ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編

神舞ひろし

   1


 気がつけば、知らぬ間に月が替わっていた。


 五月の終わりから走り出した北の大地も、あとは道南を残すのみとなっている。


 北海道を走り出した頃は、遥か遠くに見える雪帽子を被った山並みを、スッキリと澱みなく見せていた空気も、湿気が上がったせいか、今は霞がかかったようにぼんやりと雪帽子が消えたそれを見せている。時折、寒さすら感じるほどだった気温も、近頃は、ここが本当に北海道なのかと思わせるほどの酷暑に変化していった。


 かなりの出費になったが、相棒が走れるようになって良かった。もっと重症で走れなくなっていたら、俺はどうしていただろうか?


 断腸の思いで帯広空港を出発し、伊丹空港からそのままタクシーに飛び乗り、窓からロープウェイが見えるボロアパートに戻って、死ぬまで後悔と運のなさを呪い溺れて死んでいっただろうか?


 そんな気分の時に、態々列車を乗り継いで、約束だからと、函館にいる死んだ沢木の妻・美枝子に会いに行こうと思えただろうか?


 帯広から国道274号線を通り、日勝峠で十勝の大地と大空にさよならを言った。山の中の飛び地になっている日高町で国道237号線へと左折して、沙流川沿いに道は下っていく。


 平取町に入って相棒に飯を飲ませるついでに昼飯を食った。ハンバーグが売りのようだったが、札幌で食ったカリー軒の方が俺は旨いと感じた。


 天気は今夜半からまた雨で、明日も一日中降るらしい。修理を待っている間に快晴の空が続いたのが恨めしかった。だけどそのおかげで、じっくりと歩いて最後の帯広の街を堪能出来たのだ。前向きに考える。


 今夜の宿は、苫小牧にある彩香の家だった。


 先の函館では、何がどうなって、どう転んでいくのか、俺自身読めないでいた。だから本当は、もう彩香とは会わないつもりだった。そんな土曜日の夜、「まだおったん?」と大阪弁でツッコミを入れてくる店主がいる屋台で呑んでいると、札幌以来の彩香から電話があった。バイクが壊れて帯広で足止めを喰らっていると言うと、「だったら私がそっちに行ったのに」と少しいじけた。そして、これからの行程を話している時に、「じゃあ、私の家に泊って」と言いだし、俺は酔っていたこともあって、「うん、わかった」と簡単に言ってしまったのだ。別に彼氏でもないのに、伽奈を抱いたことへの後ろめたさがそうさせたのと、やはり美枝子に会うことへの不安が過ったから、そんな言葉が口から出たのだろう。


 俺は、沢木の下で世話になってから、仕事柄もあって、数々の女と出会ってきた。美枝子はそのなかで、初めて美しいと思った女で、そして今も多分、美しいと思い続けている女性だった。


 美枝子と最後に会ったのは、朝井に撃たれる半年ぐらい前、直接沢木の家に上納金を持っていった時だった。


 もう六年近くになるのだろうか。絶対に顔を見せろと言われた。俺にどんな話があるというのだろうか?そして最後に美枝子が言った「どうして朝井が、最愛のあんたを弾いたか」という言葉の謎を、俺を“最愛”だという弟分に撃ち殺されようとした俺が、今になって知らなければならない事実なのだろうか?


 幌毛志で道道131号線に右折して、道はそのままで名前が変わり道道74号線になり、鵡川沿いに下った。そのまま国道235号線に出て右折した。見覚えのある道をしばらく進み、塩チャーシュー麵が旨過ぎて驚いた翠龍を教えてくれたバイト君がいたガソリンスタンドを越えて、初めて走る空が広いだけの道の先には、船から上陸したその夜、暗闇の雨の中、事故りそうになりながら走った道が続いていた。


 お天道様の下で走ってみると、交通量の多いそれなりの面白くもない道だった。


 国道36号線から苫小牧の市街へ。逆に少し行けば、彩香と初めて出会ったウトナイ湖の道の駅がある。脳裏にその時の彩香が浮かび、旭川で会った時の彩香が浮かび、札幌で会った時の彩香に変わる。やはり女は怖いと思った。


 桜井彩香の家は駅よりも随分手前で、ショッピングモールや他のチェーン店が多く建ち並ぶ国道沿いから、少し北側に入った住宅地の公園の横にあった。まだそれほど古くもなく、新しくもない二階建ての一軒家だった。家の前には車二台が停められる駐車場があったが、今はガランとしていた。


 俺は何処で時間を潰そうかと考えた。腹も減っていないし、ここらで走って楽しそうな道もなかった。ソフトクリームを食べたかったが、千歳空港へ行ってソフトクリームを食う気には、流石にまだなれなかった。口の中に、きのとやのマッタリとしたソフトクリームの味が蘇った。それと同時に、返り血を浴びた木村勇作の顔が脳裏に浮かんだ。まるでこれは、ごく一般的で普通のことなのだというような、興奮という表情のない素の顔で、握った血塗られた刃物を丘崎の身体に振り下ろしていた。


 コンビニでアイスキャンディーを齧って気を紛らせる。冷たさが溶けていく中、海でも見ようかと思った。


 真砂大通から環状線・道道781号線に出て、オイルタンクが並ぶ道を苫小牧ふ頭の行き止まりにある海へと目指した。


 対岸の苫小牧西港フェリーターミナルには何隻ものフェリーがいた。あんな辺鄙な東港ではなく、ここに着けば楽なのにと思いながら、俺はコーヒーを点てた。


 俺は、のんびりと香り立つコーヒーを飲み、船着場のある風景を眺めながら、彩香から電話がかかってくるのを待った。


 空の大部分にはもう、雲がはびこっていた。




 俺が彩香の家に着くと、音を聞いたのか、玄関から青色の作業着姿の彩香が飛び出してきた。


 「いらっしゃい」


 満面の笑みだった。


 作業着姿の彩香は、まるで化粧気がなく、両耳に髪をかけていた。美形のわんぱく小僧のような印象を受けた。ん?髪がまた少し短くなっている。


 「髪切ったんや」


 「うん。……ダメ?」


 彩香は両耳にかけていた髪を下ろし、少し悲しそうな顔をして手櫛で横髪を整えた。


 「いや、似合ってるよ。格好が良い」


 「そう。ありがとう。荷物下ろすの手伝うね」


 彩香は嬉しそうになった。


 荷物を二人で降ろしていると、近所の主婦が通りがかり「こんにちわ」と挨拶をしたのだが、俺が「こんにちわ」と返しても、彩香は黙ったままピョコンと頭を下げるだけだった。近所付き合いはまだスムーズではない様子だった。


 彩香にはタンクバッグとビニール袋に入ったタンカースジャケットを持ってもらい、俺は二つのドライバッグを左肩に担ぎ、右手にヘルメットを持って家に入った。


 上り口に荷物を置いて「おじゃまし……」まで言葉にしたところで、俺の唇は彩香の唇で塞がれた。強い吸引だった。


 「買い物行こう」そう言ったあと彩香は、急に顔を真っ赤にして「うわぁ」と言って階段を上っていった。


 俺は一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。周りを見渡して、俺のうしろの靴箱の横に姿見があることに気がついた。多分、彩香は、自分がもう仕事着から私服に着替えているものだと、勘違いしていたのではないだろうか?


 俺はその場に座り、ボーッとしながら彩香が下りてくるのを待った。小さな彩香が一人で住むには広過ぎる。彩香はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか?ふと思った。


 十分ぐらい経って、やっと彩香が階段を下りてきた。


 「あっ、ごめんなさい」と、俺がまだ玄関にいることに気づいて小走りに近づいた。紺色のサロペットにきなりの半袖ブラウスに着替えていた。目が悪かったのだろうか、赤い丸フレームの眼鏡をかけていた。眼鏡姿も似合っていた。


 「ごめんなさい。もう着替えたと思っていたから。変な格好みられちゃった」


 「そんなことないよ。さっきも格好が良いって言うたやん」


 「えーっ、作業着姿が恰好良かったの。恥ずかしい。あっ、どうぞ。上がって下さい。直ぐにお茶いれますから」


 そう言って奥に進み、直ぐに振り返って、「荷物どうしましょう?洗濯物はありませんか?」と俺に訊いた。


 俺は「荷物は買い物から帰ってから。洗濯は昨日したから大丈夫」と言って、ブーツを脱ぎ「お邪魔します」と言葉にし、ドライバッグの一つから街歩き用のハイカットのスニーカーを取り出しブーツの横に並べた。


 リビングに通されソファーに腰を下ろす前に、「お母さんに手を合わせたい」と俺は彩香に言った。


 彩香は嬉しそうな顔をして、「仏壇はないんですけど、ここに」そう指し示したのはリビングの壁際に置いてあるシェルフの上だった。そこには彩香に似た女性の笑った写真が飾ってあって、その横にはラッパ口の透明なガラスの一輪挿しに、白を紫で縁取られた六芒星のような花が挿してあった。


 俺は手を合わせて目を瞑った。通りすがりの旅人です。お邪魔しています。とだけ笑顔に向かって心で呟いた。それ以上掛ける言葉が見つからなかった。俺はもうすぐ北の大地を離れるのだ。


 「ありがとうございます」そう言いながら彩香はテーブルの上に、年代物の瑠璃色の切子ガラスの器に入ったお茶を置いた。


 古と新が混在している家だった。


 一輪挿しの花はクレマチスという花だと彩香が教えてくれた。


 俺は、出された冷たい麦茶を一息で飲み干し、先に買い物へ行くことを提案した。彩香も頷いて、一息入れぬ間に動き出した。


 彩香の車で買い出しに出掛けた。買うのは、今夜のお刺身と俺が呑む酒だった。お酒は、何がいいのかわからなかったからと、両手でしっかりと十時十分にハンドルを握った彩香が、真っ直ぐ前を向いたまま言った。眼鏡のレンズに度は入っていなかった。伊達眼鏡、これもファッションの一部なのだ。


 国道にあったショッピングセンターへ向かうのかと思ったら、違うスーパーへ行くのだという。なんでも、そっちの方が安くて美味しくて融通が利くのだそうだ。そして、煮たり焼いたりする魚だったら家の冷凍庫にいっぱいあるんだと、彩香は自慢気に言った。何でも同僚の西山さんと佐野さんのところの実家が漁師で、西山さんが根室の落石、佐野さんが留萌、その二つから送られてくる魚を、お母さんが生きていた時からずっと、おすそ分けをしてくれているのだと、訊いてもいないのに詳しく教えてくれた。


 落石、留萌と聞いても?マークは浮かばなくなっていた。俺も北海道の地理には慣れ親しんできたようだった。て、佐野さんって誰だよ?


 「西山さんの仙台にいる息子さん、怪我は良くなったの?」と俺が訊くと、「凄い、そんなことまで覚えてくれていたんだ」と、彩香はチラリとこっちを見て言った。そして、「息子は無事に退院して、今は仙台でリハビリ中」と前を向いたまま言い笑った。俺が何故笑うのだろうと不思議に思っていると、「西山さん、息子にね、『あとは彼女に面倒見てもらうから、苫小牧に帰っていい』って言われちゃったんだって」そう彩香は言い、「あのヤックンがねぇ」と言ってまた笑った。どうも彩香は息子のヤックンのことを昔からよく知っている様子だった。


 スーパーの駐車場に車を停めて車外に出ると、直ぐに彩香は俺の手を繋いできた。こんな風貌の俺でいいのか?と思ったが、彩香がぎゅっと強く握った手に答えることにした。


 籠を持った俺は、彩香に引っ張られるようにして店内を歩いた。一直線に鮮魚コーナーに着いた。並べられてある刺身パックは少なかった。


 「おじさん、盛り合わせで。いっぱい食べれる?じゃぁ、三人前で。お任せでお願いします」


 彩香は、陳列ケースの近くにいた老齢に近い店員に慣れた様子で言った。


 少し経って奥から出てきたおじさんは、彩香に刺身の盛り合わせを手渡しながら、「オマケしといたよ。彼氏かい?」と彩香に尋ねた。彩香は、「ううん。私のヒーローなの」そう胸を張るようにして言った。


 「おじさん、ありがとう」と言った彩香は、刺身盛を俺の持つ籠に入れると、また手を握って「行こ」と俺の顔を見て言った。


 俺は店員に軽く会釈した。店員は少し不思議そうな思いの残った笑顔を浮かべて会釈を返した。


 重さを感じる刺身盛を、俺は歩きながら透明プラスチック越しに覗いた。かなりの量の刺身がギッチリと並べられていて、その上、アルミカップに入った雲丹やイクラまでもが並んでいた。豪勢な感じの上、一つ一つの角がピンと立っていた。旨そうだと思った。


 酒のコーナーには寄らずにレジに向かった。この質と量の刺身盛が¥1380だった。俺は安いと思った。金を払おうと思ったら彩香に「今日はお客さんだから」と注意された。


 刺身をうしろの席に置くと彩香は車を発進させた。向かったのは酒の量販店で、俺は車に残した刺身が気になりながら急ぎ早に酒をチョイスした。


 いつものビールを四缶と、目についたオールドクロウ一本とロックアイスを一袋。そして、彩香に訊いて飲んだことがないと答えた冷えたドンペリを一本買った。勿論、ここは俺が支払った。セコマの泡とは違う感じを楽しみたかったのだ。


 家に戻ると彩香は晩御飯の準備にかかると言ったが、俺は先にシャワーを浴びたいと言った。酔って風呂に入るのは面倒だと思ったのだ。


 湯が湯船に溜まるまで一緒にシャワーを浴びお互いに洗い合った。降り注ぐ中で彩香は深くいった。


 もう味わうまいと思っていたのに、


 湯に浸かって、まだ起立している俺を彩香は手と口で勤しもうとしたが、俺は彩香と繋がり会話した。


 「なぁ、俺って彩香のヒーローなんや」 


 「そ、あっ、そうだよ。ん、あぁ。私の、ヒ、ヒ、ヒーローだ……ア、アアッ」


 「ダメでしょ、動いちゃ」


 「だって、勝手に、勝手に、腰がうご……あっ、動いちゃ、うっ」


 彩香は激しく震えたあと、一気に体の力が抜けた。意地悪な俺が顔を出したようだった。


 俺のヒーローは、旅の初めに吉田牧場で墓参りをしたテンポイントだった。人間ではなく競走馬だ。それ以外、幼少時の俺の記憶にはいないのだから仕方がない。戦隊やバイク乗りは、俺がこの世と混じり始め、他者の言葉で初めて知ったものだった。彩香の中で、俺以外のヒーローはいなかったのだろうか?


 PCを取り出してきて、ジャズのアルバムが五枚ほど入ったフォルダーからランダムに流した。


 湯上りのいつものは最高だった。キッチンで働く彩香のうしろ姿と、彩香が作ったという肉じゃがが温められて、その鍋から漏れ出る香りを肴に呑んだからかもしれない。


 準備が整う頃には一缶が消えていた。


 キッチン近くのダイニングテーブルは使わず、ソファーの前のテーブルに並んだ料理は色とりどりだった。


 大皿に移し替えられた刺身と肉じゃが、鮭のムニエルに色とりどりの野菜サラダ、そして小鉢にホッキガイの生姜煮が添えられていた。


 刺身は十種類ぐらいの魚介類がたっぷりとあって、その横に雲丹と大粒のイクラの醤油漬けが少し大きめのアルミの小分けカップに入っていた。これで¥1380はとてもお買い得だ。


 俺がドンペリを開けると彩香は拍手をした。透明な水飲みコップに注ぎ入れて俺達は乾杯した。彩香の感想は「甘くないんだ」だった。


 最初は醤油で、途中から醤油にオリーブオイルを入れたタレで刺身をいった。ドンペリがスイスイ喉を流れていく。肉じゃがは豚肉を使った関東風で、鮭のムニエルは好い加減の火の入りようだった。ドンペリはあっという間になくなった。


 俺も手伝って二人で食器を洗った。


 酔った彩香はオレンジジュースを飲み、俺はクロウをロックでやった。


 そのうちに彩香は俺の膝枕で眠りについてしまった。


 流れているハイハットやスネア―の音が、外で降る雨音に時々かき消された。


 真夜中にソファーで目覚めた俺達は、雨音に負けないように求め合った。


 「お母さんが見てる」と言って写真を伏せたあと、彩香はガクガクと身体を痙攣させてソファーに倒れ込んだ。


 彩香を抱き上げて言われるままに歩き、流石に階段は危ないので手を引いて、彩香の部屋のベッドに倒れ込み、二人抱き合ったまま眠った。




 目覚めても、窓を叩く雨音は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。


 彩香はもうベッドにはいなかった。代わりに手紙が一枚置かれてあった。


 『おはようございます。よくねていたので、おこさないで仕事にいきます。朝ごはんは、冷蔵庫の中にブリのてり焼きがあります。チンして食べて下さい。あと、ノリとか玉子とか、足りなければ昨日の残りの肉じゃがも食べて下さいね マコチン大好き(ハート) chu!!』


 そう可愛い字で書かれてあり、サイドボードの上には、昨夜風呂上がりに着ていた俺の服とパンツが綺麗に畳んで置かれてあった。下のリビングに散乱していた物だった。


 時計を見ると九時を回っていた。


 彩香の性格から、部屋はもっと女の子らしく飾られてあるのかと思っていたが、ぬいぐるみなどもなく、意外に大人の女性の色で染められていた。


 服を持って裸のまんま下に下りた。脱衣所にある洗濯機の上には、また手紙があって、『洗濯物はネットに入れて中へ入れておいてください。バスタオルはそのまま中へ(ハート)』と書かれていた。


 シャワーを浴びて歯を磨いた。流石にホテルの歯ブラシと違い安定感があった。


 腰にバスタオルを巻きビールを飲みながら、彩香が作ってくれた朝食を頂いた。味噌汁だと思っていた鍋の中身は潮汁で、魚の出汁が濃くて旨かった。照り焼きは少し甘めだが旨かった。食い進めるうちに、俺はかなり腹が減っていることに気づいた。冷蔵庫にあった肉じゃがも温めて全部平らげた。昨夜も旨いと思ったが、今日食い直してみても旨かった。俺は、用意されていた可愛らしい大きさの茶碗で三杯食った。


 満腹になって熱いお茶を啜りながら、彩香と結婚すると、毎日こんなに旨い料理が食えるのか。と、少しだけ想像してみた。だけど直ぐに、戯言はいいと思い直した。


 洗い物をしながら、窓の外で降りつける雨を見ていた。傘を差してまで出かけたいとは思わなかった。


 フーッと息を吐きソファーに寝転ぶと、俺はそのまま眠ってしまった。




 美枝子はあの日のままだった。


 長い髪を搔き上げた腕には、龍が睨みを利かせている。


 向かいのソファーには、髪の長い女性が後姿だけをみせていた。顔はわからない。


 二十歳の徳永がビリヤードのキューを構えながら、「な、俺が言ったとおりだろ」と手球を突いた。


 手球は綺麗に転がって1番に当たる。


 その1番が8番をかすめてクッションを伝いコーナーポケットへ向かう。


 かすめられた8番がゆっくりと転がってサイドポケットにポトンと落ちた。そして、黄色の1番はコーナーポケットの手前で止まって、形を変えた。


 美枝子が「知らなきゃ駄目よ」と微笑んだ。


 俺はさざ波が寄せる浜辺に立っている。空と海しかない。


 背中で津田が言った、「もう少し待って下さい」と。


 振り返ると、何故か懐かしさが込み上げてくる賑やかな街が、釧路川の川下りのように静かにそこにあるだけだった。


 街へと続く砂の道は微かに振動していた。


 砂が浮き出てボトルの形になり、宙に大売り出しの文字が唐突に躍る。そしてそれらは数を増やし、次々に形を変える。ラーメン丼になったり、寿司になったり、ブラウン管のテレビになったりして、最後に大小構わず馬になって砂浜から星空へ駆け上がっていく。


 それをただ見ている俺に、朝井が引き鉄を絞った。


 射貫かれた熱さが点から広がり、苦しさに変わっていく。息が苦しくて、その上、怒りが湧き上がってくる。


 もう何処にもぶつけることが出来ない、理不尽な思いのする怒りだ。


 「起きて」


 引き摺るように歩いた。


 街は人が行き交っているのに音がしない。それに歩いているのが人だとは言い切れなかった。


 一人?一匹?が振り向いて、黄色い檸檬を手に近づいてくる。


 “いつになったら、戻ってくるんだ”


 歯なのか牙なのかわからないものを見せて、それはぐもった音を出した。


 俺は、その得体の知れない者に、声を出して返事をしようと思った。


 「ねぇ、起きて」


 急にうしろから、何かに鼻と口を塞がれた。口の中に柔らかい蠢きが侵入してきた。息が出来なかった。


 堪らず目を開けると、悪戯っぽい目が俺を見ていた。




 彩香より早く目覚めた。


 カーテンの隙間から漏れ出る光は、気持ちの良い空を想像させた。


 俺は、彩香をうしろから抱き締めて、スーッと髪の匂いを嗅いだ。


 シャンプーの香りと彩香の匂いが、俺の気持ちをざわつかせる。そのまま動かず密着し、じっと抱き締めたままでいた。もう会うことはないだろうと、俺の中の何処かが呟いた。


 彩香は、微睡みの中でゆっくりと寝返りを打ち、俺の匂いを大きく嗅いだあと安心した様子で、微かな笑みを浮かべて静かに寝息を立てた。


 俺もアラームが鳴るまで眠りについた。その眠りは穏やかで、現実を知らない幼い頃に戻ったような気分だった。


 結局シャワーは二人で浴びることとなり、彩香の拙いテクに不覚にも起立してしまったら、案の定、彩香に余すことなく吸い取られた。俺もまだまだ若いのかと、過信ともいえる自信がついた。


 琵琶湖近くの窓からロープウェイが見えるボロアパートの鍵がついたキーホルダーには、彩香の家の鍵がつけられていた。呑んでいる最中に、「お守りよ」と、彩香はそう言って揺らした。


 俺は、ジーンズの右ポケットにそれを感じながら、国道36号線に出る信号待ちで、窓越しにキスをして彩香と別れた。


 Tシャツに薄手のパーカーで充分な気温で、苫小牧の広い国道は相変わらずの交通量だった。


 彩香の旨い手作り朝飯を食ってきたので、マルトマ食堂への交差点を横目で見るだけで済んだ。そして、初めての北海道の夜を暮らしたホテルを懐かしく感じた。


 道は、初めての北海道で食う飯と酒を買ったコンビニの前から、車線が一つ減る。急にせせこましく感じる道に変わる。


 それも直ぐに両サイドの建物が低くなって、空いた空間には綺麗な青が広がっていった。北海道らしい道だった。


 直線路が終わり、道は左にカーブした。


 そこで俺は、小さな煙突を発見した。北海道にも風呂屋があるなんて思いもしなかった。湯冷めはしないのだろうか?


 のんびり走るものだと素直に自負しながら、右にカーブした。


 海の見えない海沿いに在る道を進み、左手に海の青が見え隠れし出した時にふと思った。このまま先に進むと、俺はもう引き返すことはないのだと。


 二車線が一車線になって、釧路から帯広へ向かう時に走った白糠町の道を思い出させた道を進むと、道はまた、潤沢な北海道仕様の道幅に変わった。


 唐突に白老町のカントリーサインは現れた。


 別々橋を渡り、本当に、過去へは戻らない場所に進むのだと思うことにした。


 白老に入るとそこに社台の文字を見つけた。先に進むにはまだ充分時間があった。ここにも厚真町や平取町のような風景を期待しつつ、右折して室蘭本線の線路の向こうの景色を見に進んだ。


 いい景色だった。けれども道が俺を受け入れてはくれなかった。俺の見たい景色がありそうな場所は、アスファルト舗装から凸凹の砂利道に変わる先にありそうだった。


 もう神の子池の時のように、凸凹道でマフラーのステーを折るわけにはいかなかった。年代物の相棒は、大切に扱ってやらなければならない。何頭かのサラブレッドが駆ける姿を見て、北の馬産地の見納めにした。


 海を横目に国道36号線を進むと、道は中央分離帯のある広さに変わった。


 標識に『ウポポイ』の文字が急に増えた。これが、浦見恭平が札幌のススキノで話してくれた、アイヌのウポポイなのだと思い出した。


 未だ俺には、アイヌ文化の“ア”の字ぐらいしか理解出来ていなかった。施設は新しく、周りとは不釣り合いな“新品ですよ”感を目一杯漂わせていた。施設を見て回るには勿体ない青空だった。だからポロト湖の畔で、コーヒーを点て、飲みながらのんびりと青と蒼と碧を満喫した。


 俺が見ている青々とした森と静かな湖面を、アイヌの民も同じように見ていたのだろうか?


 あれ?前も同じようなことを考えたなぁと思った。ああ、遠軽町にある瞰望岩の天辺から見下ろした時だ。


 あの時は隣に道警の道上がいた。俺にとって、悪い奴ではなかったが、いい奴でもなかった。道上の正義は、大局的見地からの正義なのだ。死にぞこないの癖に死を見詰めて生きている俺からすれば、大局なんてものは個の次だ。そんな余裕など俺は持っちゃいないのだ。


 忘れそうになっていた俺の旅を思い出した。そうだ、俺は死ぬために旅をしているのだ。日本という国の、まだバイクで訪れたことのない都道府県すべてを、相棒と走り尽くすのだ。それが今の俺でも成し得ることが出来るものと、うしろ向きではなく、前向きに熟考して導き出た俺の答えなのだ。金が底を突くまでは精一杯生きてやる。そうしていれば、何か奇跡が起こるかもしれない。そう思い込むしかなかった。


 国道に戻ると視界いっぱいに海が現れた。海すれすれの国道36号線は、西湘バイパスを思い出させた。


 あれだけ朝飯を食ったからか、昼近くになっても空腹を感じなかった。ただ大きく青い空とその下に続くこの道を、俺はのんびりと流していたかった。


 大きな熊がいる建物を左に見ながら通り越した。頭の中で記憶が蘇った。ここに行きたかったと。


 Uターンして敷地に乗り入れた。赤い建物を正面から見た。これだ、これだ。ここに立ち寄りたかったんだ。屋根の上には大きな鮭もいた。羆と鮭だ。道頓堀の蟹よりも大きかった。『かに御殿』というらしい。奇抜な赤い建物と相棒の記念撮影をした。


 どうせ買っても持ち帰れないのだが、降りたついでに見て回ろうと思い入口に向かった。入口横で貝の串焼きが焼かれていた。匂いが俺のために焼いているのだと誘った。


 焼かれるのを待っている串刺しに並んでいるブツは、とても新鮮なブツだった。


 俺は腹具合を考えて、ホッキ貝とツブ貝をタレでとチョイスした。


 熱々のホッキ貝に齧りついた。噛み切れずに一つを口に入れた。ホッキ貝独特の食感で、噛むごとに貝汁が溢れて出る。タレの甘じょっぱさもイイ感じだった。あっという間に平らげて、ツブ貝に手を伸ばした。コリッとした歯応えある食感。ツブはツブでいい味出していた。今日の俺は、その二串で満足した。


 自販機でお茶を買って、名残惜しい貝の旨味を洗い流した。


 今日は何処まで走ろうか?


 ヘルメットを被りながら考えた。












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