第2話 暴力で訴えた正義は、誰の心にも届かない。言葉だけで主張する正義も同じだ
断罪所に着いた正確な時間は、分からない。自分の前にいる男達や、後ろで騒ぐ親子連れ(主に騒いでいるのは、その子ども達だが)の顔を見る限りでは、いつもとそう変わらないように見えるが、傍聴席に座る観客達の数が昨日よりも若干多く見えた事や、普段は彼よりも後に現れる少年達の姿が見えた事から、今日はいつもよりも遅れて断罪所に着いたのが分かった。
彼の気配に偶然気づいた少年達も、その事に少しだけ驚いたのか? それまでは「最初の罪人は、面白い奴かな?」と話していた声を止めて、彼がいつもの定位置に座る光景を、ある者は「クスクス」と笑い、またある者は侮蔑の意味を込めて、沈黙のままに「それ」をじっと眺めはじめた。
少年達は彼の行動を一つ一つ、その表情すらも見逃すまいと、大蛇のような眼差しで、相手の姿を静かに眺めつづけた。
「今日も来ているぜ? アイツ」と、少年の一人。彼は少年達の頭であるらしく、彼が「ニヤリ」と笑うと、周りもそれに倣って「クククッ」と笑ったり、また別の少年も「毎日、毎日、本当に飽きねぇなぁ」と頷いたりした。
「裁判の内容を記録しに来ているんだろう? 鞄の中に、ほら? 今日も持って来ているぜ。愛用のペンと雑記帳をさ。アレって、結構するんだろう? 庶民の俺らには」
「うん、うん、絶対に買えねぇよな? 流石は、貴族のボンボンだぜ。お金の使い方が違う。俺だったら、そんなモンには絶対に使わねぇ。ペンで腹が膨れるわけでもねぇしな。あんなモンは、貴族の娯楽品でしかねぇよ。俺らは、そんなモンは要らねぇ。自分や自分の家族が満足できる飯が買えりゃ、それで充分なんだ」
周りの少年達も、それに頷いた。言葉自体は乱暴かも知れないが、そこにはある種の真理があったからだ。ペンでは、確かに腹は膨れない。自分の意思を書き表す手段、相手に情報を伝える道具の一つとしては使えても、それ自体が食物を生み出す木々、その枝から採れる
商品を育てているのは、農民達だ。その農民達が商人達に商品を卸し、商人達が市場でそれを売る事で、貴族達も己の腹を満たす事ができる。その流れから逸した行為、紙とインクを無駄にする彼の行為は、少年達にはとても腹立たしい……もっと言えば、嫌悪以外の何モノでもなかった。
「自分の服に見合った飯を食え。どんなに地味な服で誤魔化してもさ。漂う雰囲気までは、誤魔化せない。アイツは、由緒正しい貴族様だ。あの目を見れば分かる。アイツは、俺らの事を馬鹿にしているんだよ。『貴族』としての身分からじゃなく、『天使』としての立場からさ。アイツは、俺達の……」
「尊厳?」
「そ、それ。その尊厳を踏みにじっている。とんでもない上から目線でさ。俺には、それが許せない」
「俺も許せねぇ」
「俺も! 『貴族のくせにワガママ言ってんじゃねぇ』って言いたいわ!」
頭の少年は、仲間達の言葉に溜め息をついた。
「やっぱり、『変人』の考える事は分からねぇな?」
「うんうん」とうなずく仲間達だが、一人だけ「でも」と呟いた。
頭の少年は、その言葉に反応した。周りの仲間達も、それに驚いている。彼らは言葉を発した少年、周りよりも少し思慮深げな少年に「でも?」と聞き返した。
少年は仲間達の顔を見返し、また不安げな顔で、近くの彼に視線を戻した。
「どうしてアイツ、毎日記録しに来ているんだ?」
その疑問には、誰も答えられなかった。考えてみれば、確かにおかしい。単なる貴族の道楽なら、あそこまで必死にはならないだろう。毎日、毎日、雑記帳に断罪の内容を書き留めるアレは、まともな天使がやる事とはとても思えなかった。
少年達は、互いの顔を見合った。「分からない」の答えを確かめ合うように。彼らは「普通の天使」だから、「変人の考える事」はいくら考えても分からなかった。
レウードは、彼らの言葉を無視しつづけた。彼の言葉には正直腹が立ったが、それに毎回噛み付いていては、自分の心が疲れる。もっと言えば、「意味がない」と思っていたからだ。彼らの言葉に噛み付いても、返って来るのは残酷な反撃だけ。こちらの考えを否定する、一方的な押し付けだけだ。押し付けは、数が多くなる程強くなる。数が相手よりも劣る状況では、相手の言葉を聞き流す、聞こえていないフリをするのが得策だった。
レウードは雑記帳の頁を開き、右手のペンを握って、断罪の開始を待った。断罪は、すぐに始まった。開始を告げる臣下が、傍聴席の観客達に向かって、「それ」を声高らかに宣言した。その宣言に歓喜する観客達。レウードの周りに座っていた少年達も年相応に叫びだしたが、それに流されないレウードは、顔も視線も冷静に、断罪席の一点をじっと見上げていた。それから目を背けてはいけない一点を、「大天使」と呼ばれた帝国の支配者を。大天使は「あの頃」よりは幾分老けていたが、その眼光は変わりなく、鬼のような形相で、断罪席の中央に立っていた。
レウードは大天使を睨んだが、その隣に立つ青年がふと目に入ると、今までの怒りを忘れて、その青年をじっと眺めはじめた。青年の身分はたぶん、貴族だろう。
彼は、美の擬人化だ。傍聴席から彼を見ていた多くの天使達は、言葉の力を借りる事なく、本能から「それ」を感じ取った。だがレウードは、その本能に眉を寄せていた。彼は確かに美しいが、それが何となく
レウードは(無意識ではあるが)、その雰囲気に思わず震えてしまった。
大天使は青年の顔に目をやり、観客達にマクマートの
大天使は、観客達の声を制した。彼らの気持ちも分かるが、これ以上は審議にも差し支える。審議の時間を遅らせるわけには行かない。
大天使は周りの臣下達に目をやり、審議場に罪人を立たせるよう命じた。
臣下達は、その命に従った。「行け!」の命を受けて、審議場の中央に立たされる罪人ことティティヌス。ティティヌスはアダムスと同じ二十代くらいの青年だったが、顔は青ざめ、身体も痩せ細っていたので、その喋り口調が丁寧でなければ、それこそ小汚い、乞食と間違われても仕方ない男だった。
ティティヌスは悲しげに俯き、大天使の質問にただ
「はい。私がティティヌスで御座います」
大天使は、彼の返答に目を細めた。
「ティティヌスよ。己が罪は、分かっておるな?」
「はい」の返事に覇気がない。「それは、もちろん……。商売の放棄、国家への反逆で御座います。『私の店が流行らないのは、すべて大天使様の所為である』と」
「ほう、それは。貴様は、自分の商才を」
「商才の無さは、自分も良く分かっています。私は、商人には向いていないんだ。帝国が決めた役割にただ従って、くっ。父にもガッカリされましたよ。『どうして、こんな事もできないんだ』って、何度殴られたか分かりません。少年期の思い出はすべて、父の
ティティヌスは、悲しげに笑った。たぶん、自分の不幸を呪って。
「大天使様には、分からないでしょう。貴方は『歩道』の上を、帝国が作った正道を歩けたお方だ。何の悩みも、苦しみも無く。貴方には、私の苦しみは分からない。私は自由になるどころか、不自由になるのも許されなかったんだ!
「『何だ?』と言うのだ? 貴様の事情など、知った事ではない。貴様はただの」
「くっ!」
「商人、ティティヌス。貴様を下界へ追放する。貴様の行いは、重罪だ。絶対に許されるモノ」
の続きを言おうとした瞬間だ。ティティヌスが、彼の言葉を遮った。
「大天使様!」
「何だ?」
「貴方はこの帝国を、そこに住まう国民を愛していますか?」
観客達は、その質問に緊張した。質問の内容自体はそれ程重要ではなかったが、その答えがどうしても気になったからだ。統治者のご機嫌は、そのまま自分達の生活……もっと言えば、命に直結する。命が奪われるのは、やっぱり嫌だ。普段は国の思想に従順な彼らだが、この時ばかりは本能的な危機感を覚えていた。「どうか、良い返事でありますように」と。大天使の口許が「ニヤリ」と笑うのを見た彼らは、そう心の中で祈りつづけていた。
大天使は、口許の笑みを消した。
「それはもちろん、愛しているぞ?」を聞いて、無言の歓喜が起こったのは言うまでもない。観客達は互いの顔を見合い、ある者は「ホッ」とした顔、またある者は満足げな顔で、ティティヌスの顔に視線を戻した。
「貴様のような者以外を、な。貴様は、愛を与えるのに値しない」
絶望の言葉だった。「愛」とは本来、天使が持つ最高の美徳であった筈なのに。この国では、その愛にですら厳格な線引きがなされていた。
ティティヌスは、その事実に涙を流した。
「そう、ですか。大天使様」
「何だ?」
「私には、夢がありました。『詩人になる』と言う夢です。詩人は己の心に従って、その世界を創り上げる。私の世界には、無限の世界が広がっていました。そこでは天使や人間、動物や虫達に至るまで、みんなが仲良く暮らしている。食物連鎖の
「言いたい事は、それだけか?」
「……はい」
「そうか」
大天使は、審議所の四方を見渡した。
「やれ」の言葉は即ち、聖天使騎士団への出動命令である。彼らはその命を受けて、審議場の四方にある控え室から飛び出し、罪人の周りをぐるりと取り囲むのだ。罪人への刑を執行するために。
彼らは決められた手順を、決められた手順で行った。罪人を下界へ送るあの呪文も、その足下に描かれる不思議な紋章も。すべては、法が定めた事務的な流れに過ぎない。あの紋章から現れる、光の鱗粉も。それを見て歓喜し、興奮するのは、ウェルテリアを心から愛する羊達、鎖に繋がれた家畜達だけだった。
「ウェステリア帝国、ばんざぁい!」
レウードは、その声に吐き気を覚えた。自分達の同胞がまた、外の世界に追い出されたのに。彼らは「それ」を悲しむどころか、平気な顔で罵り、蔑み、挙げ句は口笛すら鳴らしている。彼の周りでまた起こった「万歳!」と言う声は、地獄以外の何モノでもなかった。
「くっ、うううっ」
彼は暗い顔で俯き、溢れかけた涙を必死に抑えた。
「何が万歳だよ? 同胞を罰するのが、そんなに楽しいのか?」
周りの観客達は、彼の声に気づかなかった。観客達の歓声に比べて、彼の声はあまりに小さい。それが偶々聞こえたとしても、風に揺れる草花の音や、虫の羽音を聞き取るよりも難しかった。彼の怒りは、誰の耳にも届かない。
レウードは雑記帳の頁に意識を向けて、そこに先程の斬罪記録を書き留めはじめた。
……彼の手が止まったのは、今日の断罪がすべて終わった後だった。どっと疲れたのは、言うまでもない。肉体的な疲れはそれ程でもないが、精神の方はやはり辛いモノがある。これを平然とやれる者は相当な精神力、ましてや、「それ」を喜んでやれる者はまず、まともではない。頭の何処かが狂っている。普通なら眠っている筈の神経が、狂気の中枢に突き刺さっている狂人だけがやれる事だ。
彼は、そこまでは狂っていない。だから鞄の中に道具を仕舞い、今の席から立って、断罪所の中から出て行ったのも、彼自身が無意識にやっている防衛行動から来るモノだった。
レウードは鞄の帯を正し、鋭い眼で断罪所の外を見渡した。断罪所の外は、天使達の姿で溢れていた。酒場の中で盛り上がる男達。歌い手の歌に酔い痴れる女達。彼らの後ろには奴隷達が立っていて、主人が何やら命ずると、それに媚びるように「
「くっ。どいつも、こいつも」
奴隷がそんなに好きなのか?
「主人の力に縛られているのに?」
お前らには、考える力が無いのかよ?
レウードは頭の痛みを必死に抑えつつ、昨日と同じ道を通って、自分の屋敷に帰った。屋敷の前では、召使いが彼の帰りを待っていた。まるで彼の労を労うように。「お帰りなさいませ」の声にも、他の奴隷達は違う、本当の愛情が感じられた。
レウードは、彼の顔をじっと見つめた。
「あ、あの?」
「はい?」
「ずっと前から思っていたんですけど?」
「……はい?」
「あなたはどうして、怒らないんですか?」
召使いは、その質問に目を見開いた。
「何を、ですか?」
「俺のやっている事に。普通なら」
普通と言う言葉は嫌いだったが、それでもあえてその言葉を使った。
「普通なら、俺の事を怒るでしょう? ウェストリアの天使として」
召使いは数秒程黙ったが、やがて「フッ」と微笑んだ。
「私は、変わり者なんです」
「変わり者?」
「ええ。『あなた』と同じように」
「俺と……」
召使いは「ええ」と頷いて、彼の足をそっと促した。
「夕食のご用意ができております」
レウードはその言葉に頷き、黙って屋敷の廊下を進んだ。本当は彼に聞きたい……いや、「聞かなければならない事」があったのに、彼が自分から視線を逸らした瞬間、それが砂のように飛び散ってしまった。
彼には何か、周りには知られてはならない秘密がある。
それがどう言う秘密かは分からないが、自分の部屋に荷物を置き、それから屋敷の食堂に向かって歩き出したレウードには、その秘密がとても大事な物、掛け替えの無い命のように感じられた。
レウードは心の奥にそれを仕舞って、食堂の中にゆっくりと入った。食堂の中では、奴隷達が主人の二人に余興を見せていた。大天使公認の文芸家が、とても見るような物ではない下品な余興を。奴隷達は主人達が喜ぶ姿を見ては、それをより満足させようと、より馬鹿に、より
レウードはその光景に苛立ったが、「あんな物は、無視すれば良い」と思い直して、眼前の光景から視線を逸らしつつ、自分の定位置にゆっくりと向かった。
ダリッシュは、その気配に気づいた。
「帰っていたのか?」
無視。
「ったく」
の声にも応えない。
「帰ったのなら、『ただいま』くらい言ったらどうだい?」
「くっ」は、流石に不味かったらしい。それを見ていた母親の逆鱗に触れてしまった。「情けない子。親に対して、そんな!」
バチンと響く肌の打撃音。
レウードは頬の痛みを無視して、母親の顔をじっと睨みつけた。
「態度を取ったからって何だよ? そっちは、息子に暴力を振るって置いて!」
「アタシの暴力は、正しい暴力よ。アンタみたいな間違った暴力じゃない!」
ダリッシュは、二人の仲裁に入った。彼の思考では、妻の側が正しく見えていたが、状況が状況なだけあって、どちらか一方だけに肩入れするわけにはいかなかった。
「止めないか、二人とも。今は、夕食の時間だ」
二人は互いに視線を逸らし合い、一方は食べかけていたパンに、もう一方は新品同然の夕食に手を伸ばした。
レウードは、自分の夕食を黙々と食べつづけた。夕食の味は、不味かった。普段は(比較的)美味しく感じる料理も、この時ばかりは単なる物……自分の腹を満たす、味も素っ気も無いただの物質になっていた。彼の喉を潤わす水も、水の形をした何かになっていただけ。口の中でジャブジャブ遊べる、無形の遊び道具になっていた。
彼は憂鬱なまま、今夜の夕食を食べ終えた。
「ごちそうさま」は突然、言わない。
彼は食堂の中から出ると、屋敷の廊下を通って、自分の部屋に戻った。部屋の中は、明るかった。屋敷の食堂に向かう前、燭台の蝋燭に灯りを点けて置いたお陰で、部屋に置かれた家具類を(多少暗くはあるが)見る事ができた。窓から吹き込む風が、その影を僅かに揺らしていたけれど。それ以外は普段と変わらない、夜の光景が広がっていた。
レウードは椅子の上に座って、雑記帳の頁を開こうとしたが……「つっ」
痛みが走ったのは、正にその瞬間だった。
彼は悔しげな顔で、左の頬を押さえた。
「ちくしょう! 思い切り引っぱたきやがって!」
何が、「正しい暴力」だよ? 母さんの暴力は、どう考えても間違っている。相手の気持ちも考えないで。俺の暴力は、社会に対する必死の抵抗だった。「社会の中には、こう言う奴もいるんだよ!」と。ウェステリアの社会は、くっ! 疑問の死んだ世界は、恐ろしいよ。俺がどうして、拳を上げたのか? 誰も、その理由を考えなかったんだから。
俺は、町の天使達に襲われた。俺がまだ、九つの頃に。俺は、奴らに殴り掛かった。奴らに自分の主張を否定されたのが悔しかったからだ。奴らは俺の主張を笑って、その拳を振り上げた。奴らの拳は、強かった。歳は(七つぐらい上だったかな?)や体格はもちろん、あったけど。それ以上に……。
俺は、奴らの正義に負けた。「俺達の正義は、絶対に正しい」と言う正義に。俺は、奴らの正義に怒った。奴らの正義は、独善的過ぎる。「自分の側に正義があれば、何でも許される」なんて。そんな考えは、おかしい。絶対に間違っている。
俺は、右手の拳を振り上げて……。
レウードは、机の裁判記録に手を伸ばした。
「暴力で訴えた正義は、誰の心にも届かない。『言葉』だけで主張する正義も同じだ」
相手の心を動かすためには、それ相応の物が必要になって来る。周りが納得できる資料や証拠、あるいは代案など。今は、その準備段階だ。集められるだけの資料を集めて、裁判記録の頁に「それ」を書き残す。そしていつか、みんなの前で「それ」を発表するんだ。それに反対する奴はもちろん、いるだろう。その中には、俺に刃を向ける奴だっているかも知れない。でも俺は、絶対に逃げないんだ。どんな事があっても、最後まで「それ」と戦いつづける。
「あのヒトと同じように」
あのヒトは、この世界を変えるために訴えつづけていた。自分がたとえ、天界から追放されてしまっても、その信念に従って。俺も、自分の信念を曲げたくない。「自分の未来を掴み取る」とはつまり、自分の取り巻く世界……もっと言えば、天使達の意識を変える事だ。
平和は、いつまでも続かない。たとえ今は平和でも、それには終わりが必ずやって来る。そうなった時、自分の意思で動けなかったら? 「自分には関係ない」と、誰の命も救わなかったら? そんなのは、地獄以外の何モノでもない。みんながみんな、主体的思考を棄てた世界なんて。考えただけでもゾッとする。
パプリルースの創った世界は、正にそんな世界だった。表面上は「平和」でも、本当は「欲望を満たしているだけ」の世界。空腹の者には、パンを与える。「この玩具が欲しい」と言った子どもには、その玩具を買い与える。そうやってご機嫌を取ったら、次は「それ」をゆっくりと押さえ込んで行くんだ。「我慢しなさい」と言われなくても、「我慢しなきゃ」と言う空気を創り出す。つまり、「逆らってはいけない」と言う空気を創り出すわけだ。
大抵の天使達は当然、その空気に不満を抱く。でも、不満は決して爆発しない。そこは動乱の時代を生きた者として、パプリルースが上手い事やってしまうからだ。「天使」と言うのは、数に弱い。多数の側に安心を感じる者もいれば、少数の側に満足を抱く者もいる。
彼は、その両方を味方に付けた。「お前達は、正しい」と言う言葉で。多数派には多数派の、少数派には少数派の正しさがある。なら、「それ」を否定するのはもったいない。だから、どちらも取り入れよう。私はいつでも、それに耳を傾ける。可能なら、「それ」を政治に取り入れても良い。ウェストリアの国は、お前達が主役なのだから。
彼の思想は、希望に満ちていた。彼の前では、すべてが許される。いや、「救われる」と言った方が正しいかも知れない。すべての苦悩と苦難を取り除いてくれる神。その認識こそが、パプリルースにとって最大の武器となった。苦痛と苦難をすべて取り除くなんて不可能。パプリルース自身も、それは充分に分かっている。多数派は、少数派の意見を決して受け入れない。逆もまた然り。少数派も、多数派の愚かさを笑っている。本当は数の違いだけで、「その本質は、ほとんど変わらない」って言うのに。
パプリルースは、それを利用した。多数派と少数派に共通する本質を見つけて、自分の政治思想に「それ」を段々と近づけて行く。「パンが食べたい」と言う奴がいたら、それに合うワイン好きを見つけるようなモノだ。自分の価値観と合う相手なら、その相手にも好感をずっと抱きやすくなる。自分の事を「少数派だ」と思っている奴ですら、自分と似た奴と出会った瞬間に胸が高鳴る原理(「同族嫌悪」を抱く奴もいるが、それだって自分の事を「独りだ」とは思っていない)と同じだ。
パプリルースはその原理を利用し、自国の国民達を次々と洗脳して行った。その洗脳は、完璧だった。「あのヒト」のような連中が現れるまで、誰もその支配を疑わなかったんだから。本当に恐ろしい支配だよ。
「あのヒトは、それを」
レウードは真っ直ぐな目で、部屋の壁を見つめた。
「俺は、自分の未来を失いたくない。みんなの未来も。だから」
彼は、裁判記録の頁に視線を戻した。裁判記録の頁には、今まで集めた様々な情報が書き留められている。そこに今日の昼間見てきた情報を付け足し、それに彼なりの意見や改善案を加えるのが、彼がこれからやる作業、一日の最後にやる大切な作業だった。
レウードは夢中で「それ」をやりつづけたが、その作業を進めれば進める程、自分の髪がどんどん黒くなって行く事にはまるで気づいていなかった。
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