第3話 二つの闘い二人の変態
チョロチョロチョロチョロ…チュンチュン…ホーホケキョッ…
T◯T◯の生み出したトイレ用擬音発生装置、通称「乙姫」。
音消しによる節水と、ヒーリング音声で多忙な現代人を労ってくれる優れものである。
「ふぅ〜…」
聖里 都羽は便座に腰かけながら思い出す。
去年、先輩達とウォシュレット部で過ごした楽しい時間と、受け取ったアドバイスを。
…あれはウォシュレット部に入って間もなく、新入部員の歓迎が上手くいかなかった時、部長に言われたことだ。
「いいか?大学に入って、真っ先にウォシュレット部に入りたいなんてやつはまずいない!だから誰も勧誘しないような変人が、唯一の狙い目なのさ。」
なるほど、と納得すると同時に疑問。
「その理屈だとわたしも変人みたいじゃないですか〜(笑)」
そう返した時の坊主頭の部長の真顔が、今でも忘れられない。以降、週三ほどのペースで、真顔の坊主が夢に出てくるようになった。
(…あれからもう一年かぁ。)
正直、最初は一人になってもうダメかと思ったものの、今日の勧誘が上手くいけばもう三人目。変人を狙えという坊主部長のアドバイスは正しかったんだなぁ、と実感する…変人というより変態ばかりなのは気にしない。
「尾出君の勧誘、渡入君に丸投げしちゃったけど大丈夫ですかねぇ…ダメだったら最悪、録画音声をネット配しッあ痛たたたた…」
不安が口をついて出ると同時に、腹痛の波が突然押し寄せてくる。理不尽な痛みに神を呪い、治してくれと神に祈る、そんな矛盾した思いを繰り返す、女の闘いが始まった。
時同じくして、一階男子トイレ前廊下。
そこでも、一つの闘いが始まっていた。逃げる尾出と追う渡入、距離は5mほどをキープしている。正確にはかろうじてキープできている、といったところだ。
渡入はハッ、ハッと自身の息の音を聞きながら思う。
(この男っ、速い!!そしてスピードを維持するだけの体力もある…!)
正直見くびっていた。尾出は、黒縁メガネのよく似合う、顔のそばかすが特徴的な、小柄な青年だ。その大人しそうな外見が、運動のイメージと全く結びつかなかったのだが…
目の前で魅せられているのは、学園中を走り回っているにも関わらず、恥も外聞も一切ない、生存本能を剥き出しにした全力の逃走。大人しさなどかけらもない、必死と呼ぶにふさわしいものだった。
(なにを怯えているのか知らないが、なんという生への執着と集中力…素晴らしい!)
そう思い、ギアを上げる。
元来、渡入はスロースターターだ。出だしは遅いが、後から追い付き、追い抜いていくタイプの走者。
足音が近づいたことに気付いたのか、追われている尾出もギアを上げ、拍子にメガネが外れて、こちらに飛んでくる。
(…まだ速くなるのか!)
驚嘆しつつ、眼前に迫った眼鏡をキャッチ、その間に差は振り出しへと戻されてしまう。
体内でアドレナリンが過剰分泌され、外界の音が遮断される。陸上部にいた頃、表彰台に数度立つことはあったが、こんなに興奮しているのは初めてだった。記録でいえば、もちろん当時の方が速いだろう…接戦になっているのは、私が革靴で、彼がスニーカーだから、という理由もあるだろう、だがそれ以上に!
全力以上の力を出すことで生まれる、快楽の奔流に、渡入の心は満たされていた。おそらく尾出も、恐怖を突き抜けて同じ気持ちに至っているのではないかと、都合の良い想像をする。
(今が永遠に続くのなら、もうなにも要らないのかもしれない…)
ボンヤリとそんなことを考え始めたとき、走馬灯のように、現実に見たことのないはずの桃源郷の景色が浮かんできた––
そこは銭湯だった、湯の代わりにローションが張ってあり、その脇の大きなマットでローション塗れの美女達に囲まれ、手足や下半身に、肢体を擦りつけられている。
なに?ローションが足りない?ならば銭湯から足してやれば良い、トロトロトロ〜それが私の桃源郷…それが私のローション銭湯…それが私の…夢だ!!
カッと渡入の瞳に闘志が蘇り、意識が覚醒する。そうだ私の夢を…こんな序盤で…
「諦めてなるものかぁぁぁぁっっ!」
叫び最後の加速に踏み切る––!
尾出 幹は、小中高と極力人との関わり合いを避けて生きてきた。というよりも、人との距離感や心の機微が分からず、避けざるを得なかった。
ある時、ウォシュレットでの行為を、何故か不良に気づかれ、イジメに合いそうになったとき––才能の花は開いた。全力疾走で逃げだしたのだ。本能のままにそうしただけだったが、何者も尾出に追いつくことは敵わなかった…
そんなことを毎日繰り返しているうち、尾出には逃げ癖がついてしまった。追ってくるのはいつも怖いことだけだ、それも本気で逃げればすぐ諦めるから、気にしなくていい。
––今この時まではそう思っていた。
(本気で走ってるのに全然諦めない!?どうすれば…でもなんだろう、この感覚…)
朦朧とした意識の中、自身の中に不安や恐怖だけでなく、快楽も生まれていることに尾出は気付いた。
(もしかしたらウォシュレットよりも…いやそんなことあるもんか!)
いつの間にか、聴覚も、視覚もボンヤリしたものとなっている、視覚に関してはメガネを途中で落としただけのことだったが。
故に気づかなかった。目の前に自動ドアが迫っていることに…
(こんな直前まで気づかなかった!マズイ!)
こちらは全速力、停止するのも、もちろん扉が開くのも間に合わない。思考が停止して、頭が真っ白になる…夢の中で死んでしまったときのように––
目を覚ました時、そこには汗にまみれた精悍な青年の顔があった。背はスラッと高く、靴は––革靴?少し時間をおいて、目の前の人が自分を追いかけていた人だと気付いた。
「間一髪といったところですか…手を引くのが間に合わなければ、大惨事でしたね。」
肩で息をしながら、こちらに爽やかに微笑みかけてくる。デコと鼻に多少痛みはあるものの、確かに自動ドアにはヒビ一つ入っていない。そして、いつの間にか落としたはずのメガネもかけられていた。
「私の名前は渡入 己守。貴方は…尾出先輩、でよろしいでしょうか?」
息を整えながら、丁寧に今更すぎる確認をしてくる様子に、つい笑ってしまう。
「はっあはは、違ったら大変…だよ。」
「確かに…それで…尾出先輩をスカウトしに来ました。」
––スカウトか、高校でも陸上部の顧問からされたことがあった、能力があるのに使わないのは勿体ないだとかなんだとか…走るのがこんなに気持ちいいと教えてくれていたら入ったのにと今更ながら思う。
(いや、この初対面の後輩が全力でぶつかってきてくれたから、それが伝わったのか…)
尾出は人と関わることの本質を教わった気がした。距離感や心の機微の前に、まずは全力でぶつかるということを…だから返答は––
「うん、僕を…君の部に入れて欲しい!」
それを聞いた渡入は、ニッコリと満面の笑みを浮かべ一言。
「えぇもちろん歓迎します、よろしくお願いします、先輩」
尾出はまだ、渡入が何部に所属しているかを知らない。
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