13



 俺を迎えに戻った長谷さんから、早川芽美は『La petite fleuriste』に戻ったと報告を受けた。つまりは、あの工場兼住居のような建物が、早川芽美の住処ということだ。


 一人で住んでいるのか、家族がいるのか。どちらにしても違和感があった。あの内部がどうなっているのかわからないが、人ひとりを閉じ込めるのには、何の問題もない広さなのだ。


 だが、久保奈生美を拉致して、早川芽美にはどんな得があるというのだ?


 その答えは浮かばなかった。


 何か二人の間にトラブルでも起きたのだろうか?いや、三人の男から聞いた話では、久保奈生美は好戦的な性格ではないようだった。それに息子の翔にも仲が良い風に話していたのだから、それはあり得ないだろう。


 ならば、相手の早川芽美から一方的に嫌悪を抱かれた。いや、早川芽美はそんなタイプではなさそうだ。俺に対して見せたあの闘争心から直情型の人間だとわかる。好き嫌いをハッキリと出すタイプだ。客商売だからそうもいかないだろうが、久保奈生美に嫌悪感などは抱いていない。それよりも余り関心がないように俺には見えた。


 久保奈生美の交友関係は狭い。だから、その狭い輪の外から一歩踏み出すと、久保奈生美のことを知らない人々の世界が無限に広がっていた。


 孤独ではなかったのだろうか?


 心許せる人間はいたのだろうか?


 幾ら周りを探ってみても、ただ子育てに邁進している不器用な女という姿しか見えてこないのだ。しかし、その子育ても上手くいっているとは、翔の行動を見ているといえなかった。久保奈生美はただひたすら、昼夜働き生活費を稼ぐだけの日々だったようだ。勿論、恋人の野間の存在は重要だったのだろうが、心までは許せてはいない様子だった。もしかすると、野間に対しても早川に対する好意のように、ほぼ一方的なものだったのだろうか?いや、野間の気持ちが完全には奈生美に向いてはいなかったので、求めなかったのではないだろうか?


 もうこれ以上、久保奈生美の周りを突いてみても、無駄なような気になっていく。本人が知らない第三者に拉致されたのだとしたら、俺には手の打ちようがない。


 此処から先は警察の領分になる。久保奈生美自身が知らなくても、犯人は久保奈生美のことをよく知っているのだから。そういう変質者を洗えば、何か出てくるかもしれない。


 行儀が悪いのは承知の上で、俺は資料を横目に、静江さんが用意してくれた極上の晩飯を、空きっ腹だった胃にかっ喰らい収めていった。


 だが、どうしても、早川が言った“しつこい男”の件が気になっていた。こんな時は、何処かに何か見落としがあるはずなんだ。だからイマイチ、俺の中で今回の件が形にならないのだ。一つ嵌まれば、数珠繋ぎのように点と線が形を作っていくのだが。


 炙りたらこを白米に乗せて口に運んでいると、横から伸びてきた手に羽田心音のファイルが奪い取られてしまった。


 とうに食事を済ませ、風呂も入り終わり、ライムの浮かんだジンリッキーを飲みながらソファーで寛いでいた美枝子が、いつの間にか食事中の俺の傍にきていた。


 「破いたり、汚したりせんといて下さいよ」


 「わかってるわよ。子供じゃないんだから」


 美枝子はソファーに戻り、眉間に皺を寄せて、あたかも考えていますよポーズをとった。


 美枝子は何をやっているのか。昔はこんな表情を間近で見ることなどなかった。何か照れてしまった俺は前を向いて、真剣に飯と向き合った。


 「何、これ。いなくなった子と同じタイプじゃん」


 突拍子のないくらいの大声を俺に投げかけた。


 「えっ、この子、羽田さんの娘なの」


 「そうです」


 「ねぇ、羽田さんの娘さんと、この久保奈生美って娘、年齢も変わんないし、見た感じといい、写っている雰囲気といい、そっくりじゃん」


 美枝子が見てもそう思うのだ。俺の中にあった関連があるかもしれないレベルがグンと上がった。 


 俺は残りの白飯を、イカゴロが溶け入っている海鮮風味満載の味噌汁で流し込んだ。


 「そうなんですよ。俺も今日初めて見た時に思いました」


 美枝子は資料とにらめっこしながら指を折っていた。


 「ご馳走様でした。めちゃくちゃ美味しかったです。ありがとうございました」


 俺は静江さんにお礼を言った。


 静江さんは、キッチンからちょこっと顔を出して、「どういたしまして」と言って引っ込めた。


 「七、八、九、十。十年前か……、あんたさぁ、十年。十年もSEX我慢出来る?」


 キッチンにいる静江さんに聞こえるくらいの大きな声で訊いた。


 「ちょっと、声が大きいですよ」


 「いいのよ、静江さんは。それより我慢出来るの?」


 どうなっているのだ?この人の頭の中は。


 「どうですかね……多分、無理です」


 「でしょう。この心音ちゃんを殺したヤツは、もっと他にも殺してるわ」


 とんでもないことを言う。……とは言い切れなかった。俺もその可能性を考えていた。


 「オクヌギがそうだったじゃない」


 美枝子の言葉が俺の心に突き刺さった。そうなのだ、だから俺は夢で見たのだ。


 「どうして知ってるんすか?」


 「凜が話してくれたの。あんたも居たんでしょ、オクヌギを辻堂組の溝口がドスで刺すところ」


 俺は言葉が出なかった。


 「愛よねぇ、愛。溝口は、飛び道具を持ってたのにドスを抜いたんでしょ。それだけ、自分が受け持っていた女達のことを愛してたのよ」


 何が凜だ。何が愛だ。帰りの車の中で、朝井も同じことを言っていた。


 「ねぇ、聞いてるの?」


 「はい、聞いてます」


 「だったら、とっとと犯人見つけなよ」


 いとも簡単に言うが、これは美枝子の癖だ。出来るかどうかは関係なく、言いたいだけなのだ。


 「はい、そうしたいと思ってるんですが、どうもこれ以上、男の影が見えなくて」


 「男?」


 美枝子はキョトン顔だ。だが、その顔も美しい。


 「何で、男って決まってるのよ」


 「えっ」


 「だ・か・らぁ。何で男って決まってるのよ?」


 いったい美枝子は何を言っているのだろうか?


 「あんたねぇ、自分だって経験したじゃない。人が人を愛するのに性別なんて関係ないって」


 そうだ。そうなのだ。美枝子と一緒に、この上ない笑顔で写真に納まっていた女・凜は、俺が可愛がっていた弟分の朝井だったのだ。そいつが男の顔で笑いながら俺を弾きやがった。それが幾ら、他の誰かに奪われるくらいなら、愛する人を自分の手で……的なことでも、現実に的にされた側からすれば理不尽極まりなかった。


 「何処かにいないの?怪しそうな女は?」


 確かに、女という可能性もある。嵌まりそうで嵌まらなかったピースの一つが、カチリと音を立てて嵌まった。


 「姐さん。いや、美枝子さん。誰か人物照会を素早く出来そうな奴は知りませんか?」


 「人物ショウカイ?あっ、なんだ、自己紹介じゃなくて、人を調べるやつね。なら知ってるよ」


 そう言ってニコリと笑った。


 「携帯貸して」


 俺は美枝子にガラ携を手渡した。


 なにやら操作すると、美枝子は電話を掛けた。


 「あっ、もしもし。わたし。一寸さぁ、人物照会ってのやってくんない?」


 楽しそうに電話をしている。誰に電話してるのだろうか?そんな簡単に動けるような人物がいるのなら、今回の件も初めからそいつに頼めばよかったのに。俺はそう思った。


 「はい」


 「えっ?」


 美枝子は俺にガラ携を突き出した。


 「あんたに代われって」


 俺は、恐る恐る電話に出た。


 「初めまして、獅子王といいます」


 ――いったい、誰を調べればいいのですか?――


 津田の声が聞こえた。


 俺はマイク部分を手で押さえながら、美枝子に文句を言った。


 「だって、本職でしょ。津田に調べさせればいいのよ。最後の美味しいところを持っていくんだから、それぐらいいいでしょ」


 なるほどな理屈だ。


 俺は部屋を出て玄関ホールで津田と話した。


 先ずは津田に謝ったのだが、意外にも二つ返事で引き受けてくれることになった。なんでも、行方不明届が出された中で、羽田心音や久保奈生美と同じような年齢と体格で、突然行方がわからなくなった女性が二名いることが判明したのだ。一人は六年前、清水町に住む岩崎靖子・当時二十二歳。もう一人は去年、七飯町に住む安田佳澄・当時二十四歳。その二人だった。


 ――それで、誰を調べれば良いのですか?――


 「『La petite fleuriste』の早川芽美ですわ」


 ――早川……芽美。あっ、函館中央署の報告書の中にありましたよ。でもどうして?男を探しているのではなかったのですか?――


 「そうなんやけど、久保奈生美の周りには浮かんでけえへんのや。なら、周りにいる人間のその周りから浮かんでくるんとちゃうかなぁって思てな。それに今どき、男でも女でも関係ないんちゃうかっちゅう気もするんや」


 ――なるほど、わかりました。細かく調べてみます――


 「それと、『La petite fleuriste』が入っている建物の、歴史や図面なんかも知りたいんやけど、そっちの方に明るい奴を教えて欲しい」


 ――その建物は古いのですね。それなら、ハネさんがそういう方を御存知だと思いますよ――


 「でも、ハネさんはまだ……」


 ――いえ、明日の朝、こっちに戻られるそうです――


 「えっ」


 ――心音さんの亡骸はまだしばらくは返せませんし、あなた一人に任せていることを心苦しく思っているようです――


 津田はそう言った。 


 電話を切ったあと俺は部屋に戻り、津田から送られてきたメールに添付されている岩崎靖子と安田佳澄の写真を開けた。どちらも久保奈生美、羽田心音と似た顔立ちに雰囲気を持っているのだが、それが連続的な事件だといえる確証ではなかった。


 メールにも書かれていた。捜査本部はその読みに懐疑的であると。


 早川が運転する白い軽バンを追うために、話途中で切ってしまったハネさんへ、俺は急いで電話をかけた。


 帰りは明日の朝になるというハネさんは、車で何処かへ移動中のようだった。


 俺は、俺の頭に浮かんでいることを包み隠さずに全部ぶつけると、電話の向こうのハネさんは、しばらく言葉が出ないようだった。


 そりゃそうだろう。十年間探し続けていた自分の娘が、白骨遺体として目の前に戻って来たのだ。それが連続殺人犯の仕業だなんて信じられるわけがない。もし、それを信じたとしたら、許しがたいにも程があるのだ。


 それでも、まだマシな方だ。俺はそう思う。


 昔、まだ俺が金融屋をやっていた頃、客の中に奈良の生駒でベルトコンベアーの部品を作っている町工場の社長がいた。


 急に家を飛び出した娘が、半年後、大阪ミナミの路上で半裸になって徘徊しているところを警察に保護された。


 彼女はもう、人として真っ当に暮らせる状態ではなかった。


 薬漬けにされて、男女構わず快楽を奉仕するためだけの人形に変わってしまっていたのだ。


 警察署の小さな会議室で再会した時、実の父親の唇を吸い、股間に指を這わせ、止めろと言う兄のズボンのベルトを緩めることが一番の楽しみのように、笑い動いていた。それは母親に対しても同じで、胸を揉み、「これが好きなの?」と吐いた。母親が本気で打たなければ行動を止めなかったのだ。


 家に引き取って、所謂、座敷牢のような部屋を作って暮らしていたが、それでも家に来る男達や女達と関わりを持って獣のように振舞った。


 近所からは村八分にされて、兄の職場まで正義を名乗る者達から抗議の電話が鳴り続いた。


 被害者なはずなのに、存在そのものが害をなしていると、周りは決めつけた。


 そのうちに溜まらなくなった両親は、薬で眠らせた娘を締め殺し、納屋で埃を被っていた農薬を飲んで二人は自害した。


 外から帰ってきた兄はその惨状を見つけると、エンジンを切ったばかりの車に飛び乗って、山道のガードレールを突き破り、谷底で車諸共灰になった。


 真面目に暮らしていた一家が壊れ、消えてなくなった。


 その原因を作ったのが、まだ辻堂組に入る前の溝口がいたグループだ。奴に愛などあるとは、到底俺には思えない。


 こんな話は現実に幾らでも転がっている。ニュースになってもそれは一部分で、本当の事実は、一般的にはあまり目に触れない、ずうっとうしろのページに、時々書かれるだけなのだ。


 事件にならない暗数の中には、もっと酷い話もある。


 そんな事実を見てきた俺からすれば、骨となってしまったが娘と会えて、ハネさんは、まだマシなのだ。


 ――じゃあ、その花屋の女が犯人だって言うんか、あんたは。何で女が女を拉致するんだ?――


 「いえ、まだわかりません。可能性が残っているというだけです。兎に角今は、一つずつ消せるものは消していくという作業が必要やと思うんですわ」


 俺はお茶を濁した。此処の部分だけは、ハネさんに面と向かって意見を述べる勇気はなかった。


 ――じゃあ、俺は何をすればいい?――


 「明日戻ったら、花屋の建物の現在の持主が誰なのか?以前の持主は誰なのか?あの花屋は誰のものなのか?そして、あの建物はその昔何だったのか?を調べることと、あとは、あの建物の構造、内部図面が手に入ればと考えています」


 俺は、かなり無茶なことと理解した上で言葉を並べた。


 ――わかった。昔の仲間に聞いてみる。あの付近ならハコバンしてた奴も知っている。取り敢えず、やれることをやっていくだけだなぁ――


 ハネさんの声は、さっきよりも力強かった。




 風呂に浸かって、ありとあらゆる思いつくだけのだけの可能性を、頭の中で追い駆けてみた。


 だが、何かを俺は忘れている気がして、どれを追い駆けても闇に包まれるだけだった。


 風呂から上がってキッチンへ移動した。空腹を収めるのと、考えることに重きを置いていたので、今日はまだ一口も呑んでいなかった。生ビールのサーバーをセットして、風呂上がりの一杯を楽しむのだ。そうすれば、何か答えが出るだろう。なんて。


 驚いたことに、まだ二人はダイニングテーブルにいた。美枝子は潰れてテーブルに突っ伏していて、その向かいでは静江さんが手酌で日本酒をチビチビとやっていた。


 「あら、お恥ずかしい」


 「いえ、どうぞごゆっくり。ビール頂きますね」


 「でしたら私が……」


 「いえ、大丈夫です。古い昔、飲食で働いていたんです」


 俺は笑顔で言った。


 「そうですか。じゃ、お言葉に甘えますね」


 静江さんはそう言って猪口を口に運んだ。その動きは滑らかで、しとやかな色気があった。


 その夜、俺は初めて静江さんと呑んだ。


 静江さんは、俺の古い過去にも、美枝子との関係にも、未来にも触れず、今している旅の話を訊いてきた。だから俺も、静江さんに何も尋ねなかった。


 俺は部屋にPCを取りにいき、美枝子に見せた時のように写真をスライドショーにして、長い旅路を話して聞かせることにした。そしてその前に、静江さんに訊こうと思って持ち帰った早川芽美がスーパーで買い物をしたレシートを見せた。


 「これ、女性の一人暮らしにしては、量が多いのか少ないのかわかりませんか?」


 「えーっと」


 静江さんは、首に提げていた老眼鏡をかけて、レシートの細かい文字を読み始めた。


 「葉物野菜と牛乳が少し多いようですけれど、別段多過ぎるとは思いませんが……、大柄の方かしら?」


 「そうなんです。大柄なんです。ありがとうございます。さぁ、スライドショーを始めますよ」


 俺は心の中で落胆しながら、期待を膨らませている様子の静江さんに、旅物語を語り始めた。


 静江さんが止めてと言ったのは、瞰望岩のある遠軽町の教会の写真だった。


 行き過ぎた写真を教会の写真に戻し、タッチペンを使う進み方と戻り方を静江さんに教えた。何か思い入れのある街なのだろう。


 まだグラスに三分の一ほど残っていたが、俺はお代わりを注ぎにキッチンへ向かい、注いだ一杯をゆっくりと飲み干して、また注いでから席に戻った。


 静江さんはハンカチを握り、目元が赤くなっていた。


 「ありがとうございます。お願いがあるのですが……」


 「はい。何でしょう?」


 「お嬢様をお部屋に運んで頂けませんか」


 「はい、いいですよ」


 俺は力の入っていない美枝子を背負い、静江さんの誘導で部屋まで運んだ。


 ベッドに寝かせる時に、美枝子は寝ぼけ眼で俺を見ると、グイッと引き込んでキスをした。それで満足したのか、俺に背中を向けて眠った。


 静江さんに見られていたことは、そのあとの笑みでわかった。


 小恥ずかしかった俺は階段を下りながら、「二人でよくお酒を呑むんですか?」などと静江に尋ねた。


 「月に一度だけ、お銚子二本と決めているんです」


 「へーっ。その日にちは毎月決まってるんですか?」


 「いえ、お嬢様がお淋しくなった時に、お付き合いさせて頂いてるだけです」


 淋しくなった時?今夜も淋しかったというのか?俺には、そこは理解出来なかった。


 俺は椅子に座って、泡の消えたビールを一気に喉へ流し込んだ。


 「僕も日本酒頂いても良いですか?」


 「あっ、それなら、お友達から貰った日本酒があるのですけれど、飲んで頂けませんか?お嬢様はその銘柄があまりお好きではないようでして。私一人ではとても……」


 そう言って静江さんが巨大冷蔵庫から取り出してきたのは、剣菱黒松の五合瓶だった。俺的にはありな灘の男酒だ。


 俺がサーバーを洗浄している間に、静江さんは俺の為のツマミを用意してくれた。


 “ばくらい”というものらしく、海鼠の内臓の塩辛・海鼠腸と海鞘の塩辛を合わせたものらしい。静江さんのお手製だというのも嬉しかった。


 それに俺は、道東の根室で海鞘の攻略には成功しているのだ。


 俺は静江さんに呆れられながら、剣菱黒松をグラスでやった。


 静江さんは、ぐい呑みに一杯だけ味見した。初めて飲むらしかった。


 ばくらいを舐めて、酒を口に運ぶ。


 あれ?ばくらいの味を俺は知っている。何処で口にしたのかを思い返してみた。直ぐに辿り着いた。帯広の屋台街で口にしたのだ。


 あの時は、滅多に口に出来ない珍味だと言われて食べたのだ。朝井のことを知っている大阪出身の店主ではなかった。その向かいの店の女将さんに勧められたのだ。


 そう言えば、女将さんの声は、あの女の声に似ている。そして、俺の中でカチンと音がした。


 そうだ。アイツは知らないはずの言葉を口にしていた。


 「お口に合いませんか?」


 静江さんが心配そうに訊いた。


 「いえ、美味しいですよ。ただ、頭の中でモヤモヤしてたことが、スッキリと思い出せたんです」


 「はぁ……」


 「静江さんも、もう少しどうですか?」


 俺は気分が良くなっていた。






 朝早く目覚めたので、風呂に浸かった。


 今日は空が明るくて、白の合間に青が見えていた。


 相棒を走らせたい気分になったが、まだ我慢だった。


 今日一日で情報を集め、明日、決行するのだ。上手くいけば一石二鳥、美枝子の顔も立つしハネさんの娘の敵討ちにもなる。それに津田や川口には一生分の恩を着せることが出来る。


 一石二鳥は、俺が好きな言葉だった。一番好きな言葉は……濡れ手で粟。


 俺は、腹の底から楽しさが湧き上がってくるようだった。


 鼻歌でorange pekoeの『やわらかな夜』を奏でながら、俺はドライヤーで目一杯鶏冠を立てた。


 ハーレーが描かれたアロハに袖を通して脱衣所を出た。


 廊下で大欠伸をしながら歩いてくる美枝子に会った。


 「おはよう」


 「おはようございます」


 「調子良さそうじゃん」


 「はい、お陰様で。今朝は大丈夫です。昨日は心配かけてすみません」


 「ねぇ、静江さん、妙に機嫌が良かったんだけど、あんたした?」


 「はっ、何を言ってるんすか」


 「だって、あんたも浮かれているし」


 「昨日は美枝子さんに見せたように、旅の写真を見せて話をしただけですよ。サシ呑みしながら」


 「そう」


 「それと」


 「何?」


 「多分、上手くいけば明日にでも」


 「期待してるわ」


 そう言って美枝子は脱衣所に入っていった。


 一度閉まったドアが開いて美枝子が顔を出した。「一緒に入る?」と悪戯っ子のように言ったあと、ペロッとピンクの舌を出して顔を引っ込めドアを閉めた。




 部屋に戻ると津田から電話があった。


 免許証から、早川芽美の免許取得年月日がわかったのだ。オートマ限定の普通免許を取得したのは八年前、二十八歳の時に帯広免許試験場で交付されていた。それまでは免許そのものを所持していなかったという。


 ――ハネさんの娘さんの件には関わりがないのでは?函館から無免許で六時間以上もかけて、遺棄現場の芽室町の山の中まで運ぶとは考えられません――


 「そうかもしれんけど……」


 俺のテンションはだだ落ちした。だが、ふと思い出した。免許がなくても我がもの顔で車を運転している輩が五萬といることを。


 「そうかもしれんけど、免許はなくても運転は出来るよなぁ。それと、免許取った頃の早川芽美のことを詳しく調べてくれ」


 ――しかし、免許取得時の住所も本籍も音更町で、函館ではないのですよ――


 「それでもや。何の土地勘もない奴が、函館のあの場所で花屋を開くのが解せんのや。それに……」


 俺は津田に思い出したことを話して聞かせた。




 ハネさんは午前七時三十分には、笹森邸のダイニングテーブルに着席していた。昨夜は、恵庭に住む先輩の家に泊めてもらったのだと言った。


 恵庭からでも三時間半はかかるだろう。だが、そんな疲れも見えないほど元気そうに喰っている姿に、俺は羨ましいと思った。


 俺と美枝子とハネさんという変な感じの三人は、ほとんど無言のまま静江さんの旨い朝食を食べ終えた。


 最後に静江さんは、俺とハネさんに紅茶を入れてくれた。何でも、黒ニンニクのジャムが入った特製ティーらしかった。元気が出るからと静江さんは言った。確かに……。


 俺が運転して、北斗市に住んでいるハネさんの同期だという、元函館中央署の副署長だった池本を訪ねた。この前に乗った時にはステーしかなかった場所に、カーナビが取り付けられてあったので迷うことはなかった。


 道中、ハネさんは恵庭の先輩から仕入れた話を聞かせてくれた。


 その先輩は、『La petite fleuriste』が管轄区域内にある交番のハコ長をしていたのだという。


 何でもその先輩の話では、あの建物を建てた建築会社を覚えていて、そこの社長とは旧知の仲らしいのだ。


 函館に帰る途中に電話があって、昼なら社長は時間があるというので、十二時には銭亀町にある銭函建設という、小樽の町名みたいな名前の建設会社に着かなければならないと、ハネさんは言った。




 道南いさりび鉄道の七重浜駅の近くに池本の家はあった。


 副署長と聞いていたので、もっと嫌味な奴かと思っていたのだが、好々爺然としていて取っつき易かったが、どう見てもハネさんより年を食っている感じがした。


 「あの工場ならよく覚えてるよ。江差署から函館中央署に戻ってきた年だ。あそこは森田クリーニングっていう会社の本社工場だったんだ。函館市内と北斗市、七飯町にも店があって、この辺りでは独り勝ちしてたんだ。だけど、全国チェーンの店が進出して来てからは、ジリ貧だったみたいで潰れちまったんだ。もう十三年、いや十四年になるかなぁ、社長が首括って借金はある程度なくなったみたいだけど、残りを社長の奥さんと一人娘で返してたみたいだった。十年ぐらい前かな、残った家族があの建物を売って函館からいなくなったのは」


 「その娘の名前はわかりますか?」


 「いやぁ、娘の名前は憶えてないな。何なら聞いてやろうか?」


 「お願いします」


 池本は直ぐに電話をかけて、「今はパッパッパッだ」と言った。


 名前は、森田由梨乃。十三年前、父親の遺体の第一発見者だった。年齢は当時二十一歳。金銭的理由で一年前に札幌の私立大学を辞め、家業を手伝っていたそうだ。


 今なら三十四歳だ。早川芽美とは二歳の年の差がある。


 「何?もう亡くなってるのか。ほう、ほう」


 どういうことだ。森田由梨乃が亡くなっているのか?


 「ほう、ほう、八年前に事故で、ほうっ」


 池本はスマホを口元から放して、「どうする?話聞くか?」と俺に言った。


 ハネさんは俺の意見を聞く前に、「誰に会えばいい?」と池本に訊いた。




 函館中央署庶務課にいる児玉という巡査部長に会いに向かった。


 勿論、ハネさんが署内へ足を踏み入れるのは具合が悪い。だから、近くの五稜郭の二の橋の袂で会うことになった。


 俺の中で、森田由梨乃がすでに亡くなっていることが、とても、とても、気になって、何故だかワクワクしていた。


 だけど、ハネさんはこの前までのしょぼくれた感じに逆戻りしていた。


 「本当に、久保奈生美を見つけることが出来るんだろうか……」


 「ハネさん、まぁ児玉っちゅう人に会ってから落ち込もうや」


 「馬鹿言うな。人の命がかかってるんだぞ。それに翔は一人で待ってるんだ」


 其処を言われては、俺には言い返せる手持ちのカードはなかった。


 「そうやね。でも、まだ何もわかってないから、行けるとこまで行こうや。翔の為にもね」


 俺はハンドルを握りながら、そう言うのが精一杯だった。
















 

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