15
少しだけ開けたドアの向こうも薄暗かった。だが、薄明かりに慣れた俺の目には、廊下の奥のリビングからの微かなぼやけた光で、玄関全体の様子がハッキリと見えていた。
やはりクラシックが流れている。
対面には図面どおりにドアがあった。食堂から上ってくる階段の扉だ。本当は一階を先に潰しておきたかった。だが、この状態では仕方がない。
靴はなく、右手の作り付けの靴箱に入れる習慣か?その靴箱の上には、何か物体が飾られていて。沓脱にあるのは合成樹脂の穴あきサンダルが一足だけだった。
俺達は素早く玄関内に足を踏み入れ、美枝子を反対側のドアがある窪みに身を隠させ、俺はゆっくりと、慎重に、音を立てないように、入ってきたドアを閉めた。それから急いで、俺も美枝子がいる窪みに身を隠した。そこから、扉のすりガラスの向こうに誰もいないかを確認する。
何の動きも物音もないことを確認してから、俺はゆっくりと扉を引いた。
蝶番の音鳴りはなかった。
動くには、奥で流れているオーケストラの音色が都合良かった。だが、逆に言うと、この音で消される物音や気配は、俺にとって不利にも働くということだ。
それにしても、これほど慎重になる侵入は何時振りだろうか?本当に一人で来れば良かったと、軽い後悔をしていた。一人なら気にすることなく、ずかずかと踏み込んでいるところだ。居ても女が一人。女だと舐めているわけではないが、俺とは場数が違う。
廊下にはロング絨毯が敷かれてあった。足音をあまり気にしなくていいのは、これも好都合だった。勿論、靴のままゆっくりと進んで行く。普通の建物より自由が利くせいか、天井が少し高かった。
近づくと、一段と音色が大きくなっていった。
左手のトイレのドアの小窓に灯りはない。耳を澄ませてもクラシック音楽以外の音がしない。その先右手にある洗面所と脱衣所の扉の飾りガラスにも灯りはない。ここも同じだった。
美枝子のくしゃみは気づかれなかったということか。
俺はリビングの扉から少し離れ、すりガラス越しに人の気配がないか集中して耳をそばだてた。
図面では、広いリビングがあって、右手には仕切りのない広いキッチンがあるはずだ。
煌々と灯りが点いているので誰か動けば影が見える。慎重に観察した。
いい塩梅で曲は流れている。誰もいないことを信じた俺は、手を伸ばしてドアノブに指をかけた。すると、いきなりパーカーの背中の生地を引っ張られた。
何事かと思って振り向くと、美枝子が掌を俺に向けて、“待て”のポーズをとった。
途端、バイオリンだけの静かな音色に変わった。なるほど、そういうことか。初めて知る美枝子の一面だった。連れて来た甲斐があったというものだ。
俺達はその場でしゃがみ込んだ。
俺は振り向いて、美枝子に親指を立てた。
廊下の白い壁には小さな絵皿が何枚も飾られている。良く見ると、それは可愛いキャラクターが描かれた絵皿だった。遠く玄関の靴箱の上にもその影があった。
流れているクラシックはらしいと思えた。だが中にある装飾品は、俺の知る早川芽美からは想像出来ない類の物だった。一階と二階の自分を演じ分けているのだろうか?
俺は声を出さずに「知ってるんですか?」と、美枝子に向かって唇を動かした。
美枝子は大きく頷いたあと、「むらむす」と唇を動かした。
トイレの扉に変化はなく。美枝子の横の、洗面台と脱衣所の飾りガラスの扉にも変化はなかった。
美枝子はその言葉のあと、小首を傾げてバイオリンを弾く真似をした。
俺は「むらむす」が何かわからなかったが、バイオリンの曲であることは、美枝子の弾き真似を見なくても流れている音色からも理解出来ていた。それにしても、西瓜柄の半キャップを被って、バイオリンの弾き真似をする美枝子の姿は面白過ぎた。
急いで扉の方に向き直って、俺は笑いを必死に堪えた。
バイオリンだけの音色は、じれったくなるぐらい長かった。時々、笑いがぶり返してくるのにも辟易した。
俺一人なら気にすることなく踏み込んで、一気にカタをつけているのだが、美枝子がいてはそうはいかない。
他の物音が全くしないのは、リビングとキッチンには誰もいないということだ。となると、次の扉の先にあるL型の廊下に並ぶ部屋の中だ。やはり、あの部屋が一番怪しい。でも、何故リビングに曲を流しているのだろうか?
次に音が大きくなって踏み込んだら、先ずは一番奥まで行ってから、一部屋ずつ確認しながら引き返そう。そう俺は決めた。
そのうちに背中を突かれた。
振り向くと、美枝子が指先を扉に向けて「行け」と唇を動かした。
ドアノブに手をかけると一斉に管楽器が鳴り始めた。
ドアを押し開いた。ドアには小さなカウベルが設置されていて小さく鳴った。
俺は構わず左右を確認して中へ入った。キッチンにもリビングにも、開け放たれた和室にも誰もいない。
俺は向こうの扉に近づいた。
するとうしろでガツンという音と「痛ぇ」という美枝子の声がした。
俺が振り向くのと同時に、美枝子の前蹴りが見事に早川芽美の鳩尾にヒットしていた。
小さく呻いた早川芽美の右手から、麺棒だか擂粉木だかわからない木の棒がロング絨毯の上に滑り落ち、早川は尻餅をつくと腹を両手で押さえ、ゲボゲボ言いながら長身の身体を廊下に横たえた。
「おらぁ、何しばいてくれとんねん、オドレは。殺ってもうたろか、おおっ」
美枝子は、容姿に似合わない非常にガラの悪い口調で喚きながら、倒れた紺色のパジャマ姿の早川芽美に、体重の乗ったストンピングを連打していた。
身を丸め、頭から足までまんべんなく蹴りつけられながらも早川は、「ごめんなさい」を何度も何度も繰り返している。別にここは早川の部屋だ。俺達の方が侵入者だ。本当は謝る必要などないのに。
早川を蹴ることに疲れたのか、美枝子は被っていた西瓜柄の半キャップのヘルメットを脱ぐと、殴られた部分を目と指で確認し始めた。
俺はそこでやっと、止めなければ殺されてしまうと思った。
「おい、お前。折角、静江さんがプレゼントしてくれたのに、何、傷付けてくれとんねん」
そう言うと倒れている早川の身体の上に跨って、右手に握った西瓜柄を頭の上に振りかぶった。
寸でのところで俺の手は美枝子のヘルメットを掴んだ。
「その辺で。俺が気づかなくてすみませんでした」
俺が手を放し、「ホンマすんませんでした」と頭を下げて詫びを入れると、美枝子はキッと俺の方を向いて、ボコンとそのヘルメットで俺の頭を殴った。
目ん玉が飛び出るくらいに、とても痛かった。
だが、俺が全部悪かったのだ。美枝子が踊り場でくしゃみをしたのに確認を怠った俺のミスだ。トイレと洗面所の扉を開けて確認するべきだったのだ。
それでも美枝子がヘルメットを被っていてくれて良かった。静江さんのファインプレーだ。それ以上に、美枝子が非常に好戦的だったのを、俺は完全に失念していた。
美枝子が立ち上がり「気ィつけよ」と、どちらに向かってなのかわからない決め台詞吐いて、リビングにあるソファーにふんぞり返った。
緑色のゲロを吐き、震えている早川芽美を、俺は引き摺ってリビングに入れた。
俺のやることは、先ず早川芽美の拘束だ。
両手をうしろに回し、ヒップバッグから取り出したインシュロックで、先ずは両手の親指を縛り、両手首、両肘と縛り上げ、次は両足に取り掛かる。早川芽美は怖さの余りに失禁をしていて、紺色のパジャマの濡れた部分に絵皿と同じキャラクターが浮き出ていた。それでも構わずに両脚のストッキングの爪先を破き、両親指をインシュロックで縛り、両足首、両膝と縛っていった。膝は一番長いインシュロックを三本繋いで縛り上げた。
何故パジャマの下にストッキングを?ふと擡げた疑問を頭の隅に追いやった。
それから俺は、早川に久保奈生美の居場所を尋ねた。
最初の内は震えていて、上手く言葉が出ないようだったが、美枝子が立ち上がり近づいて来ると、「奥の、奥の部屋にいます」と震えながらも絞り出した。
それを聞いた美枝子が、リビングにあるL型の廊下に出る扉に向かった。
「美枝子さんは、ここにいてもらえませんか?先ず俺が」
美枝子はクルリと振り返り、「そうね。また殴られたら嫌だもん」と言ってソファーに戻った。
「奥の風呂場の前の部屋か?」
早川は、俺の言葉に驚いていた。「は、はい」と、素直に答えた。
「他に誰かいるんか?」と問いかけると、「い、いえ、誰もいません」そう言って早川は首を横に振った。余程、美枝子の怒る様が怖かったのだろう。まだ震えている。
だが、俺が立ち上がって見下ろすと、早川は嫌な目付きで俺を見ていた。恐怖の奥に、何かを手放すことへの未練と、俺達に対する怒りを燈している嫌な目だ。もっと他に違う思いもあるのだろうか?俺にはそれ以上わからなかった。
それでも、これだけ留めていれば動けまい。もし動けたとしても、美枝子の玩具にされるのが関の山だ。そう思って俺は、キッチンに行ってざっと見渡してから冷蔵庫を開ける。中にはさっき買ったヒレステーキが二枚、入ったままになっていた。洗い場の三角コーナーのネットは既に新しいものに変えられていた。ゴミ箱を開けると、野菜くずが入ったネットが捨ててあった。綺麗に後片付けされているが、潔癖とまではいかない。結局、俺が危惧していた最後の晩餐ではなかった。もしかすると、早川芽美こと森田由梨乃は、殺人は犯していないのかもしれない。そう思った。
俺はキッチンにあったタオルで早川の口に猿轡をした。
流れているクラシックに聞き入っている美枝子を置いて、俺は扉を開けて廊下へと進む。
背中に「いたら声かけるのよ」と美枝子の声が届いた。俺は振り向いて頷いた。
今度は部屋を一つ一つ開けて、確認をしてから先に進んで行った。
左手に並んだ一つ目の部屋はクローゼット代わりの部屋だった。
可愛い物が好きというよりか、このキャラクターがお気に入りなのだ。窓のある壁一面がメルヘンチックに飾られていた。その手前にある、パイプハンガーに吊るされ並んでいる服たちとのギャップがかなりあった。
次の部屋は図面上一番狭い部屋だった。
ドアを開けた瞬間、甘い香りがした。中は、まるで少女が暮らす部屋だった。同じキャラクターの品物一色で、ベッドには邪魔だろうと思うほどキャラクターの大小のぬいぐるみが山になっていた。
なるほど、この部屋は、早川芽美に変わる前に森田由梨乃が暮らしていた部屋なのだ。そして、大金を得て、子供時代の夢を実現した。
角を曲がって進むと最後の一部屋だ。
その前に、トイレと風呂場の扉を開けて中を調べた。誰もいなかった。
これが最後だ。この部屋にだけドアノブに鍵穴があった。
握って回し少し引いた。簡単にドアは動いた。だが、中は暗闇だった。それに部屋は狭い廊下のようになっていて、左の壁にもう一つ窓のついていないドアがあった。図面にはなかった防音室が作られていた。別の専門業者に工事させたのだ。
ドアノブは動かなかった。鍵穴を見ると、俺の持っている特殊工具では開けられない物のようだった。
俺はリビングに引き返し、早川の猿轡を外した。
「鍵は何処にある?」
「知らない」
「何処や?」
「知らない」
「何処や?」
「知らない」
そんなやりとりに業を煮やした美枝子がしゃしゃり出てきた。
「ちょっと退いて。あんたさぁ、久保奈生美のことが好きなんだ?」
「何よ、いけない?男なんかみんな、出したいだけの糞よ糞」
「いけないことはないし、男が出したいだけっというのもわかる気がするけど。けどね、久保ちゃんには、まだ小さい息子がいるの」
美枝子が諭すように話した。だが早川はキッと美枝子を睨んだ。
「知ってるわよ、そんなことぐらい。でも奈生美ちゃん、言ったの。産まなかった方が良かったって。だから、私が」
そう早川は大声で喚いた。
すると玄関の方から「それは違う。それは違うぞ」と、大きな声が聞こえてきた。ハネさんだった。
途中で早川が漏らした小便に足を濡らしたのか、リビングに入る時に「チェ、何だよ、あずましくない」と言いながら入ってきて、俺には軽く手を上げ、美枝子を見つけると気を付けをして最敬礼した。それから早川の前に正座してハネさんは言った。
「それは違うぞ、絶対に。あの親子はなぁ、必死に肩寄せ合って、必死に寄り添って、二人で頑張って暮らしてたんだ。そりゃあ、親をやってれば、時には子供のことが疎ましく思うこともあるさ。けど、それは言葉の上だけで、心からそう思って口にしたわけじゃねぇ。それは間違いねぇ」
「何を知ってるって言うのよ。いったい、あんたは誰よ?」
早川は、俺からすれば言ってはならない言葉を口にした。
俺はいつでもハネさんを止められるようにうしろに立った。だが、ハネさんは落ち着いていた。
「俺か、あんたは知らんだろうが、羽田心音っちゅもんの父親だ」
早川芽美の顔から血の気が引いた。そして視線を床に落とすと、またブルブルと震え出した。これでは、自分が森田由梨乃だということをゲロったようなものだ。
「まぁ、話はあとだ。翔の母ちゃんはいたか?」
「奥の部屋にいることは喋った。けど、鍵がない」
「あんたじゃ開けれんのか?」
「無理やな。だからコイツに鍵の在処を訊いてたとこや。悪いけどハネさん、洗面所の中調べてくれる」
「わかった」
そう言ってハネさんが立ち上がった。俺は早川芽美の表情を見逃さなかった。
「ハネさん、やっぱり台所あたりから探そうか」
此処も違う。
「やっぱり、リビングか。いや玄関の靴箱……」
どれも違う。早川は横向きからうつ伏せに動いた。
「あのう、美枝子さん」
「なぁに?」
「コイツの身体、調べてくれませんか?」
早川芽美は身を固くした。
「えーっ、嫌よ。コイツおしっこ漏らしてるもん」
「いや、下じゃなくて上で」
「馬鹿ねぇ、女が物隠すっていったら決まってんのよ」
「じゃ、お願いします」
「すみません。俺も男なもんで」
二人で言うと、美枝子は渋々「しかたないわねぇ」と言い、「向こう向いてて」と言った。
「やめろ」「触るな」と騒いだ。
「誠、コイツを横向きにして脚を前にやって、あんたは上半身を押さえて」
そう美枝子は俺達に指示した。
早川は喚き暴れたが、拘束されている上に男二人掛かりではどうしようもなかった。俺は濡れていない個所を選んで押えた。
美枝子は俺に「見んなよ」と言った。俺は慌てて反対側にあるソファーを見つめた。
「何処触ってんのよ」「やめろよ」などと早川が喚き、美枝子が「あれっ?あった」と驚きながら言い、そのあと「力抜けよ」「力抜けって言ってんだろうが」「切れるぞ」と言った。そして早川の「アン」という声で終わった。
「獲れたわよ」
美枝子が指で摘まんでいたのは確かに鍵だ。早川のお気に入りのキャラクターのキーホルダーにつけられた鍵だった。
ハネさんが受け取ろうとすると、美枝子は「バッチイから洗った方が良いよ」と言った。
結局、俺が洗う羽目になって、横で美枝子は自分の手を念入りに、これでもかと洗剤を使って洗った。
「ねぇ、久保ちゃんって、ハネさんのこと知ってるのよね」
「はい?」
「だったら、私とあんたで行くよ。じゃないと、あとで気まずいでしょ」
「けど、ハネさんを残すのは……」
「喋れないように猿轡咬ませとけば大丈夫よ。私も羽田さんに言うし」
「でも……」
美枝子は俺の答えも聞かずに話し出した。
「羽田さんは残ってね。私と誠で行くから」
「ああ、それがいいですね」
ハネさんは素直に従った。久保奈生美がどんな姿で閉じ込められているかを考えて気を遣ったらしい。
「ハネさん、廊下の角でコイツを見張っていて下さいよ。そんで、何かあったら直ぐに来て下さい」
そう俺が付け加えた。
もう一度俺が早川に猿轡を咬ませ、西瓜柄のヘルメットを被った美枝子を先頭に、ハネさんを連れて廊下を進んだ。
ハネさんは言われたとおりに角で止まった。俺の意図を理解しているようで、「何もせんから安心しろ。ちゃんと助けてきてくれよ」と言った。
俺が鍵を差し込み回すと、小さくカチャリと鳴っただけで鍵は開いた。
取っ手を引き上げて重いドアを押し開く。
中は暗闇で、エアコンのファンが回っている音だけが響いていた。アロマが漂う中に淫靡な香りが混ざり込んでいる。
一瞬遅かったかと思ったが、壁を探って灯りをつけると、部屋の中央に置かれたベッドの上に、両手をベッドヘッドの鉄柵に括られ、両足を開いた状態でベッドの脚に繋がれた、裸の女が横たわっていた。その女は、パンツの代わりに革のベルトのようなものを装着されていた。
部屋は可愛い感じのピンクで統一されていて、棚に並んだ数々の性具までもがオブジェのように飾られていた。だが、ここにはあのキャラクターはいなかった。
俺は脱いでいたパーカーを彼女に被せて、二人で手足の拘束具を外した。
女は呼吸をしていた。薬でも盛られているのだろう。しかし、眠っている素顔では、これが久保奈生美だとは判別出来なかった。化粧とは魔法だと俺は思った。
抱き起こしてパーカーを着せた。彩香より一回り小さかった。多分、彼女が久保奈生美だろう。口元が翔に似ている気がした。
美枝子が股間の革ベルトのようなものを器用に外した。内側には二本の黒い棒が飛び出ていて、濡れて鈍く光っていた。
美枝子は周りをキョロキョロと探し始めた。何か彼女の腰に巻くものを探しているようだった。そして、自分がきているスカジャンを脱ごうとした。
中に着ているのは薄紫のタンクトップで、右肩から腕にかけて龍が巻きついているのが露わになった。
「美枝子さん、それは不味いですよ」
「あっ、そうね」
美枝子はスカジャンを着直した。
俺は彼女を抱き上げて、その間に、美枝子にベッドシーツを剥ぐように言った。
もう一度彼女をベッドに寝かせて、俺は五徳のナイフを使ってシーツを二つに切り裂いた。それを美枝子が彼女の腰に巻いた。
それから俺は、彼女の名前を呼びながら頬を叩いて目を覚まさせた。
暫くして彼女は目を覚ました。だが、うつろな表情のままだ。
「ねぇ、目を覚まして」
美枝子の声に反応した彼女は、美枝子から後退りするように身を逸らせた。そして、俺が横にいることに気づくと、「いやぁ」っと言って身体を縮めて震え出した。
「大丈夫。助けに来たのよ」と美枝子が言っても震えるだけだった。早川に散々玩具にされたのだろう。
俺は廊下に出てハネさんを呼びに行った。
「いたか?」
「確認してくれへんか?俺じゃ判別出来ん」
「そんなに……」
そう言ってハネさんは顔を青くした。
「いや、スッピンやからなぁ」
「ああ、だったら」
そう苦笑いしながら言うと、ハネさんは奥の部屋に向かった。
早川はじっと床に転がったままだった。
奥の部屋からハネさんが顔を出して「久保奈生美だ。間違いない」と言った。
俺はリビングに戻って、早川、いや、森田由梨乃に話を訊くことにした。まぁ、俺の仕事は終わったから、今となってはどうでもいいことなのだが、久保奈生美を連れ出るには、まだ時間がかかりそうだった。それに、警察に持っていかれたら、答え合わせが出来ないのだ。
猿轡を解いて質問しようとした。
「どうして此処にいるってわかったの?」
逆質問だ。悔しさと腹立たしさを隠そうともしない。
「答えたら、俺の質問に正直に答えるか?」
森田は考える素振りを少し見せたあと、「わかったわ」と答えた。
「それはなぁ、あんたが名前を口にしたからや」
「名前?」
「そうや。俺があんたの店に行って、久保奈生美と翔が写った写真を見せると、あんたは覗き込むように写真を見て顔を思い出した、時々、二輪だけ花を買いにきてくれるから憶えていると。そんで、四日前の夕方に向日葵を買って帰ったって言うたよなぁ」
森田は口を真一文字に閉じて、じっと俺の目を見ている。
「俺が『その時、久保さんと、どんな会話をされましたか?』って訊いたらあんたは、『へーっ、その人、久保さんってお名前なんですね。さぁ、何を話したでしょうか?多分、いつものように、よくある世間話をしただけだと思いますが』ってあんたは言うた。それでも俺が、四日前はどんなことを話したのか思い出せんかってしつこく訊いたら、あんたは急に喚きだした。『その人が前に言っていた、しつこく言い寄る男の人ですね』って般若のような形相で言うたわな」
まだ森田は表情一つ変えていない。
「そのあとも、がさつでデリカシーがないだの、人の嫌がることをしては駄目だと学校で習ってこなかったのだの、女を怖がらせて何が楽しいんや?ってとんでもないこと捲し立てて、しまいには警察呼ぶって」
「ええ言ったわ。でもそれだけだわ」
「まぁ最後まで聞きぃや。『ちょっと落ち着こうか』って俺が言うたあと、ちゃんと話を訊きたかったから、『残念ながら、俺は彼女には会ったことがない』って、手の内をあんたに見せたんや。そしたら、『嘘仰い。じゃあどうして奈生美さんのことを訊いてくるのよ?おかしいじゃない』ってあんたは知らんはずの奈生美の名前をさん付けで口にしたんや」
「嘘」
「嘘やないよ。それがずーっと引っ掛かってた。だから、あんたに警察呼ぶって受話器を持たれたあと一旦引いて、俺は久保奈生美の周りを調べられるだけ調べた。楽やったわ、久保奈生美は人付き合いの少ない人間で。その中であんた以外、嘘を口にする奴はおらんかった」
「嘘よ。絶対、嘘」
「嘘なんか言うかいな。こっちは何十年って人の言質を取って、いや、揚げ足を取って金にしとったんやから、諦めぇや」
俺は笑顔で言った。
森田由梨乃から、無理して張っていた力が抜け出た様子だった。
俺は、一番謎に思っていた、何故、整形をして早川芽美になったのかを問うてみた。
森田は、「どうして……」と口にしたまま、また顔を蒼くさせた。
「はなから森田由梨乃として殺すことを前提に顔を変えたんか?」
「あれは、自殺よ」
「警察では事故とみてる。それを狙ってた?」
「違うわ。本当に自殺よ。芽美の夢が叶ったのよ。だから」
驚いたことに、それは早川芽美が言いだしたことだと素直に森田は言った。『私は、私自身に抱かれるのが夢なのよ』と、早川がそう言ったのだと。
頭の中は混乱していた。自分が自分に抱かれる?理解不能な言葉が出てきた。
森田由梨乃は、訊いてもいないのに言葉を続けた。
札幌で知り合って、森田を初めて抱いたのが早川だと言った。勿論、薄々は自分でも女性に対しての方が好きになれると気がついていた。
でも、直ぐにそんな関係は終わりを迎え、早川は音更に連れ戻された。そんな離れ離れになっている時に、電話口でその言葉を言われた。『私がお金を出すから、由梨乃、私にならない?』とも。
そのあと暫くの間、自棄になって女男関係なく抱いたり抱かれたりしたと森田は言った。男はいつも私を便所のように扱った。それで、やはり自分は女の方が好きなのだと気がついた。そんな頃に函館に戻って来たと言った。
そういうことか。俺は納得がいった。
「それで、羽田心音をさらった」
俺は言わないでおこうと思っていたことを口に出してしまった。流れ上仕方のないことだった。
「そうよ。でもね、抑え込んでたのよ、両親が亡くなるまで、ずうっと」
最後の語尾が擦れた。
俺は冷蔵庫にあった水のペットボトルを持ってきて、森田を起こして壁にもたれさせ、封を開いて水を飲ませた。
水が零れた口元を拭うついでに、頬にこびりついたゲロの跡を拭いてやった。
「ありがとう。やさしいのね」
俺は続きを無言で促した。
「あの子が高校に入学した時に初めて見て、一目で気に入ったの。小さくって、とても可愛かったの。時々あの子と愛し合うことを思いながら、卒業までの時間を独りで過ごしていたの。あの頃は自分は変なんじゃないかって思ってた。大学で札幌に行って、あの子を見ることがなくなって、そしたら、芽美に抱かれて……。函館に帰って来てから、またあの子を街で見たの。そしてら、昔の思いがぶり返してきて。でも、ダメだって。そう抑え込んでいる時に、父がぶら下がっているのを見て、人間はいつか死ぬんだなぁって思って、それでも抑えていて。でも、母が亡くなったら抑えが利かなくなって。だから、私、芽美になることを決めたの。お金は母の保険金があったから、芽美には黙って整形をしたの。先ずは顎周りを整形して、ちょっとだけ綺麗になったって自信がついたら、あの子に対する思いが止まらなくなって、何とか話せないかと近づいて……。そしたらあの子、堕胎した直後だったらしくて、直ぐに仲良くなったわ」
俺はハネさんが聞いていないか周りを確認した。
「何度か食事にも行ったし、お酒も飲んだ。それに、たまに車で送り迎えなんかしてたわ。そしたら、あの子『会社にも行きたくないし、家にもいたくない。消えてなくなりたい』なんて言うから家に連れて来たの。それから、私も仕事を辞めて、半年ぐらいずっと一緒に居たの」
「心音は、何故死んだ?」
「それがわからないの。前の日から調子が悪いって言ってて、病院に行こうって言っても大丈夫だからって言われて……」
森田は涙を溢れさせた。
「そしたら、朝起きたら死んじゃってて。どうしていいのかわからなくなって芽美に電話をしたら、直ぐに来てくれたの」
「早川芽美が埋めようと言うたんか?」
「そうよ。顔を芽美にすることを引き換えに手伝ってくれたの。でもね、私は俱多楽湖の畔に埋めてあげようって言ったのよ。あの子が好きな所だったから。でも、埋めることが出来なくて、そしたら芽美がちょっと遠いけど湖の畔で静かな場所があるからって」
俺の中で俱多楽湖の謎が解けた。あとは“レイラちゃん”だけだ。
俺は続けて話を訊いた。再び早川芽美を森田由梨乃として殺したのかと訊いてみたのだが、あれは自殺だと森田は断言した。
早川芽美に言われるまま森田は此処を処分した。借金を返さなければという口実で斎藤不動産に売却したのだ。
早川は、そのあと直ぐに自分そっくりな顔にするために森田由梨乃を東京の美容クリニックに連れて行き、三ヵ月ほど東京で暮らした。術後の経過が良くなってからは音更の屋敷に連れ帰り、離れに住まわせて、自分とそっくりな顔をした森田を夜毎抱いたのだという。
だが事故の一週間前、早川芽美は体調を崩し、血を吐いた。
それから毎日、早川は「母親のようにみすぼらしくなって死ぬのは嫌だ」と言うようになった。母親は胃がんで亡くなっていて、最後は痩せ細り血を吐いていたというのだ。
その恐怖からか、早川は益々食欲が失せ痩せていったのだが、事故を起こす日の昼間、珍しく体調が良いと言って森田にコーヒーを淹れてくれたそうだ。
だが、それを飲んだ途端に眠くなり、気がつくともう夜中になっていた。
早川の姿は屋敷の何処にもなく、森田の身の回りの物も車もなくなっていたと、森田は静かに言った。
「大丈夫か」
「ゆっくりでいいよ」
そう廊下の奥の方から声が聞こえた。やっと久保奈生美が動けるように落ち着いたのだろう。
遠くの方でサイレンも鳴り始めた。ハネさんが連絡をしたのだろうか?いや、時計を見ると、長谷さんに電話をしてから優にニ十分を過ぎていた。
俺はもう一度、森田に猿轡を嵌めて、一つだけ約束させた。
「警察行っても、心音の堕胎の件は黙っとけよ」
森田が頷いたのを見届けて、俺は廊下の奥へ向かった。
警察は羽田心音の住所がある函館西署のもので、ハネさんが津田に連絡を入れて、津田が手配したものだったが、長谷さんが110番したものだから、函館中央署も駆けつけて来て、現場前の道路一帯が混乱した。
久保奈生美は、拘束されて壁にもたれた森田由梨乃の横を通る時に、醒めた目をしながら「死ね、変態」と一言言って唾をかけた。
森田は顔に唾をかけられながらも、少し笑ったあと、うっとりとした。
俺はその姿に、森田が話したことが、何処までが本当で、何処からが嘘なのかわからなくなっていた。
長谷さんの車で向かった警察では、俺と美枝子は靴跡を取られただけで指紋は取られなかった。俺は若いころ東京にいた時に容疑者として指紋を取られているし、美枝子だって関係者指紋として警察のデータにあるからだろう。それに、仲野から連絡が来ていたからだろうか。
津田が来るまでの間に、俺と美枝子が並んだ状態で聴取した警官は、キッチリと肩に星が並んでいる制服を着ていて、とても丁寧な扱いだった。美枝子が、お腹が空いたと言うと、コンビニの弁当まで出してくれた。美枝子には特にペコペコしていたのは、日頃の寄付金のせいか。
その代わりに、天辺を越えた頃にノコノコとやって来た津田の、俺への当たりはいつも以上に強かった。
ネチネチと聴取を取られ、ネチネチと小言を言われ、最後にどうして警察庁の人間を動かせたのかをしつこく訊かれた。
隣に座っていた川口も呆れるほどで、美枝子は長いソファーの上で横になって、気持ち良さそうに居眠りをしていた。
どうして仲野は指示を徹底しなかったのだろう。少しムカついたから、千歳空港の事件のことを薄っすらと仄めかしてやった。
すると、川口は訳がわからない様子だったが、津田は一気に黙り込んで、やっと俺は解放された。
久保奈生美は病院に行ったあと、本人が大丈夫だと言うので、俺達がいた函館西署に午前二時過ぎにやって来た。
こちらに奈生美が来るというのを聞いて、廊下の長椅子に座って待っていた俺達の前を、婦人警官に付き添われながら通った時は、もう笑顔を浮かべるくらいになっていて、誰のものなのかは知らないが、少し大き目なワンピースを着ていた。
そして、綺麗に畳んだ俺のパーカーを、美枝子に「ありがとうございました」と言って返した。
畳み方が久保奈生美らしくなかった。付き添いの婦人警官が畳んだものだろうと、俺は思った。
ハネさんが「待ってるからね」と言うと、奈生美は少し振り返り、「はい」とだけ言って部屋に入っていった。
暫くして俺は、隣で暇そうに何度も欠伸をしている美枝子のことを考えて、「そろそろ俺達は」とハネさんに言ったのだが、美枝子に頭をパチンと叩かれて、「久保ちゃんを翔君に届けるまでが仕事だよ」と怒られた。
そこで俺は暇潰しに、先ずは美枝子に疑問を投げてみた。
「あのう、美枝子さんは流れていた曲を聞いて、『むらむす』って言ってましたけど、あれは何やったんすか?」
「えっ、『むらむす』?何よそれ?」
「いや、ほら、廊下でリビングに入るのに様子を窺ってた時に、(『むらむす』と口だけ動かして)ってやったやないですか」
「ああ、ブラームスね」
俺は、赤面しそうだった。
「ブラームスのヴァイオリン協奏曲よ。きっとあれは、イッアーク・パールマンでバレンボイムの指揮だったわ。ふん。どっから『むらむす』って名前が出てくんのよ。バッカねぇ。この役立たず」
美枝子は途中で俺の失態を思い出したようだ。藪蛇だった。
「なんだ、ブラームスを『むらむす』ってか。ハハハハハッ。おもしれぇわ」
そうハネさんは大きな声で笑ったが、久し振りの大事件で喧騒中の署内には響くことはなかった。
人の失敗に大笑いして、楽しそうなハネさんに訊くのは気が引けたのだが、此処を出るともう会うこともないだろうと思って疑問を投げた。
「ハネさん、こんな時に何ですけど、“レイラちゃん”ってどうしてレイラちゃんなんですか?」
やはりピタリと笑いが止まった。
「何よ何よ、羽田さんの女の話?」
面白そうだと思った美枝子が口を挟んできた。
「違いますよ、心音さんのあだ名です」
俺がそう教えると、美枝子はバツが悪そうな顔をした。
「レイラちゃんか……」
「俱多楽湖でも呟いてましたよね」
俺は何も知らない風で訊いた。
「ああ、呟いてたなぁ」
「いえ、言いたくなければ、無理には訊きませんから」
「別に。あれは死んだ妻がつけたあだ名だ。まだ心音が腹の中にいる時に、クラプトンのレイラがかかると、良く動いたんだ。だから妻は、生まれる前からあだ名をつけて“レイラちゃん”って、腹ん中の子に呼びかけていたんだ。生まれて心音って名前がついても、心音って呼ぶよりも“レイラちゃん”って呼んだ方が良く笑ったんだ。だから、レイラちゃんだよ」
そう言ってハネさんは遠くを見つめた。
暫くの間、喧騒の中の静寂に三人は座っていた。
久保奈生美が解放されたのは、空が白む頃だった。今日のところは、というものだ。また明日から何度か調書が取られるかもしれない。
もう保護施設には警察から連絡が入っていると、付き添いの婦人警官が言った。
俺は日が昇ってからでもいいだろうと思っていたのだが、俺以外の三人は一刻も早く翔に会いたいようだった。
長谷さんの車には久保奈生美と美枝子が乗って、俺はハネさんの加齢臭が染みついた軽自動車の助手席に乗って施設へ向かった。
流石に俺は疲れが出ていた。だが、ハネさんは元気だった。
空が開け始めた頃、電気が点いている施設の敷地に、二台揃って進入した。
長谷さんが降りてドアを開けた。久保奈生美が車から降りてくると、少しヨロけて長谷さんがそれを支えた。
美枝子も回り込んで、久保奈生美を支えた。
俺はその様子を見ながら助手席から降り、久保奈生美と美枝子の元へ走り寄った。
走りながら、そこまでして直ぐに子供に会いたいものなのだろうか?そんな疑問が俺の中に浮かんだ。
もう少しで施設の玄関に着くというところで、玄関のドアが勢い良く開いて、小さな物体が走り飛び込んできた。翔だった。
奈生美は跪いて翔を抱き締めた。
「お帰り」
「ただいま」
翔と奈生美が流している青い涙は、至純の涙だった。
さっき浮かんだ疑問が何となく解決した気がしていた。
美枝子も、ハネさんも、長谷さんまでもが涙を流していた。
涙が流れない俺は、人としてどうなのだろうと、ふと思ったんだ。
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