10


 住宅街に振る雨が止んでも、空が青くなるわけではなかった。


 赤い傘を畳み、灰色の雲が覆い尽くす下で、俺は野間のアパートまでカメラを見つけながら歩いて行く。


 案外、防犯カメラは無いものだ。しかし、一つもないわけではなかった。


 それに人通りも少しはあった。その中に、聞き込みに回っている刑事らしき人物がいたのも本当だった。


 野間のアパートに着いた。今日もまたこの時間は、全体がひっそりとしていた。


 相変わらず綺麗に保たれていた。今朝も雨の中、掃除がなされたのだろう。


 今日は向かいの家のおばさんは出てきてはいなかった。


 なのに、俺は誰かに見張られているような気がしてならなかった。やはりこの前抱いた違和感も、今と同じものだったのだろうか?


 駐車場に回り、裏からアパート全体を見渡した。やはり、誰かが俺を見張っているのは間違いなかった。そっと見渡して、何処から視線を感じるのかを確かめた。


  野間の部屋から対角にある、一階の一番端の部屋が気になった。あの郵便ボックスが溢れていた101号室だ。


 俺は直線的にその部屋のベランダへ足を進めた。


 あと五メートルといったところで、部屋の中でゴトッと何かが落ちる音がした。この部屋の住人が初めて動きを見せたのだ。


 俺は玄関に回って呼び鈴を鳴らした。しかし、部屋の中では何も音がしなかった。壊れているか、電池が外されているかだった。


 俺はドアをノックした。だが、息を潜めていて何の反応もない。


 もう一度ノックした。今度はさっきよりも大きく強くドンドンドンと言う感じだ。


 しかし、誰も出てこないし、一切物音も聞こえなかった。


 余りしつこくドアをノックして、警察を呼ばれてしまっても困ると思い、ここはハネさんと来た時にしようと考えた。


野間の部屋に入った時にわかったのだが、この建物の部屋の中では、女一人を誰にもバレずに飼うことなど出来ないのだ。唯一可能性があるとすれば、自ら其処へ身を隠した時だけだ。それでも人一人増えれば、ガスや水道の使用量が上がり、出すゴミの量も増える。そうなれば、隠ぺいが綻び始めるのも早い。


 角部屋から異臭はしなかった。ゴミ屋敷ではないようだ。只、シャバと繋がりを持たないようにしているだけだろう。


 何があって、何の為に此処に籠っているのか?そんなことは俺には関係のないことだが、籠って外を窺っている以上、久保奈生美の行方に関して、何らかの情報を持っているだろうと俺は考えている。


 改めて野間のアパートの周りを歩いてみた。市電が走っている通りに出る道は、来た道を含めて三通りあった。ダミーが含まれているかもしれないが、どの道にも停車中の車載カメラを含め三つ以上の防犯カメラがあった。


 野間のアパートに戻って、逆側にある通りに向かった。こちらも、幾通りでも行き方があるようだった。その一つを通って通りまで出た。


 防犯カメラの普及は凄まじい勢いだと理解した。何処を通ってもカメラがあるように感じたのだ。


 だが、カメラがない道があるはずだ。そう考えて再び野間のアパートまで戻り、今度は防犯カメラがないルートを探すことにした。最初からそうしていれば良かったような気がして、笑けてきた。


 市電のある通りへは二回角を曲がっただけで、行き場を失ってしまった。


 何度此処へ戻ればいいのやら。また野間のアパートから、今度はまた、市電のある通りとは逆側の通りに進んだ。


 何度か行き場を失ったが、五分ほど歩いたところで、大きな工場と工場の間の百メートルほどある直線道に出くわした。此処を抜ければ、大きな通りに繋がる道に出られそうだった。その直線路にもカメラは一つもなかった。


 その代わり、前から如何にもという感じの男が二人、俺の行く手を塞ぐように歩いてくる。俺はチラリとうしろを見てみた。うしろには男女二人が道を塞ぐように歩いてくる。


 前から来る左の男は、俺が野間のアパートへ来る途中に見かけた刑事らしき男だ。俺はホッとした。面倒は御免だった。地元の質の悪い奴ら相手よりも、警察を相手にする方が、俺としては幾らかマシだと計算したのだ。それに、俺の身体は疲れている。


 俺は立ち止まってガラ携を出し、スピーカーにしてハネさんに電話をかけた。もし出なければ、俺は警察署に引っ張られ、美枝子の命令を破ることになり、旨い肉にもありつくことが出来なくなる。


 刑事達が駆け足で近づいてきた。やっとハネさんが電話に出た。


 ――もしもし、まだ帯広には着いてない。竜一には動いてもらうことにしたから――


 俺は、「ちょっとそのまま」とハネさんに言ってから、集まってきた刑事達に「誰か、ハコバンしてたハネタさんを知ってる人?」と問いかけた。


 ――おい、何をしてる――


 やる気満々の若い刑事が大声を出した。すると、髪をうしろに束ねた女性刑事が、「ハコ長のハネタさんですか?」と言った。


 「そう、ちょっと出て」 


 俺はそう言ってガラ携を彼女に向けた。


 前から来た二人組の内の中年刑事は、眉間に皺を寄せて?マークを浮かべ、隣の若い刑事は、「ちょっと、あんた」と俺を威圧した。


 「もしもし、タナカシゲミですけど」


 ――何?タナカシゲミ?――


 「はい、中央署人見でご指導頂いたタナカシゲミです」


 ――おお、三段か。久し振りだなぁ。元気にしてっかぁ?ああん?――


 「はい。お陰様で。ご無沙汰しております」


 ――でも、どうして君が獅子王の?何だ、アイツ死んだか?――


 「アホか、ボケ。誰が死ぬんじゃ」


 ――おお、生きてるな。どうした?ああん?――


 俺は説明を女刑事に任せ、俺はまだ合点がいっていない中年刑事に話を振った。粋がっていた若い奴らも、どう判断すればいいのか迷っている。


 「この先、防犯カメラに映らず、大きな通りまで出れますか?」




 市電に揺られて、十字街までやって来た。ここはもう中央署の管轄外、函館西署の管轄になるらしい。ここで谷地頭行きの電車に乗り換える。疲れていて飛び乗ったのが拙かったのだ。それでも何とか約束の時間までには着くことが出来そうだった。


 ハネさんの説明で事無きを得たのだが、なかなか解放までには至らなかった。


 特に中年刑事の玉木がしつこかった。覆面の後部座席に入れられて、昨日からの俺達の行動と、それによる収穫すらも何度も何度も聞きただした。


 ハネさんが全部言えと言ったので話したのだが、トンビに油揚げをかっさわれる気分で少々ムカついた。


 だが玉木は、俺の質問にも答えてくれた。カメラに映らないで大きな通りに出る方法は俺が見つけた以外にも三つあると言った。中の一つは市電の通りへ出る道で、知る人ぞ知る歩行者しか通れない小径だった。此処を通れば、カメラに映ることなく市電に乗れて、あとは何処へでも行けるのだそうだ。


 『阿さ利』の暖簾を潜った玄関で、笹森の名前を出すと、二階奥にある個室までスムーズに通された。何かのダンジョンかと思うほど入り組んでいるのだが、仲居は大したものだった。


 美枝子はまだ来ていなかった。


 喉が渇いていてビールを飲み干したいところだったが、グッと我慢することに決めた。


 約束の時間を十五分過ぎて、やっと美枝子はやって来たようだ。


 仲居への態度はいたって上品だった。


 俺は立ち上がって美枝子を迎え入れた。


 「何立ってんのよ。座って座って」


 大き目なグレーのキャスケット帽に青色のサングラスを掛けた美枝子は、とてもファッショナブルないで立ちで、一見するとモデルのようだった。


 「喉乾いてるよね」


 そう俺に尋ねるように独り言を言って、瓶ビール三本を注文し、そのあとはいつもの日本酒をと注文した。


 ビールが来るまでの間、美枝子は久保奈生美の捜索状況を訊いてきた。


 俺は、ありのままを簡単に話した。さっき函館中央署の刑事に何度も同じことを話したので、流暢に美枝子にも話すことが出来た。


 「あんた、親いなかったもんね。その翔っていう子の淋しさってわかるのかなぁ?」 


 美枝子はそう言った。


 障子の外で「失礼します」の声が聞こえ、三人の仲居が、ビール三本とすき焼きの鍋と具材を持ってきた。肉の量が半端なく多かった。


 仲居にビールを注いでもらい、俺達が呑んでいる間にすき焼きを作り始めた。他の仲居さんは、部屋から直ぐに立ち去った。


 牛脂が焼け溶ける良い香りが部屋に充満し、先ず白滝が投入された。


 どうも関西風でも関東風でもないようだった。


 そして野菜が焼かれ、その上に良い加減のサシが入った綺麗な肉が載せられる。


 そのあと鳥出汁と割り下が注がれた。


 そこで仲居は、「あとで日本酒をお持ちします」と言って下がっていった。


 美枝子がすき焼きは任せてと言うので、俺は夢中で渇きを収めた。ビール一本が最初の肉一枚であっという間になくなった。


 「この肉が旨いのだ」と美枝子は自分の手柄のように嬉しそうに言った。その言葉通りの旨いすき焼きだった。卵まで旨かった。


 肉が載った三つの大皿が一皿空になるまで、二人はほぼ無言だった。


 やっと日本酒が運ばれてきた。汗をかくほど冷やされた手取川の吉田蔵の一升瓶だった。


 コップ酒で注ぎ役は俺だった。仲居はそそくさと部屋を出た。


 「それで、その奈生美って娘、生きているの?」


 なんともまぁ直球だった。やはり俺達は、人の生き死にに関して何処か麻痺しているのだ。


 「さぁ、今のところわかりません」


 「そうよね。一日二日でわかれば苦労しないものね。ドンドン肉入れてよ」


 美枝子はそう言って肉を頬張った。


 「俺、今日含めて四日で蹴りつけたいと思うてます」


 美枝子は肉を食う手を休めて、指を折って数えている。


 「そうね、私も沢木の三回忌の墓参りに行こうと思っているから、丁度良いかもね」


  俺の中で疑問が擡げた。


 「親分は、去年死んだんやないんですか?」


 「えー、誰に聞いたの?あんた、それまで知らなかったんだ。道理で呑気に旅をしていると思ったわ」


 「どういうことですか?」


 「沢木は、一昨年の八月十七日に死んだの。最後に愛した女の元でね」


 なんだこれは。理解しがたい言葉が耳から入ってくる。


 「沢木はね、すい臓がんだったの。最後私と別れて、丹後町の幼馴染の女の腕の中で死んだのよ。やっと念願が叶うんだと言ってね」


 俺の中で一人の女が浮かんだ。俺が沢木に頼まれて探し出したんだ、黒川睦美のことを。


 「だから、私は笹森美枝子に戻ったの。私自身もずっと違う誰かのことを思いながら生きていたからね。お互い様かな」


 美枝子はグッと手取川をやった。俺は美枝子が置いたグラスに酒を注いだ。


 「沢木はね、あんたのことが、本当は憎かったのよ、知ってる?」


 俺は首を振った。そんな風に思いたくなかった。だが、結果、そういうことだろうとは、頭の何処かでわかっていたはずだ。


 「嘘ーッ。昨日わかったでしょ、私が好きだったのが誠だって」


 そんな唐突な言葉に、俺はどう反応して良いやら、脳味噌は巧く動かない。只、美枝子の美しい笑顔が眩しかった。


 「覚えてる?昔、芦屋の豪邸のプールで、酔って調子に乗った私が溺れたのを。その時、あんたに助けられた。いえ、もっと前、沢木が東京からあんたを拾って来た時からよ。私が好きになったのは」


 俺の頭の中で、走馬灯のように色んな過去が流れていった。あの頃はもうすでに、美枝子は沢木の女だったのか。どう答えればいいのかすら、頭の何処にも浮かんでくることはなかった。


 酒が喉を通る音と、肉や野菜を咀嚼する音だけが、その時間には存在していた。


 「沢木が宝玉組の奴に刺されたのを覚えてる?」


 美枝子の静寂を破った言葉に俺は頷いた。俺が朝井に弾かれる十年も前の話だ。沢木はひと月程入院しただけで退院し、そのあとは普通に過ごしていた。


 「あの時以来ね、沢木は男じゃなくなったの」


 俺は直ぐに理解が出来なかったが、今朝の美枝子の言葉を思い出し、胸の内だけで納得した。


 「なぁにぃ~。まだわかんないの?あのあとね、狂ったように私を道具で責めたの。自分の無力さを道具で補おうとしたわけよ」


 俺は彼女を見ることは出来なかった。酔っているのだ。聞かなかったことにすればいいんだ。そう思っていた。


 「誠、聞いてるの?」


 「はい」


 「その時ね、私、狂っちゃった、沢木のやるせない虚しさを、私がどうにか出来るならって思ってね。狂っちゃったの。そのうちね、何処で憶えて来たのか知らないけど、沢木は受け身になったの」


 食欲を削がれるような話なのに、出来上がったすき焼きは旨かった。乾く前にと俺は次々に鍋に肉を入れ、美枝子と俺の取り皿にわけた。


 あとは黙々と食べて呑んで……。


 デザートは遠慮して、俺達は店を出ることになった。金は請求書払いだと美枝子は言った。開けたばかりの一升瓶は残り五分の一程になっていた。


 歩いて帰るものだと思っていたら、少し歩いたところで美枝子はしゃがみ込み、「タクシーを呼んで」と俺に言った。


 俺は昼間とは違う、この辺りに近いタクシー会社に電話した。


 タクシーが来るまで、俺が差した赤い傘の下で美枝子は歌を歌った。


 雨音に隠れるように「You'd Be So Nice To Come Home To」を繰り返し歌っていた。最初はHelen Merrillのように、そして次はJulie Londonのように、最後は青江三奈のように。俺的には、背中の弁天様を見せたプラチナのドレス姿の昔を思い出し、Sarah Vaughanのように歌って欲しかった。


 小さなクラッチバッグを俺に持たせたまんま、手ぶらで乗り込んだ美枝子は、東山町まで行くように運転手に言った。


 何処へ行くつもりなのか、俺には皆目見当もつかなかった。


 此処だろうと俺が思っていた東川町を過ぎても、タクシーはドンドンと走って行く。そのうちに街を離れて、ライトは暗闇の中を照らすだけになった。


 「何処へ行くんですか?」


 美枝子はそれには答えずにスマホとにらめっこだった。


 何故だろう、疲れているはずなのに、美枝子が近くにいると、昔の俺に戻った気分になっている。どうなっても構わないのだ。


 暗闇の向こうに幾つものネオンがギラついていた。


 そういうことか。俺は納得した。


 美枝子の指示でその中の一軒に滑り込んだ。


 部屋に入ると美枝子は、「入ってくんなよ」と言って、直ぐにバスルームに飛び込んだ。


 部屋に足を踏み入れると、其処にはバツ印に組まれた張り付け台や、産婦人科にあるような診察台が並んでいた。


 俺はどっちの目に合わせられるのだろうか?安っぽいソファーに座りながら、どう心の準備をしていいのか戸惑っているのが、自分自身でわかるほどだった。ちゃんと美枝子を満足させることが出来るのだろうか?


 シャワーを浴びて出てきた美枝子に、俺は黙ってシャワーを浴びようと立ち上がった。


 だが俺は美枝子に腕を引っ張られて、ベッドに仰向けに倒された。


 そして唇を塞がれ、昨夜のように俺はされるがままになった。


 途中で美枝子はテーブルの上に置いていたクラッチバッグを取りにいった。快楽を中断された俺は、只それを眺めていた。


 美枝子はバッグの中から小瓶を取り出すと、ベッドに戻ってきて、俺の目の前で四つん這いになって言った。「こっちに入れて」と。


 ああ、こういう好みの女もいたなぁと、遠い昔を思い出した。


 弁天様が何度も何度も踊りまくって、壁の鏡に映る快楽に没頭した美枝子の美しさは、俺の絶頂を速めていった。


 「きて、そのままきて」


 その言葉で、俺の中のストッパーが外され、心臓が張り裂けても良いとばかりに動き続けた。


 背中の弁天様が深くお辞儀したのを覚えている。無我夢中とはこういう事だったのかと思った。


 引き抜いた余韻には、八重桜よりも鮮やかなピンクの通りが見えていた。俺の頭の中で、新ひだか町の二十間道路の桜並木を思い出し、春になれば、これよりも美しいピンクに彩られるのだろうか?と、変な疑問が浮かんでいた。


 シーツの上で時折痙攣する美枝子を抱きかかえるように、俺はドッと疲れが湧いて出た身体を横たえた。


 やっと横になったのに、喉が渇いていた。荒い息も、鼓動の速さも、暫くは治まりそうになかった。


 俺は重い身体を引き摺るように冷蔵庫を探した。中からお茶のペットボトルとミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、俺はお茶のペットボトルのキャップを開けて、喉に流し込んで息を整えた。


 身体中に水分が行き渡っている気がした。


 ベッドでのびている美枝子の隣に戻り、冷たいミネラルウォーターのペットボトルを美枝子のまだ赤味差す頬に押し当てた。


 ゆっくりと瞼を開けた美枝子は、俺の顔を確認したあと、腕だけで俺を引き寄せキスをした。


 喉を鳴らせてミネラルウォーターを飲んだあと、美枝子はシーツを身に纏いながら這い出て、ヘッドボードに身体を預けた。


 もう一度、ペットボトルを傾けてゴクリと喉を鳴らした。


 「朝井はね、ずっとあんたにこうされたかったのよ」


 訳が分からぬことを美枝子は口走る。どういう意味だ?


 「だから、朝井は、あんたにさっきみたいに抱かれたかったのよ」


 俺は戯言を聞き流すことにした。逃げるようにパンツだけ掴み、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。


 無心になって一通り身体を洗い終えた。俺はこの旅に出て、心を無にすることを会得していたのだ。大きな空の下で、只続く道を行く時のように。


 パンツ一丁で部屋に戻ると、美枝子はもう服を着ていた。その時、ヘッドボードの上の電話が鳴った。美枝子が素早く受話器を取った。タクシーが着いたという連絡のようだった。


 「早く着て。帰るよ」




 笹森家に着くと、美枝子は自分で門を開け、玄関を開けて中に入った。


 「おいで」


 そう俺に言うと、階段を上っていく。


 俺は従うしかなかった。


 部屋に入ると美枝子は、クローゼットの中から一枚のアルバムを取り出した。


 ベッドに腰掛けると、膝の上でアルバムを開き、次から次へとページを捲っていく。


 「あった。これ、これ」


 そう言って一枚の写真を俺に見せた。和服姿の美枝子の隣に、黒と白のワンピースを着た、美枝子より少し背の高い綺麗なおネェちゃんが写っている写真だった。


 「これが、何ですか?」


 「良く見なよ」


 「ネェさんと……」


 「美枝子さんね」


 「あっ、すみません。これは、美枝子さんと……。誰ですか?」


 「わかんないんだ。それ、朝井よ」


 俺は写真を目に近づけて、美枝子の隣に写っている女をガン見した。


 「こっちを見たらわかるかも」


 次に美枝子が俺に渡した写真には、綺麗な女が一人写っていた。だが、うしろの壁にかかっている絵が、何処か見覚えのある物だった。


 俺はじっと思い返した。窓枠の位置と絵の配置が頭の中で蘇ってきた。朝井が住んでいた立売堀のマンションの一室だった。


 「思い出した?」


 俺は無言で頷くのが精一杯だった。どう見ても朝井だとは思えない。そこに写っているのは、俯きがちにはにかむ女そのものだった。


 「その何年か前にね、私と朝井は、日本橋にあったあんたのマンションで見たのよ。あんたが安っちぃモデル上がりとしているところをね」


 日本橋のマンション?もう十年以上前のことだ。


 「朝井が鍵を預かっているというから、驚かしちゃおうかって、二人で忍び込んだの」


 雨が窓を叩き始めた。


 「私達ね、動けなくって、そのまま暫く見ていたの。けど、朝井が『行きましょうか』って悲しそうに言うから部屋を出たの。車に乗り込んだら、運転席で朝井が泣き始めたの。最初は何だろうって思っていたら、そのうちに子供みたいに泣き喚いた。ああー、あの女のことが好きだったんだって思ったから、泣かせてあげたの」


 美枝子は、部屋にある冷蔵庫からピンドンのボトルを取り出し、俺に開けるように言った。


 俺は棚からシャンパングラスを出して、コルクを緩め開けてから、静かに注ぎ入れた。


 「ありがとう。あー美味しい。三十分ぐらい泣き続けてからね、その頃朝井が住んでいた大国町のマンションに私を連れて行ったの。まさか、私をあの女の代わりにしようっていうの?って聞いたら、ただ首を振るだけなの。そして、『部屋に来てくれたら全部わかります』って言った」


 美枝子は飲み干して、お代わりを催促した。


 「あんた行ったことがあった?」


 「大国町のマンションなら、はい」


 「でも、隣の部屋には行ってないわよね」


 「は、はい。もしかして、武器庫にしていた……」


 「違うわよ。それは、朝井の舎弟の部屋の隣。その部屋はね、もう一人の朝井の部屋だったの」


 もう一人?何のことだ?俺は混乱した。


 「その部屋はね、入った瞬間、香水の香りがしてたの。でも無機質な感じでね、キッチンには何もなくて。奥に進んだら、リビングの真ん中にベッドが一つ置かれていたの。カーテンを開けた壁にはあんたの写真が引き伸ばされて飾られてあった。そこ以外の壁にも、あんたと朝井のツーショット写真がいっぱい並んでいてね。それを見た瞬間、私、全部を理解したの。だからわたし、『いいよ。ちゃんと綺麗になっておいで』って言っちゃった」


 俺は、朝井をバイクのうしろに乗せた時のことを思い出していた。平気で人の顔を形がなくなるぐらいに殴りつけるのに、その時は俺にしがみついて、ワーキャーと馬鹿みたいに騒いでいた。


 「その子ね、リンっていう名前なの」


 「リン?」


 「そうよ。あんたが昔、凛とした女が良いって言ったんでしょ。だからその凛よ。生まれ変わった姿を見た私も、綺麗だなぁって思ったもの。いつもはね、じっとあなたへの思いを押し殺して生きていたの。だけど、どうしょうもなくて、時々凜になってあなたのことを思っていたのよ。凜はあなたのことを愛していたのよ」


 俺はもう一度、もう一人の朝井の写真を見つめた。


 「それからはねぇ、叶うことのないあんたへの思いを持った二人は仲良くなって、時々、その部屋で私と凜はお喋りしていたの。二人だけでファッションショーをしたり、ゲームをしたり、女友達と楽しむようなことをいっぱいね。凜はあんたのことを話している時が、一番活き活きとしていたわ。あんたの為に化粧も上手くなったわ。でもね、凜はその部屋からは出れないんだって言うの。あっ、そういえばあんた、私達が本当の親子のように仲が良いって言ったことがあったわねぇ。その時はもう立売堀のマンションだったけど、そこで、あんたの悪口言いながら盛り上がったのよ。あの時は可笑しかったわ」


 俺の頭は益々混乱した。 


 「だったら何故、朝井は七加瀬組に寝返って俺を弾いた?」


 「凜は寝返ってなんかない」


 「けど俺は、アイツに銃口を向けられ、ニヤケながら弾かれたんや」


 「だから、愛してたのよ」


 「わからん。何がどうなんか、わからん」 


 俺は棚からロックグラスを取り出して、グラスになみなみ注ぐと、それを一気に喉に流し込んだ。ゲップが嫌というほど溢れてきた。


 「ちゃんと聞いて。あんたはね、七加瀬組に的に掛けられていたのよ」


 それは津田から聞いた。


 「あんたはあの日、七加瀬組の息のかかった刑事が用意してきたUSBを証拠に、そのまま引っ張られる予定だった。あんたを陥れるためにね。けど、本当の計画はそこから。あんたがそんなことに動じないことは、奴らも計算済み。ビルを出て、その刑事達に連れられたあんたが車に乗り込む時を狙って、中国マフィアの鉄砲玉が五人で襲撃する。そろそろ邪魔になっていた刑事もろ共、あんたのタマを獲るって計画だよ。その上、七加瀬組の奴らが五人、監視役として見張っていた。だから、あんたは必ず殺されていたわけよ」


 「なら、どうして朝井が?」


 「私が朝井から連絡を貰ったのは、あんたを弾く少し前よ。どうしよう、部屋にあんたはいない。もう止められない。どうにもならない。兎に角あんたのところに向かうって言ってたわ。そしてね、電話を切る前に、『誰かに殺られるぐらいなら……』って最後に言ったの」


 そういえば、ガサが入る直前に、朝井は来るはずもない場所へ現れた。もうそこからおかしいと気づくべきだった。連日、部下のミスが重なっていて、俺は朝井がいることにすら苛立ちを募らせていた。


 美枝子の話からすると、ガサが入った瞬間、朝井は俺を弾くことに決めたのだろう。そのための道具を俺の部屋から持ち出して来ていたのだ。あのなくなっていたM39を。


 「でも、あんたはこうして生きている。だから昨日、私は、笹森美枝子として思いを遂げたの。だから、今夜は、凜の思いを遂げてやりたくてね」


 そう言って美枝子はグラスを空け、俺に注ぐように合図した。


 俺はゆっくりと美枝子のグラスに注いだあと、俺のロックグラスに乱暴に注いだ。


 美枝子は、何故か楽しそうだった。


 「沢木が大北に命じて様子を見に行かせたの。あとは本橋の家に集まって、戦争の準備に入ったわ。格で言えばこっちが上。舐められたらそこで稼業は終わる。だけど、あんたは朝井に撃たれたって、大北から聞いた沢木は、頭を抱え込んでいたそうよ」


 美枝子は、立ってウロチョロと落ち着きなく動き回っていた俺を呼び止め、ベッドの横の椅子に座るように言った。


 そして、茶色い瞳を真っ直ぐに俺に向けた。


 「もし朝井が、凜として抱いて欲しいって言われていたら、あんた抱いてた?」


 そう真顔で訊いた。














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