そうですか」


「うん」


「レウードさん」


「はい?」


 イアラは、彼に微笑んだ。


「私は、あなたを信じます」


「え?」


「ただし!」


 イアラはメリテの反論を制して、それから彼の前に立った。丁度、彼の身体を庇うように。


「無条件じゃありませんよ? あなたがもし、私達の事を裏切ったら。その時は」


「そ、その時は?」


「私があなたを殺します。私の大事な人を守るために」


 レウードは、その覚悟に胸を打たれた。彼女はやはり……いや、美しいだけではない。「強さ」と「美しさ」を兼ね備えた凄い人だ。


 レウードは、その事実に唯々感銘した。


「俺は、嘘を付いていない。それだけは、信じて欲しいんだ」


「……はい」


 イアラは「ニコッ」と笑って、彼に握手を求めた。


「イアラ・トゥエーゼンです。身分は平民ですが、彼を想う気持ちは誰にも負けないつもりです」


 レウードも、彼女の握手に快く応えた。


「うん、よろしく」


 二人は穏やかな顔で、互いの手を握り合った。それを見て「面白くない」と思うのはもちろん、イアラの隣に立っているメリテである。彼は半信半疑、レウードの言葉をまだ完全に信じ切れないでいたが、イアラが相手の手を放し、自分に「クスッ」と笑い掛けると、その嫉妬をほんの僅かだが忘れてしまった。


 イアラは、彼にある行動を促した。


「ほら、メリテ君も」


「え?」



 メリテはレウードの顔に視線を移したが、その顔をしばらく見つめると、複雑な顔で地面の上に目を落とした。


「オレは……」


「信じなくても良いよ?」


「え?」


「すぐにはね。でも、名前だけは聞かせて欲しい」


 メリテはまた、レウードの顔に視線を戻した。


「メリテ・ロハだ。身分は、貴族。父は、穏健派の頭目をやっている」


 レウードも真っ直ぐな目で、相手の目を見返した。


「俺は、レウード・ウィル。天界では、俺も貴族の一人だった。両親は、国の思想を維持する……まあ、そんな事はどうでも良いか。心残りは、あるけど」


 イアラは、彼の心中を察した。


「レウードさん……」


 レウードはその声に微笑んだが、それも長くは続かなかった。


「シュベールさんは今、何処にいる?」の声を聞いても分かるように。彼の顔はまた、元の真顔に戻った。それも、その眼光を鋭く光らせて。彼はメリテが「それ」に若干怯んだ時も、その眼光を消さないまま、真剣な顔で二人の答えを待ちつづけた。


 二人は互いの顔を見合ったが、それに答えたのは、彼の顔に視線を戻したメリテだった。


「宮殿の大広間だ。そこに都の貴族達を集めて、くっ。盛大に酒盛りしているよ。自分の飼い犬達に酒を振る舞ってさ。大広間の中に天国を作っている。アイツは」


「俺の事を利用した?」


「……ああ、演説台の上にお前をわざわざ立たせて。皆に自分の正当性を訴えたんだ。『使』ってね。アイツは、穏健派の貴族達すらも取り込んだ。もう誰も逆らえない! アイツの意見に異を唱える事も……」

 

 メリテは悔しげな顔で、両手の拳を握り締めた。

 

 レウードはその光景に胸を痛めたが、それを表には決して出そうとはしなかった。


「強者は力に溺れるが、弱者は知恵に救われる」


「え?」


「諦めるのはまだ、早い。相手の動きを良く見れば」


「『突破口が見つかる』って? ふざけるな! オレはずっと、その突破口を捜していたのに。それもすべて、無駄になっちまった。オレは、お前すら始末できなかったんだぞ? あれだけ鍛えた剣術を使って。オレがお前を殴れたのは、お前がオレの悪あがきに引っ掛かってくれたお陰だ。それも咄嗟に考えた、しょうもない悪あがきに」


「メリテ……」


 レウードは、彼の肩に手を置いた。


「『そうだ』としても。君はやっぱり、強いよ。お陰で身体中が痛い。傷が無いのが、せめてもの救いだけど。皇帝への言い訳が大変だ。上手くやらないと」


 レウードは彼の肩から手を退けて、彼の剣が落ちている所まで行き、それを拾って、彼の前にまた戻り、穏やかな顔で彼にそれを渡した。


「また、面倒な事になる。君は、その状況を作ったんだ。君の気持ちがどうであれ。君は自分の倒すべき相手を、そこまで追い込んだんだ」


「くっ」


 メリテは彼の励ましに心をぐらつかせたが、それでもやはり納得できなかった。


「でも」


「でも?」


「お前を結局、始末できていない。お前を偶像にしているアイツも。俺は、その両方を始末できなかった」


 レウードは、今の言葉に眉を潜めた。


「俺達を殺しても、国の社会は変わらないよ? 彼らは……皇帝と皇帝派の貴族達は、互いの利益で繋がっているからね。それは言わば、主人と飼い犬の関係に等しい。偶像の俺や、主人の皇帝を殺しても、また次の主人や偶像を決める戦いが起こるだけだ」


 メリテは、その考えに言葉を失った。それは物事の真理、真理の美文を読んだ言葉だったからだ。今のメリテには到底、頷けない。だから彼は、全力でその美文に噛み付いた。


「そんな事は、分かっている! だからオレは、父上こそ『それ』に『相応しい』と思っているんだ! 父さんならきっと、この国を正しく治めてくれる。父さんは……」


「どんなに偉大でも……君の父さんはたぶん、そんな事は望んでいないと思うよ?」


「なっ!」


 どうして? の言葉は、言えなかった。


「その根拠は?」


「君の父さんが、『』って事だよ。君の父さんはたぶん、暴力を嫌っている。そうじゃないか?」


 雷に打たれたような衝撃とは、正にこの事だろう。メリテはその雷に痺れるあまり、反論の言葉をすっかり失ってしまった。


 レウードは真っ直ぐな目で、彼の目をじっと見返した。


「暴力で訴えた正義は、誰の心にも届かない。言葉だけで主張した正義も同じだ。相手の心を動かすには、それ相応のモノが必要になって来る。でも」


「でも?」


「今は、その必要なモノが揃っていない。彼らの考えを変えるだけの。今は」


「くっ」


 メリテはまた、彼の思想に噛み付いた。


「それじゃ、どうすれば良いんだよ? 『このまま指を咥えて見ていろ』って言うのか? アイツらが好き勝手に喚いている姿を」


「いや……」


 レウードは、右手の掌に目をやった。


「そんな事は、ない。たとえ、材料は無くても。できる事はある」


「できる、事は?」


 レウードは、右手の掌を掲げた。


「命の根幹が教えてくれた。俺の中にある魂が、教えてくれたんだ。『』って。それから」


 の続きは、聞けなかった。レウードがそれを話そうとした瞬間、自分達に近づく一つの足音、敵の接近を聞き取ってしまったからだ。


 レウードは声を潜め、二人にある作戦を伝えると、今の場所からそっと出て、足音が聞こえて来た方に目をやった。視線の先には、貴族の男(たぶん、皇帝派の貴族だろう)が一人。彼は余程捜し回ったのか、レウードの姿を見つけると、嬉しそうな顔で彼の前に駈け寄って行った。


「いやぁ、驚いた! くたびれましたよ。まさか、こんな所におられたなんて」


「え? ああ」


 なるほど。彼は、自分の事を捜していたのか。


「それは、ご苦労な事で」


「はい?」


「いえ、何でもありません」


 レウードは、眼前の男に頭を下げた。


「わざわざ捜して頂き、ありがとうございます。彼らとちょっと、話が盛り上がってしまって」


「話?」と驚いた彼に合わせて、建物の影からメリテ達が現れた。「彼らと、ですか?」


 男は、眼前の堕天使に視線を戻した。


「天使様」


 レウードは彼の不安を推し測り、その耳元にそっと囁いた。


「大丈夫です。彼らはもう、陛下の忠実な下僕ですから」


「そう、ですか。ふふふ。では、大広間に戻りましょう。陛下も心配しておられます」


「分かりました」


 男は三人に先立って、今の場所から歩き出した。


 三人は、その後に続いた。「さて」と呟いたのは、二人の先頭を歩くレウードである。「ここからはまた、使ですよ? シュベールさん」

 

 レウードは真剣な顔で、宮殿の通路を歩きつづけた。通路の進み方は異なっていたが、それでも応接間の雰囲気は出て行った時とそう変わりなかった。皇帝派の貴族達が騒ぐ姿も、そして、穏健派の貴族達が「それ」を恨めしく見る姿も。違っていたのは、「それ」を見たレウードがかなり苛立った事と、皇帝が「それ」に気づかず、彼の帰りを心から喜んだ事だった。彼らは各々の思いを隠して、一方は皇帝の前に歩み寄り、もう一方はその姿に微笑んだ。

 

 皇帝は堕天使の姿から、彼に起こった大体の事を想像した。


「お怪我は、無いようですが。随分とやられたようですね? お顔がとても疲れていらっしゃる。彼への制裁も相当、てこずられたようですな?」


「彼への制裁……」

 

 レウードは、そこから広がる諸々を推し測った。「なるほど」の言葉はもちろん、言わない。彼はどうやら、「自分」と言う偶像を使って、メリテの事を懲らしめようとしたようだ。それを見せしめとして、穏健派の人々を黙らせるために。メリテの命を奪わず、「制裁」の域に留めたのは、反乱の火に注がれる油を少しでも抑えようとしたからだろう。制裁の域に留めて置けば、それがある種の温情として、今の状況にも不満を言い辛くなるからだ。


「つくづく面倒な人だ」


「はい?」


 レウードは、相手の反応に作り笑いを浮かべた。


「俺と戦った彼が、ですよ。彼は、相当に強い。彼に勝てたのは、文字通りの奇跡です」


「……そうですか。それで?」


 今までの会話は前振り、そんな雰囲気が漂う「それで?」だった。


「あの子は、なびきそうですか?」

 

 レウードは声を潜めて、その質問に答えた。


「はい。それはもう、俺が良く言い聞かせたので。今は、貴方の忠実な下僕です。その世話係を含めて。彼がこちら側に付けば、穏健派が倒れるのも時間の問題でしょう」


「ふふふ、そうですか。それは、実に良かった」


 皇帝は、彼の言葉を信じた。それが悪人を騙す、善の嘘とも知らずに。彼は堕天使がかたったそれを、まことの話として鵜呑みにした。


「これで我が帝国も安泰です」


「はい」


 レウードは「ニコッ」と笑いながらも、内心では彼の事を睨み付けていた。


 皇帝は、周りの風景に視線を戻した。


「素晴らしい光景だ。今まで啀み合っていた兄弟が、あんなにも! 私は、この日が来るのをずっと待っていました。穏健派の奴らが折れ、全員が同じ色に染まるこの日を。私は、極彩色ごくさいしきが嫌いでしてね? 派手な色はそれ程でもありませんが、それに隠れた地味な色はどうしてもかない。目に映る物はすべて、単色の方が良いんです」


「それが『世界を彩る真理だ』としても?」


「はい。黒のそれには、誰も敵いませんから」


 レウードは(内心で)、彼の言葉に眉を潜めた。


「俺も、そう思います。ただ」


「ただ?」


「俺としてはもっと、黒の画料を買い足して置きたい。これからの事も考えると」


 皇帝は、彼の言わんとした意図を理解した。


「なるほど。それは、なかなかに良い考えかも知れない。貴方の手を煩わすのは、忍びないが。ここは一つ、お願いできますか?」


「もちろん! 任せて下さい」


 レウードは「ニコッ」と笑って、貴族達(特に皇帝派)の前に歩み寄った。


 貴族達は、彼の周りに集まった。特にウヴァイをはじめとする皇帝派の貴族達は、穏健派の貴族達を押し退けて(穏健派の貴族自体も、堕天使の前に集まるのは消極的だった)、我先にと押し合ったり、「天使様!」と叫んだりしては、彼の存在を心から喜んだ。


 ウヴァイは服の乱れを正して、現前の堕天使に何度も頭を下げつづけた。


「これは、これは、天使様! この度は、誠に有り難う御座います。貴方様のお陰で、あの愚か者達を黙らせる事ができました。彼らの我が儘には、本当に参っていたんですよ。毎日、毎日、我々の正論に噛み付いて。楽しみの酒ですら、美味しく呑めませんでした。『それ』を貴方は、正して下さった。我らが神にお味方して下さったお陰で。それは」


「ええ! 本当に」と、ビクトリナもうなずく。「あなたは、あたし達の恩人です!」


 彼女は満面の笑みで、堕天使の前に立った。


 レウードは、眼前の少女を見つめた。……なんて醜い子だ。容姿の「それ」は美しくても、その奥には醜悪な、下劣な根性が潜んでいる。今は煌びやかな衣装で「それ」を誤魔化しているが、細い指で自分の黒髪を何度も弄くる動きや(自分の可愛さを主張しているのだろう)、あざとく笑う表情からは、「商売女」とまでは行かないものの、それに近い雰囲気が感じられた。

 ……彼女は、自分が最も嫌う種類の女性だ。そう内心で思うレウードだったが、それでも彼女のすべてを拒めなかったのは、彼の良心が彼女に対して憐憫……いや、これは「慈悲」と言った方が良いかも知れない。彼女が時折見せる悲しげな顔が、その内に秘めた想いを醸し出していたからだ。それを見たら、流石に怒れなくなってしまう。……彼女もまた、(自分では気づいていないかも知れないが)「愛」と「哀」とを併せ持った普通の人間だったのだ。

 

 レウードはその事を直感的に感じながらも、表面上では(あくまで)偶像のフリを貫きつづけた。


「いえ。俺はただ、普通の事をしただけです。今の帝国には、貴方のような人こそ相応しい」



 皇帝派の貴族達は、その言葉に歓喜した。彼の正面に立っていたビクトリナはもちろん、その近くにいたカミュ夫妻や、それを囲っている老若男女様々な貴族達も。皆、堕天使の騙った嘘にまんまと騙されていた。


 彼らは改めて穏健派の貴族達を一瞥し、その圧倒的勝利感に満足げな笑みを浮かべつづけた。


 穏健派の貴族達はその笑みに苛立ったが、イアラがレウードの指示通り、彼らの意識をそれとなく逸らしたお陰で、メリテの声に応えたロハ夫妻も同様、皇帝派が連れて来た召使いや奴隷達、大広間の雰囲気を奏でていた音楽隊(タヌホもそれに釣られて)も、彼らの笑みをそう長くは眺めてなかった。

 

 レウードは「彼らの視線」がすべて逸らされた所で、大広間の灯りを上手く利用し、周りの飼い犬達に中毒性のある夢を見せた。

 

 飼い犬達はその光に気づかず、気づいたとしても「堕天使が見せた一種の手品」と思い込んで、彼が求めた握手に次々と応えて行った。一人、また一人と、まるで甘い獲物に群がる蟻達のように。彼らは天使様の仕掛けた罠にまったく気づかず、それどころか「おお、何と素晴らしい握手だ!」と有り難がって、その感動に唯々酔い痴れつづけた。ビクトリナも、その感触に酔い痴れていた。正に「夢心地」と言った感じに。ビクトリナはその感覚にうっとりしたが、それが次第に薄れて行くと、視界が暗くなるのに合わせて、夢の世界にゆっくりと墜ちて行った。


 夢の世界に墜ちて感じたのは……何だろう? とにかく不思議な感覚だ。今までの自分、「主体性」の持った自己が、それを模した幻影の意思とすっかり重なり合うような感覚である。まるで「本当の自分」が二人いるような感覚だった。その感覚を抱いたまま、ゆっくりと開かれた両目の瞼にも、それが醸し出す雰囲気が漂っていた。


 ビクトリナはやたら軽い身体を起して、自分の周りを恐る恐る見渡した。自分の周りに広がっていたのは、妙に懐かしい風景。周りに置かれた家具の位置や、窓から差し込む光はほとんど変わっていなかったが、それは間違いなく……しかも、現在いまより若干新しく見える自分の部屋だった。

 

 ビクトリナはその光景に驚いたが、自分の姿を見てさらに驚いてしまった。今の自分は、現在の自分ではない。かつての自分が辿った、幼き日の自分だった。年齢の頃はたぶん、10歳頃だろう。11歳にしては幼過ぎるし、9歳にしては大人過ぎる。丁度、「恋」の新芽に感動を覚えはじめる年頃だ。ふと何気なく触った自分の髪にも、その感覚が微かに感じられる。


 ビクトリナはその感覚に戸惑いながらも、不思議な顔で周りの風景を眺めつづけた。……これは、天使様が見せた奇跡なのだろうか? そう内心で思った彼女の前に現れたのは、周りの世界観と調和した女性、娘の歳と連れ立って若返ったリュオンだった。


 リュオンは優しげに微笑み、娘の身体を抱きしめたが、娘がそれに涙しているのを見ると、やはり優しげな顔で、その頭をそっと撫ではじめた。


「どうしての? 涙なんか流して? 何か哀しい事でもあった?」


 ビクトリナは、その質問に応えなか……いや、応えられなかった。懐かしい母の感触に。今ではもう、味わえない温もりに。「う、うううっ」と泣きつづける事は、できても。今の彼女にできるのは、母の身体を強く抱きしめ返す事だけだった。


 彼女は穏やかな気持ちで、母の身体を抱きしめつづけた。母の身体をこうして抱きしめるのは、いつ以来だろう? 母の事を「お母さん」と呼ばなくなってから? それとも……まあ、良い。今はそんな事、どうでも良かった。母の身体は、温かい。今はそれだけで、充分である。


 ビクトリナは、母の胸に幸せを感じた。


「うんう、何でもない。ただちょっと、を見ていただけ」


「……そう。なら、で『それ』を忘れないとね?」


「良い夢?」


「メリテ君が来ているわよ?」


「メリテが?」


「ええ」


 リュオンは「ニコッ」と笑い、娘の着替えを待って(ビクトリナは、寝間着姿だった)、それが終わると、屋敷の玄関まで彼女を連れて行った。玄関の前では、メリテがビクトリナの事を待っていた。彼女と同じく、10歳頃の自分に若返って。彼は自然なお洒落で自分を彩りつつ、彼女の登場を心から喜んでいた。

 

 ビクトリナはその姿にときめいたが、同時に妙な違和感も覚えてしまった。

 

 メリテはそんな思いなど知らず、眼前の少女に「よぉ」と微笑んだ。


「また、朝寝坊か?」


 朝寝坊? そう言えば、昔の自分は朝寝坊だったっけ……。


「う、うん、たぶん。昨日の夜も遅くまで、本を読んでいたと思うから。『天使様』が出てくる素敵なお話を」


「ふうん」


 メリテは、彼女の愚行に溜め息をついた。


「まったく。お前の本好きには、つくづく呆れるね」


 嫌みで言っているのではない。それが「彼の冗談」だとは、その口調からも充分に窺える。彼は幼馴染の少年が良くやる、親愛の情を不器用に表しているのだ。


 ビクトリナは、その情に頬が熱くなった。


「ごめん、なさい」


「いや」


 二人は互いの目を見つめ合い、そして、微かに笑い合った。


 メリテは、彼女に手を伸ばした。


「今日も散歩に行こう」


「散歩?」


 リュオンは優しげな顔で、娘の肩に手を乗せた。


「行って来なさい。からのお誘いは、断るモノじゃないわ」


 ビクトリナは、その言葉に衝撃を受けた。特に「許嫁」の部分には、身体の体温が一気に上がるのを感じた。ここはどうやら、らしい。そうでなければ、彼の許嫁になるなど有り得ない事だった。

 

 ビクトリナは改めて天使様の奇跡に感銘しつつ、彼の誘いに応えて、屋敷の玄関からゆっくりと出て行った。

 

 メリテは、彼女の隣に並んだ。

 

 二人は互いの手を握り合い、町の道路を楽しげに歩き出した。

 

 ビクトリナは少女らしい顔で、彼の隣を歩きつづけた。彼との散歩は、楽しかった。自分がどんなにつまらない事を言っても、それに喜んで「うんうん」と頷いてくれる。道の段差で思わず転びそうになった時も、「大丈夫か?」と言って、その身体を優しく立たせてくれた。

 

 彼女は、その優しさにうっとりした。この世界がたとえ、「」としても。この夢だけは、絶対に覚めないで欲しい。この夢には、彼女のすべてが詰まっている。従順な奴隷達はもちろん、それを従える国の貴族達も。すべてが……。

 

 ビクトリナは、彼の話に思わず驚いてしまった。


「貴族戦士団?」


「ああ、国の貴族達が造った治安維持組織だ。オレとお前の父さんは、そこの指揮官を任されている。って、父さん達から何も聞いていないのか?」


 何も聞いていない、とは言えない。そもそも、そんな物は存在しないのだから。存在しない物を「存在する」と答えるのは、「存在する物」を「存在しない」と答えるよりも愚かな事である。だから彼に対する言い訳も、かなり曖昧なモノになってしまった。


「え? ああ、うん。そう言うのは、良く分からなくて」


「そうか」


「……うん」


「ダメだぞ? 親の仕事は、ちゃんと知っていなきゃ。なんたって、オレ達は『そこ』で生きているわけだし。父さん達が頑張っているから、毎日美味い飯を食べられる。オレも、お前も」


「う、うん。そうね! おとうさまっ……お父さん達には、とても感謝しているけど」


「ああ! オレも、凄く感謝している。だから」


「だから?」


「指揮官の仕事は、世襲制らしい。世襲の意味は、分かるよな?」


「え、ええ、もちろん。『お父さんが貴族なら、その子どもも貴族になれる』って言う」


「そう! だからオレも、将来は戦士団の指揮官になるんだ。指揮官になれば、悪い奴をいっぱい倒せる。国に逆らう悪者をたくさん殺せるんだ!」


 ビクトリナは、今の言葉にゾッとした。彼には確かに、正義感の強い所がある。それこそ、自分に食って掛かるくらいなのだから。今の言葉には、何もおかしな所はない。「実に彼らしい」と言える。「」と言う部分に関しては。


 でも……。

 

 ビクトリナは怖い顔で、隣の少年を見つめた。それはただの、表面上の事でしかない。彼が許さない悪は、相手の尊厳を踏みにじる……文字通りの「悪」ではなく、普段の彼女が心酔している思想、それを「当然だ」と思う優越感に対して、「それは違う」と言えるだった。その勇気は、彼が最も好む感情である。平民の少女を愛した彼にとっては。

 

 ビクトリナは、隣の少年から視線を逸らした。隣の少年は、「彼」ではない。彼の姿をした、もっと危険な何かだ。姿形は同じでも、彼はあの彼には成り得ない。

 

 ビクトリナは彼の手を放し、怖い顔でその場に立ち止まった。


「あんた……それ、本気で言っているの?」


「ああ、本気だよ? 本気じゃなかったら、こんな」


「そう、なら」


「ん?」


「あたしは本気で、あんたの事が嫌いになったわ!」


「なっ! どうして? ビクトリナ?」


 ビクトリナはその言葉を聞かず、相手の顔を思いきり睨み付けた。


「何が指揮官よ? ふざけないで! 現実のあんたも最低だけど、夢のあんたはそれ以上に最低だわ! 世の中の悪人をたくさん殺せる、ですって? 現実のあんたは、そんな下衆野郎じゃなかった。あたしから、どんなに罵られても……。周りの人達は皆、あたしの事をチヤホヤしたけどね。でも、あんただけは違う。周りが特別扱いするあたしを、ちっとも特別扱いしなかった。。あたしは、そんなあんたが好きだった。初めて会った時から、ずっと。だから」


「ビクトリナ……」


「あんたに恋人ができた時、凄く悔しかった。『どうして、あたしじゃないんんだろう?』って。あたしはずっと、あんたの事を想っていたのに。あんたは!」


 ビクトリナは、夢の世界に叫んだ。


「偽物のあんたなんて要らない。あたしが欲しいのは、不器用で真っ直ぐな本物のあんただけよ!」


 ……それが彼女の救いだった。夢の世界には決して、溺れない。彼女が選んだ道は、現実へと帰る一本道だった。それを進んだ先には、彼女の生きる世界、人間の虚栄を礎にした世界が広がっている。


 彼女はその光を感じて、両目の瞼を静かに上げた。「ここ、は?」の疑問に答えられる者は、誰もいない。天使様の力を受けていなかった皇帝も、眼前の光景にただ驚くばかりで精一杯だった。


 皇帝は自分の席から立ち上がり、不安な顔で大広間の中を見渡した。


「なんだ? これは……」


 穏健派の貴族達も、その光景に驚いている。


「全員」


 楽器の演奏を止めた音楽隊も、それに続いた。


「おかしくなっている?」


 彼らは訳も分からぬまま、皇帝派の貴族達をじっと見はじめた。皇帝派の貴族達は虚ろな目で、その場に立ちつづけている。まるで心の邪念を打ち砕かれたように、「あははは」と不気味に笑う者以外は、大広間の壁を見つめていたり、あるいは、近くの相手をぼうっと眺めていたり、それらに混じっているカミュ夫妻も(余程良い夢を見ているのか)幸せそうな顔で、大広間の天井を見上げていた。


 レウードはそれの光景を無視して、皇帝の前に歩み寄った。


「彼らは、夢を見ているんです」


「夢?」と驚いたのは、皇帝だけではない。それを眺めていた穏健派の貴族達、ビクトリナの前に歩み寄ろうとしたタヌホでさえも、その動きをすっかり忘れて、彼の言葉に目を見開いていた。「起きながら、夢を見ているのですか?」


 ジエルは天使様の前に歩み寄り、真剣な顔でその答えを待った。


 天使様の答えは、「そうです」だった。


「自分にとって都合の良い夢を。シュベールさんも知っていますよね? 天使の力は」


てんに生まれし者のすべ。まさか、これが!」


「お察しの通り。これが、俺の天術です。相手に心地よい夢を見させる。まあ、単純に眠らせる事だけもできますが。俺の夢には、があります。今回は、その力を存分に使いました。彼らに『中毒性のある夢』を見させる事で。彼らは今、夢の世界を楽しんでいます。自分の望んだ物がすべて手に入る、素晴らしい世界を。そこから抜け出すのは……不可能ではありませんが、たぶん無理でしょうね? 夢の中で得られる快楽は、現実のそれを遙かに凌駕しますから。『出たい』と言う気持ちすら起さないでしょう。彼らは」


「だ、黙れ!」


 皇帝は彼の言葉を遮り、相手の目を思いきり睨み付けた。


「何が夢の世界だ! この人殺しめ! これでは……」


「『いつか死んでしまう』って?」


「そうでしょう? 夢の世界に浸っていたら、いずれは……」


 レウードは、彼の不安に首を振った。


「その心配は、ありません。彼らは、これからも生きて行けます」


「なっ!」


 皇帝は彼の話にホッとしたが、それもすぐに消えてしまった。


「ど、どう言う理屈で?」


「理屈なんてありません。ただ、なんです。彼らは今も言った通り、これからも生きて行ける。『食べる事』と、『出す事』と、『寝る事』しか考えられませんが。日常の生活で得た習慣は」


「なるほど。それは、覚えているわけですか?」


「はい。だから自分で服を着たり、その日の食事を取ったり、そう言う事は問題ないんです。彼らは自分で、自分の世話ができる。今までは、他人に任せていたそれを。貴方も」


「……『はい』と頷くとお思いか?」


「いいえ、まったく。貴方の事だ。こんな事は決して、受け入れないでしょう?」


 無言の返事……だが、その沈黙には確かな答えがあった。


「くっ」


 皇帝は恨めしい目で、眼前の少年をまた睨み付けた。


「いつからです?」


「はい?」


「いつから、私の……」


 レウードは、メリテの方に目をやった。


「彼が俺を仕留め損ねた時から。彼は命懸けで、俺の事を助けてくれました。貴方は、その勝負に負けたんです。妙な薬に頼っただけで、自分では何もしない。彼との勝負に負けるのも当然です。彼は自分の力を使い、貴方は他人の力に頼った。そこには、天と地程の差がある。自分の力で事を成そうとしない人は」


「だ、黙れ!」


 皇帝はメリテの顔を忌々しく見つめ、そしてまた、眼前の少年に視線を戻した。


「お前に何が分かる! 私は特別な、そう! 天から選ばれた人間なのだ! 生まれながらの統治者でもあり」


 彼の剣が抜かれたのは、それからすぐの事である。


「私以外は、ふふふ。生きるに値しない虫ケラばかりだ。お前も、お前も、お前も、みんな! 私は、そう言う風に教えられて来た。自分の親や先祖達から、ずっと。なら、私だけを責めるのは不公平ではないですか? 責めるのなら、そいつらの事も責めろ。私だけに責任を負わせるんじゃない!」


 ……かわいそう。それを聞いた人々は、一人の例外もなくそう思った。彼は一国のあるじでありながら、その内面は乞食よりも貧しかった。


 イアラは彼の前に走り寄って、その顔を思いきり睨み付けた。


「最低」


「なに?」


「あなたは、本当に最低な人間です! 親や先祖達の力に甘えて、その本質をまるで見ようとしない。私だけに責任を負わせるな? ふざけないで下さい! あなたの所為で、一体どれだけの人が苦しんだか? 私は、あなたの事を許しません。あなたが生きている限り、ずっと。あなたは、みんなに償うべきです。あなたの親や先祖達が犯した罪も含めて」


「五月蠅い! そんな罪など」


 穏健派の貴族達は、彼の周りを取り込んだ。


「いいえ、償うべきです。貴方には、その責任がある」


 皇帝は彼らの言葉に苛立ったが、その頭は絶えず逃げる機会を窺っていた。飼い犬達からを立てられている彼でも、この状況はやはり辛いモノがある。彼らの命を一人も損なわず、ここから素早く逃げ出すには。「くっ」

 

 彼は周りの動きをじっと見ていたが、そこに僅かな隙が生じると、その隙を見事に突いて、今の場所からサッと走り出した。

 

 穏健派の貴族達は、その動きに怯んだ。それを見ていたジエルやアイリ達も。冷静な顔で腰の鞘から剣を抜いたのは、彼の動きに怯まなかったメリテだけだった。

 

 メリテは父親の「殺すな!」に渋々頷きながらも、同胞達の間を擦り抜けて、皇帝の後を素早く追い掛けはじめた。レウードもそれに続いて、大広間の中から出て行った。二人は脚の速いメリテを前に、皇帝の後を追い掛けつづけた。

 

 メリテは、皇帝に追い着いた。


「待て、逃がすか!」


 皇帝は、その声に振り返った。


「くっ! 小童こわっぱが」

 

 メリテは、眼前の男に斬り掛かった。父の戒めはあったものの、その剣には殺気がやはり籠もっている。天使様と戦った時とは、比べ物にならない程の殺気が。

 

 メリテは相手の剣に跳ね返された時も、その体勢を素早く立て直して、眼前の男にまた斬り掛かった。眼前の男はやはり……いや、途轍もなく強い。自分の剣を防ぐ動きにも、そこから反撃に転じる動きにも、すべてに無駄がなく、その体躯からは信じられない程の敏捷性を見せている。まるで甲鉄の熊を思わせるように……その一撃一撃にも、相手の殺気を削ぐ勢い、「死」の予感を過ぎらせる雰囲気が漂っていた。

 

 メリテはその雰囲気に怯んだが、攻撃の手は決して止めようとはしなかった。ここで止まるわけには、行かない。自分の剣には、。彼が大事に想う人の命も。それらを決して失わないために! しんの強者とは、「弱者」を虐げる者でなく、自分よりも格上の相手、決して負けられない相手に挑んで行く者だ。

 

 メリテは相手の反撃を何とか捌きながらも、眼前の男にまた斬り掛かろうとしたが……。その時宜をたぶん、見誤ったのだろう。相手にまた斬り掛かった所までは良かったが、相手にそれをさばかれ、挙げ句は地面に倒れてしまった事で、その動きを完全に封じられてしまった。後に残ったのは、「威圧」と言う恐怖。それから生じる、「死」と言う未来だけだった。


 彼は、その未来に闇を感じた。


 だが、「墜ちちゃダメだ!」

 

 堕天使は、それを許さない。


「自分の光を見失わない限り」


 彼はメリテの作ってくれた隙を活かし、その思いを汲み取って、皇帝に右手の掌を見せた。


「図書室での借りを返します」


「くっ」と睨む皇帝だが、。彼にはもう、それを防ぐ術がなかった。「おの……」


 皇帝は、彼の光に目を見開いた。


 レウードは、その表情に眼光を鋭くした。


「お前も、夢の世界に行け!」


 皇帝は彼の力に抗ったが、最後は結局地面の上に倒れてしまった。とても人々に圧政を強いてきた人とは思えない、呆気ない最後。堕天使の光が消えた頃には、皇帝派の貴族達と同様(どんな夢を見ているのかは分からないが)、起きながらにして夢の世界をさまよっていた。


 レウードはメリテの身体を立たせると、彼と共に皇帝の前まで足を進めた。


 二人は、皇帝の顔を見下ろした。


 レウードは、その笑顔に憐れみを覚えた。


「悲しいな」


「え?」と驚くメリテだが、すぐに「ふん」と落ち着いた。


 メリテは、皇帝の顔を睨み付けた。


「何処が、だよ? 普段は、宮殿の中でふんぞり返っているクセに。今は一人で、地面の上だ」


「それでも、だよ。それでも、やっぱり悲しい」


 二人は互いの根っこが同じであるのを感じつつも、その枝葉はまったく別であるのを感じた。


 レウードは、メリテの目を見つめた。.


「メリテ」


「ん?」


「頼みがある」


「頼み?」


「ああ」


 メリテは彼の顔をしばらく眺めたが、やがて自分の頭を不満げに掻きはじめた。どうやら、彼の頼みを察したらしい。


「分かったよ。『人を呼んで来い』ってね。オレとしては、このまま放って置きたいけど?」

 

 メリテは呆れ顔で溜め息をつきつつ、彼の前から歩き出した。



「ん?」


「ありがとう」

 

 レウードは、彼の言葉に首を振った。


「大広間の時にも言っただろう? 彼を倒したのは、俺じゃない。君の力と、そして、勇気だ」


「フッ」と笑ったメリテだが、その目には少しだけ光る物があった。「それでも」


 メリテは自分の後ろを振り向かないまま、宮殿までの道を歩きつづけた。


「ありがとう……」


 レウードは「それ」に微笑んだが、彼の姿が見えなくなると、皇帝の方にまた振り返って、その顔を悲しげに見下ろしはじめた。


「普段の貴方はきっと、宮殿のベッドで寝ているんでしょうね? ベッドの感触はたぶん、最高でしょう? でも、ここはベッドじゃありません。貴方がずっと虐げて来た、国の人達が造った道路です。道路の感触は、冷たいでしょう? それが『世界』って言うヤツです」


 レウードは、メリテが戻ってくるのを待った。


 メリテは、すぐに戻って来た。自分の大事な人達はもちろん、穏健派の貴族達や、その召使い達、挙げ句は皇帝派の貴族が連れて来た召使いや奴隷達すらも連れて。彼は皇帝の前に彼らを導き、彼らが「それ」を眺めはじめた所で、レウードの隣にまた並びはじめた。


 穏健派の貴族達は、眼前の光景に歓喜した。


「やった、やったぞ! 俺達は、とうとう」


 他の人々も、声を上げた。特に皇帝派の貴族が連れて来た奴隷達は、眼前に貴族がいるのも忘れて、互いの身体を抱き合っては、その温もりにただひたすら泣きつづけた。


「自由を手に入れたんだ! これから新しい時代がはじまる!」


 ジエルは、二人の少年に頭を下げた。


「二人とも、本当にありがとう」


 二人はその言葉に顔を見合ったが、すぐに「いえ」と笑い出した。


 メリテは、父親の前に立った。


「頭を上げて下さい、父上」


 レウードも、その後に続いた。


「俺達はただ、自分のできる事をしただけです」


 二人は眼前の男に微笑むと、穏やかな顔でまた互いの顔を見合った。


 ジエルは、その光景を微笑ましく思った。


「天使様」


「はい?」


「貴方は確か、『住む場所が無い』と困っていらっしゃいましたね? それでしたら、私の屋敷にいらっしゃいませんか? 我が息子もお世話になったようですし。貴方とは」


「はい! 俺も、話したい事がたくさんあります。自分の事も、そして、これからの事も……」


 彼らは周りの奴隷達が思い思いに歩き出す姿を見送ると、穏健派の貴族達に皇帝を任せて(彼らには、「皇帝の事は決して、殺さないように」と命じた)、自分達はロハ家の当主を先頭に、その屋敷に向かって歩き出した。ビクトリナが両親の姿に涙を流したのは、彼らが歩き出してからしばらく経った時だった。


 ビクトリナは両目の涙を浮かべたまま、両親の身体を必死に揺らしつづけたが、何度も揺らしても、両親の身体は「それ」にまったく応えなかった。二人とも変わらず、部屋の天井を見上げている。幸せそうな顔で、夢の世界を「これでもか」と楽しんでいた。

 

 ビクトリナは両親の身体から手を放し、大広間の床を悔しげに殴りはじめた。


 タヌホは、その光景に胸を痛めた。彼女が漏らす嗚咽にも、その嗚咽が響く大広間にも。それらのすべてが……いや、すべてが悲しいわけでない。その裏側にはそう、彼女の不幸を見下ろす自分が立っている。「これは、当然の報いなのだ」と。表には出て来なかったが、それは確かに、タヌホの裏にある闇だった。「自分は、悪くない」と思った心も同じ。「彼女の事を救おうとしない自分は……大広間の床を何度も殴って、『えんえん』と泣きつづける主人を助けようとしない自分は、決して悪くないのだ」と。

 

 タヌホは(無意識に)、大広間の中から出て行こうとした。大広間の外には、無限の自由が待っている。好きな時間に寝て、好きな時間に起きられる自由が。そこにはもう、彼女を縛るモノは無い。彼女の尊厳を踏みにじるモノも。これからは、自分のために学んだ知識をすべて、自分のために使えるのだ。誰のためでもなく、自分だけのために。


 でも……。「うっ」


 何故だろう? 自分の両脚が動いてくれない。心の表面では「自由」を求めているのに、その裏側では「ダメよ」と抑えられている。どんなに酷い人だって、主人である事には変わりはない。あなたは、自分の役目を放棄するつもりなの? 「主人のために尽くす」と言う、それがあなたの存在意義じゃない?

 

 タヌホは、その場に泣き崩れた。


「どうして? わたしは」

 

 奴隷なんかに生まれたのだろう? 自分だって、貴族の家に生まれたかった。貴族の上に生まれていたら、こんな事……。


「うっ、ううう」


 タヌホは、自分の頭を掻き毟った。


「さいてい」


「本当よ!」


「え?」


 タヌホは、ビクトリナの方に目をやった。


 ビクトリナは(いつの間に立ったのだろう?)、床の上から立ち上がっていた。


「こうなったのは全部、あの使だわ!」

 

 ビクトリナはタヌホの前に行き、その腕を強引に引っ張った。


「帰るわよ?」


「え? 『帰る』って、何処に?」


「くっ! あたしの屋敷に決まっているじゃない? 連れて来た奴隷達もみんな、逃げちゃったんだから。誰があたしの世話をするの? ええ? あんたしかいないじゃない? あんたが居なくなったら、あたしは」


 ……ああ、やっぱり。自分は、逃げられないんだ。そう確認するように、タヌホは「分かりました」と頷いた。

 

 二人はビクトリナを先頭に、応接間の中から出て行った。


 

 それからの日々は本当に慌ただしかったが、目標がある人間の常として、それらの時間はあっと言う間に過ぎてしまった。シュベール・ガルバの帝政が倒れてから数週間後。帝国の政権は、穏健派(正確には、元穏健派だが)の貴族達に移されていた。歴史の転換がひっそりと行われるように。

 彼らはロハ家の当主を頭目として、それまでの社会から悪徳を一つずつ取り除いていた。実に気が遠くなるような作業。その陣頭指揮を任されたジエルも、最初は意気揚揚としていたが、最近ではその疲れを隠せないでいた。「まあ、仕方ない」の言葉も、それを表す口癖となっている。「今が、その頑張り時だからな」

 

 彼は穏やかに、でも何処か辛そうに、自分の仕事を黙々とやりつづけた。

 

 人々は、彼の働きに感謝した。「我々のために、ここまで尽くしてくれるのか?」と。その中には、「彼をどうか皇帝に、我々の新たな導き手に」と言う声もあったが、肝心の彼は断固として、それらの言葉に「分かった」と頷かなかった。

 

 私は、「皇帝」の器ではない。その器を得る資格も。私が私として輝けるのは……私の父がそうであったたように、お前達がいてこそなのだ。


 


 人々は、彼の思想に肩を落とした。彼のような人が何故、皇帝にならないのか? 今の帝国には、彼のような人が必要なのに。

 

 人々は彼の政治に感謝する一方、その思いには疑問を抱いていた。橋の手摺りに座って、その空気を感じていた少年も。

 

 メリテは隣の天使様に目をやり、そしてまた、正面の景色に向き直った。

 

 レウードは、彼の横顔に微笑んだ。


「君の父さんは、本当に立派な人だな。ほとんど寝ないで働いている」


「ああ。だから、オレは悔しい。父さんのような人が、どうして? 父さんは」


「穏健派だからね。だから、そんなモノは求めない。指導者に最も向いている人は、その利益を一番に求めない人だ。君の父さんには、それがある。だから、みんな従うんだよ。『この人なら大丈夫』ってさ。それに」


「それに?」


「彼の事も殺さなかった。君にも『殺すな』と言って」


「ああ、でも……。お前や父さんの気持ちを否定するつもりはないけど。オレなら」


「殺して何になる? 君の父さんも、言っていたじゃないか?」


「う、ううう」


 メリテは、父の言葉を思い返した。


 それは、今から数週間前。彼が天使様と自分の屋敷に帰って来た時である。


 メリテは父親の前に立って、その目を真っ直ぐに見つめた。


「他の奴らは、どうでも良いとして。アイツの事はやっぱり、殺して置くべきです。アイツは言わば、帝国の因習そのモノだ。アイツの命が続いている限り、またいつか!」


「それでも……。私は、陛下の命を生かしつづけるよ? 人を殺して得た平和など所詮、偽りの平和でしかない。どんな命であっても」


 イアラが、二人の会話に割り込んだ。


「旦那様は、陛下にも『その価値はある』と思いますか?」


「『ある』と思うよ。陛下は、人の死に涙を流せる人だったからな」


 メリテは、その言葉に眉を上げた。


「どう言う意味ですか?」


 ジエルは、その質問に微笑んだ。


「お前も知っているだろう? 陛下のご家族は、皆」


「病で死んだんでしょう? ふん! 良い気味だ。自国の民をあんなに苦しめて置いて。きっと、その罰が当たったんです」


「そうだな。私も、そう思ったよ」


「最初は?」


「ああ、最初は。しかし」


 ジエルは何かを睨んだが、すぐにまた「ニコッ」と笑った。


「『人間』と言うのは、不思議でね? あれ程憎んでいた筈なのに、その相手が悲しんでいる姿を見ると……。それに胸を痛めてしまう。陛下はね、『愛』に不器用な人なのだ。我々や普通の人と違って。陛下は『権力』の呪いに、『情』を縛られていた人なのだ。本当なら、人並みに持てた筈のそれを。陛下は……ある視点から見れば、人の業に犯された人間、悪魔の囁きに唆された被害者なのだ。人が生きるのに必要な徳を奪われた被害者。被害者の不幸は、何としても癒さなければならない。だから私は、陛下の事を『救いたい』と思った。『それが当然だ』と、『人が人として生きる意味なのだ』と。私はもちろん、今でも陛下の事は許せない。陛下の犯した罪を。だがそれでも、私は陛下を愛そうと思う。その罪を受け入れて。それが、私の償いだ」


「償い、か」と囁いたのは、回想のメリテでない。現在のメリテだ。「オレは……」


 メリテは、自分の足下に目を落とした。


「何か罪を犯したんだろうか?」


「人を殺そうとした。その人がたとえ、国の人々を苦しめる極悪人だったとしても。相手の命を奪うのは、どんな犯罪にも勝る大罪だよ。命は森羅万象、この世のすべてを支える根幹だからね。君は、それを奪おうとした」


「……オレは、アイツと同じかな?」


「かも知れない。かも知れないけど、『それ』を償う事はできる」


 メリテはその言葉を聞いて、隣の少年にまた視線を移した。


「償う事?」


「ああ」


「それは、どう言う風に?」


 レウードは、その疑問に答えなかった。まるで「それが答えだ」と言わんばかりに。


「メリテ」


「なんだ?」


「俺は、旅に出るよ」


「旅に?」


「ああ。元々、こっちの住人じゃないし。それに俺も罪人だからさ。自分の罪は、自分の足で償わないと」


 レウードは、何処か悲しげに笑った。


「君は、どうする?」


「え?」


「ずっと、ここにいるか? それとも?」


「オレ、は……」


 メリテは誘いの返事に迷ったが、イアラが自分の前に現れると、その返事を一旦忘れて、彼女の顔に視線を移した。


 イアラは、二人の少年に微笑んだ。


「捜しましたよ、二人とも。奥様から伝言を頼まれました。『お昼ご飯ができたから、早く帰って来なさい』って」


「そうか」と応えたのは、橋の手摺りから離れたメリテだった。「教えてくれてありがとう。でも」


 メリテは、レウードの顔をチラッと見た。


「悪い。しばらく一人で……いや、お前も一緒に来てくれないか? 色々と話したい事がある」


 イアラはその言葉に驚いたが、レウードの笑みを見て、そこからメリテの意図を何となく察した。


「分かりました。あなたが、それを望むなら。レウードさん」


 レウードも、彼女の意図を察した。「うん」と頷いたのが、その証拠。「分かった。アイリさんにも、そう伝えて置くよ」


 レウードは「ニコッ」と笑い、ロハ家の屋敷に向かって歩き出した。


 イアラはその背中に頭を下げて、メリテの顔に視線を移し、彼と連れ立って町の中を歩きはじめた。


 二人は、町の中を黙々と歩きつづけた。


 イアラは横目で、メリテの横顔を見た。


「それで、何を悩んでいるんですか?」


 メリテは、その質問に眉を寄せた。


、だけどな? オレが、『この町から出て行く』と言ったら? お前は、どうする?」


 沈黙は一瞬だけ、その答えはすぐに微笑んだ。


「そんなの」


 イアラは何も迷いもなく、彼の手を握った。


「決まっているじゃないですか? 私は、あなたの世話係ですよ?」


 最高の返事だった。

 思わず「そうか」と笑ってしまう程に。


 メリテは彼女の顔から視線を逸らすと、彼女と連れ立って、橋(先程の橋とは、別の橋だ)の下に降りて行った。橋の下には……何故居るのかは分からないが、ビクトリナとタヌホの姿があった。まるで食い扶持を失った奉公人のように。事実、二人の身なりはかなり汚れていた。元々の身なりが粗末なタヌホはそれ程でもないが、ビクトリナの方はとにかく酷い。豪奢な衣装が「それ」を僅かに誤魔化していたが、その表面に付いている汚れからは、彼女の味わった屈辱、苦悩、辛酸が明瞭に感じられた。乱れに乱れた黒髪からも、その感情がひしひしと伝わって来る。

 

 彼女は地面の上に座り、両脚の間に頭を埋める事で、その辛い現実から何とか目を逸らそうとしているようだった。彼女の周りでオロオロしているタヌホも、それに対して困り果てている様子である。

 

 二人はその様子をしばらく見ていたが、イアラの方は「それ」がどうしても放って置けないらしく、メリテの制止を振り切って、二人の方にそっと歩み寄った。


「ビクトリナさん」と話し掛けて、彼女が反応したのは、数秒後の事。「あなたは、?」

 

 イアラは悲しげな顔で、彼女の顔を見下ろした。

 

 ビクトリナは、その視線に苛立った。こんな時でも、この子の瞳は美しい。


「まあね。あれは、だったから。すぐに覚めてしまったわ。あんなモノ……くっ、何が天使様よ? あたしの家族をみんな、無茶苦茶にして。あんたには、分からないでしょう? 家に帰っても独りボッチ。町の中ですら堂々と歩けない。あたしは、あの堕天使に大事な物を……」


 全部、と言わなかったのは、彼女なりの抵抗だったのかも知れない。「自分はまだ、一番下には墜ちていない」と。薄汚れても尚、身に纏っているその衣服は、それを表す意思表示かも知れなかった。「服の蓄えも無くなっちゃって。残っているのは、これ一つだけ」


 ビクトリナは瞳の光を消して、ただ口だけを笑わせた。


「どう? 今のあたしは」


 穢いでしょう? と、彼女は言った。


「今は、あんたの方が貴族に見えるわ」


 ビクトリナは自分の身なりを笑い、両脚の間にまた頭を埋めた。


 イアラは、その姿に胸を締めつけられた。


「ビクトリナさ」


「同情なら止めてよ!」


 ビクトリナは地面の上から立ち上がり、鋭い目で眼前の少女を睨み付けた。


「そう言うのが一番嫌い! 自分だけは、綺麗な場所に立って」


 次は、タヌホの顔も睨み付けた。


「あんたも、よ! あたしの食事も満足に作れないで。お陰でずっと、腹ぺこだわ! 今日の夕食だって、パンと簡単なスープだけだったし。ホント、何年奴隷やっているのかしら? 少しは、恥ずかしいと思わないの? ええ?」


 タヌホはその言葉に脅えるあまり、慌てて彼女に頭を下げた。


「も、もうしわけ」


 ビクトリナは、彼女の謝罪を無視した。


「まあ、そんな事より。諸悪の根源はやっぱり、あの堕天使だわ。あいつさえ、現れなかったら。あたしの家族も、あんな風にならなくて済んだもの。お父様は今でもご健在で、お母様も大好きなお酒に酔い痴れている。そして……くっ。あいつは今、何処にいるの?」


 メリテはその声を聞いて、彼女の前に歩み寄った。


「そんな事を聞いて、どうするつもりだ?」


 ビクトリナは彼の登場に驚いたが、それも一瞬の内に消え失せてしまった。


「決まっているじゃない? 殺しに行くのよ! 短剣の一本でもあれば」


「止めておけ」


 メリテは、彼女の思考に溜め息をついた。


「そんな物じゃ、レウードは殺せない。お前は、武術の達人でも何でもないだろう? それに」


「な、なによ?」


「お前の行為はたぶん、無駄に終わると思う」


「どうして?」


「レウードは、この町から出て行くんだ。『』と言って」


「自分の罪を償う?」


「ああ」


 メリテは、彼女の下僕に目をやった。「ここからは、お前に対する言葉でもあるのだ」と。


「オレも、この町から出て行く。ここで学べる事もたくさんあるだろうが、世界は広い。オレの知らない事は……それこそ、山のようにある。オレはもっと、凄い男になりたいんだ。憎んだ相手の罪すら受け入れるような、凄い男に。お前は、どうする?」


「え?」


「このまま、そいつにへいこらしているのか?」


「わたしは、その……」

 

 タヌホは主人の指示を仰ごうとしたが、イアラに「ダメよ」と止められてしまった。

 

 イアラは優しげな顔で、彼女の瞳に微笑んだ。


「彼女に聞いちゃダメ。自分の頭で考えなきゃ。あなたにも、あなたの意思があるんでしょう?」


 タヌホは、その言葉に「ハッ」とした。自分には、自分の意思がある。あの時、「自由の世界」を求めた意思が。あそこから逃げ出せなかった後悔が。それらが一つの形になって、彼女の中に確かな思いを生み出した。自分は決して、彼女の下僕などでない。自分の意思を持った、一人の人間だ。「奴隷」と言う身分は、「それ」を誤魔化すだけのまやかしでしかない。

 

 タヌホは、イアラの目を見返した。これを手にする時宜は、今しかない。


「わたしも、行きたいです」


「なっ!」と驚いたのはもちろん、ビクトリナ。「ちょっと! 何を勝手に」


 ビクトリナは彼女の腕を掴もうとしたが、彼女にひょいっと避けられてしまった。


 タヌホは、眼前の少女に頭を下げた。


「ごめんなさい。あなたのお父さんに買われてからずっと、わたしはこの苦しみに耐えてきました。本が好きなあなたのために字も覚えた。すべては、主人のあなたに尽くすために。けどもう、限界です。わたしは、あなたのお世話に疲れました。だからもう、自由にして下さい」

 

 ビクトリナは、言葉を失った。彼女の裏切りが許せなかったからではない。自分がこれで、になったからだ。「下僕の彼女だけは決して、自分の事を独りにしない」と思っていたのに。

 

 彼女は瞳の光を失ったまま、地面の上にまた座り込んでしまった。

 

 二人の少女は、その姿に胸を締めつけられた。メリテもしばらくは「それ」を眺めていたが、彼女の顔から視線を逸らすと、真面目な顔で二人の歩みを促した。

 

 メリテはその足跡越しに、幼馴染の顔を推し測った。


「レウードには、伝えて置く。『』ってな。それに加わるかどうかは、お前の気持ち次第だ」

 

 メリテは、彼女の前から離れた。イアラとタヌホも、その後に続いた。

 

 三人は彼女の「皆、大嫌い!」に胸を痛めながら、ロハ家の屋敷に向かって歩きつづけた。


 

 ロハ家の人々がまず行った事は、タヌホの歓迎である。

 彼らは彼女の境遇に心から同情し、彼女が好きそうな物、年頃の少女が好みそうな物を思う存分に振る舞った。

 

 タヌホはその振る舞いにオロオロしたが、ジエルやアイリ達の厚意、挙げ句は召使い達の温かい言葉も相まって、馬鹿騒ぎこそしなかったものの、それに近い浮き浮き気分を覚えはじめた。彼らは、奴隷としての自分ではなく、一人の客人として自分の事を持てなしている。自分の両隣に座った美少年達も……基本は純情少女である彼女にとっては、少々刺激的な二人(片方には、恋人がいたが)、血管の熱を一気に上げる激甘な果実だった。「レウードのそれは、彼女の心を優しく包み込む。一方のメリテは、不器用ながらも彼女の心と正面から向き合う」と言った感じに。各々が各々の優しさを持っていたが、少女の胸を高鳴らせるには、充分過ぎる程の威力があった。……自分は今、人生で最も幸せな時間を過ごしている。

 

 タヌホは時折思い出す主人達の言葉、「奴隷のクセに口答えするんじゃない!」や「お前は黙って、従っていれば良いんだ!」と言った罵倒に俯く事はあっても、基本はレウードとの会話を楽しんだり、メリテとのやり取りに胸をときめかせたりしていた。

 

 イアラはその光景を微笑ましく見ていたが、メリテがロハ夫妻に旅の話をはじめると、その光景に「ハッ」として、自分の席から勢いよく立ち上がった。


「あ、あの、すいません」


「なに?」と、アイリが応えた。「どうしたの?」


 アイリは彼女の態度に首を傾げたが、息子の話から察して、彼女に「クスッ」と微笑みかけた。


「旅の事?」


「はい。自分の両親には一応、言って置こうと思って」


「そう」


 アイリは「ニコッ」と笑って、彼女の前に歩み寄った。


「今日はもう、日が落ちたから。話は、明日の昼にしなさい」


「はい」


 イアラも「ニコッ」と笑って、明日が来るのを待った。明日は、すぐにやって来た。昨夜のアレがあまりに楽しかったので、普段と同じ時間に起きたイアラ以外は、その時間の速さに唯々苦笑していた。タヌホもレウードの肩に頭(いつの間にか、そうして寝てしまったらしい)を乗せていていた事で、少々気まずい(正確には、「気恥ずかしい」と言った方が正しいかも知れない)雰囲気になっている。


 イアラはそれらの光景に微笑み、それからアイリに断わりを入れて(父の仕事柄、屋敷に戻るのは少し遅くなるかも知れない)、自分の家に向かった。家の中では母親が仕事に勤しんでいたが、父親も何かの用があったらしく、彼女の帰りと重なるように、玄関先で鉢合わせになった。正に「ビックリ仰天」の事態である。これには、流石のイアラも驚かざるを得なかった。「こう言う事もあるんだね」

 

 彼女は父親に帰宅の意図を話し、それから母親にもその話をして、母親が用意したお茶を美味しく飲みはじめた。

 

 父親は、彼女の正面に座った。


「それにしても」


「ん?」


「『この町から出て行く』って? これはまた、急な話だな?」


「お許しはもう、頂いたの?」と、母親が尋ねる。「まさか、勝手に出て行こうなんて」


 母親は不安な顔で、娘の顔を見た。


 娘は、その視線に首を振った。


「大丈夫。お許しはもう、頂いているから。それに、これはメリテ君から言われた事なんだよ? 私は、彼の世話係。だからもちろん、付いて行く。それが私の仕事だから」


「そ、そう。でも」


 イアラはその「でも」から、母親が言わんとした事を察した。


「費用は、心配しなくて良い。お金は(あくまで旅の出発費用だけだが)、彼の両親が持ってくれます。昨日の夜にそう話して貰ったから。私のお給金も、そこに含まれている」


 母親は、その話にホッとした。「それなら良かった」と。そう内心で思った彼女だが、すぐにまた、別の不安が現れた。母親が母親である故の、平凡な母親の抱く不安が表れたのである。彼女はその不安を露わにして、彼女の身体をぐっと抱きしめた。


「あなたが居なくなってしまうのは正直、淋しいわ。本当はもっと」


「……お母さん。ごめ」


「良いの。あなたは、何も悪くない。自分の考えを押し付けちゃダメよね? 考えなきゃならないのは、イアラ自身だもの」


 母親は、娘の身体を放した。


「頑張りなさい。あなたは、みんなの癒しになる。その微笑みを見るだけで。あなたは、私達の誇りよ?」


「そんな。二人こそ、私の誇りです」


 父親は娘の言葉に微笑みつつ、彼女の前に立った。


「出発は、いつだい?」


「それはまだ。でも、近いうちに」


「そうか。それじゃ、出発の時は見送らないとね? お前とお前の大事な仲間達の無事を祈るために」


「ありがとう、お父さん」


 イアラは「ニコッ」と笑って、ロハ家の屋敷に帰った。



 それから数日後、正確には数日後の朝だが。旅の出発費用を使い、旅に必要な諸々を揃えた少年、少女達は、少年達を前、少女達をその後ろにして、町の道路を進み、カミュ家の玄関まで向かった。玄関の前は……の前に、その内装を先に話した方が良いだろう。屋敷の内装は、見るも無惨な状態になっていた。かつての天国は地獄に変わり、その表面を覆っていた虚栄も剥げて、今では「それがあった」と言う残滓、カミュ家の没落だけが残っている。


 ……だ。


 平民であるイアラや、元奴隷であるタヌホはそれ程でもなかったが、同じ貴族であるメリテや、貴族の世界を知るレウードには、その言葉が胸に強く響いていた。彼女は貴族が抱える闇、栄華の短剣に刺されてしまったのだ。埃が積もった床の上からも、その切れ味が明瞭に窺える。

 

 メリテはその傷を無視して、自分の幼馴染(たぶん、屋敷の中にいるだろう)に呼び掛けた。


「おーい、ビクトリナ。居るかー? 居るなら、『居る』って返事しろ」


 ビクトリナは、彼の声に応えなかった。それが今の彼女にできる、最大の抵抗だったからだ。自分の前に置かれた荷物、を睨んでも、その荷物には決して手を伸ばそうとはしない。それは彼女の、文字通りの敗北を意味していたからだ。……ここで「それ」に手を伸ばしたら、自分は自分の尊厳を失ってしまう。彼女が尚も着つづけているは、眼前の荷物に惑わされないためのお守りだった。


 でも……。「うるさい」

 

 その一言には、「それ」に縋ろうとする彼女の光が感じられた。「これは、幼馴染の親切。もっと言えば、天使様の慈悲である」と。メリテが自分の事を誘ったのは……彼自身の優しさもあったかも知れないが、その根底には天使様、レウード・ウィルの意思があったからだ。レウード・ウィルは決して、自分の事も見捨てない。人間として最低な事をして来た(最近、そう思うようになった)、自分の事も。だからこうして、自分にも手を差し伸べてくれた。本当は見たくもないであろう玄関の先から、有りっ丈の善意を込めて。

 

 ビクトリナはその善意に……これも、彼女の意地なのだろう。素直になれなかった。


「うっ、ううう」


 メリテは、屋敷の無音に眉を潜めた。


「聞こえないのか?」


 イアラは、彼の肩に手を置いた。とても残念そうな顔で。


「仕方ありません。『これ』が彼女の答えなんです」


「チッ」と舌打ちするメリテだが、その顔はやはり暗かった。「面倒くさい奴」


 メリテは不満げな顔で、屋敷の中をまた睨み付けた。


で待っているぞ? その気があるなら、さっさと来い」


 ビクトリナはやはり、その声にも動かなかった。


 メリテは周りの足を促し、それらと連れ立って、町の凱旋門に向かった。凱旋門の前では、彼らの両親や召使い達が待っている。彼らは身分の垣根を越えて、ただ純粋に、あるいは、子どもの巣立ちを喜ぶように、彼らの到着を「今か今か」と待っていた。


 四人はその光景に胸を打たれたが、イアラだけは(先程の言葉があったとは言え)「彼女の事」がやはり気にしていたらしく、複雑な顔でカミュ家の屋敷がある方を振り返っていた。


 四人の保護者、あるいは、召使い達は、眼前の彼らに微笑んだ。「行ってらっしゃい。ちゃんとご飯を食べるのよ?」の言葉にも、その微笑みが浮かんでいる。彼らは息子の頬を撫でたり、娘の身体を抱きしめたりして、彼らの成長を願いつつ、その無事を心から祈っていた。


 四人は、彼らの愛情を若干照れ臭く思った。イアラが「分かっています」と微笑んだのは、ビクトリナが「うっうう」と唸ったのとほぼ同時。二人は同じ少年を愛しながら、その根幹にはまったく別……正に「正反対」と言って良いだろう。「明」と「暗」の感情を抱いていた。平民の少女は「明」で、元貴族の少女は「暗」。

 

 ビクトリナはその暗に悶えながら、自分のこれからに頭を抱えつづけた。


「あたしは、一体」


 どうすれば良いのだろう? 分からない、分からない。何度考えも、分からない。自分の中にあるのは……自分の中にあるのは? 確かに真っ暗な闇だ。真っ暗な闇だけれど、その先には僅かな光明が差している。彼女の瞳を蘇らせ、眼前の荷物に意識を戻させる光明が。光明は彼女に優しく微笑み、その耳元にそっと囁いている。……レウードは、この町から出て行くんだ。「」と言って。


 ビクトリナは、その声に立ち上がった。彼の言葉に促されたわけではない。ただ「償い」と言う言葉に心を動かされただけだ。自分の罪を償おうとしたわけでもなく、その償いに全力を注ごうとしたわけでもなく。そこから聞こえる不思議な音色が、彼女に生きる活力を与えたのだ。眼前の荷物に手を伸ばし、屋敷の中から飛び出す動きにも、まるで迷いがない。

 

 ビクトリナは何度も転びそうになりながらも、「それ」が生きる事、身体中から溢れる汗にも心地よさを感じながら、町の凱旋門を目指して真っ直ぐに走りつづけた。凱旋門の前では幸か不幸か、メリテ達がまだ自分の両親や召使い達と話していた。

 

 彼女は乱れた息を必死に抑えて、彼らの前にゆっくりと歩み寄った。


「待ちなさい!」


 四人は、彼女の登場に驚いた。特にメリテは、その乱れた姿に思わず目を見開いてしまった。


「お前……」


 イアラは、彼女の前に歩み寄った。


「必死に追い掛けて来たんですか?」


「そうよ!」


 ビクトリナは、声を荒らげた。それがまるで、「自分の答えだ」と言わんばかりに。


「あんた達と一緒に旅をするために、くっ! 本当は、そんなつもりなんてなかったのに。こうなったのは、全部……」


 堕天使に向けられた視線は、怒りに震えながらも、何処か悲しみに満ちていた。


「あんたの所為よ! あんたが、あんな事をしなければ」


 ビクトリナは、天使様に叫んだ。そうしなければ、自分が壊れてしまう。大事な物が失われてしまう。彼女の叫んだ「あんたの所為」には、その思いが「これでもか」と詰まっていた。


 彼女は息の乱れを必死に抑え、鋭い眼差しで眼前の少年を睨んだ。


 レウードは、その眼光に怯まなかった。彼女の放った叫びにも、まるで怒ろうとしない。彼が彼女に聞かせたモノはたった一つ、ただ「ごめん」と言う一言だった。「許して貰おうなんて思っていないよ。俺の事が憎いなら、死ぬまで憎んでいれば良いんだ。俺は、『それ』を受け入れる」


 レウードは優しげな顔で、眼前の少女にそっと微笑んだ。


 ビクトリナは、その微笑みに胸を打たれた。この感情は決して、「恋」ではない。ましてや、「愛」など言う感情でも。彼女が彼の微笑みから感じたモノは、かつての自分が最も愛していたモノ、「安らぎ」と言うだった。


 彼女は、その安らぎにホッとした。


「ふん! 何が受け入れるよ? 気持ち悪い。堕天使って……ホント、呆れる程に愚かだわ。そんなんだから追放されるのよ」


「アハハッ」の苦笑は決して、嫌みではない。「そう、かもね」


 レウードは、タヌホの顔に目をやった。眼前の元主人に顔を強ばらせている彼女。その身なりは前よりもずっと華やかにはなったが、それでも彼女の髪からは、その美しい茶髪からは、主人に対する畏怖が感じられた。棒のように細い身体や、泉のように澄んだ瞳からも、その先端が僅かに窺える。レウードとの関わりで多少はマシにはなっていたが、彼女はまだ、「奴隷」の後遺症を引きずっているようだった。

 

 レウードは、彼女の瞳に頷いた。今こそ、その呪縛を断ち切れ!


「タヌホさん」


「は、はい!」


「俺は、彼女を受け入れたよ? 皆は? タヌホさんは、どうする? 君はずっと、彼女に苦しめられていたんだよね? 君の許しが無いなら」


「レウード君……」


 タヌホは一歩、ビクトリナの前に近づいた。


さん」

「え?」と思わず驚くビクトリナ。彼女はもう、自分の事を「」とは呼ばないらしい。「な、なによ?」


 ビクトリナは不安な顔で、彼女の目を睨んだ。


 タヌホは、その目に怯まなかった。


「あなたはもう、わたしの主人じゃない」


「うっ! うん……」

 

 タヌホはまた一歩、彼女の前に近づいた。


「わたしはもう、あなたの奴隷じゃない」


「うん……」


 タヌホは彼女のすぐ眼前で止まり、その身体をそっと抱きしめた。


「だからもう、あなたを。『あなた』と『わたし』は、同じ人間だから」


「うん!」


 二人は周りの目を……いや、自分達の身分さえも忘れて、互いの身体を強く抱きしめつづけた。


 大人達は、その光景を喜んだ。それを見ていたメリテやイララ、そして、レウード達も。彼らはタヌホの心、人間の最も美しい美徳が、人間の最も醜い悪徳を許す……いや、「許す」と言う表現は正確ではない。に胸を打たれていた。


 レウードは、その光景に……「自分」と「大天使」を重ねたのは決して、偶然ではない。「バルジン」とももし、こんな風に分かり合えたら? 男に抱かれる趣味はないけれど、握手くらいはしていたかも知れない。「お互いに国の事を思っていた同士」として、ある意味では「一番の理解者」になれたかも知れなかった。正義の隣には必ず、また別の正義が立っている。彼らの正義は、悲しくも相容れない双子のようなモノだった。


 レウードは悲しげな顔で、町の空を見上げた。


「バルジンさんは、俺の資料を読んでくれただろうか?」

 

 その答えはもちろん、分からない。自分の故郷から追放された彼には。だがそれでも彼は……少年は、世界を愛する。この世の森羅万象、ありとあらゆる真理を含めて。そのために揃えた道具は、新しく買った鞄の中にしっかりと入っている。町の市場で買った雑記帳も、それと合わせて買った筆記用具も。後は、「それ」をどう使うかだ。

 

 レウードは、背中の荷物を静かに背負い直した。

 

 メリテは、仲間達の足を促した。


「そろそろ行くか?」


 仲間達は、その言葉に頷いた。


 彼らは天使様を先頭にして、凱旋門から町の外に出て行った。


 大人達は、その背中を見送った。


「淋しいですね?」と、ロハ家の召使い。「やはり、子どもの巣立ちを見送るのは」


 召使いの老人は淋しげな目で、自分の主人に目をやった。


 主人は、その視線に応えなかった。


「確かに。だが、可愛い子には旅をさせろ。自分の目で確かめた世界は、決して嘘を付かない」


「そうですね。かつての我々がそうであったように」


 ジエルは、自分の戦場に向かって歩き出した。


「戻ろう。我々には、我々の成すべき事がある。子どもの夢を潰さぬための」


 他の大人達も、彼に続いて歩き出した。


「はい」


 彼らは大人の責任を背負って、各々の戦場に戻って行った。


 子ども達は、その足音に気づかなかった。彼らの意識はもう、外の世界に向けられている。そこに大人が入る余地はない。彼らが見つめる風景の向こうには、この世の未知がびっしりと詰まっているのだ。


 メリテは「それ」を視界に入れつつ、眼前の堕天使に迷いなく訊いた。


「それで、レウード。これから何処に行くんだ?」


 仲間達は、彼の答えを待った。それを問いかけたメリテ自身も。彼らは真剣な顔で、堕天使の背中を見つめつづけた。堕天使が「それ」に答えたのは、彼が静かに「ふっ」と笑った時だった。


 レウードは自分の夢、「堕天使の夢」を言った。決して叶わない自分の夢を。だがそれでも、諦められない夢の再起を。現実との折り合いをつけながら、その仲間達にそっと打ち明けた。


「自分の力を生かせる場所に。この世界にはきっと、悲しい人が大勢居るだろうから」

 

 仲間達はその夢に驚いたが、やがて「ふっ」と笑い出した。


 メリテは、彼の背中に溜め息をついた。


「しょうがない、付き合ってやるよ。お前の夢は試練であって、同時に希望でもあるからな」


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