9


 寝る前の心ざわめく電話にも、俺の睡眠欲は負けてはいなかった。よほど身体が疲れていたのだろう。


 目覚めは爽やかだった。が、起きる時に毎朝感じる疲労感が今日は二割増し、その上、身体のあちこちに軽い痛みが生まれていた。年をとった証拠だ。


 今朝も湯船には湯が張られていて、ユラユラと湯気が立ち昇っている。


 シャワーを浴びながら、昨夜の美枝子の乱れようが頭に蘇ってきた。一度プールで触れて以来二十年近く憧れていた身体をこの腕に抱いたのだ。五十を過ぎたはずなのに、手入れを怠らないからか、元々そういうものなのかわからないが、あの時の感触と何ら変化はなかった。また硬くなっていく。


 湯上りに、冷たいシャワーを浴びた。そういえば、昨日は弁天を見ただろうか?


 何とか髪を整えながら収めて、俺は朝食が並べられているテーブルへ着いた。


 向かいに座る美枝子は何もなかったかのように振る舞っている。単なる飲んだ勢いだったのかもしれない。


 お手伝いの静江さんは何処か昨日までとは違い、より優しくなったような気がした。笑顔の奥に何か含んでいる。


 これは昨夜の行為がバレたということか。


 二人向かい合って黙々と朝食を食べている中、美枝子は味噌汁の中を覗き見ながら言った。


 「あんた、『阿さ利』で、肉が食べたいって言ってたわよね」


 必ず行こうと決めていた店の一つが突然出て来て俺は少し焦った。美枝子には話していないのに何故わかったのだろう?


 「え、ええ」


 「今夜六時ね。静江さん、予約入れておいてね。お願いします」


 そう言ったあと美枝子は、再び寡黙になって朝食を食べ進めた。


 やっぱり、酔った勢いではないようだった。駄目だ。頭の中がアレで一杯になりそうだ。気を紛らせるために箸を進めるスピードを上げた。俺の方が早く食い終わった。


 「ご馳走様でした」


 「コーヒーは如何ですか?」


 「いただきます。でも、部屋で今日の調べ物をしながらいただきます」


 「では、あとでお持ちしますね」


 「あっ、すみません。じゃあお願いします。美枝子さん、お先です」


 俺はそう言って部屋に戻った。美枝子は軽く俺を見るだけだった。




 PCでもう一度、ガラ携にメモした場所と名前を確認したあと、市電の駅とバスの停留所の乗り換えなどを確認した。しかし、どうしてもタクシー移動が必要だ。都会のようにタクシーが街を流しているということはない。乗りたければ、呼ばなければならないのだ。雨が降っていなければ相棒で動き回れるのだが、何とも恨めしい。


 今日含め四日間で久保奈生美を探し出さなくてはならない。彩香とちゃんとお別れの時間を過ごすためだった。それに今さっき、今日のリミットまで設けられた。午後六時には『阿さ利』にいなければならない。


 阿さ利の件は俺にとって申し分ないのだが、夕方、奈生美の同僚に再び話を訊くことになるだろうと思っていたのに、それが明日以降に持ち越しになる。


 奈生美がいなくなってから五日目だ。殺しが目的ならもう奈生美は死んでいる。そうでなければ、まだ生きていると俺は考えている。生きていても、地獄のような時間を過ごしているのだろうが、生きていることにはかわりがない。


 俺の中に焦りが生まれてこようとしている。


 高岡ちゃんに借りているスマホもフル充電出来ていた。いつもは使うことが少ないのだが、今日迷った時はこれが頼りだ。ヒップバッグのいつもの場所に収めた。


 ドアがノックされ、俺が返事をする前にドアは開かれた。


 マグカップを手にした美枝子が入ってきて、うしろ手でドアを閉めた。


 「ああ、ネェさんすみません」


 「ネェさんはもうやめようか、美枝子さんね」


 「はい、わかりました。美枝子さん」


 「バレちゃったわよ」


 美枝子は、少し顔を赤らめながらマグカップを机の上に置いた。やっぱりかと思った。


 「私を起こしに来た時に、ゴミ箱の中を見られたのよ。それで言ったの、『静江は安心しました』って」


 「はぁ……」


 「まあ、私が誰と何をしようと文句を言われる筋合いはないけど、この歳になって、ちょっと恥ずかしかったわ。あんたのせいよ」


 「それは、すみませんでした」


 と言いながら、俺のせいちゃうやろ!と心の中でツッコんだ。


 「いいのよ。なんせ十五年振りのアレだったんだから。誠、今日もしっかり働けよ」


 そう言うと美枝子はとっとと出ていってしまった。奈生美のことには関心がないのだろうか?


 俺の頭には色んな?マークが並んでしまった。だが、今考えても仕方がない。俺はPCで今日のニュースを見て回った。


 津田が昨夜話していた事件の記事があった。


 “美生湖近くの山林で白骨遺体が見つかる”の見出しのあとは、津田から聞いた話と大した違いはなかった。関連するページを開けてみたが、どれも似たり寄ったりのことしか記されていなかった。


 だが、出てきた骨から性別ぐらいはわかっているはずだ。警察は故意に情報を伏せたのか。何か犯人に繋がるものを隠そうとしているのだろうか?




 昨夜見た小さなシャッターの向こうはこうなっていたのか。


 雨煙の向こうに見える『La petite fleuriste』は、白を基調としたウッディー調のお洒落な店構えだった。


 だが花屋が単体で建っている店ではなかった。道に面して横長の建物が建っていて、『La petite fleuriste』はその一番端にあった。この店の上にだけ、北海道でよくある急斜面の屋根があったので、昨夜はそう見間違えていたのだ。


 人通りも車の通りも少ないこの場所で、花屋が営んでいけるのだろうか?これは俺が最初に思った疑念だった。


 元は何の建物だったのかはわからない。『La petite fleuriste』の隣には灰色の壁が続き、建物の終わり近くには閉まったままの大きなシャッターがあった。ここは昔、何かの工場だったのだろうか?


 店の外観を観察した俺は、道路を渡って『La petite fleuriste』に近づいた。


 白い木製ドアの隣にはショーウィンドウがあって、中には色とりどりの花で飾られた大きなリーフがあり、その下に三種類のブーケとボックスフラワーが一つ展示されてあった。どれも色使いが可愛らしい造形美が、現代アートのように展示されてあった。


 普通に飾られているということは、これは造花なのだろうか?


 “全国に発送致します”の文字と、ホームページアドレスとQRコードが描かれたプラスチックのボードが、ガラスの内側から貼られていた。


 ショーウィンドウから覗く店内に人気はなかった。


 それに、俺は花屋のことを詳しくは知らないが、どうも置かれている花の量が少ないと感じた。


 この花屋は、ブーケやボックスフラワーの通信販売がメインで、一般的な花の販売には力を入れていないのではないだろうか。もしかすると、この古びた建物全部が花屋の持ち物で、シャッターが閉まっていた奥には、場所を食う観葉植物を管理していて、レンタルの稼ぎが本筋でこの店はオマケのようなものなのかもしれない。ならば立地の悪さも頷ける。何しろ俺の中で、車で前の道を通っていて、ふらりと花を買いに立ち寄るなんて要素が一つもなかったからだ。


 値の張りそうな立派なドアを引き開けた。奥の方で、鳥のさえずりに似た電子音が鳴っている。もっと違うものでも良かっただろうに、そう俺は思った。


 店内に入って直ぐの足元にあった高級そうな傘立てに、俺は赤い傘を差し込んだ。


 顔を上げると、花屋とは思えない洒落た感じの空間があって、何処かアート作品を見ているような気になる。


 ガラス張りの大型冷蔵庫のようなケースがあり、そこには俺がこの旅では見たことがないような変わった花が、まるで高級志向の寿司屋のように値札なく並んでいた。多分、全て値が張るものなのだろう。外から見えていたのはケースの前に並んでいた小洒落たバケツに入った草木だけだったのだ。


 奥にはカウンターがあって、反対側の壁際には作業台があった。その上に梱包を終えた段ボール箱が六個置かれていた。やはり通販を基礎とした商売をしているのだろうか?それだけが現実感を漂わせていた。


 此処へ奈生美が部屋に飾る一輪の花を買いに来ていたのだ。どうしても違和感が拭えない。翔が言ったとおり、奈生美とメグミの間に友人という関係性があって、足を運んでいたということなのか?


 そして天井には、この店の雰囲気には不釣り合いな、防犯カメラが設置されていた。それほど防犯対策が必要なのだろうか?


 訊かなければならない疑問が積み上がる。


 奥のドアが開いて、高級そうな服を身に纏った背の高い女性が現れた。年は四十ぐらい。出来る女が放つ自信満々の空気を身に纏っていた。この女がメグミだろうか?


 「いらっしゃいませ。御予約の方でしょうか?」


 「いえ……」


 此処は予約が必要な店なのか?


 「こちらは、花屋さんですよね?」


 「ええ、花屋ですわ」


 笑みを浮かべてはいるが、目の奥が何か探っているようだ。こんななりの男が突然現れたら、警戒するのは当然だ。


 「あのう、そこに飾ってあるブーケは、生花ですか?造花ですか?」


 「右端にあるブーケとボックスフラワーは生花ですが、あとの二つと上にあるリースはプリザーブドフラワーです。造花ではありません」


 「へーっ」


 言葉では受け流しながら、俺は頭の中にメモした。プリザーブドフラワーがどのようなものなのか、あとで調べる為だった。


 女は初めて俺を見て本気で微笑んだ。プリザーブドフラワーに対しての無知を見せたからだろう。


 「名刺頂けないですか?今度友人が何度目かの結婚をするらしいので、贈り物にどうかなって思ったもんで」


 「はい。少々お待ちを」


 女はカウンターに行って、其処の引き出しから一枚の名刺を取り出し戻ってきた。


 「お待たせしました。オーナーをしております。ハヤカワメグミと申します。この店の全ての作品を手掛けております」


 そう言って差し出された名刺は淡い紫色で、オーナー&フラワーコーディネーターと書かれた肩書があった。そしてその下に、早川芽美の文字が並んでいた。芽美と書いてメグミと読むのか。どうも、飾られていた色使いの可愛い作品の作者だとは思えなかったが、こういうギャップもいいものかもしれない。そう俺は思った。


 「裏にホームページのアドレスとQRコードが書いてありますので、全国何処へでもお送り出来ますので、どうぞよろしくお願い致します」


 早川芽美は俺のことを、金を落とす客ではないと判断したようだった。


 「あのう、一本だけとかは、花、売ってはもらえないんでしょうか?」


 「いえ、そんなことありませんよ。ですが、お客様のお気に召すようなものがあるかどうか……」


 芽美は初めて言葉を濁した。余り、無駄な時間を費やしたくないようだった。


 「こんな向日葵はないですか?」


 俺はガラ携で写した、奈生美の部屋に飾られていた牛乳瓶に挿された向日葵の写真を見せた。


 芽美は先ずガラ携に驚いたあと、顔を近づけて写真に見入った。


 「向日葵……」


 そう口にしたあと一瞬、左眉と額をピクリと動かした。そしてそんな変化を誤魔化すようにケースの方に振り返った。俺にはそう見えた。


 「今はないですねぇ」


 俺に向き直ると目の笑っていない笑みを浮かべた。


 「そうですか。残念です。久保さんの家で見たものですから」


 芽美は不思議そうな顔をした。知っていて知らないと演じているのか、本当に知らないのか、俺には判別が出来なかった。もしかして苗字に心当たりがないのか?疑問だけが残った。


 「この人なんですが」


 俺はハネさんから預かった久保奈生美と翔が写った写真を見せた。


 芽美は覗き込むように写真を見て、「あーっ」と声を出した。顔を見て思い出したようだった。


 とすると、翔が母親の友達と言っていたことはどうなる?只の奈生美の思い込み。好意の一方通行だったのか。


 「この人、時々ですが、いつも二輪だけ花を買いにきてくれるんですよ。だから憶えています。最近は確か……」


 そう言いながらカウンターまで行ってPCを操作した。


 「四日前ですね。夕方に買いに来られました。向日葵です」


 芽美は顔を上げると俺を真っ直ぐに見て言った。


 確かにレシートに記されていた日時と相違なかった。俺が翔に会った日なのだ。 


 「その時、久保さんと、どんな会話をされましたか?」


 「へーっ、その人、久保さんってお名前なんですね。さぁ、何を話したでしょうか?多分、いつものように、よくある世間話をしただけだと思いますが」


 芽美はカウンターから出て歩きながら言うと、俺の目の前に立った。


 「来店時には、よく話はしていたんですね?」


 「ええ、勿論。お客様ですから」


 「そうですか。でも、世間話といっても色々ですよねぇ。四日前はどんなことを話したのか思い出せませんか?」


 しばらく腕組みをして思案していた芽美は、急に何かを思い出したらしく、突然キッと目を吊り上げ俺を睨んだ。


 「思い出しました。もしかしてあなた、その人が前に言っていた、しつこく言い寄る男の人ですね。どうして、嫌がっている女性にそういうことをするんですか。全く男って生き物は、がさつでデリカシーがないのかしら。これ以上、変なことをするのなら警察呼びますよ」


 とんでもないことを捲し立てた。まるで般若のような形相だった。


 しつこく言い寄る男ってのは、紀田のことだろうか?でも、同じスナック美穂に通い、紀田とも面識のある彼氏の野間からは、紀田がしつこく言い寄っているなんて話は聞かなかった。もしかすると、野間に心配かけまいと奈生美が話さなかった別の男の存在があったのだろうか?


 それよりも今は、目の前にいる感情を昂らせた芽美を大人しくさせなければならなかった。


 「本当に嫌。あなたは学校で習ってこなかったのですか?人の嫌がることをしては駄目だと。女の人を怖がらせて、何が楽しいんですか?」


 「ちょっと落ち着こうか」


 「こんな時に落ち着けだなんて、全くもうわけのわからない人ね」


 「だから、話を聞いて下さい。残念ながら、俺は彼女には会ったことがない」


 「嘘仰い。じゃあどうして奈生美さんのことを訊いてくるのよ?おかしいじゃない。あなたその人と何の関係があるっていうの。どうしてその人のことを私に訊くのよ。あなたストーカーね。その人のストーカーなんでしょ。今から警察呼びますね。警察の人が来てからお話しましょう」


 そう言いながら、芽美はカウンターへ走り寄って、電話の受話器を手に持った。


 「ちょっと待って下さい」


 俺は慌てて、芽美を手で制した。


 「いえ、待てません。此処は防犯カメラがあるから、変なことをしても駄目ですよ。ねっ、やましくないのなら、警察の方に来て頂いてからでも遅くないでしょ。警察の方が来られてから、ゆっくりお話ししましょう」


 そう受話器を持ったまま俺に喚いた。


 「落ち着いて。本当に落ち着いて。実は彼女、失踪したんですよ。ここに向日葵を買いに来た日に。彼女、この男の子を一人残して、失踪してしまったんです」


 芽美は理解が出来ない様子だった。それからゆっくりと口を動かした。


 「し、失踪?」


 「そうです。幼い息子を一人残していなくなったんですよ」


 その言葉を聞いて芽美は、頭の中を整理しているのか、ぼうっと宙を見つめていた。奈生美の失踪を、芽美は本当に知らなかったようだ。


 「何か手掛かりはないかと翔に訊いたら、あんたの名前が出てきた」


 「そうですか。でも、その人とは、いちお客様としての関係しかなかったから。何もあなたに教えてあげられることはないと思います」


 「じゃあ、そのしつこく言い寄ってた男のことをもっと教えて欲しいんやけど」


 「それは知りません。しつこく言い寄ってくる男がいるとしか聞いてませんから。それにそんな自慢話、よくある話でしょ。それよりあなた、本当に何者なんですか?」


 俺は名を名乗り、元函館警察のハネさんに頼まれて捜索の手伝いをしてるのだと教えた。


 芽美の顔が一瞬強張った。元警察官という肩書は、人を信用させるのには絶大な効果があった。そして、高揚していた顔つきが治まっていった。


 PCからピコンと音が鳴った。芽美は急いでPCに向かう。


 「あらぁ、すみません。お得意様から急ぎの注文が来たようなので……」


 そう言うと芽美は受話器を置いて、PC画面に視線を集中させた。


 「あっ、そうですか。今日は驚かせてすみませんでした。じゃあまた、お話聞かせて下さい」


 「ええ、いつでもどうぞ。でも、力になれないかもしれませんが」


 そう言って俺に笑顔を見せた。ホッとしたのか、芽美はちゃんとした笑みを浮かべていた。


 「次伺う時には、ハネさんも連れてきますね。ありがとうございました」


 「いえ、何のお力にもなれずにすみません。その人、早く見つかるといいですね」


 俺は、目一杯微笑んでから店を出た。


 雨は強くなっていて、傘で鳴る雨音が五月蠅かった。


 ここから奈生美の職場までは、都合の良い交通手段がなかった。タクシーを呼ぶために入れる店もなかった。だから調べていたコンビニまで向かいながらタクシーを呼んだ。本当に雨が恨めしい。


 イートインでコーヒーを飲んで過ごした。それにしてもコンビニコーヒーは美味くなった。


 飲みながら、芽美との会話を思い返してみた。


 やはり俺のような風体で、初めて会った人に信用しろと言っても無理がある。だが、それは織り込み済みのことだ。


 花屋の芽美は奈生美の友達だと翔は言った。しかし、あの様子では奈生美の片思いだ。それにしても、あんなに感情の起伏が激しい女には、久し振りに出会った気がする。奈生美は芽美の表の顔だけを見て、親近感を持っていたのであろう。近頃は、ネットで繋がっただけの、ひと面識もない他人を、平気で友達だと言い張る時代なのだ。奈生美もその類の人間なのかもしれない。


 もう一口喉に流し込む。雨降る夏の函館の寒さに馴染んだ身体に、温かさがス―ッと落ちていく。


 別の男か?いったいそれは誰なのか?


 今のところ俺が理解している久保奈生美には、中井戸、野間、紀田以外に男の影はなかった。すると、過去に関係のあった人間だろうか?その辺りから探し始めるのが良いのかもしれなかった。


 それにしても警察沙汰にならずに済んで良かった。もうこれ以上警察の人間と、お知り合いになる気持ちは毛頭ないのだから。


 何だろう?何かが俺は気になっている。


 その答えが出てくる前にタクシーは現れた。


 急ぎ飲み干し、傘も差さずに乗り込んだ。


 移動中も考えてみたのだが、俺の中で引っ掛かっているものが何なのか、一向に答えは出てこなかった。


 奈生美が働いている食品加工工場は、線路よりも海側に在った。


 思っていたよりも小さな工場だった。隣にある水産加工会社の社屋の方が何倍も大きかったので、余計にそう感じたのかもしれない。


 昼休みまではあと二十分程ある。


 ハネさんが連絡を入れてくれているはずだ。先ずは事務所に行って工場長に挨拶に向かった。


 工場長は俺の風貌を見て、「本当なんだなぁ」と言ってニヤけたが、どんな意味なのかわからなかった。


 応接室に通されて、お茶まで出してくれた。


 「もう直ぐ昼だから、それまでここで待っててよ」


 「はい、ありがとうございます。その前に、工場長からも話をお聞きしたいんですが、如何でしょう?」


 「俺から?いいよ。久保さんのためになるんなら」


 工場長は俺の目の前にデンと腰を下ろした。そして、俺の質問に全て答えてくれた。


 久保奈生美は、一昨年の春からパート社員としてこの工場で働き出した。


 勤務態度はいたって真面目で、翔が病気などの理由以外は欠勤することも早退することもなかった。だから、翔の小学校入学に合わせて正社員として採用し直したという。勿論、夜のバイトのことも知ったうえでだった。


 だが、人付き合いはそれほど良くはなかった。翔がいるので、朝はギリギリ、終わりは直ぐに帰宅していて、他の従業員と仲良く仕事終わりに集うことがなかった。それに他の従業員達とは最低でも十歳以上年が離れていたのと、夜の仕事のことは他の従業員達には内緒にしていたこともあって、それも少し孤立している要因になっていたのかもしれない。そう工場長は話してくれた。


 そして最後に工場長は、俺の出身地を訊いてきた。


 俺が大阪だと答えると、「やっぱりか」と言う。


 「だから、ビリケンさんを真似てるわけだ」


 そう締め括った。


 確かにビリケンみたいな頭してるけど……。ハネさんは俺のことをどう説明したのだろうか?工場長は気軽に話を聞かせてくれたのだ。だから、ここは良しとした。


 時間がきたので、俺は工場長に厚く礼を言って、休憩所へ向かおうと腰を上げた。


 工場長も立ち上がり、俺が部屋を出る手前で俺を呼び止めた。


 「奈生美ちゃん、事件に巻き込まれていなければいいが……。なぁ、奈生美ちゃんのこと、ちゃんと見つけてやってくれな。頼むよ」


 工場長は普通に話してくれていたのだが、本気で奈生美のことを心配しているのが伝わってきた。


 俺は「はい」とは言えず、「鋭意努力します」と政治屋のような言葉を吐くだけしか出来なかった。


 休憩所の中は、工場長が話していたとおりベテランぞろいだった。


 話の初めには、あれ食うか?これ食うか?と、なかなか話が進まなかったが、皆、気が良いのと、奈生美に対して嫌いという感情がないことを感じ取れた。


 話が進むと、時々、浜言葉なのだろうか、難解な言葉があったのだが、一番最年少のニコちゃんが通訳して説明してくれた。


 奈生美は私生活を余り話すことがなかったらしく、ここ以外の奈生美のことを知っている人間はいなかった。


 付き合いは悪かったが、真面目な子だったので心配している。というのが、皆の意見だ。そうニコちゃんは言った。


 久保奈生美という女性の為人が、何となくだが俺の中で形作られていた。


 最後に俺は、不思議に思っていた“何故ニコちゃんなのか”を尋ねてみた。すると、仁子と書いてヒトコというのだが、子供の頃からニコちゃんと呼ばれているのだと教えてくれた。


 これ以上訊くことがなくなったので、俺は礼を言って休憩所を出た。事務所に寄って工場長に挨拶しようと思ったのだが、席を外していていなかった。


 工場の敷地を出たところで、隣の大きい水産加工会社から黒い傘を差して歩いて出てくる中井戸を見つけた。小雨になっていた。


 俺は中井戸がこちらに来るのを待った。やはり、何か魚が食いたくなっていた。


 「おう、こんな所で何してんねん?」


 「あっ」


 中井戸は俺を見るなり立ち止まり、二、三歩後ずさった。


 「隣にはよう来るんか?」


 「い、いいや、今日は偶々だ。奈生美が働いているのに、こんなとこには来ないさ」


 俺は、嫌がる中井戸を強引に付き合わせて、国道5号線にあるバス停まで一緒にニ十分ほど歩いた。


 道中、中井戸の口から奈生美がどんな人間だったかを訊いた。


 「奈生美は、中学の時に知り合った時から、背が小さくて、クリッとした大きな目が可愛くて、シマ栗鼠みたいだと思った。付き合うようになってから驚いたのは、慣れてくるとよく喋ることだった。学校で話しているのをあまり見たことがなかったので、その反動かと思ってた。俺が、お父さんともよく喋るのか訊いたら、子供の頃はよく喋っていたけど、今は喋らないって言ってた。俺は高校に行ったのに、直ぐに辞めちまって……」


 「何で辞めたんや?」


 「その頃、悪い仲間と夜な夜な遊ぶのが楽しかったのと、母ちゃんが外に男作って逃げたんだ。だから、自棄になって」


 色々と人生はあるものだ。


 「でも、奈生美は優しいから、俺を見捨てなかった。ホント、奈生美は優しいんだ。学校でも、周りの人みんなのことが好きなのよ。けど、その好きっちゅうのを、表に上手く出せないわけ。だから、皆、奈生美のことがわからないから、怖がったり、距離を置いたりするわけよ」


 「奈生美に友達はいなかったんか?」


 「うーん、俺の知っている限りじゃあ、サツキぐらいかな。アタラシサツキ。新しい子って書いて新子。サツキはサンズイに少ないと書く沙月。でも、今は時々電話するぐらいじゃないかな」


 「最近の奈生美はどうなんや?店に行って話はしてたんやろ」


 「それはしてた。けど、翔のことを話すのが多くて、他のことはあんまり。だって、奈生美の生活範囲にも、昼の職場にも絶対に現れるなって言われてたから。奈生美の方から話し出さない限り、最近のことはなんも。奈生美は昔から、こうと決めたら一切引かない強情なところがあったからねぇ。だから俺や親父の援助も受けずに、昼も夜も働かなきゃ駄目になったのよ」


 「それは、もしお前と暮らしてても同じことやろな」


 「なしてさ」


 「ギャンブルで作った借金あるんやろ。そんな奴から援助や言われても。受け取るに受け取れん」


 「翔が小学校に上がってから、もうギャンブルはしてねぇ。借金もあと少しで返し終わる」


 「ほな良かった」


 丁度JR車両所前のバス停に着いたので、中井戸にさっき名前の出てきた新子沙月の住所と連絡先を調べさせた。


 新子沙月は現在、帯広に住んでいた。小さな広告代理店に勤務しているらしい。


 ガラ携にメモしながら、帯広と聞いて懐かしさと切なさと少しの苛立ちが込み上げてきて、それに伴い帯広署の川口の顔が浮かんできた。


 「なぁ、俺も奈生美を探してもいいのかなぁ?」


 中井戸はそんな意外な言葉を口にした。


 「なんや、まだ動いてなかったんか?」


 「だって、奈生美から店以外で私の周りに姿を見せるなって言われてるから」


 「こんな時は、ええんちゃうか」


 「したら、漁師仲間だけじゃなく、昔の仲間にも声かけて……」


 「それはちょっと」


 「えっ」


 「昔の仲間は、俺がハネさんと相談するまで止めといてくれ」


 「なしてさぁ?」


 「今の彼女の周りで、今のところ上がってくる男は、スナック美穂に奈生美目当てで通ってくるお前ら三人だけや」


 「でも、もう五日も経つんだろ。早い方が」


 「確かにそうや。でも、お前ら以外の男の話も出てきてるんや。今の生活の中で新しく知り合った形跡がない以上、過去の人間の可能性が高い」


 「じゃあ、そいつが奈生美を拉致ったってことか」


 中井戸は興奮して俺の碧いアロハを掴んだ。今日は沸点までが短い奴に会ってばかりだ。牛乳をもっと飲め。怒りに身を任せる奴は、そのうちそれに飲み込まれてしまう。


 「竜一、興奮するな。お・ち・つ・け」


 「ああっ、すみません」


 「俺が連絡するまで絶対に動くな。ええな」


 俺は中井戸に言って約束させた。そして電話番号の交換をした。


 バスを待つ間、ハネさんに電話をかけた。俺は岩内に奈生美がいるとは思っていないが、母親から何か新たな情報が訊けたかもしれなかった。


 十回ほどコールしても電話に出なかった。もしかすると運転中か。


 折り返しかかってくるだろうと諦めた。


 JR車両所前からバスに乗って、スナック美穂の最寄り駅である市電の五稜郭公園前で市電に乗り換え堀川町で降りた。俺は市場を抜けて『シゲちゃんすし』へ向かう。


 都合良く、ハネさんからの電話がかかってきた。寿司を食っている最中にかかってきたら、猛烈に嫌な気分になっていたことだろう。


 ハネさんは、今から岩内を出るところだという。さっきかかってきた時には、まだ奈生美の母親、木村優美から話を訊いている最中だったので、電話には出なかったと言った。


 久保奈生美が突然いなくなったことに対して木村優美は、酷く驚き、酷く落胆したらしい。元夫が亡くなったことも知らなかったらしく、現在の奈生美の生活模様についても、全部私が悪かったと泣き崩れて、暫くの間、話を訊ける状態にはならなかったらしい。


 孫の翔に会ってみたいと木村優美は最後に言ったという。つまりは、何も収穫がなかったということだ。


 唯一収穫といえるものは、亡くなった奈生美の父親、久保昭房の生まれ育った町が函館市日浦で、その辺りには今でも親族が住んでいるはずだということだった。


 ――帰りに寄って探してみるよ――


 「その前に帯広に行ってくれる」


 ――帯広。なしてだ?帯広に何があるのよ?――


 俺は、工場を出たところで中井戸竜一に偶然出くわしたことを話し、中井戸から訊いた、奈生美の一番近しいと思われる新子沙月のことと、電話で何か話しているかもしれないということを付け加えた。


 ハネさんは直ぐに「行く」と言い、それから、イヤホンをつけるから一旦切ると言った。


 再びかかってきたハネさんの電話に、今度は俺の収穫を話して聞かせた。『La petite fleuriste』の早川芽美との会話、俺の印象。奈生美の職場の人達からの話、俺の印象。そして最後に、中井戸竜一が漁師仲間や昔の仲間に声をかけて、奈生美探しを手伝いたいと言ったことを話した。


 「どうする?」


 ――別にいいんでないの。あんたはどうよ?――


 「俺は、奈生美の現在の生活の中で知り合った可能性が低いなら、過去に知り合っている人間を疑うべきやと思ってる。周りが奈生美を探しているとわかれば、犯人は早いうち奈生美を殺すこともあり得る。けど、もうおらんようになって五日や、慰みもんになってるだけやったら、まだもう少しは生かされてるやろうけど、サディストな犯人やったら、急いだほうがええ。そやからって、会ったこともない俺にその判断は出来ん。悪いけど。俺はハネさんの判断に従わせてもらう」


 少しの間無言だった。


 ――わかった、帯広に向かう間に竜一と話をしてみる。決まったら直ぐにあんたに電話する――


 「ほなよろしく。待ってるわ。新子沙月の住所と連絡先はショートメールで送っとく。あっ、それから、津田も帯広におるみたいやで。芽室の山で人骨が出たらしいわ」


 そこまで話して俺は電話を切った。新子沙月の住所と連絡先を、コピペしてショートメールに張り付けてハネさんに送った。




 『シゲちゃんすし』は俺が行きたい店の一つで、珍しい立ち食い寿司の店だった。


 俺がまだガキの頃、一度だけ街角の屋台の寿司屋に連れて行ってもらったことがあった。いや、正確には、通りがかった俺が、其処で食べていた施設の職員を見つけて、無理やり食わせてもらったものだった。


 年季の入った崩れそうな屋台で、ヨボついた爺さんが店の大将、横で婆さんが手伝っていた。


 シャリが大きい昔ながらの寿司だった。施設に差し入れられた寿司を口にする以外回転ずしにも行ったことがなかった俺は、今なら思わないのだろうが、その時はめちゃくちゃ旨いと感動したものだ。


 辿り着いた『シゲちゃんすし』は、屋台ではなく、持ち帰りがメインの小さな店舗だった。


 ランチの十五貫盛とタコの頭の炙りと鮭の背脂の炙り、それにここの名物バター巻きで〆て、あっという間に店を出た。まだ元気があるうちに野間の家の周りを歩いてみたかったのだ。


 ゆっくりと住宅街を歩きながら、口に残ったバターの旨さを楽しんでいた。一貫一貫が、どれも値段の割にはめちゃくちゃ旨かった。函館にいる間にもう一度来れるだろうか?


 野間のアパートの最寄り駅から、アパートへ向かって歩いて行く。防犯カメラや駐車中の車内カメラが無いか、注意深く進んで行った。


 しかし、もう五日も経っている。俺が刑事だったら、直ぐにアパート一円にあるカメラの映像を集めて回るのに。




 












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