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ハネさんはドアを開けるなり訊いてきた、「どうだった?」と。
とんだ変わりようだ。
俺は取り敢えず、ここを出るように言った。
通りに出て直ぐ傍にあったスーパーの駐車場へ、ハネさんはハンドルを切った。野間が何を喋ったのか、余程気になっているのだろう。
俺はありのままをハネさんに伝えた。ハネさんはまた、一々感嘆の声を上げた。こういう癖なのだと理解した。
全部を聞き終わったあとハネさんは、暫く腕組みして考え込んでしまった。
俺はハネさんに「ちょっと出てくる」と言って車の外に出た。
随分小雨にはなったのだが、まだ傘は必要だった。
派手な格好の男が、赤い女物の傘を開けて歩いていても、周りを行き交う買い物客は見向きもしなかった。誰もが自分の時間を生きることに夢中で必死なのだ。所謂、一般的な無関心ってやつだ。
それでも一度大事が起きれば皆一斉に、スマホを馬鹿みたいにそれに向けて自分の中で正義を確認する。そして承認欲求を満たすためにネットに上げて、自分の中で形となった正義を宣伝する。その正義がどういった類の正義なのかを考えもせずにだ。
スーパーの中はそこそこの人出だった。
ATMで淋しくなった財布の中身を補充する。それから俺はトイレを探し小便をした。
いったい久保奈生美が何処に消えたのか。多分、奈生美は自ら行方をくらませたわけではないと思うのだが、もしかしたら、二、三日経ってひょっこりと返ってくるのかもしれない。小便が途切れるまで思い巡らせていた。
今のところ俺には、どうなっているのか見当すらつかなかった。
もう一度、久保奈生美の部屋に行って、今度は俺自身で、隅から隅まで確認してみなければならない。もう翔はいないのだから、子供の心を不安にさせることもない。何か手掛かりがあるはずだから。
ふと、ハネさんが呟いた「花屋か……」の言葉が気になった。ハネさんは何処の花屋なのか見当がついているのだろうか?俺には話していないことが、まだあるのかもしれない。
トイレを出て、先ず美枝子に電話し、今日は遅くなるかもしれないと伝えた。「はい」の一言で電話は切れた。それも口に何か入っている様子だった。もう食事をしているのだろう。ガラ携の時計は十八時を既に過ぎていた。
それから津田に電話をかけた。五回鳴ってからやっと出た。
――どうですか?進展はありましたか?――
「いいや、まだスタート地点に立っただけや。それより、ハネさんの娘の話を訊かせてくれるか?」
――今夜じゃ駄目ですか?もう直ぐ捜査会議なんですよ。明日の朝刊には載るだろうから教えますが、芽室町の美生ダム湖近くで白骨遺体が発見されたんですよ。獅子王さんが言っていたじゃないですか、隠すなら山奥だって。でも掘った穴が浅かったようで、昨日降った大雨で地表が流れて、露出しちゃったんですよ。今夜は綺麗に星が見える夜だというのに残念で……――
「ああそう、わかった。じゃあ夜に」
帯広署の川口の顔が浮かんだので、俺は一方的に切った。これ以上聞いて巻き込まれでもしたら大変だ。こっちはこっちでまだ何の進展もないのだ。
それにしても帯広辺りは今夜、星空が見れるのか。小雨降る函館とは大違いだ。俺の頭に彩香の顔が浮かんだ。
もう家に帰っているだろうか?もうすぐ迎える盆の休みに、彩香は函館でイカ釣りをするのだと言っていた。電話して長くなるのは拙いので、メールを一本打った。“元気?”それ以上言葉が浮かばなかった。そのまま送信する。
入口横にあった自販機で缶コーヒーを二本買い、また赤い傘を咲かせて、七割ほど色とりどりの車で埋まった駐車場を進んだ。北海道の中でもコンパクトに密集した街・函館でも、車がないと生きていけないのだ。
そうだ、久保奈生美は、野間の部屋までどうやって行ったのだろう?そのままスナック美穂に働きに行く予定だった。ならば、車だ。
加齢臭が消えない黒い軽自動車に戻った。ハネさんは電話中だった。
「そうかぁ、したら、どんな人かだけでも知らないかい?ん?……、ああ、そう。そうか、わかった。会ったことがないんだもんな。わかった」
どうやら翔と電話しているらしい。
「なぁ、少しそこで大人しく待ってるんだぞ。お母さん連れて迎えに行くから、なっ」
そんなことを言って大丈夫かと思った。もし、久保奈生美が既に死んでいたら……。
電話を切ったハネさんは、「遅かったなぁ」と言った。その目に涙はなく、力強く鋭い光を放っていた。
生きて久保奈生美を連れ帰るとハネさんは決めたのだ。俺もそのつもりで動くことに腹を決めた。
それならば早速と、久保奈生美のヤサに向かった。
道中、俺が久保奈生美の車のことを尋ねると、車は駐車場に置かれたまんまだとハネさんは教えてくれた。そして、「だから、痕跡がないんだ」と言った。
「なぁ、久保奈生美は、誰かに拉致されたんやないんか?警察は動かんのかいな?」
「さっきも電話を入れてみた。今日から通り一遍のことはしているみたいだが、今のところはなんもよ」
「花屋のメグミのことは話したん?」
「それを言う前に切られた。タクミの奴、二回もミスを庇ってやったのにはんかくさい」
タクミというのは担当刑事の名前のようだ。
「ハネさん、花屋のメグミの当たりはついてんの?」
「いや、全く。俺も久保奈生美と特別親しかったわけでないから。何となく気になってるだけだ」
そう言い終わる前にギアをドライブに入れた。
ハネさんは久保奈生美のアパートのある一本先の道を左折せずに、二本手前の交番がある角を右折した。
交番から少し奥にある、古惚けたコンクリートの家の駐車場に車は停まった。よく見ると建物には看板が提げられていた。
『函館こどもみまもり隊 事務所』と書かれてあった。
「ここが、俺のもう一つの職場だ。あっ、金貰ってねぇから、職場ではねえな」
そう言ってハネさんは車から降りた。
事務所に灯りは灯っていなかった。
「今は夏休みだから、人がいるのは五時までだ。ここなら車を停めても、誰も文句を言わねぇ」
そう言ってハネさんは透明のビニール傘を差して歩き出した。無駄な買い物はしたくないようだ。
何故、さっき空いていたアパートの駐車スペースに停めないのだろうと思ったのだが、俺は無言でハネさんについて歩いた。
交番のある角を曲がると、ハネさんは交番のドアを開けて入っていく。俺は中と外の狭間で立ち止まった。
「先輩、聞きましたよ。子供はもう施設に?」
「ああ、今日連れて行った。アリモト、相変わらず元気そうだな」
ハネさんを先輩と呼んだアリモトは、此処のハコ長だろうか?他の若い奴らは、ハネさんを前に直立不動になっていた。
「俺達も気をつけて巡回しておきますから、あんま、無茶しないで下さいよ。病院にはちゃんと行ってるんですか?」
「そったらこと、今は関係ねぇ」
ハネさんはチラッと俺に視線を向けた。
「なぁ、署の奴らはこっちに寄ったか?」
「はい、クサカベ係長が昼前に来られて、ハネさんが子供を施設へ連れてくからって仰っていました」
壁際で直立不動の若い警官が言った。
「なんだ、タクミが直々に来たんか」
「あのう、そちらの人は?」
アリモトが俺を強い眼力で見ながらハネさんに尋ねた。
「ああ、彼か。ほら、お前も知ってるだろう、先々月、音更町で起きた『十勝川旅行者殺人事件』」
俺は嫌な気分になった。警察というものが芯から苦手なのだと実感した。それにしても酷い戒名だ。何の捻りもなかった。警察だからそれでいいのか。
「あっ、はい。確か道警の津田さんがホシを挙げた。津田さんって、ハネさんが指導係だったんですよね」
どうりで。合点がいった。
「ああ、そうだ。そん時の協力者だ」
「協力者?」
交番内にいるハネさん以外の全員が俺を直視した。とんでもないことだ。俺は苦笑いを浮かべるしか術はなかった。
ハネさんは交番を出る際に、「あっ、そうだ。翔の着替えが足らないから部屋に入るから。パンツが違うって言うんだよ。どれも一緒じゃねぇか」と、愚痴るようにアリモトに言った。
駐車場はほぼ満車状態で、さっき空いていた場所にも車が停まっていた。
各部屋に灯りが灯っている。久保奈生美と翔が住む部屋も、灯りを燈さなければならないほどに真っ暗だった。
ハネさんにはキッチンの椅子に座っていてもらった。俺は俺のやり口に、口を挟まれるのに慣れていなかったからだ。
室内を全部、ハネさんから借りたスマホで部分部分を丁寧に撮影してから探し回った。あとで綺麗に直すためだ。これは昔、熟練のノビ(忍び込み)から教えてもらったことだ。巧くやれば、本人は死ぬまで盗まれたことに気がつかないと嘯いていた。
久保奈生美を知るための物を探す。先ずは現金、通帳、貴金属の金目の物を探した。奈生美の化粧品が置いてある低い箪笥の引き出しを、下から上へと開けていく。勿論、引き出しの中もキッチリと撮影を済ませてから取り掛かる。上から二番目の引き出しに、それらは無防備にレシート達と一緒に纏めて置かれてあった。
銀行の封筒に入っていた現金は、三万六千三百二十三円。奈生美名義の通帳の残高は二十八万とんで二円。もう一つは生活費用の通帳だろう。全て一つのクレジット会社の引き落としが並んでいた。残高は七千二百九十七円。
まだもう一つあった。それは翔名義の通帳だった。
其処に並んでいる金額はまちまちだったが、毎月入金されるだけで、一切引き下ろされてはいなかった。
翔は、俺のような人間にはならないだろうと感じた。奈生美の愛情というものが数字の並びに浮かび上がっていたからだ。
しかし、こんな状態の行方不明者が出たというのに、警察は何をしているのだろう?周囲の防犯カメラの映像なんかも取り寄せて精査しているのだろうか?そんな思いが擡げてくる。
「なぁ、ハネさん。野間のアパート周辺の防犯カメラの映像って見れへんのかなぁ?」
唐突に俺が言ったせいか、ハネさんは喉に何かを絡ませながら答えた。
「そっ、それは無理だな。ウウン、ウウン。あのう、ンンン。事件でもないのに警察でも許可が下りんよ」
「どうにかならんの?」
「ならんよ。俺達は警察じゃあないんだから」
やけにハネさんは、距離のある物言いだった。
「ほな、これで久保奈生美の死体が発見されたら、やっと事件として警察が動くわけや。アホらしい。何のために税金払っとんねん」
俺は、黙々と手掛かり探しに没頭した。俺の経験上、急に姿を消す奴は何かしらの薬物をやっている奴が多かった。というか、そう言う奴らを相手に生きていただけの話なのだが。
トイレのタンクの中や汚物入れの黒いビニール袋の下、トイレットペーパーの芯の中やトイレブラシ入れの底、換気扇の網の中。風呂場は換気扇のあと、取りつけてあるパネルのねじの緩みを確認した。洗面所では子供では届かない棚の上を念入りに探した。薬物はなさそうだった。
翔の部屋も探してみたが、メモらしきもの一つ見つからなかった。
残すはキッチンだけだった。
俺はハネさんがいるキッチンに向かった。
蛍光灯の灯りの下に、淋し気に咲いている向日葵が目に入った。
食器と調味料、それにレトルト食品やカップラーメンぐらいしかないキッチンを探している途中、俺はレシートを詳しく調べていないことに気がついた。
翔が教えてくれたメグミという、奈生美と仲の良い女性が働いている『La petite fleuristeル・プティ・フルリスト』は、奈生美が昼間働いている食品加工の工場から野間のアパートへ向かう動線上にあった。
ハネさんのスマホを借りて意味を調べてみると、フランス語で“小さな花屋”というそのままの意味だった。
もう花屋はシャッターが閉まっていて、今日はメグミから話は訊けそうになかった。
ハネさんは、それを俺に確認させたあと、そのまま函館山方向へ車を走らせた。本当なら展望レストランの灯りが見えるはずの場所は、厚い雲が覆っているのか一切光を見せることはなかった。
ハネさんは無言だった。疲れているのだろうか?
俺は勿論疲れている。本気で家探しをしてバイクに乗るのとは違う筋肉を使ったせいか、明日になったらあちらこちらで悲鳴が上がりそうだった。
車はどんどんと函館山に近づいて行く。今日は此処までで、俺を笹森家へ送ってくれているものだと俺は思っていた。腹が減っていた。
十五分ほど走って、市電宝来町駅の随分手前で、ハネさんは右にハンドルを切った。俺を何処へ連れて行くつもりだろう?
そう思っていると、一軒の小さな家の駐車場にバックで車を停めた。
「降りろ」
そうハネさんは言った。
ヒップバッグの腰ひもを肩にかけて、俺は加齢臭が消えない黒い軽自動車から降り立った。もう少しだから送ってくれればいいのに。まぁ、此処なら歩いて笹森家まで帰れるか。そう良い方に考え傘を開いた。
ピ、ピッとロックされる音が響く。
「スナックに行くぞ」
ハネさんはそう言い放った。そう簡単に開放してくれるほど元サツカンは甘くはなかった。
市電に揺られ五稜郭公園前まで向かった。スナック美穂は飲み屋街が集まる一角にあるらしい。さっき車を停めた家は、ハネさんの住まいだと教えてくれた。折角買ったのに俺が死んだらどうなるのだろう?そうぼやいた。
雨がまだ降っていて良かった。この旅初めて、雨に対する嬉々とした思いを自覚した。そうでなければ、赤い傘を何処かに置き忘れていることだろうと思ったのだ。
「腹減ってるか?」
ハネさんは、駅から道を挟んだドーナッツ屋の前で俺に訊いた。
確かに腹は減っていた。俺は何か美味い物でも食わせてくれるのかと期待した。
ハネさんについて行くと、右手にラッキーピエロが現れた。ハネさんは何も言わずに入っていった。
カウンターでハネさんは訊いた、「カレーは食えるか?」と。
向かい合った状態で、チャイニーズチキンカレーを仲良く平らげる。
そう思っていたのは俺だけだったようだ。
「お前、現役のノビじゃあねぇだろうな?」
「?」
「あんな技、何処で憶えた?ああん?」
ハネさんの目がマジだった。
「残念ながら俺は現役ではないし、ノビでもない。津田から聞いてないんか?」
「津田は、元グレーゾーンの住人だとしか言わんかった。今は単なる旅行者だって」
「その通り。それが全てや」
「じゃあ聞かせてくれ、何であんなに元通りに直した?俺達が入ったことを、戻ってきた奈生美や翔に知られんためにか?」
「いや、違う」
「なら、どうして?」
ハネさんはハッとした。
「あんたは、奈生美が事件に巻き込まれたと確信しているのか?」
流石、元警官、俺のやり口を理解したようだ。
「犯人が何かを探しにくるかもしれんってことか」
「そう。もしそれが、あの部屋の状態を把握している奴やったら、誰かが触った痕跡を必ず見つける」
「じゃあもう……、もしかして、奈生美は……」
「それはわからん。もし口封じやったらその日のうちに、道路に転がってるか海に浮かんでるわ。けど、拉致られたってことは、色々あるわなあ」
何を想像したのか知らないが、ハネさんの顔から血の気が引いた。
「まぁ、食べようか」
俺は構わず無心でスプーンを動かした。腹が減っているからか、とても旨かった。甘さが疲れた身体に優しく沁み込んでいく。そして、その奥の辛さが俺に活力を与えた。
二人はスナック美穂へ向かった。たった数百円で、俺はハネさんにご馳走様でしたと頭を下げた。
初めてのラッピのカレーに俺は大満足で、とても足取りが軽くなっているのがわかった。
カランコロンコロン。
何処にでもある音色だ。スナック美穂は静かなものだった。
「いらっしゃ……。なぁに、嫌ぁだぁ。昼間も家で寝てたら刑事に起こされたのよ。それなのに、またぁ」
あからさまに嫌悪感を見せていた。
「悪いね、ママ。コイツにも話を聞かせてやってよ」
遜った態度でハネさんは言ったが、美穂ママは随分迷惑そうだった。
「こんな何度も来られたら、営業妨害よ」
客でもいれば納得出来るが、客が誰もいないカウンターの向こうでこういう態度をとられると、俺的にムカつく気分が高まった。
「そう言わずに、ねぇ」
ハネさんは飽くまでも低姿勢だ。
俺はボトルが並んだ飾り棚を見渡して、棚の一番上で淋しそうに一本だけ立っている、封の切られていないクルボアジェのXOボトルを見つけた。
焼酎や安いウイスキーのボトルが並んだ中で、そのボトルは明らかに浮いていた。随分前に、誰かが置いてくれと騙されて仕入れた売れ残りのボトルだろう。
「ママ、そこのクルボアジェ入れようかと思ってるんやけど幾ら?」
ママはえっという顔で飾り棚を見渡した。自分で仕入れたのも忘れているのだ。
「こ、これねぇ……、高いわよ」
そう戸惑ったママの口から出てきた値段が二万だった。俺は取り敢えず五万を財布から抜き取ってカウンターに置いた。
「ロックでちょうだい」
カモがやって来たことに喜び過ぎているのか、「ハイッ」と変な声で返事をしたママは急いで準備をした。
俺は、ボトルを手に取り、綺麗に磨かれているかを確認した。当たり前のようにクルボアジェの封を切り、瓶を逆さまにして乾いているであろうコルクを湿らせる。ゆっくり捻りながら優しく蓋を開けると、市販のロックアイスが詰め込まれたグラスに並々と注いだ。
パニクったまんまのママは、「ちょっと待ってて」と言って奥へ引っ込んだ。何かこの酒に合うツマミでも出してくれるのだろうか?
ハネさんは、「俺、金ねぇけど大丈夫か?」と言った。
俺はこの旅で憶えた「なんも、なんも」を口にした。
スモークサーモンとカットされたカマンベールチーズが載った小皿を両手に戻ったママは、嫌な顔一つも見せずに何でもかんでも喋って聞かせてくれた。ケッパーが載っているのには少しだけ驚いた。
だが、そのうち喋る情報がなくなったのか、久保奈生美が如何にホステスとして力不足かをディスるだけの話が続いた。
俺は最後に、奈生美が車以外で店に出勤することがあったのかを尋ねた。
「あったわよ。でないと、売り上げになんないもん。週に一度はバスで来てたわよ。帰りのタクシー代はウチ持ちだったから」
「したら、一昨昨日もバスで来る予定だったか?」
ハネさんが堪らず訊いた。
「それはわかんないね。いつもその日その日だったから」
函館駅で市電を降りた。
ハネさんがもう一軒付き合えと誘ったのだ。
何処へ行くのかとついて行った。ハネさんは、ラーメン屋の向かいにある居酒屋へスーッと入っていった。
「いらっしゃい」と小さな声でも響く、カウンターだけの小さな店だ。ひと波越えたようで、手前にサラリーマンの酔客が三人いるだけだった。
一番奥の新聞が置かれたカウンターの前にハネさんは腰を下ろした。
女将さんが新聞をどけると、代わりに国稀の鬼ごろしの一升瓶をドンと置いた。
「今日はいつもの?それともお銚子で出す?」
まるで家族に言うような話し方だった。
「いつものでいいよ」
女将さんがコップ二つをハネさんの前置くと、ハネさんは一升瓶から二つのコップに酒を注ぎ入れた。
俺の前に茄子の煮浸しの小鉢とルイベ漬けの小鉢を、ハネさんの前にはルイベ漬けの小鉢一つを置きながら、「お腹は?」と女将はハネさんに訊いた?
ハネさんは「食ってきた」とだけ言った。
女将さんが俺に「ごゆっくり」と声をかけて離れると、乾杯もなくハネさんはグビッとやった。
「あんたはどう思う?」
「んー、どうやろ。ハネさんは?」
「何でもなかったって顔で帰ってくることを、俺は願ってる。けど、あんたが言うように、間違いなく特異行方不明者だと思う」
行方不明届を出すと、自発的蒸発者か特異行方不明者かに選別される。後者は、子供や老人、そして事件や事故に巻き込まれている可能性がある人物を指す。
二人共無言のまま、手酌で杯を重ねた。
茄子の煮浸しは生姜が効いていて抜群に旨かった。それにルイベ漬けの塩っ気が良い塩梅で酒が進んだ。
ハネさんは、この先どう動けばいいかを考えあぐねている様子だ。煮詰まってもしようがない。ここは目先を変えてみるのが一番だ。
「なぁ、奈生美に親はおらんの?函館の高校に通ってたんやろ」
「奈生美が小学五年の夏に両親は離婚して、父親と二人暮らしだった。その父親も翔が産まれて直ぐにガンで亡くなっている。そうだ。明日、俺、岩内まで行ってくるわ。奈生美の母親が住んでるんだ。もしかしたら、金でも借りに行ってるんかもしれん。あんたはこっちで花屋当たってくれるか。あと、職場の従業員からも訊ける範囲でいいから訊いといてくれ。刑事じゃないんだから、強引なことはするなよ」
「わかった。そうするよ。それにしても岩内か、遠いなぁ」
「行ったことあんの?岩内に」
「ああ、蘭越、ニセコの先やなぁ。俺はこの旅で、北海道の179全市町村を走ってきた。ここ函館が、北海道最後の街や」
「津田が何か言ってたなぁ。で、次は何処へ行く」
「青森に渡る。でも、晴れへんかった先に進まれへん。駒ケ岳を見ながら大沼から城岱スカイラインを走って、函館山へ夕方から上って夜景を見な、俺の北海道は終わらへん」
「そったらこと言っても、此処ずっと雨予報だぞ」
「そやから、今回の依頼を引き受けた」
「久保奈生美を見つけたら、神様が晴れさせてくれるさ」
そう言ってグッと一息でグラスを空けると、ハネさんは「帰るか」と立ち上がった。
会計もせずに「ご馳走さん」と店を出たので驚いて訊くと、何でもさっきの女将がハネさんの妹で、いつもツケにしているから大丈夫だと言った。
タクシーでハネさんを降ろしてから、俺は笹森家へ帰った。
門は閉まっていたので呼び鈴を鳴らした。
洋館の横に建つ和式建物の窓に明かりが点いた。そしてお手伝いの静枝さんが現れ、門扉と玄関のドアを開けてくれた。
「遅くまでご苦労様でした。お食事は如何なされますか?」
「すみません。羽田さんと済ませて来ちゃいました」
「そうですか。お風呂は沸いておりますので。今夜はこれで失礼させて頂きます。お休みなさいませ」
静枝さんは静かに玄関から出ていった。
やはり緊張する。今日の疲れが一気に出た感じがした。
部屋に戻ると、テーブルの上にはキチンと畳まれた洗濯物が積まれていた。
俺はそれをドライバッグに詰め込んだ。
そして、タンクバッグの上には五十万が入った茶封筒が置かれてあった。今回の依頼に対する前金だった。ネェさんはまだ起きているのだろうか?
着替えを持って風呂に向かう。
洗濯物を静枝さんに昨日教わったように籠に入れた。
無心で頭と身体を洗い、檜風呂に浸かってから改めて、今日一日を振り返った。
牧場の紀田、彼氏の野間、翔の父親である中井戸、この三人の男達が久保奈生美の失踪に加担しているとは、今のところ思えなかった。だが、実際に奈生美は忽然と姿を消している。
奈生美のアパートから野間のアパートまでは車で十分。歩いていけない距離ではないが一時間はかかるだろう。勤めているスナックまではそこから車で五分。市電が走っているので車を使わない手もある。バスを使って野間のアパートまで行けるのではないだろうか?俺の頭の中に、バスの路線図までは入っていなかった。
やはり情報が足らなかった。明日は、午前中、『La petite fleuriste』へ行ってメグミに会ってみる。それから昼休みに合わせ仕事場の工場に行って、同僚達から話を訊く。そしてあとは、野間のアパートの周りを調べてみることに決めた。
明日の予定を決めると、少し気持ちが安らいだ。なるだけ早く奈生美を見つけ、晴れを待って本州に渡るのだ。そう思うと、先に待つ死というものが頭にチラついた。死ぬ前の俺は、どんな感情になるのだろうか?ぼーっと考えを巡らせた。
暫く考えてみても何も形にならなかった。その時が来たらわかることなのだと断定して考えるのを止めた。
彩香からメールは届いているのだろうか?顔が浮かぶと、彩香は妖艶な笑みを浮かべて啄んだ。
疲れているのにここは元気になろうとしていた。
不意にうしろから白い物が伸びてきた。全くの油断だ。
白に巻き付かれた俺は驚いて身を固くしたが、その白の根っこの方に蒼い龍が絡みついているのを見て、恐怖よりも不安が膨らんだ。
右の耳元で完美な音色が流れた。
「遅かったじゃない」
そう言ってから俺の耳たぶを軽く噛み、そのあと漏らした吐息はシャンパンの香りがした。
白い指先が俺の胸にある正中切開の痕をなぞった。
「こんなになっちゃったんだ」
「ネェさん、呑み過ぎですよ」
これしか言えない俺が情けなかった。憧れを抱いていた女が今、うしろから裸で抱きつき俺の肌に触れているのだ。だが、縁が切れたとはいえ親と仰いだ沢木の妻だったのだ。それにこれはよくある冗談で、美枝子は服を着ているかもしれないのだ。
傷跡をなぞっていた白い指が、ゆっくりと湯の中へ進んで行く。
俺は動けない。目だけで、右に表れてきた酔いで染まった美しい横顔を確認した。これからどうなろうとしているのか、全く想像すら出来なかった。
指は硬くなったものをなぞり始め、ゆっくりと握り締めた。
「立ってんじゃん」
「すみません」
本当に掌なのかと思うほどの柔らかさが、ゆっくりとゆっくりと扱き出した。
拙いなぁというのが、俺の正直な感想だった。暴発して湯の中で泳がすわけにはいかない。そんなことをしたらお手伝いの関根静江さんに正座させられて、こっ酷く叱られそうだ。
それに、津田から電話がくることを失念していた。ハネさんの娘の話を訊かなければならない。俺にはやらなければならないことが出来たのだ。
シャンプーだけではない甘い薫が俺の鼻をくすぐった。
いや、ハネさんの車の加齢臭はきつ過ぎた。俺も年を重ねたら、あんな匂いを醸し出すのだろうか?いや、それより前に俺は死ぬのだから関係ない。
柔らかい掌で包まれ、撫でられた。
あっ、彩香から返信は来ているだろうか?
俺はその手首を掴んで引き放した。
「ネェさん、勘弁して下さい。抑えきれなくなりま……」
美枝子は俺の頭を両手でしっかりと掴み、茶色い目で俺を見据えたあと、ピンク色の唇を俺の唇に重ねた。
絡ませてはいけない舌が、時を経て絡まってしまった。
それからの二人は獣だった。俺の何処にこんな力と体力が残っていたのだろうか?美枝子にカッコ悪いところは見せたくなかったからか、美枝子が攻められるだけではなく、攻めることにも富んでいたからか。
美枝子の部屋のベッドの上で、美枝子の中に思いをぶちまける時に、俺はこれで思い残すことなく死ねるだろうと過った。
美枝子が眠りについたので部屋を出た。
廊下に出ると、敷かれた絨毯が所々湿っていた。俺は脱衣所に戻り、半乾きのバスタオルを持って、全裸のまま二階の踊り場から脱衣所までの廊下に点々と落ちている目合の名残りを拭きとった。
身体をちゃんと拭けば良かったと思いながらバスタオルを洗濯籠に入れて、俺は置いたままになっていた着替えをそこで身に着けた。鏡に映った俺は、昔の俺のような目つきをしていた。
喉が渇いていた。キッチンに行って生ビールを一杯、一気に喉に流し込んだ。もう少しで日が変わりそうだった。
もう一杯注いでから俺は、さっとサーバーを洗浄した。
グラスを持って部屋に戻った。
ヒップバッグの中でガラ携が唸っていた。彩香だった。
「もしもし」
――どうしたんですか?大丈夫でしたか?――
「ごめん、ごめん。電話を部屋に忘れて行ってたわ。ホンマごめんな」
――あー良かった。事故にでもあって、病院に運ばれていないかと心配しました――
「ごめんなぁ。ホンマにごめん」
――じゃあ、今度会った時に、いっぱいキスしてくれたら許します――
彩香の可愛げある言い回しが、俺には心苦しかった。
まだ理性を保とうとする彩香の感じ方とは違う、自己欲求に正直で、貪るように快楽を追求する美枝子の余韻が、俺の身体中にまだ残っていた。
「わかった。約束する」
俺は何を約束するのだろう?
――それでね、お盆休みがずれ込んじゃってね……――
「そう、それは良かった」
――なぁに、何か興味ないみたい――
「いや、今、人探しを頼まれててね」
――えっ、人探しですか?――
「うん。まぁ、今日から動き出したんやけど」
――それってお仕事ですか?――
「一応ね。でも、まだ見当もつかない状態なんよ。だから、彩香に会うまでに形がつけばいいなぁって思っただけ」
――そうだったんですね。ちょっと不安になっちゃいました。もう会わないままお別れにするつもりなのかなぁって――
「そんなことないよ」
俺はそれ以上、言葉を繋げることが出来なかった。もし、今日俺がメールを送らなければ、二度と彩香と会うことなく津軽海峡を渡ることになっていたのだろうか?
心がスッキリしないまま会話は続き、五日後に函館で会う算段がついた。
おやすみを言う前にキャッチホンが入った。津田だった。
俺は、彩香にそれを告げて、あっさりとおやすみを言った。最後に、「逢ったらいっぱいキスしような」と付け加えた。
津田は今しがた帯広警察署を出たそうで、今夜は帯広の安宿に泊まるという。明日も早いのでと前置きしてから話し出した。
十年前の九月、羽田心音は忽然と姿を消した。津田が警察学校を出て、函館の交番に配属されて間もなくのことだった。
その頃ハネさんと娘の心音は仲が良くなかった。
その年の春、移動してきた上司との折り合いが悪く捜査課から交番勤務になり、苛立ちが底辺にあったハネさんと、大学を卒業し地元の大手デベロッパーに就職したものの、思っていた仕事とは違っていたという軽い失望と後悔、その上配属された職場での人間関係に悩みがあった心音、二人の関係はどちらが悪いとかではなくギクシャクとしていた。そして、交番勤務の警察官という一般的な会社とは違う勤務時間が、二人の間の溝を深めていた。
ハネさんが、娘が姿を消したことを知ったのは、心音の勤めている会社からの電話だった。ハネさんは電話を切るなり「何をやっているんだ。アイツは」と怒ったように吐き捨てたのを津田は隣で聞いていた。
その三日後、また会社から連絡があって、まだ心音が出社していないことを知った。ハネさんは娘の部屋を家探ししたのだが、これといったものはなかった。
その夜、ハネさんは上司に報告した。
報告を受けた函館署は、春まで捜査課にいた人間の家族の行方がわからなくなったことに重きを置いて、すぐさま関係者の聴取に動いた。その結果、自殺の可能性が低いとされ自発的蒸発者とみなされた。決定的だったのは、失踪前夜にアップされたSNSの内容だった。そこには会社に対する愚痴と文句、それに父親に対する積もり積もった不平不満が書き込まれてあったのだ。
それから今まで羽田心音の消息は掴めていない。それが津田の知る全容だった。
――それで、獅子王さん。あなたが五年前、朝井に撃たれた件ですが。朝井は七加瀬組に寝返った、ヒットマンだったのではないでしょうか?――
唐突だった。直ぐには津田の言葉が理解出来なかった。
七加瀬組?……豊田の組か。朝井が寝返った?それはあり得ない。
――あなた、撃たれる直前、JRの新駅開発の土地の利権を七加瀬組と争っていた。そして結果、あなたがそれを手に入れた――
確かにそうだった。俺が勝って豊田が負けた。でも、それは仕方のないことだ。金が成る木は限られている。
――もっと昔から、あなたは七加瀬組と利権を争い、大体をあなたが手にしてきた。いくら名簿に名を連ねていないとはいえ、あなたは沢木組の人間だ。七加瀬組にとってあなたは、ずっと邪魔以外の何者でもなかった。七加瀬組は半年前、あなたを的にかけることに決めました。撃たれた当日、あなたの会社に手入れが入ったのも、七加瀬組の仕業だったそうです。出てきたところを七加瀬組の若い奴らが殺す手筈を整えていた。だが、七加瀬組の豊田は保険をかけた。朝井を取り込みヒットマンに仕立てたのです。聞いていますか?――
「ああ」
津田の説明に反論する個所はなかった。だが、朝井が七加瀬組に寝返ったヒットマンだという部分だけは、弾かれている被害者なのに信じることは出来なかった。
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