セカンドバージン 〜僕の二度目の初体験〜

南国アイス

じゃあ、そこ行ってみます!

 二十年以上経った今でも、決して忘れることのできない海外旅行での出来事を話そうと思う。


 一九九〇年代後半、あれは、会社で仲の良かった上司に「若いうちに海外は行っとけ」という言葉をもらい、まだ若かった僕は潔く会社をスパッと辞め、突然「初めての海外旅行三週間一人旅」に向かったときの話。


 僕が選んだのはカナダのバンクーバーという都市だった。


 初めての海外旅行だったが、特に「この国に行きたい」という強い希望もなかった僕は「若いうちに海外は行っとけ」と、僕をけしかけた張本人、上司の岡村さんに聞いてみた。


「どこの国がおすすめですか?」


 彼の答えは既に決まっていたようだ。


「カナダのバンクーバー」


 彼は一瞬の迷いもなく、そう答えた。


「じゃあ、そこ行ってみます!」


 僕も一瞬の迷いなく、そこに決めた。


 もはや選んだとは言えない適当さだった。


 とりあえず、それからは地球の歩き方を買ってパラパラと流し読みしていた。


 出発の1週間くらい前、上司の岡村さんと飲みに行った。


「向こうで何するの?」


「え?」


 ここで初めて気がついた。


 海外旅行には目的がいるのだ。


 行けば、何かがあると思っていた僕は超絶馬鹿だったとしか思えない。


 だから必死になって考えて、岡村さんに聞いてみた。


「向こうって中古レコード売ってます?」


 自分の好きなことと言えばアナログレコードの収集だ。日本で一枚数千円から数万円するレコードも、向こうならもっと安く買えると聞いた僕は、旅の目的をレコード探しに決めた。


 単純である。


 岡村さんはあまりにも馬鹿な僕のために、いろいろと段取りをしてくれた。


 航空券の手配、それからホテルの予約。


 ここまでお膳立てしてもらった僕は、なんとかバンクーバーにたどり着いた。


 これから三週間、一人で英語のみで暮らさなければいけない。


「あぁ、なんて馬鹿なことしてるんだろ……」


 いきなり後悔した。


 僕は英語が堪能だった訳でも何でもない。


 中学時代、英語の偏差値は69あったが、今となってはそれが高かったのかどうかも定かではないが数字だけは覚えている。


 行けばなんとかなるだろう。


 そういうポジティブで勢い良く飛び出す姿勢は少しばかり褒めてもらいたかったが、いかんせん馬鹿である。


 マクドナルドでコーヒーを頼んだらコーラが出てきた時点で泣きたくなった。


「三週間もこんなとこで暮らすなんて……」


 と、最初の二、三日はしょげていたが、持ち前のポジティブシンキングでレコード探しの旅を始めることにした。


 地球の歩き方と睨めっこしながら、交通機関の乗り方や通りの名前を確認していく。


 とりあえず、歩いてみないことには分からない。


 僕は繁華街がありそうなところを徹底的に練り歩いた。


 そうこうしているうちに、オシャレな古着屋や本屋を見つけたり、レコードショップも少しづつ発見できた。


 拙い英語で、もっと中古レコードを売っているようなところを教えて欲しい。僕はそれだけのためにこの街に三週間いるんだと伝えると、レコードショップの店員にこう聞かれた。


「お前はバイヤーか?」


 どうも、仕入業者かと聞かれたようだ。


「ノーノー、おれは自分が聞きたいレコードが欲しいだけなんだ、カナディアンパンクが大好きなんだ!」


 そんなようなことを身振り手振り交えて伝えると、彼は快くいろいろなレコードショップを教えてくれた。


 持っていた地図にレコードショップの位置を書き込んでくれたので、後はこれに従って練り歩けば良い。


 この作戦はうまく行った。


 僕は彼の教えてくれたレコードショップに到着すると、同じようなセリフを何度も使った。


「日本からパンクロックのレコード探しの旅にきてるんだ、何かおすすめはないか?」


 あるお店では「パンクロックはないが六十年代のガレージロックならあるぞ!」とおすすめのレコードをかき集めて聞かせてくれたり、あるお店では、面白いやつだなと笑われながらも「店の奥にとっておきのレアものをおいているんだ」と言って、カーテンの奥に連れて行かれると、カセットテープを差し出された。


「これは超レアな音源だぞ」


 そう言って彼が僕に渡してくれたカセットテープは※Infamous Scientistというカナダのパンクバンドの音源だった。


 僕にはそれがレア音源なのかどうかを調べる術はもっていなかったが、親切に試聴させてくれたので、とりあえず買っておいた。曲も好みだったしね。


 まさかカセットテープ一本に四十ドルも払うことになるとは思わなかったが……。


 こんな調子で僕のバンクーバーライフは順調なスタートを切った。


 そうこうしながら順調に見えたバンクーバーライフも折り返し地点を過ぎ、着々とレコードの収集も進んでいた。岡村さんの言う通り、レコードは安かったし、カナディアンパンクに関してはやはり品揃えがすごく良かった。


 気が付けば、既に五十枚近いレコードを買っていた。


「ちょっと待て俺……これ、持って帰れるのだろうか?」


 肩が千切れるような重量になると思われるそのレコードたちをホテルの部屋で見つめ、僕は不安になりながらも街へ出てひたすら練り歩く。


 そう、僕の目的はこれしかないのだ。


 しかし、残り一週間を切ったあたりで、外に出るのがめちゃくちゃ億劫になってしまった。ハッキリ言って英語に疲れていた。


 脳疲労である。


 僕はホテルに引き篭もった。幸い、ハンディレコードプレイヤーをどっかの中古屋で購入していたので、今まで購入したレコードを聞きつつ、コンビニで買ったお粗末な食料を食べながらベッドの上で三日過ごした。


 四日目に回復した。


「ひまひまひまひまぁあああああ!!!」


 回復どころか、今度はこの三日間が孤独過ぎて誰でもいいから話がしたかった。ネットもスマホもSNSもないのだ。レコードプレイヤーに話しかける訳にもいかない。


 昼間はレコードショップを練り歩き、久しぶりにまともな食事をしようと、夕方になってからは比較的賑わっているロブソン通りを歩きながらレストランを探していた。


「やぁ、日本人かい?」


 ちょっと陽気なおじさんが、すれ違いざまに僕に英語で話しかけてきた。


「あぁ、そうだよ」


 身長は百九十センチはあろうかという、巨体のおじさんを見上げながら僕が返事すると、彼は横に並びながら話を続けた。


「長野オリンピックは見たかい?」


「もちろん」


「あの、日本人のジャンプは凄かったなー」


「あぁ、そうだね」


 特に怪しい感じもしなかった。ただの買い物帰りのおじさんに話しかけられた僕は久しぶりに人と話すのが嬉しく感じていた。


 僕らはしばらく並んで歩きながら会話をしていた。大したことは話せないが、彼が喋ってくれるのに相槌をうちながら、会話を楽しんでいた。


「夕飯はもう食べたのか?」


「実は、これから行こうと思ってたんだ」


「おぉ、そうだったのか、だったら今からうちで食べないか?」


「え、いいの?」


「あぁ、おれが作ってやるよ」


 巨体のおじさまは陽気に僕をディナーに招待してくれた。


「ここがおれのうちだ」


 そこにはリタイア軍人専用アパートと書いてあった。


 なんとなく威圧感を感じた。僕は軍人さんとは無縁の人生を歩んできた。だからか、なんとなくちょっとビビったのが正直なところだ。


 エレベーターに乗って、彼の部屋に辿り着いた。


「これから作るから、楽にしててくれ」


 そう言って、ソファに案内された僕は置物のようにちょこんと座っていると、彼がテレビのリモコンをぽちぽちと押しながら、二十一インチ程度のブラウン管テレビデオ(テレビとVHSビデオが一体になった画期的商品)に適当な番組を映し出した。


 フライパンで何かを作ってる音が背後に聞こえながら、僕はソファにもたれかかったまま、良くわからない番組を呆然と見ていた。


 料理する音を聞きながら、しばらく沈黙に包まれた時間を過ごしたが、特に気まずい感じもしなかった。なんとなく、ただの日常のような、そんな感覚。


 だが、そんな日常のような感覚とか呑気なこと言ってる場合ではなくなった。


「ちょっと番組を変えようか」


 そう言って、彼がリモコンを操作するとテレビデオの下段に吐き出されていたVHSテープが「ガチャン」という音を立てて、飲み込まれた。


 すなわち、これから画面に映し出されるのはテレビ番組ではない。


「おっふ、おっふ、おっふ、おっふ……」


 テレビ画面には裸の男と男が汗まみれで何やら弄りあっている。


 熊のような図体の彼は鼻歌を唄いながら料理を続けている。


 僕はソファで死んだふりをするべきか悩んでいる。


 熊のような図体の彼はリタイア軍人である。


 僕は誰でも良いから話がしたいなんて贅沢を言ってごめんなさいと何かに祈る。


 熊のような図体の彼が住んでいるこのコンドミニアムは全員が元軍人で構成されているはずである。


 僕はもう初めての海外で初めての経験をしちゃいましたという本を自費出版する覚悟を決めるべきか悩んでいる。


 熊のような図体の彼は……。


「夕飯ができたよ〜♪」


 料理ができたことを陽気に伝えてきた。


「あ、あぁ……」


 おそらく精気の欠片も残っていなかっただろう僕は振り絞るように返事をした。


 この先どんな結末を迎えようが、なんとか死なずに日本へ帰れればいい、身長百九十センチはあろう、熊のような男を振り切って、リタイア軍人で構成されたこの住居から脱出するのは鎧のない状態で魔界村をクリアするより難しいと思った。


 僕は大人しくテーブル席につき、彼の作った豆のスープらしきものをいただいた。睡眠薬が入っていたらどうしよう。そんな疑いが脳裏を過ぎったが、食わないわけにはいかない。例え僕が食われようとも。


「味はどうだい?」


 僕はその後しばらくの会話を覚えていない。次に覚えているのはこの会話からだ。


「だから、日本人はシャイなだけなんだよ」


「昔、空母に乗っているときに日本人の軍人と一緒に仕事もした」


「最初は断るんだけどね、最初だけなんだよ」


「日本人はシャイなだけなんだよ」


 僕は、彼の一方的な洗脳トークを延々と聞かされている。なんとかして、僕に新しい人生の幕開けを踏み出して欲しいらしい。


 そこで、ふと思った。


「あれ、おれ普通に英語が理解できている」


 そうだ、極度の危機感から僕は全神経を集中し、彼の言っていることを理解しようと必死だった。なぜなら、この時の僕は迂闊な相槌などしてしまったら新しい人生の幕開けが強制スタートしてしまうからだ。


「僕はストレートだ」


 豆のスープを少しづつ口に運びつつ、テレビから流れてくる「おっふ、おっふ」をスルーして、彼の「洗脳トーク」に対して、完全なる「ノー」を叩きつけた。


「いやいや、日本人はシャイなだけなんだよ、ボーイ」


「僕はストレートだ」


「いやいや、日本人はシャイなだけなんだよ、ボーイ」


「僕はストレートだ」


「いやいや、日本人はシャイなだけなんだよ、ボーイ」


「僕はストレートだ」


「いやいや、日本人はシャイなだけなんだよ、ボーイ」


 何度このやりとりを繰り返しただろうか。僕は頑なにストレートだと言い続けた。


 そして長期戦に一筋の光が見えた。


「そうか、わかったよ」


「わかってくれて、ありがとう」


 戦いは終わったかと思った直後。


「じゃあ、一緒に風呂に入るだけならどうだ?」


「僕はストレートだ」


「じゃあ、一緒に風呂に入るだけならどうだ?」


「僕はストレートだ」


「じゃあ、一緒に風呂に入るだけならどうだ?」


「僕はストレートだ」


 何度このやりとりを繰り返しただろうか。僕は頑なにストレートだと言い続けた。


 そしてやっとほんとうに最後の一筋の光が見えた。


「じゃあ……今日はなしにしよう。その代わり次に街で会った時は一緒にお風呂だぞ」


「オーケー」


 いやいやそこは全然オーケーじゃないんだが、ここでディールを完了させないと終いには死体になってこのコンドミニアムを出ることになるかもしれない。ライオンズゲートブリッジからコンクリと一緒に沈められたくはない。


 しかし、この後の彼は紳士だった。


 結局、僕は彼に指一本触られることなく部屋から出ることに成功したのだ。


「今日は夕飯ありがとう」


 玄関扉を開けながら、僕は心にもないことを引きつった笑顔で伝えた。


「あぁ、いいさ! でも次に会ったときは一緒にお風呂だからな♪ はっはっはー!」


 陽気にお別れの言葉を述べる彼の言葉はむしろ脅迫にしか聞こえない。


 こうして僕は新しい人生の幕開けを体験する機会を逃してしまったが、それでもなんとか無事に日本に帰ってこれたことに感謝したい。


 みんな、若いうちに海外は行っとけよ。


 日本人はシャイなだけなんだよ、そこのボーイ。





 おまけ

 ※infamous Scientistはこんなバンドです。

 https://www.youtube.com/watch?v=6oFHpfXxb9U

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