海のものたち
張文經
むかしむかし、貧しいけれど、心の優しいおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんとおばあさんには、年のはなれた若い娘さんがひとりありましたが、それはそれは美しく、それでいて、おじいさんとおばあさんと同じように、とても心の優しい娘さんでした。
あるあつい夏の日、いつもどおり、おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山へ芝刈りにでかけました。娘さんはというと、おじいさんが釣った魚を、海のちかくの村に、売りにでかけたのでした。
娘さんが海辺を通りかかると、子どもたちが大きな蟹をつかまえていました。そばによって見てみると、子どもたちはみんなで蟹をいじめています。娘さんはたいそう心が優しいので、蟹をかわいそうに思いました。
「かわいそうに、逃がしておやりよ」
「いやだよ、ようやっとつかまえたんだもの。それにおらの家は、食べ物がないんだから、帰ったらこの蟹をみんなで食べるんだ」
みると、蟹ははらはらと涙をこぼしながら、娘さんを見つめています。娘さんは、わきに抱えたかごから、魚を出して言いました。
「それじゃ、このお魚をあげるから、これをお食べなさい。そのかわりに、蟹はおねえさんにくださいな」
「うん、それならいいよ」
こうして娘さんは魚を子どもたちにわたして、かわりに蟹を受けとったのでした。
「大丈夫かい? もう捕まるんじゃないよ」
そう言って、娘さんは、蟹をそっと、海に返してやりました。
それとちょうど同じときに、おじいさんは山で芝刈りをしていました。すると、何か大きなものが、草やぶのなかを走りました。そばによって見てみると、人一人も食べられそうな、大きな大きな蛇が、一匹の蛙を食べようとしています。おじいさんは、たいそう心が優しいので、蛙をかわいそうに思いました。
「かわいそうに、逃がしてやりなさい」
蛇は、ちらっとおじいさんを見ましたが、やはり、大きな口を開けて、蛙を食べようとしました。みると、蛙ははらはらと涙をこぼしながら、おじいさんを見つめています。
「では、この刈ったばかりの芝を代わりにやろう、だから蛙を離してやってはくれんかな、どうじゃ?」
蛇は怪訝そうな目で少しおじいさんを見た後、もう一度蛙を食べようとしました。おじいさんは、他にあげられるものがなかったので、あわてて言いました。
「もし、蛙を逃がしてくれるなら、わしの娘をお前の嫁にやろう。どうじゃ」
蛇は、じっとおじいさんをみつめると、蛙を食べずに、やぶのなかへ帰っていきました。蛙は、いちもくさんに、蛇とは逆の方に逃げていきました。おじいさんはすぐに、約束してしまったことを後悔しました。
「わしはなんてことを言ってしまったのじゃ」
その日の夜のことでした。おじいさんとおばあさんと、娘さんが、魚や、きびだんごや、おじいさんが刈ってきた芝を食べていると、家のとびらを叩くものがありました。おじいさんが、恐る恐るとびらをあけると、きれいな白い服を着た若者がそこに立っていました。
「先ほどの約束をはたしにまいりました」
おじいさんはとっさの機転で、答えました。
「準備もあることだから、また三日後におこしくださいませんか?」
すると、白い服の若者は、ていねいに頭を下げて、
「わかりました、ではまた三日後にまいりましょう」
と言って、帰っていきました。
おじいさんは家のなかに戻って、その日にあったことを、おばあさんと娘さんとに伝えました。おばあさんと娘さんは、それはそれは驚きましたが、「心配しないで」とおじいさんをなぐさめました。
三日の間、おじいさんとおばあさんと娘さんは、どうしようか、どうしようかと必死に考えましたが、ただただ悩むばかりで、本当にどうしたらいいかはわかりませんでした。逃げようにも、他のところで生きていけるのかわかりません。あんな大きな蛇を返り討ちにすることなど、できるわけがありません。しかたがないので、三人は、魚や、きびだんごや、おじいさんが刈ってきた芝を食べて暮らしました。
三日後、おじいさんとおばあさんと娘さんは、家をかたく戸締りして、蛇が来るのを待ちました。ほかにしかたがなかったからです。夜がふけてから、とびらをドンドンと叩く音がありました。蛇がやってきたのです。おじいさんたちが、返事をしないでいると、とびらの外から怒った声が聞こえました。
「あけてください、あけてください」
それでも三人は答えません。
「あけてください、約束してくれたでしょう」
それでも三人は答えません。
「なぜあけてくれないのですか、ひどい、私をだましたのですか?」
それでも三人は答えません。すると蛇は、ドン、ドン、ともっと強く、とびらを叩き出しました。おじいさんたちの家は、おんぼろなので、とびらはすぐにも壊れてしまいそうです。おじいさんとおばあさんと娘さんは、抱き合って、ふるえました。そのとき、とびらの外から、サワサワと何かが集まってくる音がしました。そして、その音にまぎれるように、蛇がとびらを叩く音が聞こえなくなりました。しばらくして、そのサワサワという音も、聞こえなくなりました。蛇が扉を叩く音も、ぜんぜん聞こえなくなりました。ふしぎに思ったおじいさんが扉を少しだけ開けて、すきまからのぞいてみると、そこにはたくさんの小さな蟹が、泡を吹きながら、倒れているではありませんか。その真ん中では、蟹のハサミでなますのように切り刻まれた蛇のからだがありました。それを、生き残った蟹たちがさらに切り分けながら、食べています。
「なんと! これこれ、二人も見てごらん」
おじいさんはとびらをあけて、おばあさんと娘さんにもその様子をみせました。三人は、助かった、と泣いて喜びました。すると、蟹のうちの一番大きなものが、三人のほうへ進みでて言いました。
「おじいさん、おばあさん、私は、いつか娘さんに助けられた蟹でございます」
蟹は、いつか娘さんに助けられたときの恩を返したのでした。やがて、立派な若者である 蟹と、心優しい娘さんは結婚しました。二人と、おじいさん、おばあさんは、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
おしまい
たくさんの時間がたって、娘さんはおばあさんになりました。蟹はおじいさんになりました。おじいさんとおばあさんは土になりました。そうして、娘さんだったおばあさんと蟹だったおじいさんの間には、年をとってから、たいそう心の優しく、それはそれは美しい娘さんが生まれました。
あるあついあつい夏の日、いつもどおり、おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山へ芝刈りにいきました。娘さんはというと、おじいさんが釣った魚を売りに、海のちかくの村にでかけたのでした。
娘さんが海辺を歩いていると、子どもたちがたくさん集まって、蟹をいじめています。心の優しい娘さんは、魚を子どもたちに渡して、その代わりとして、蟹を譲ってもらいました。
「大丈夫かい? もう捕まるんじゃないよ」
そう言って、娘さんは、蟹をそっと、海に返してやりました。
同じころ、おばあさんは、川で、大きな大きな蛇が、蛙を食べようとしていところをみました。心の優しいおばあさんは、蛙を助けてやりたいと思いました。おばあさんは何もあげられるものを持っていなかったので、あわてて
「蛙を逃がしてくれるのなら、うちの娘と結婚してもいいのよ」
と言いました。蛇は、それを聞くと、蛙を置いて去っていったのでした。
「どこへなりと、自由にお逃げなさい」
そうおばあさんは言ってやりました。蛙は青空のような、悲しい目でおばあさんを見ます。おばあさんには、それを見て、少しだけ、思い出すものがありました。
その夜、蛇が人間の姿をして、おじいさんたちの家を訪ねてきました。おじいさんがとっさの思いつきで
「また三日後におこしください」
と言うと、蛇は頷いて、帰って行きました。おじいさんは、もう蟹ではないので、思い出すことができません。年月が彼から、かつて娘さんを魅了した、赤い甲羅とハサミとをそぎ落としていったのです。前のように蛇を仕留めることも、もうできないのです。三日の間、おじいさんとおばあさんと娘さんは、どうしようか、どうしようかと必死に考えましたが、ただただ悩むばかりで、本当にどうしたらいいかはわかりませんでした。しかたがないので、三人は、魚や、きびだんごや、おじいさんが刈ってきた芝を食べて暮らしました。
おばあさんは、おばあさんではなかったときのことを考えようとしました。おばあさんは、それはそれは美しく、心優しい娘さんだったのです。そうして、おばあさんはいつから自分がおばあさんになったのかも、考えようとしました。前のおばあさんがフグの毒で亡くなったときでしょうか。娘さんが生まれたときでしょうか。それとも、かつて蟹だったおじいさんと結婚したときでしょうか。おばあさんはもうおばあさんなので、それがいつからかなどわかりませんでした。
「どこへなりと、自由にお逃げなさい」
おばあさんは蛙にそう言いました。蛙は自由になったでしょうか。前のおじいさんに恩を返さなかった蛙は。蛙はなんであんなに悲しそうな目をしていたのでしょうか。おばあさんは考えました。考えた末に、蛙がせめて楽しく過ごしてくれればいいと思ったのでした。結局おばあさんにできるのは、洗濯をすることと、心優しく過ごすことだけなのでした。
三日後の夜に、やはり、蛇はやってきました。蛇はとびらを叩いて、おじいさんたちに呼びかけます。
「約束通りまいりました、あけてください」
それでも三人は答えません。
「あけてください、あけてください」
それでも三人は答えません。
「なぜあけてくれないのですか、ひどい、私をだましたのですか?」
それでも三人は答えません。けれど、おばあさんはこの時、自分がまだ娘さんだったときのことを、少しだけ、思い出しました。そのとき、おばあさんはひどく蛇に怯えていました。ただ声も出さずに震えていました。いまは、いまの娘さんが、おばあさんと抱き合って、震えています。泣きそうな顔をしています。おばあさんは少しだけ、ふしぎな気持ちがしました。蛇の声は、あの日と同じように聞こえてきます。けれど、いまは少しだけ違う何かがあるように、思えるのです。
けれど結局おばあさんはおばあさんなのです。やがて、サワサワととびらの外で音がして、蛇の声は消えていきました。おじいさんがふしぎに思ってとびらを開けると、なんということでしょう。外では、たくさんの蟹が、泡を吹いて、死んでいました。蛇もまた、なますのように切り刻まれて、死んでいました。生き残った蟹たちが、いそいそと、蛇の死体を食べています。
「なんと! これこれ、二人も見てごらん」
おじいさんはとびらをあけて、おばあさんと娘さんにもその様子をみせました。助かった、と三人は、泣いて喜びました。おばあさんも、おじいさんも、何かを思い出すことはありませんでした。二人はほんとうに、目の前で起きていることが信じられませんでした。すると、蟹のうちの一番大きなものが、三人のほうへ進みでて言いました。
「おじいさん、おばあさん、私は、いつか娘さんに助けられた蟹でございます」
蟹は、いつか娘さんに助けられたときの恩を返したのでした。やがて、立派な若者である 蟹と、心優しい娘さんは結婚しました。二人と、おじいさん、おばあさんは、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
おしまい
「どこへなりと、自由にお逃げなさい」
蛙は蛇から救われると、真っ先に家族の元へ走った。自分をおたまじゃくしから蛙に変えてくれた、家族。最近はあまり話していないが、本当は自分を心配してくれる家族。
「ただいま」
というと、
「おお、早かったね」
と母である蛙が返答した。なるべく自然に答えようとしているのがわかる。息子蛙から母蛙に話しかける事など久しぶりだからだ。
「蛙はまだ帰ってないの」
この蛙とは妹のことだ。蛙の家庭は三人家族なのだ。父親蛙はつい先日、日向ぼっこをしすぎて乾いて死んでしまった。
「そうね、でも夕ご飯までには帰るって」
そう蛙が返した。妹である蛙が帰ってくると、蛙は蛇に食べられそうになった話、人間に助けられた話をした。蛙と蛙は、その話を聞いて驚いた。そうして、ひしと抱き合って、口々に言った。
「本当に、私たち、生きられるだけ生きましょうね」
その日の夕飯は蝿の刺身だった。蛙はその日以来、家族と、仲間を何より大切にするようになった。
たくさんの時間がたって、娘さんはおばあさんになりました。蟹はおじいさんになりました。むかしむかし蟹だったおじいさんと、むかしむかし娘さんだったおばあさんは土になりました。娘さんだったおばあさんと蟹だったおじいさんの間には、年をとってから、たいそう美しく、たいそう心の優しい娘さんが生まれました。
あるあついあついあつい夏の日、いつもどおり、おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山へ芝刈りにでかけました。娘さんはというと、おじいさんが釣った魚を、海のちかくの村に、売りにでかけたのでした。
けれど、蛙が蛙たちと愛し合っていられたのはわずかな間だった。蛙は蛙の作る蝿のソテーを愛し、蛙は蛙のいかにもつい最近までおたまじゃくしだったというような、可愛らしい鳴き声も愛していた。蛙たちと水辺に佇む時もまた、愛していた。
それでも、蛙のなかで何かが合わなくなっていた。蛙たちと水を泳ぎ回る時、蛙はそれまでのように、水の波紋や、光のわずかな揺らぎを楽しむことができなくなった。蛙は何かが足りないように思った。夕暮れだけが共感的だった。そうして、あの人間に言われた言葉を繰り返し、確かめていた。
「どこへなりと、自由にお逃げなさい」
娘さんが海辺を歩いていると、子どもたちがたくさん集まって、蟹をいじめています。心の優しい娘さんは、魚を子どもたちに渡して、その代わりとして、蟹を逃させました。
「大丈夫かい? もう捕まるんじゃないよ」
そう言って、娘さんは、蟹をそっと、海に返してやりました。
自分は蛙ではない、そう蛙は思うようになった。何か変わらないもの、何か大きな自分だけのものが欲しかった。蛙は、ある夜、サボテンを持って、レコードを持って、解きかけだったパズルを捨てて、家を抜け出した。蛙は海が見たかった。
同じころ、おじいさんが山で芝刈りをしていると、草やぶのほうから、何かが動く音が聞こえました。気になったおじいさんが、やぶのなかを覗いてみると、人一人吞み込めそうなほどに、大きな大きな大きな蛇が、ぐったりと横たわっているではありませんか。
「どうしたんじゃ」
おじいさんは蛇にそう声をかけましたが、蛇はただぼんやりとおじいさんを見るだけです。
「そうかそうか、お前は腹が減っているのか、食べるものもなくて大変だろう」
おじいさんがそう言うと、蛇は舌をゆっくりと伸ばして「シーッ」と言いました。
「じゃあ、これを食べるといい、さっき刈ってきたばかりの芝だよ」
そう言っておじいさんは、刈りとったばかりの芝を蛇に差し出しました。蛇は、ゆっくりと、力なさげに、芝を食べました。おじいさんはその夜、家でその話をしました。蛇も芝を食べるんだね、とおばあさんと娘さんは笑いました。
そういうことがあって、しばらくしてから、おじいさんたちの家にはふしぎなことが起こるようになりました。三人が家を留守にして、帰ってくると、とびらの前に、きのこや、山菜といったものが、置いてあるのです。しかし、ふしぎがってもどうしようもないので、三人は、魚や、きびだんごや、おじいさんが刈ってきた芝を、ときどきその山菜やらきのこやらを、食べて暮らしました。
そんなある日のことです。娘さんは、夜遅く、眠れずにいました。どうしようもなく、目が冴えてしまっているので、気分を変えようと、娘さんは家の外に出ました。月がこうこうと光っています。風が森を揺らしています。
そのときです。娘さんは目の前に水の流れがあるのに気づきました。水は流れながら、月の光を投げかけます。おかしいな、こんなところに川はないのにと思って近寄ってみると、それは、川ではなくて、大きな大きな蛇なのでありました。蛇のうろこが、綺麗に光を返しているので、川のように見えたのでした。
娘さんは身を飛びのけました。なんて大きな蛇でしょう。人を飲み込むこともできそうです。蛇は娘さんを見ました。その目は、どことなく淋しく見えました。娘さんは、その目とじいっと見つめ合いました。しばらくして、娘さんは我にかえって、家に逃げもどりました。その目の色を思い出しては、娘さんはどこか不安な、どこか落ち着かない、そうして淋しいような気分になりました。
蛙は川に沿って歩いた。蛙は、下流になるほどに川が広く、なだらかな流れになることを知った。そうして、木々が減って、人間の家が増えて行くことを知った。蛙は岸辺の石が小さく、丸くなっていくことを知った。やがて、あたりにそれまでには嗅いだことのない匂いが漂い始めた。うまく言い表すことができない、けれど、やや灰色じみた匂い。蛙にはそれが、海の匂いだとわかった。
ある夜のことでした。その日も娘さんがひとり、眠れずにいると、とびらの外で何かが動く音が聞こえました。娘さんは蛇が外にいるのだとわかりました。その日も月が静かに光っていました。娘さんは怖いような、けれども蛇に会いたいような気がしました。娘さんは迷いながら、とびらに耳を当てていました。
海はとおく遠くまで澄んで
青く空を映していた
蛙は小さかった
私、と蛙は言った
いまはいない、そしてどこまでもいる
たくさんの水がある、水であるのを忘れてしまうほどに
土と土とを濡らして
くりかえしくりかえし何度もふれている
白く乱れて
海が時間をひらいていく、おしひろげていく
ながいながいくりかえしへと
私はどこにあるだろうか
名前はどこにあるだろうか
私はいない、名前はない
そうして私は、名前はふれている
青い青いくりかえしに
海は、とおくとおく時間をひらいていく
娘さんはとびらに耳を当てて、蛇が動く音を聞いていました。蛇は、家の周りで何かをしているようでした。しばらくして、サワサワ、サワサワという音が聞こえてきました。小さな音が、だんだんに集まって、大きな音になっていきます。娘さんはただ聞いています。サワサワ、サワサワ、サワサワの、音は大きくなって、蛇の動く音は聞こえなくなりました。よく聞いていると、サワサワの音の間に、とても小さく、ちょきん、ちょきんと、何かを切る音がします。娘さんは、何が起きているのかわからず、不安になりました。
川をさかのぼりながら、蛙は、あの時の人間に会いたいと思った。海は蛙に何を与えもしなかった。蛙もまた、海に何も差し出さなかった。蛙はいま、そうした、何か淋しいものを求めていた。きっとあの川の近くだろう。何も見つからなくてもいいと思った。恩返しをしたいわけではなかった。蛙はただ、自分に大きな穴が開いて、以前とは違ってしまっていることを確かめたかった。
しばらくして、サワサワ、サワサワの音は止みました。とびらの向こうでは、何かが動いているようですが、娘さんにはそれが何の音なのか、わかりません。たまらなくなって、娘さんはとびらを開けました。すると、びっくり仰天、そこにはたくさんの小さな蟹が、泡を吹きながら、倒れているではありませんか。その真ん中では、蟹のハサミでなますのように切り刻まれた、蛇のからだがありました。蛇の死体の周りには、よく見ると、山菜やきのこが転がっています。蟹たちは、それらをハサミで切り分けています。それを、生き残った蟹たちがハサミで切り分けながら、食べています。蟹のうちの一番大きなものが、娘さんのほうへ進みでて言いました。
「お久しぶりです。私は、いつか娘さんに助けられた蟹でございます」
娘さんは、驚きながら、蟹には答えずに、蟹たちを払いのけました。そうして、血で赤黒く染まった蛇の頭を手に取りました。蟹たちは、蛇の頭だけは食べなかったようです。蛇の眼は、生きていたときと同じように、淋しそうです。青空みたいだ。そう娘さんは思いました。少しずつ、悲しいような気がしました。
川から遠く離れて、蛙はあの時の人間の家を探しまわった。けれど、なかなか家は見つからなかった。よく晴れた日だった。蛙は必死に探しまわった。次第に、自分の身体が暑くなってくるのを蛙は感じた。しかし、蛙は川へと引き返さなかった。私は私だからだ、そう蛙は頭のなかでつぶやいた。私は私だからだ。
やがて夕暮れになって、蛙は一層に乾いていった。しかし、乾くほどに不安はなくなっていった。私はあの時、あの人間に救われた時に生まれたのだ、そう考えた。あの時、蛇に睨まれて、私は動けなかった。恐ろしかった、けれど、どこかしょうがないように思っていた。平穏だった。あの頃の私は蛙だったからだ。いや、あの頃私はいなかったからだ。私はいま、蛇に食われて死ぬことができない、あの頃はできただろう。私は、私になってしまったからだ。
山と山の間に夕日が沈もうとしていた。木々も、地面も、辺りの空気も、小さな波のような雲も、疲れ果てた蛙も、その光のなかでどこか灰色を帯びていった。空は青く澄んで、星が見え始めていた。その力のない光が、励ましてくれるのだと、蛙は思った。蛙は歩いていった。
娘さんは、蟹たちを追い払うと、家のうらの林に、穴を掘って、蛇の頭を埋めてやりました。娘さんはたいそう優しいのです。そうして家に帰ると、あたたかい布団のなかに戻って、いろいろなことを考えようとしました。しかし、娘さんには、その日の出来事が何を意味していたのか、わかりませんでした。何かがこれから変わっていくような、それでいて変わらないような、明日も明後日もそれから先も魚や、きびだんごや、芝を食べて暮らしているような、けれど、そういうものがなくなってしまうような、ふしぎな気分でした。娘さんはその日のことを、おじいさんとおばあさんには話しませんでした。
やがて、蛙は動けなくなった。夕焼けの名残が、彼をやわらかく包んでいた。うっとりとした気分だった。やはり、蛙は蛙だな。そして、私は私だ。蛙は頭のなかでつぶやいた。自分の川から離れて死んでいくことに後悔はなかった。人間に会えなかったことも、しょうがないと思った。きっと大切なのは、私自身のそうしようと思う心だったのだ。そう、心のなかで何度も考えをなぞった。視界がぼんやりとしていく。辺りは夜になっていく。いろいろなものの、区別がつかなくなっていく。海は広かったな、海は広かったな、そう呟いた。
やがて、たくさんの時間が経って、むかし蟹だったおじいさんとむかし娘さんだったおばあさんは土になった。娘さんは娘さんではなくなった。けれどおばあさんになったわけではなかった。新しい名前などどこにもなかった。娘さんだったその人は、一人で、ずっと、彼女の家に住み続けた。彼女は何かの訪れを待っているのだった。たくさんの雨が降った。たくさんの風が吹いた。待ち続けた。何を待っているのかはわからなかった。ただ、たまにおじいさんのことや、おばあさんのことや、蛇のことを思い出していた。たくさんの時間が経った。やがて家は無くなってしまった。それでも待ち続けた。思い出すこともなくなった。娘さんだったことも、蛇のことも忘れてしまった。けれど、待ち続けた。いつまでもいつまでも、ではなく、死ぬまで、一人で待ち続けた。
海のものたち 張文經 @yumikei
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