12



 101号室のドアから姿を見せた男は、二十代後半から三十代前半といったところか。


 俺の予想に反して、何処から見ても好青年という感じで、服装も白のポロシャツに綿パンで、引き籠りなのに靴下までしっかりと履いていた。


 汗と脂が入り混じった、あの何ともいえない匂いは、彼からは漂ってこない気がした。こういう引き籠りに会うのは、俺は初めてだ。


 だが、俺達が駐車場で立ち話をしていたのをコイツは見ていたはずだ。部屋に来ると踏んで、服を着替えて待っていたということも考えられる。


 男は津田と川口が開いた手帳を見たあと、一人離れて階段の手摺に持たれている異質な俺に視線をやった。


 チラリと隙間から見えた室内は、キッチリと整理整頓されているようで、俺が抱いた引き籠りというワードは、もしかすると勘違いだったのかもしれなかった。俺の知っている引き籠りは皆、見た目から何処か生きていることへのバランスが悪かった。


 「すみません、少しお尋ねしたいのですが、よろしいですか?」


 「は、はい」


 「先ずはお名前を教えて頂けますか?」


 津田が丁寧に言った。


 「あっ、オガサワラ コウスケです」


 「字は?札幌から巨人に行った小笠原でいいの?」


 「は、はい」


 小笠原は苦手感満載で川口を見た。


 「コウスケは、どう書くの?」


 「あの、水泳のメダリストの……」


 「ああ、あの康介。はい、わかった。年は?」


 「三十一です」


 川口は相変わらずだ。


 「小笠原さんは、ここのアパートには長くお住まいですか?」


 「えーっと、三年ぐらいになります」


 「それまでは、何処で?」


 「あ、あのう、これは何……?」


 「詳しくは言えませんが、事件に関係するということは間違いありません」


 「そ、そうですか」


 小笠原の口調が変わった。多分、あの津田の笑顔が、小笠原にそう言わせたのだ。これで津田達のペースに乗った。


 「三年前は何処に住んでらしたのですか?」


 「あっ、函館です。豊川町にあった実家で暮らしていました」


 豊川町?俺は頭の中で函館の地図を巡らせた。ハネさんの家の近くだ。


 「あった、ということは?」


 「はい。四年前におふくろが亡くなって、それで」


 「なるほど」


 「じゃあ今は、実家はないわけだ。お父さんは?」


 「父はもう随分前に亡くなりました。それ以降は母と二人で……」


 「現在は何処にお勤めなの?」


 「今は……」


 「なんか言えない仕事なわけ?そんなことないっしょ」


 「仕事は、してません」


 「あーあ、無職ね……」


 相変わらず川口はデリカシーがない。


 「でも、このアパートの家主の伯母に頼まれて、毎朝ここの掃除をしています。それが、僕が此処に住む条件なんです」


 なるほど、俺の中で一致した。やはりそういうことか。


 「管理人をしているということですか?」


 「いえ、掃除をするだけで、管理そのものは管理会社の人が……」


 「では、掃除をしている以外の昼間は、何処かへお出かけですか?」


 「いいえ、ほとんど此処に」


 「そうですか……」


 津田が言葉を濁して相手の様子を窺った。津田はどう言おうか迷う素振りを見せた。それからワンテンポ置いて、小笠原の顔をじっと見て言った。


 「もしかして、何か困っていることがあるのではありませんか?」


 小笠原の顔色が変わった。もじもじとしていて、俺には何か考えを張り巡らせているように見えた。


 「あ、あのう……、あの人」


 そう言うと小笠原は、伸ばした右手の人差し指を俺に向けた。その顔にはハッキリとした悪意があった。


 津田はチラリと俺を見ただけだったが、川口は怒りの表情を態々作って俺に向けた。


 「あの人がどうしました?」


 「あの人は警察の人じゃないですよね?」


 「ええ、あんな髪型をしている警察官はいません。先程、お話を伺っていただけです」


 「あの人は何なんですか?この前もドアをしつこくドンドンって叩いて」


 なるほど、警察の矛先を俺に向けようって腹だ。


 「そうですか、そんなことがあったのですか。でも、あなたは居留守を使った。そして、あの人の様子をドアスコープからじっくりと観察した」


 顔色が変わっていく小笠原に対して、津田は平然と言った。


 「あ、あ、当たり前でしょ、あ、あんな変な頭した人。こっ、こっ、怖いじゃないですか」


 「怖い?ふん。あんた、さっき、部屋の中からずっと俺達をこっそり見ていたろ?窓に貼った目隠しの隙間から。俺達も変な人としての認識だったんだ。だから覗いてたんだ。ほーっ。ちゃんと俺は見ていたよ、あんたが覗いてるのを、俺がな」


 川口がスマホで何か見せながら強く言うと、小笠原の顔から血の気が引いた。


 「なして、そんなことをしてたの?ええっ?何か、あんたには、周りを気にしなきゃならんことでもあるのかい?」


 「川口さん、まぁ、それくらいで。小笠原さん、こちらの本題にいきます。このアパートの二階の奥の部屋に住んでいる方はご存知ですか?」


 「えっ、はい。野間さんですよね」


 小笠原は、意外そうに言った。野間とは関係がないところで、彼の心配事はあるようだった。


 「その野間さんの部屋に出入りしていた女性が、五日前、このアパートを出たあと姿を消したのです。この女性なのですが」


 津田の言葉に冷静になった川口が、久保奈生美の写真を小笠原に見せた。俺は帯広のホテルでの出来事を思い返していた。


 「えっ、この子、が、ですか?」


 「御存知なのですか?」


 「御存知まではいきませんが、一度、挨拶したことはあります」


 「それはいつですか?」


 「うーん。春ですね、春。まだ明るくなったばかりの朝早い時間で。僕が掃除をしている時でした。朝早いのに、いつもとは違う、ちゃんとしたスーツを着て野間さんのところへ。あっ、でも、髪型はうしろに束ねただけで、何か変だなぁって思って」


 それは翔の卒園式か入学式があった日だ。間違いない。


 「あなたは、いつも見ていたんですよね?」


 「いえいえ。そんなことありませんよ。いつもっていうか、気が向いた時だけです。折角綺麗に毎朝掃除しているのに、時々タバコの吸い殻やゴミを捨てたりする人がいるんで……。それに、あの人みたいな不審者には注意しろって伯母に言われたもので」


 俺を顎で指しながら言った。最後のは全くの出鱈目だ。チラリと俺を見た津田は、視線を合わせることなく小笠原に向き直った。


 「それで、六日前の夕方、小笠原さん、あなたは彼女の姿を見ているのですね?」


 「は、はい。見ました」


 自ら普段、外を観察していることを告白した。


 「いつもは軽自動車で来て、野間さんの車の前に停めるんですが。その日は珍しく歩いてやって来たんですよ。初めてじゃなかったかなぁ、歩いてくるの」


 何か活き活きとしているのが不思議だった。やはり、彼は何処かがおかしい。精神的にアンバランスだ。外にある郵便受けだけが整理されていないのもそうだ。何か、彼の周り以外の外部との軋轢を感じる。


 「その子、夜の商売をしてるんですよね。いっつも似合わない、派手でだらしのない下品な服を着てて。ヒールだってサイズが合ってないのか、階段を上がる時に靴音がカタコン、カタコンって鳴るんですよ。別に水商売の人がどうのこうのって話じゃないんですけどね。あまり風紀的には良いとは言えませんから。野間さん以外にも他にもいっぱい男がいるんだと思いますよ。一回、駐車場で大きな声で喧嘩してましたから。その男は誰だって野間さんが訊いたら、関係ねぇって男みたいに言うんですよ。ほんと止めて欲しいですよね。周りの住人の方々に迷惑だっちゅうの」


 そう言うと小笠原は、呆れに似た表情を浮かべた。水商売の女性に対しての嫌悪感が剥き出しになっている。コイツは、自分がどの位置に立っていても、人を見下すことでしか自分の存在価値を見出せない、そんな人間なのか。


 「彼女はな、子供の為にがむしゃらに働いてるんだ。そんないい加減なこと言うんでねぇ」


 川口が堪らなくなったのか、怒鳴るでなく、絞り出すように力強く言った。そして、もう一枚の写真を小笠原の顔に突き付けた。


 「見ろ。ちゃんと見ろ。この子は翔っていってな、久保奈生美の一人息子だ。小学校の一年生だ。ピカピカの一年生だ。その子が一人淋しく、毎晩、母親の帰りを待ってるんだ。わかるか。ええっ。だから、滅多なこと言うでねぇ。必死に働いて子供を養っているんだ」


 多分、俺には見えないが、川口は目に涙を薄っすらと溜めているのだろう。


 それに押された小笠原の目が泳ぎ、肩をすぼめた。


 とんだ茶番だ。


 今は必要ない。


 久保奈生美の行方は、そんなことで覆りはしないのだ。


 「それで、そのあと久保さんは?」


 津田は至って冷静だ。


 「あの日、いつもだったら……」


 小笠原康介は、函館訛りが酷くなっていた。


 「七時過ぎてからそこの階段を、野間さんと一緒に下りて来るんですけど。けど、あの日は、六時前に一人で降りて来たのよ。おっかしいなぁって思って見てたのさ。したら、そこを行く時にその子は電話してたのさ。それで、『えーっ、いいんですか』って言ったんだ。でも、それ以上は聞こえなかった。歩いて、右へ曲がってったんだ」


 右へ曲がる?つまりは市電の駅には向かわなかったということだ。


 俺がアパートの敷地の入口に目をやると、ちょうど自転車に乗って野間が帰宅してきた。


 野間は、一階角部屋の前に人が集まっていることに興味津々のようだった。そして、小笠原を見つけると軽く会釈した。小笠原は驚いた様子で、おっかなびっくりと頭を下げた。


 野間は小笠原と面識があったのだろうか?疑問が湧いて出た。 


 そんな野間は俺の顔を見つけた途端、とても迷惑そうな顔つきをした。久保奈生美を忘れて、自分の行く末をもう決めたのだろうか?


 それでも階段を上がる時に、野間は俺に聞いた。「何があったんですか?」と。俺の存在を無視することは、自分の今の立場上マイナスだと判断したのか。


 俺は、「あとで行くわ」とだけ伝えた。


 階段を上る野間の靴音が小さく響く中、小笠原はゴシップ好きのオバはんのような目つきをして野間の姿を追った。さっきまでの川口が話していたお涙頂戴物語からは、一歩、流れから引いたようだった。


 必要なことは全て二人が聞き取って、俺が口を挟むことはなく101号室のドアは閉じられた。




 車に戻って俺達は会議を開いた。今度はちゃんとパトカーの中で話した。


 結局わかったのは、小笠原康介には、何か他人には言えない苦しみを抱えていることがあるということと、昔、ハネさんの家からそう離れていない場所で暮らしていたこと。久保奈生美は当日、スナック美穂へ向かうために市電の駅方向へ進むのではなく、職場とは反対の通りに続く道に進んだということだけだった。


 俺には、誰か知らない第三者の存在が伺えるのだが、警察的にはそれが、久保奈生美が拉致されたことの証拠にはならない。ましてや、ハネさんの娘の死体遺棄事件の解明に結び付くものでもないのだ。


 問題は、小笠原が耳にしたという『えーっ、いいんですか』の久保奈生美の言葉だった。


 「なぁ、久保奈生美の通信記録はとれへんの?」


 「まだ無理だ」


 さっきまでお涙頂戴物語だった川口は、簡単に言い切った。


 「事件性がまだ確認出来ていません」


 「でも、小一の息子ほっぽり出して、ガラ躱すか?そんな親子やないで」


 「そうは言いましてもねぇ、年間どれだけの親が子供を捨てていると御思いですか?」


 「それは……」


 「年間二百人以上の子供が、親から捨てられているのですよ。これでも氷山の一角です。都合の良い時だけ親をやって、都合が悪くなると児童養護施設に預ける、そんな親もいっぱいいるのです。今回の久保奈生美も、頑張ってきた反動が出て、一人になりたくなっただけかもしれない」


 津田はサラリと言った。


 確かにそうだ。戻って来ないとは言い切れない。それに、俺達が探ってもわからない理由があるのかもしれない。


 「けど、俺は久保奈生美が自ら姿を消したとは思ってない。羽田さんから直接話を訊いた感じでは、何か事件に巻き込まれたんだって思ったもん」


 運転席で振り返り、俺が貸した久保奈生美の写真を返しながら川口は言った。


 津田は、助手席でなにやらタブレットを弄っている。厚労省の統計でも俺に見せるつもりか。


 「これだ。この写真を見て下さい」


 そう言って津田が俺に見せたのは、制服を着た女子学生が三人並んだ写真だった。真ん中の小さいのは久保奈生美か?


 「アップにしてみて下さい」


 津田に言われて俺は久保奈生美をアップにした。


 「えっ?これは久保奈生美やないで」


 「そうです。その人はハネさんの娘、羽田心音さん。あだ名は“レイラちゃん”です」


 ハネさんが言っていた「似ている」は、こういうこともあったのだ。それにあだ名が“レイラちゃん”。倶多楽湖で呟いていたのは娘のあだ名だったのだ。でも何故、心音が“レイラちゃん”になるのだろう?


 そう思いながらも俺は、頭の中で何か核となるピースがはまりそうではまらない感覚を感じていた。


 「津田さん、野間のところへついて来てくれへんか?」


 「帯広での借りは、小笠原康介の部屋だけだと約束しましたよね?さっきの聞き取りは越権行為です。処分の対象ですから」


 「俺も腹決めた。心音ちゃん?レイラちゃん?そっちの方も手伝うから、刑事としてではなく、俺の友人として野間に会って欲しいんや。さっきのやり取り見てて、俺とは切り口が違うなぁって思たんや。頼むわ」


 「友人ですか?」


 「いやぁ、それは言葉のなんちゃらで。知人っちゅうか、知り合いでもかまへん」


 「いえ、その言葉のチョイスは、正直嬉しいです」


 隣の川口は面白くなさそうだった。




 野間の部屋に向かうと、俺の隣に津田がいることにはあまり関心がないようだった。


 「どうぞ」と野間は言って、この前のように中へ通してくれた。


 前と違うのは、野間が迷惑そうな空気を纏っていることと、部屋の隅に置かれた紙袋の中に女物の品が纏められていることだけだった。


 キッチンの向日葵は、まだ萎れずに咲いていた。そこには、野間の微妙な感情がへばりついている感じがした。


 津田の聞き取りは、刑事らしい質問項目を並べていた。


 名前、年齢、勤務先、出身地、等々。俺が訊かなかったことがズラリと並んだ。そして津田は、久保奈生美の交友関係だけではなく、野間の交友関係まで質問した。


 隣で聞いていても、やはり、ピンとくるものはなかった。


 ひと通り津田の質問に答えると、野間は言った「なんだか、昼間、会社に来た刑事みたいですね」と。


 なんでも、函館中央署の刑事が二人やって来て、社長や社長の奥さんにまで話を訊いたそうで、危うく、姪っ子さんとの見合い話が流れそうになったと、野間は軽く文句を言った。


 野間も腹を決めたようだった。そんな心変わりをこのタイミングで見せれば、傍から見た人間には、野間が邪魔になった久保奈生美をどうにかしたと思われても仕方がないのに、野間はそんなことを考えられるほど頭の切れる男ではなかった。


 今、此処に川口がいなくて良かったと思った。久保奈生美にとっては悲しい野間の選択だが、野間からすれば、自分の幸せを一番に考えた結果なのだ。


 駐車場に戻る途中、津田が俺に聞こえるだけの大きさの声で言った。


 「あなたは、どうお考えですか?」


 「繋がりがあるかどうか?ってことか?」


 「やはりそうお考えですか」


 「一回、道内の行方不明者の中で、羽田心音、久保奈生美と体格が似ている女性の情報を集めてみたらどうや?」


 「そうですね。何か浮かんでくるかもしれませんね」


 雨が強くなってきた。


 「なぁ、羽田心音の写真、何枚か欲しいねんけど」


 「ありますよ。あと、ハネさんから預かってきた翔君の友達のママ友の住所録も」


 「はなからそのつもりかい」


 「獅子王さんを絡めると、何か良いことがありそうだったもので」


 津田は傘の下でスマイルを浮かべて言った。


 傍から見れば不謹慎に映るかもしれないが、津田の柔和な仮面の奥には、悪に対する絶対的な怒りを燃やし続けているのだ。


 「それと、ハネさんからあなたへの伝言です。『余り意味無く動き回るな。久保奈生美が戻って来た時のことも考えろ』だそうです」


 そう言うと津田は覆面パトカーの助手席に乗り込んだ。




 俺が隣に乗り込んでも、美枝子はドアにもたれて気持ち良さそうに眠っていた。


 ハセさんが運転する高級車の後部座席で、津田から手渡された茶封筒を開ける。中には透明ファイルが二つ入っていて、羽田心音の写真が五枚と身上書が入ったものと、久保翔のクラスメイトの住所録、そして、ハネさんが話を訊いた人間の隠し撮り写真と、その時の内容が書かれて纏められているものがあった。


 熱中して読み込んだ。感想は、“表面上の付き合い”それがこの世で最も当てはまるような内容だ。このあと一軒一軒回ろうかと思っていたのだが、その必要もないほどに“表面上”だった。


 俺は翔のクラスメイトの親から話を訊こうと、久保奈生美と翔が住むアパートへ向かうようにハセさんにお願いしていた。だが、これではどう突いても何も出てこなさそうだった。金髪モヒカンの俺よりも美枝子の方が、当たりが柔らかいだろうと思っていたのだが、使い道がなくなった。


 隣はまだ眠っている。


 中央線を越えて向かっていたハセさんに、俺は笹森邸に戻るようにお願いした。どうせ起きたら「腹減った」とガキのように五月蠅く言うのだ。


 次の産業道路で、ハセさんは右方向にウインカーを焚いてた。


 斜め前に、違う花屋が店仕舞いしているのが目に飛び込んできた。俺はあそこへ向かうべきだと感じた。


 「すみません。やっぱり花屋に向かって下さい。お願いします」


 流石プロドライバー長谷川だ。「わかりました」とだけ言って素早く左のウインカーを焚いた。一切、嫌気や嫌味が現れない、気持ちの良い対応だ。




 『La petite fleuriste』の表の灯りは消えていたがシャッターは下りておらず、中にはまだ灯りが灯っていた。


 雨は止んでいた。


 ハセさんに言って車を少し離れた所に停めてもらい、俺は一応傘を手に表に出た。


 道の反対側を一往復して中を窺ったが、灯りが点いているのがわかるだけで、早川芽美がいるのかすら確認は出来なかった。


 次に俺は店の裏口を探した。そして、必ず買い出しや配達で使うであろう車も探した。


 裏口は屋根のある側の道を入った奥にあった。


 どうもこの建物は、工場単体ではなく住居兼工場となっていたようで、裏口イコール住宅の玄関のような様式をしていた。


 ということは、早川芽美はこの建物に住んでいるということなのか?だが、玄関の波ガラスの向こうに灯りは漏れていなかった。やはり、あそこの店舗部分だけ早川芽美が借りているのだろうか?俺は登記簿を調べたくなったが、今の俺では簡単にはいかない。だから車を探すことにする。


 玄関を過ぎると直ぐに建物が終わり、裏側には塀と建物の間に空いたスペースがあった。


 格子の鉄門扉が閉まった中には、トラックが停められるぐらいの幅があって、それは反対側の建物の切れ目まで続いた。


 コンクリートで固められた細長い土地には、白い軽のバンが一台だけ停まっていた。そして、建物には鉄製ドアがあって、その上には防犯カメラが設置されていた。


 俺は立ち止まることなくサラリと通り過ぎた。


 カメラに映らないところで立ち止まり、俺は軽バンのナンバーをガラ携にメモし、来た道は通らずに通りに戻り、店のシャッターが閉まるのを待った。


 ちょうど二十分経った時、早川芽美が店から出てきてガラガラとシャッターを閉め始めた。


 俺は反対車線のビルの陰で、声をかけるかどうか迷っていた。ふと、ハネさんの『久保奈生美が戻って来た時のことも考えろ』の伝言が頭に浮かんだ。確かにその言葉の意味は重い。だが、俺には久保奈生美が何者かに拉致されたとしか思えないでいる。それなのに一歩目が重い。どうしてだろう?


 視界の中で最後のシャッターが下りていく。そして早川芽美の姿は中へ消えて見えなくなった。


 やっと足は動いた。俺に必要なのは、早川芽美が話した『しつこく言い寄る男』の情報だ。


 もう一度、裏口に回ってみた。他に住処があるのなら、早川芽美はこちらから建物を出るはずだ。だが、俺の身を隠すところがない。道路から一歩入れば普通の住宅地なのだ。不審者として通報されれば面倒になる。


 何とか二本道を過ぎた場所で動きを待った。


 ガラ携が無音で震えた。


 「はい」


 ――ねぇ、いつまで待っていればいいわけ?――


 やっとお目覚めか。


 ――お腹空いたから家に戻るからよろしく――


 俺が一言も挟む隙もなく電話は切れた。今、早川芽美があの軽バンで動いたら、今日の俺は早川芽美と接触する機会を失ってしまう。


 そう思ったのだが、十分経ってもニ十分経っても、一向に動きはなかった。 


 また震えた。表示はハセさんだ。


 電話に出ると、もうさっき停まった場所に戻ってきたと言った。


 俺は、頼もしいと思って気が楽になった。今いる場所を教えた。


 「ありがとうございます。何時でも動けるようにしていて下さい」


 そう言って電話を切った。


 しばらくするとまた電話が震えた。表示はまたハセさんだった。何かあったのだろうか?そう思って電話に出た。


 「はい」


 ――すまんな、あんた一人に任せて――


 ハネさんだった。ハネさんとハセさんはややこしい。表示を変えることにしようと思いながら、ハネさんはいつもと変わらぬ声の張りがあって、俺は驚いた。


 「この度は、何て言うてええか……。俺も、何か力になれればって思うてます」


 ――ありがとう。それより何か掴めたか?――


 「野間のアパートの101号室に住む小笠原康介から話を訊きました」


 ――101……、ああ、あの部屋か。あそこに人が住んでたんだなぁ。内容は、津田からメールを貰って読んだ――


 津田の素早い行動にも驚いた。


 ――俺も二度ほど尋ねたけど、なぁーんも返事がなかったから、倉庫代わりに使っているのだと思ってた――


 ハネさんが二度も小笠原の部屋を尋ねていたとは知らなかった。


 もしかして、ハネさんが小笠原の抱えている何かに関係しているのだろうか?


 ――それで、他には?花屋の何て言ったかなぁ……――


 「『La petite fleuriste』ですか」


 ――そうそう――


 「そこのオーナーの早川芽美にも会いました」


 ――ちょっと、も一回言って――


 「早川芽美、早い川に芽室の芽に美しいと書きます。御存知ですか?」


 ――いやぁ、わからん。何処かで聞いたことあるような名前だけれど、わからん。それでどうだった?――


 「その花屋に久保奈生美は時々来てたようで、いつも花を二輪だけ買っていくので覚えてると、早川は言うてましたわ。でも、翔が言うてたような友人関係ではなさそうで、単なる客と店員の関係やと早川は言うてました。そんな客と店員の会話の中で、『しつこく言い寄る男』がいると久保奈生美が言ってたんを思い出したみたいで、俺がその男に間違われて、危うく警察を呼ばれるところでした」


 ――ほう、そんなことがあったのか――


 「そうなんですよ。何とか誤解を解いて、警察沙汰にはならずに済みました。それで、中井戸や野間、紀田にも、もう一度話を訊いてみたんですけど、三人共、そんな男の存在は知りませんでした。そやから、もっと詳しく思い出してもらえんか訊こうと思て、今、早川の店の近くで出てくるのを待っています」


 ――その男は、紀田のことでないんかい?――


 「かもしれません。けど、違う男の可能性もあるでしょう」


 ――だな。けど、無理すんな。俺が勝手に始めたことだ。もし、何もなく戻って来た時に、生き辛くなってるんじゃぁ可哀そうだ――


 「けど、俺は、誰かに拉致られたと思ってます。ハネさんもそうなんでしょ。娘さんの写真を見ました。似てますよねぇ、久保奈生美と。だから、ハネさんは……」


 ――滅多なこと言うでねぇよ。彼女と娘は違う。それに娘がいなくなったんわ、もう十年も前のことだ――


 その時、『La petite fleuriste』の裏側、軽バンが停められていた辺りから光が道路に伸びた。


 「ハネさん、またあとで電話します」


 そう言って電話を切ったあと、直ぐにハセさんに電話を掛けた。


 長谷さんは直ぐに電話に出て、「わかりました」と言って電話を切った。


 光の辺りで、早川芽美らしき人物が門を開けている影が映り、その影が消えると、白い軽バンがゆっくりと姿を現し、俺のいる場所とは反対の通りの方向へ進み停車した。軽バンから早川芽美が降りてきて門を閉め始めた。


 俺は気が気でなかった。まだかと思って振り向くと、すぐ横に長谷さんの車は停まっていて、うしろのドアが開けられた。


 俺は乗り込んで長谷さんに、あの白い軽バンを追うように言った。


 早川が運転する軽バンは、十分ほど走ってスーパーの駐車場に入っていった。


 長谷さんは駐車場には入れずに、スーパーの出入り口が見える場所に車を停めた。


 俺は飛び出して、早川芽美が店に入るのを待ってから、うしろを追った。


 暫くついて回ると、早川は普通に買い物をしているだけだった。


 早川芽美が一人暮らしなのか家族がいるのかすら知らない。それに自炊などすることがなかった俺には、買い物の量が多いのか少ないのかすら判別出来なかった。だけども、早川が値段を見ることなく、自分が決めている商品を籠に入れていることはよくわかった。


 俺は、レジ近くにあった口腔清涼剤を一つ買って、早川がレジを済ますのを離れた場所で見ていた。


 籠いっぱいの食材を、早川は手慣れた様子でマイバッグに詰めている。


 詰め終わると、レシートをじっくりと見てから、丁寧に二つ折りにしてゴミ箱に捨てた。


 バッグには入りきれなかったのか、500ミリの炭酸水のペットボトルを左手に持って、重そうに右手にマイバッグを提げてスーパーを出ようとした。


 「早川さん」


 俺の声に振り向いた早川は、一瞬だけ不機嫌そうな表情を浮かべたあと、この前に見た営業スマイルを顔に浮かべた。


 「あら」


 「重そうですね、持ちましょう」


 俺はそう言って、強引に食材が詰まったバッグを持った。


 こんなところで騒ぎにするのはと考えたのか、早川は笑みを浮かべると、「すみませんね」と言った。


 「車ですか?自転車ですか?」


 「車ですよ。私、自転車には乗ったことがないんですの」


 早川の先導で白い軽バンへ向かった。


 「この辺りにお泊りですか?」


 「ええ、あっちの方にある知人の家にお世話になってるんです」


 俺は適当に指差しながら言った。


 「それにしても、量が多いですね。ご家族は多いんですか?」


 「いいえ、一人ですのよ、恥ずかしながら。休みの日に一気に作って冷凍しておけば、日々調理時間を気にすることなく、仕事に時間を使えますから」 


 「ああ、なるほど。それは賢いですね。早川さんは仕事がお好きなんですね」


 「ええ、可愛い物をより可愛く、美しくするのが私の仕事ですから」


 「流石ですねぇ」


 「あっ、此処で結構です」


 あの白い軽バンが停まっていた。


 早川は助手席ではなく、うしろのスライドドアを開け、俺から受け取ったバッグを黄色いプラスチックの箱に入れた。


 目隠しがされている後部には、一人だけ座れる椅子があった。そのうしろはスチールの棚が両側に設置されていて、今は軍手が一つ載っているだけだった。床には仕入れ時に使うのか長いバケツが幾つも重ねられていて、それはスチールの棚から伸びたゴム紐で固定されてあった。


 「助かりました。ご注文お待ちしておりますので、またその時に」


 そう言いながら早川はスライドドアを閉めた。


 「はい。まだ考え中で。あっ、そうや。こないだ言ってた、久保さんにつきまとってた、あのしつこい男って、どんな奴か、思い出したことはありませんか?」


 「ごめんなさい。ぜんぜん思い出せなくて。まだ、あの人見つかっていないんですか?」


 「そうなんですよ」


 「早く見つかるといいですね」


 「はい。頑張ってみます」


 早川芽美が運転席に乗り込むと、俺は軽く手を挙げたあと、早川に背を向けると敷地の出口に向かって歩いた。


 早川の白い軽バンは矢印通りに出口に向かっている。


 それを確認してから俺は長谷さんに電話を入れた。そしてそのままスーパーの店内へ戻り、早川が捨てたレシートを回収した。




 




 

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