第5話 静寂の男女

(ふむ、手強いな…)


 渡入が女と向き合ってからおよそ五分、ふぅと一息つき、口元へ意識を集中させる。


 古来よりスパイの間では、聞かれてはならない密談を読唇術で行っていたという…渡入は幼少の頃、スパイ映画に感銘を受け、通信教育で読唇術を身につけていた。


(やはり無駄なことなど、私の人生において一つもない…!)


 読唇術を学んでいた頃、周りの子供達は公門式の英語学習に勤しんでいたことを思い出す。あの子供達は今、英語を話せるようになったのだろうか…などと考えていると、女の口元が動き始めた。さぁ「交渉」はここからだ––!



 円光えんこう いちごは、かつてお金を強く欲していた。父が連帯保証人になっていた友人が失踪し、家には多額の借金があったからだ。そんな中でも、大学へ行かせてくれた両親への愛は、円光にある行動を決心されるに至る––パパ活だ。


 端正な顔立ちと抜群のスタイルを兼ね備えた円光は、元々男から言い寄られることも多く、標的はいくらでもいた。


 危険な目に合いそうにもなったが、無事に目標額を稼ぎきり、以降両親を心配させないためにも、パパ活からは足を洗った。


 しかし言い寄ってくる男は後を絶たず、困った円光は、関わる人間を自分好みの教養のある人のみに厳選する事に決めた。そしてその方法を、たまたま流し見ていたスパイ映画から閃く––


 それが読唇術だった。元パパのツテを使い、日本政府の現役中国人スパイにレクチャーを受け、三ヶ月の猛特訓で身に付けた。


(正直習った後、よく考えたらコレわかる人自体いないんじゃ…て思いかけてたのに)


 ある日、運命の人に出逢ってしまった––たまたま講義で隣の席に座った、キリッとした顔立ちの青年、見た目は及第点。いつものように、駄目で元々と思いつつ、口を動かす––


(舐め回すみたいに身体見てるけど、普通もっと遠慮しない?)


 ほんの少しの間が空き、この人も駄目か…と正面を向こうとしたとき、音のないままに、口元が動くのを視界に捉えた。


(失敬、ここまで美しい女性は、美術館かエロビデオでしか見たことがなかった故つい––)


 え?聞こえなかったもう一度…といつも返ってくるありふれた声じゃない、内容はともかく、心に響いた音のない第一声だった。


 声なき会話は徐々に弾んでいき、読唇術を身に付けたキッカケが同じスパイ映画だと知ったときは、ちょっとズレてるけど、間違いなく運命の人だ…と思った。


(敵の女スパイに読唇術で、今夜私をいくらで買う?と聞かれた時は興奮したものだ)


(そーそー、結局上手く値切れなくて十万ドルも払っちゃうし殺されちゃうし…てか絶対ハニトラだって普通わかるっしょ)


(女スパイ…読唇術…ハニトラ…)


 思うところでもあったのか、言葉を反芻して考え込み始めた。そしてバッと顔をこちらに向け、全ての謎は解けたと言わんばかりのドヤ顔で告げる。


(話は読めた…私から聞こう。スパイ映画の主人公と同じ鉄は踏まん、君はいくらだ?)


(なんかめちゃくちゃ誤解してる?!てゆーかそれ完全に踏みにいってるから!)


 チャイムを合図に講義は終わり、誤解を解こうと振り返ると既にいなかった。校舎をグルリと見て回り、今日はもうダメかと諦めて帰ろうとしたその時、階段の下に彼を見つけた。こちらに気づくと正面まで歩み寄り…口を開いた––



 渡入家は、今では没落しているものの、かつては名家の一つだった。それ故か、幼い頃に金銭目的に誘拐されたこともあり、以来護身術の鍛錬は欠かさずに行っている。


(ハニートラップで、寝首をかく腹づもりだろうが、今の私に隙はない。むしろ問題は…)

 

 渡入は現在マンションで一人暮らしをしている。そして財布には五千円札が一枚のみ。増税前にローションを買い溜めるのに使ってしまい、金欠状態に陥っていた。

 

(だが、現実にハニートラップに嵌まれるこのスリルを逃すわけにはいかん…!)


 必然的に渡入がとれる方法は一つだけとなる。それは値切り交渉だ。大阪のおばちゃんよろしくプライドを捨てて値切るしかない––


(だから聞いてってば!さっきからお金のこと言ってるけど、そーゆーのじゃないから!)


(よく考えれば同じ学園で読唇術を習得してる人間が二人もいるなんて偶然があるものか!…四千五百円)


(確かにそれはすごい偶然だと思うけど––運命って捉え方もできるっしょ…)


(運命とは己が手で掴み取る物だ、君が私を陥れようと巧妙な手段で近づいてきたように…四千六百円)


(だから違うって––そのセリみたいなのいい加減やめてくれない?!二千円からずっとやってるけど、一回も応じてない時点で察して!)


(くっ察してはいたが、やはり資金が足りないか…)


(まぁナメてるとしか思えない金額だったけど…せめてイチゴは…なんでもない。お金とかじゃなくて普通に仲良くでいいじゃん!)


(そうしたいのはやまやまだが、私に女スパイを信用しろと…)



 膠着状態の中、外野で見ていた聖里は遂に痺れを切らして話しかけることにした。


「あの〜お二人とも、ずっと目を合わせてパクパクしてますけど、何の遊び…」


 ハッとした顔で現実に戻ってくる二人。そして女の子がこちらと尾出君に初めて気付いたように目を向け、問いかける。


「…この三人は部活の仲間とか?」


 誰へともない質問に、尾出君が答える。


「そうだよ、僕はさっき入ったばっかりだけどウォ––」

「じゃ!あたしも入れて〜部活どこに入ろーか迷ってたし」

 

「「「えっ!!」」」


 驚くと同時にすかさず入部届を取り出し、名前だけ書いてもらう。これで男女二名ずつのバランス良いメンバー、断る理由はもちろんない。男二人はなにか言いたげな目でこちらを見てるけど、気づかないフリをした。


「じゃあこれからよろしくね〜それでココって何部なの?」


「よくぞ聞いてくれました!ウォシュレット部ですよぉ!」


 そう言って入部届の部名の欄に、大きくウォシュレット部と書く。


 苺の顔に一瞬後悔の色がよぎった気がするのはきっと気のせい––

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聖域の射手〜近未来の変人達はトイレに虹を掛ける〜 とち乙女 @weijglf

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