不死蝶と月

デッドコピーたこはち

第1話

 どこからか私を呼ぶ声がする。私は目を開ける。だが、何も見えない。目を凝らしてみても、辺りは完全な闇に包まれている。声はまだ私を呼んでいる。声の方に手を伸ばすと、何かに突き当たった。そのまま力を込めて手を突き出すとその何かが伸びるのを感じる。ぬるぬるとして柔らかい、膜のようだ。そこで私は初めて、自分の全身が膜のようなものに包まれている事に気づいた。

 早くここから出なければ、早く声の方へ行かなければ。自分の奥底から湧き上がってくる衝動に従い、力の限り強く腕を付きだして膜を引っ掻いた。少し膜に傷が付いたようだ。そこを手掛かりに、さらに大きく膜を傷つけていく。

 私の中で外に出たいという衝動がどんどん強くなる。やがて、膜は破れ、強い光が差し込んできた。視界が白く染まる。まぶしい。

 私の身体が膜の外に投げ出される。いや、これは落下しているのだ。

「おっと」

 間の抜けた声と共に、私は柔らかい何かに受け止められた。肉の膜ではない。暖かくて、柔らかくて、少しざらざらしている。外の光に目が慣れてくると、やっと自分の状態がわかった。何者かの、そのふくよかな胸に抱き留められているのだ。未だ、はっきりとはしない視界と手触りから、それでも相手が黒いセーターを着ているのだとわかった。

 顔を上げるとおぼろげながら相手の顔が見える。こちらを見つめている様だ。

「あ、あっ」

 私は喉を震わせ、何とか言葉を紡ごうとした。

「うん、うん」

 相手はそれに合わせてゆっくりと頷いた。

「あなた、は、だれ」

「わたしは月」

 私の問いかけに低い女の声が応えた。優しい声だった。

「わたしは、だれ」

「君は蝶々」

「ちょう、ちょう」

 相手の言葉を繰り返すと、私はどっと疲れを感じた。まぶたは開かなくなり、首は鉛の様に重くなった。私の顔はかくりと相手の胸に突っ伏した。柔らかな胸からは何か懐かしい、甘い匂いがした。


 私が目を覚ますと、白い天井があった。周りを見回し、自分が白い部屋の黒いソファに寝ているのがわかった。窓からは白いレースのカーテン越しに陽光が差し込んでいた。

「おはよう」

 私は上体を起こして、声のした方に顔を向けた。そこには、『月』と名乗った女が陶器のマグカップを2つ持って立っていた。この前はわからなかったが、彼女はとても背が高い事に気づいた。私より頭一つ半は高いだろう。タイトなジーンズを履いたその脚はすらりとしていて、長かった。

「……おはよう」

「よく眠れたかな?」

 月は微笑みながらいった。

「……多分」

 私はそういいながら、自分の額に手を当てた。ここがどこなのか、彼女が何者なのか、そして――自分が何者なのか思い出そうとしたが、何も思い出せなかった。

「喉が渇いてるよね?どうぞ」

 そう言われて初めて、私は自分の喉の渇きを自覚した。

 月はソファの前のテーブルにマグカップを一つ置き、自分はテーブルを挟んで、私の対面に置いてある木製の椅子に座った。私の前に置かれたマグカップの中身はミルクティーのようだった。ゆるりと白い湯気を上げるミルクティーは、ほのかにシナモンの香りがした。月が自分のマグカップの中身を飲むのを見て、私もミルクティーを飲む事にした。

「美味しい」

 ミルクティーにはたっぷりの砂糖が加えられていて、私好みの味だった。暖かなミルクティーとほんの少しのシナモンが私の身体の芯を温めた。

「うん、顔や身体が変わっても、やっぱり好みは変わらないんだね」

 月は微笑みながらいった。しかし、その笑みにはどこか影があった。

「あの、私……何も思い出せないんです。自分が何者なのか、あなたが何者なのかも。あなたは私のことを知ってるんですよね。教えてください。私がなぜあの……膜に包まれていたのかも」

「うん。それにはまず、あたしが何者か説明する必要があるね。あたしは……不死者イモータルだ。見ていて」

 月はそういうと、ジーンズのポケットから小振りなバタフライナイフを取り出した。バタフライナイフの刃は青く輝いていた。彼女はその青い刃を左手の人差し指に当て、引いた。人差し指には小さな切り傷ができ、そこから真っ赤な血が染みだしてきた。

 半ば唖然としながら月の奇行を見ていると、雫となり、今にも滴り落ちようとしていた血が、映像を巻き戻すかのように切り傷に吸い込まれていったのが見えた。切り傷そのものもあっという間に塞がり、彼女の人差し指は傷などなかったかのように元通りになった。

「あっ!」

「この通り。どんな傷を受けても元に戻る。ちなみに、老けもしないし、病気にもならない。君も不死者だ。わたしとは違うけど」

 月は左手をひらひらさせながらいった。

「あなたとは違う不死者……?実感は無いけど」

「そうだろうね。君は傷付けば死ぬし、老いるし、病気にもなる。だが死んでも蘇るんだ」

「……あの膜に籠って?」

「その通り、流石だね。因みに、今回君が肉繭を作ったのはこの家の地下室だよ。君は死ぬと肉繭をつくって身体を再構築するんだ。繭の中で身体は一度どろどろになって、また人型になる。蝶みたいに」

 月はマグカップの中身をもう一口飲んだ。

「それで、私は記憶を失ったと?」

「いや……本当は身体を再構築しても記憶のほとんどは保持されたままだよ。でも、今回みたいに身体の――特に脳の損傷が激しかった時は別だね。どうしても記憶の欠落が大きくなる」

 脳の損傷が大きかったとはどういうことだろうか?私はどんな死を迎えたのだろう。少し怖いが、月に聞いてみることにした。

「私はどうやって死んだんですか」

「交通事故で……ぐちゃぐちゃになって」

 月は自分の鼻先を掻きながら、気まずそうにいった。

「ぐちゃぐちゃに……」

 想像するだけで気分が悪くなってきた。詳しくは聞きたくないので、他の質問をすることにした。

「私とあなたはどういう関係なんですか?どうしてこうやって……私の面倒を見てくれるんですか?」

「うーん、そうだなあ。わたしと君の関係?なんて言えばいいのか……」

 月はその肩まで伸びた金髪をかきあげた。

「一言でいえば、腐れ縁かなあ。不死者同士、何かと関わる事が多くて、悩みも共有できたから最近はこうやって一緒にいることが多かったけど、元は敵同士だったし……」

「敵同士……」

「そうそう、300年くらい前のことだったかな?君と初めて会った時、わたしを殺そうとしてきたんだよ。君は不死者を不浄のものとする教団の一員だった」

「自分も不死者なのに?」

「あの頃の君は自分が不死者だとは知らなかったみたいだったけどね。死んだことがなかったのか、今みたいに記憶を失っていたのかはわからないけど。とにかく、私は君を返り討ちにして一度殺した。そして、復活するのを見たんだ。それで、君も不死者だって知った」

「私を殺したんですか!?」

 自分が不死者だったとしても、流石に目の前の人物に自分が殺されたのだと聞かされればぎょっとする。

「そうだよ?一度だけじゃないし、何度も殺してるよ。でも、君もわたしの頭を斧でかち割ったり、溶鉱炉に突き落としたり、南極に置き去りにしたりしてるから。まあ、お互いさまってことで」

 月はニッと笑っていった。彼女は楽しい思い出話をしているかのような態度だった。

「……そうなんですか」

 覚えていないとはいえ、かつて殺し合った仲の相手と今は一緒にお茶を飲んでいることをどう捉えて良いのかわからなかった。月の飄々とした態度がさらに私の混乱を深めた。

「そうなんだよ。覚えてない?ちょっとこのナイフでわたしを突いてみてよ。思い出すかも」

 月はそういって、バタフライナイフの柄をこちらに差し出して来た。促されるままに、私はその柄を持った。

「……」

「大丈夫!刺してもすぐに治るから。さあ」

 月はテーブルの上に身を乗り出してきた。

 だが、刺すまでもなく、こうして月にナイフを突きつけていると、何か懐かしい気持ちがしてきた。このバタフライナイフを月の真白い肌に突き立て、心臓を貫いたことがあるような気がしてくる。

「このナイフ、もしかして私のですか?」

「その通り!意外と覚えてるもんだね」

「覚えてるというか……何故か懐かしいんです。このナイフ」

 私はチタンコーティングで美しい青に輝く刃を撫でた。自分のものだった事すら覚えていなかったこのバタフライナイフは、異様に手に馴染んだ。まるで、自分の手足の延長の様に感じる程に。

「それわたしが君にプレゼントしたヤツなんだよ」

「そうなんですか?」

 私は思うままにバタフライナイフをくるくると回していると、ふとあることに気が付いた。

「私、貰ったナイフであなたを刺したんですか!?」

「そうなんだよ。酷いよね」

 月は面白くて堪らないという感じでくつくつと笑った。

「あなたと私の関係がよりわからなくなりました……」

 私は頭を抱えた。

「時には味方、時には敵。恋人だったり、仇だったこともあったかな。長い付き合いだからねえ」

 月はマグカップの中身を飲み干した。


 ティータイムを終えた私たちは、月の強い勧めでこの家の庭を見て回る事にした。

「良いでしょ。この庭」

 月は誇らしげにいった。月はよく笑い、その表情はまるで子どもの様にころころと変わった。大柄な彼女に似つかわしくない様にみえるその様子が、私は段々と面白く思える様になってきた。

「ええ、素敵です」

 庭には、赤いレンガを使って作られた小道があり、小道に沿う様に花壇があった。その花壇には、ラベンダーやスズラン、黄色いユリ、そして今は名前の思い出すことのできない花々が咲き誇っていた。

「死なないと暇ばかりあってね。凝っちゃうんだよね」

「周りには誰も住んで居ないんですか?」

 木の柵で区切られた庭の先には白樺の林と獣道ばかりが続いていた。林の奥からはカッコウの鳴く声が響いてくる。少なくとも見回した限りでは私たちの他に人間の気配を感じることはできなかった。

「うん、少なくとも10 km以内にはね。時々、街に下りて買い物はするけど。私たちは人付き合いが無い方が何かと都合が良いからね」

「確かにそうですね」

 月と他愛のない会話をしながら、玄関へと続く小道を歩いていると、その中ほどには、鉄棒を組んで作られたアーチがあった。アーチの根元には小さな赤いバラが咲いていた。そのバラの花は小さいだけではなく。花弁の先が縮れて変色していた。茎や葉もまた、やや黄色がかっており、瑞々しさに欠けていた。

「元気がないですねこのバラ」

「バラの手入れは難しいんだよ。去年はもっと立派だったんだけど。年々花が小さくなってしまって……」

 月は悲し気にいった。

「そうなんですか……」

「それはそうと。この庭に来てみて何か思い出すことはないかな、蝶々?ラベンダーの匂いとか嗅いでみて、どう?記憶は匂いと深く結びついてるっていうし」

 月は手を広げて、くるりと回った。その時、私は月がなぜ私を庭に連れてきたのかやっと悟った。何かしらの記憶が戻ることを期待したのだろう。だが、私は何も思い出せず、バタフライナイフに感じたような懐かしさすらこの庭には感じなかった。

「すみません、何も思い出せなくて」

 私はそんな自分のことを情けなく思った。月はこんなに手を尽くしてくれるのに。その思いに少しも報いる事ができないとは。

「こちらこそごめんね。無理言っちゃって」

 月は気まずそうにいった。

 月の案内によって庭を見回った後、私たちはついでに庭の手入れを行った。私は月の指示の元、花壇の草むしりや柵の手入れを軽く手伝った。月と私はよくこうやって庭仕事に励んでいたらしい。しかし、その作業中においても、私が庭についてなにか思い出すことはなかった。私の欠如した記憶は主に『思い出』であるらしかった。モノの名前や言葉はほとんど支障なく覚えているが、月と過ごしたはずの日々を思い出すことはできなかった。


 庭仕事を終えた私たちは、その後、汗と汚れを落とす為にお風呂に入る事にした。「ゆっくり入るといいよ」月はそういって、気前よく私に一番風呂を譲ってくれた。

 程よい温度のお湯が並々入ったバスタブで、私が入浴を楽しんでいると、不意にバスルームの扉が開く音がした。そちらを振り向くと、当然の様に堂々と全裸の月が立っていた。

「な、なんで入ってくるんですか!?」

「シャンプーとかの場所わかんないかなと思って」

 月はにやにやと笑いながらいった。

「わかりますよ!それくらい」

 その時、私はなぜか浴室にあるものが何なのか。それがどこにあるのか知っている事に気が付いた。そのことを月に伝えようとしたが、その前に月が浴槽へと無理矢理に入ろうとしてきた。

「ちょっと詰めて」

「ああもう!なんでそっちから……力が強い!」

 月は私の背中と浴槽の壁に自分の身体をねじ込む様に浴槽に入った。私は半ば押し出されるように前に移動し、月の為のスペースをつくる羽目になった。私の身体は、二人が入るには狭いバスタブの中で、月の両足の間に収められた。

「小さくなっちゃったね……蝶々」

 月は悲し気にいった。彼女は浴槽の中で、私の後ろから抱きかかえるように身体を寄せてきた。私の背中には月の柔らかで成熟した身体の感触が伝わってきた。

「ちょっと!止めてください。はずかし――嗅がないで下さい!」

 月は私との身長差を活かして頭頂部を嗅いでいるようだった。自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。後ろから抱き着いてくる月の腕を何とか引き剥がそうとしても、月の両腕はびくともしなかった。抵抗が無意味だと悟った私は、やむなく、月の気が済むまでそのままで居させる事にした。


「ふん、ふん。ふーんふん」

 月は飽きるまで私の頭頂部を嗅いだ後、鼻歌を歌い始めた。随分と上機嫌のようだ。その鼻歌のメロディをどこかで聞いたことがある様に感じたが、思い出せなかった。さらに調子付いた月は鼻歌の指揮を始めた。4/4拍子を刻む月の右腕は、ちゃぽちゃぽと湯船の水面に波を立てた。

 何となく、その腕を目で追っていると、親指の付け根辺りに線のようなものがあることに気が付いた。

「よく見ると傷がありますね」

 私がそういうと、月は指揮をやめた。私はそっと月の親指の付け根に触れた。傷をなぞる様に触るとそこだけがつるつるとした触感になっていた。

「ああ、ここ?何度も同じところに大怪我をするとこうなるんだよね。どんな傷も治るけど全く完全に元通りって訳じゃないみたい。ほら見て、鼻が曲がってるでしょ?」

 月は陽気にそういった。私は振り向いて月の顔をよく見た。確かに、月のすっと伸びた鼻梁は僅かに右に曲がっていた

「本当ですね……」

 私は右手で月の鼻を触りながらいった。

「これは、蝶々がやったんだけどね」

「そうなんですか。思い出せないです……」

「これは、そうだろうね。前の君もわたしの鼻を折ったのを覚えてなかったから」

 月はいった。その表情には諦観と悲嘆があった。

 私は近距離で月の顔を眺めるうちに、遠目には完全であるように見えた月の顔立ちが、所々歪んでいることを知った。上唇には深い溝が縦に走っていて、長いまつ毛の生えた右のまぶたにはへこみのようなものがある。青い瞳は左右で僅かだが異なる方向に向いており、顔中に細かい切り傷のような痕が無数にあった。

 永い時を生きた歴史とその傷が刻まれた顔だった。彼女はその永い人生の中でどれほどの苦痛を受けて来たのだろう。そして、嫌な記憶をどれほど抱えて今を生きているのだろう。そう思わせる顔だった。何も思い出せない私とは違う。私とは違う顔だった。私は、無意識のうちに月の顔を撫でていた。

 そして、私は不意に思い出した。


 月は右のまぶたを閉じきることができない。


 閉じ切らないまぶただけでなく、口まで半開きのまま寝ている月の横顔が脳裏に去来フラッシュバックした。寝ている月のその閉じ切らないまぶたから、僅かに覗く瞳が揺れ動いている。それを見るのが、私は好きだったのだ。私よりいつも起きるのが遅い月がどんな夢を見ているのか、それを想像するのが何よりも幸せだった。

 そして、月を起こすと彼女はいつも「もう起きてたよ」というのだ。だが、それが嘘なのはすぐにわかった。彼女は嘘をつくときに自分の鼻を触るのだ。そして――

「んふふ、止めてよ。蝶々」

 月は頬を撫でられるのがくすぐったいようだった。。

「月」

 私はまっすぐ月の目を見ながらいった。

「なに……?」

 月は不安げにこちらを見た。

「話があります」


 風呂から上がり、服をきた私たちはリビングに戻った。私はソファに座り、月はテーブルを挟んで、私の対面に置いてある木製の椅子に座った。

「お風呂の中でも話はできるのに……」

 月は唇を尖らせ、不満ありげだった。

「すみません。長くなるかもしれないので」

「ふむ、なに?話って。」

 月は腕を組み、僅かに身体を反らせた。その顔にも警戒の色が見て取れた。私が話したい事について、彼女も察しがついているのかも知れない。

「私はなぜ死んだんですか?」

 私は率直に聞いた。

「前も言ったけど、交通事故でぐちゃぐちゃになって」

 月は自分の鼻先を掻きながらいった。やっぱりだ。

「そのぐちゃぐちゃになった死体をどうやって地下室に運んだんですか?警察にはどう説明を?」

「それは――」

「嘘はやめてください。私は記憶が欠けていますが、あなたが嘘をついてるかはわかります。本当は、何があったんですか?」

「ええと……」

 月は眉を寄せて、答えに窮していた。ここで、一気に畳みかけてしまおう。

「言いにくいなら、私が言いましょうか。私を殺したのはあなたですよね。月」

 月は何か反論しようとして口を開けたが、その口をしばらくわなわなと震わせただけで結局何も言わなかった。彼女は肩を落とし、項垂れた。

「うん、そうだ。わたしが殺した」

 月は観念したようにいった。

「なぜ、そんなことを?」

 私は月を責めたい訳ではなかった。ただ、純粋になぜ月が私を殺したのか――それも私が記憶の大部分を失うほどの徹底的な破壊を伴って――その理由を知りたかった。しかも、月は恐らく自分で私が記憶を失うように仕向けておきながら、私が記憶を取り戻すことを期待していた。その矛盾した態度がどこから来ていたのか私は知りたかった。

 月は大きなため息を吐き、数拍置いてから、意を決したように話し始めた。

「わたし、本当のことを君に言うよ。本当はね。前回の君はあたしのことを忘れたいって言ったんだ。金輪際、関わりたくも無いって」

 月は声を震わせ、涙を流しながらいった。

「だから、わたしに殺させたんだ。そして、わたしは君に指示された様に、君の死体を切り刻んで、練り潰した。徹底的に。次の君が記憶を持ち越さない様に。でも、わたしは……蝶々、君に忘れられたくなかった。ずっと一緒にいたかった。だから……ここから立ち去らずに、君の羽化を待ったんだ。約束を破って……ごめん。」

 月はすすり泣いていた。大柄な彼女の身体は震えていた。

 そこで、私には『前回の私』が何を考えていたのか察しがついた。私は自分が許せなくなったのだ。月の事を忘れてしまう私を。彼女の真摯さと不滅さに釣り合わない私を。月は永遠に生き続ける。だが私は死に、その度に彼女と過ごした時間の記憶を少しずつ、あるいは大きく失ってしまう。

 私が庭のことを思い出せなかった時のあの失望した顔が思い浮かぶ。『前回の私』は月を傷つけ続けることにもう耐えられなくなっていたのだろう。だからこそ、月と離れようとした。勝手なことだ。結局、その身勝手が彼女を傷つけてしまった。

「蝶々、本当にごめんなさい」

 月が頭を下げていった。

 『今回の私』は同じ轍を踏まないだろう。私の存在が月を傷つけずにいられないのなら、失う記憶より、もっと多くの思い出を月とつくればいい。彼女の不滅の愛を、無限の必滅の愛で返せばいい。生まれ変わってもその度に彼女を愛そう。一度去った蝶が春にはまた戻るように。何度でも。

 私はテーブルを乗り越えて、項垂れる月の頬を両手で包み、前を向かせた。

「蝶々?怒って」

 月は何かを言おうとしていたが、私は構わず、彼女の唇を奪った。彼女の唇は暖かくて、柔らかくて、少しざらざらしていた。そして、何より、懐かしかった。

「まだわからない?」

 私は月を抱きしめた。月の身体は震えていたが、やがて震えは止まった。

「うん」

 月は私を抱き返してきた。

「わからないよ」

 涙ながらに月はいった。

 私はもう一度彼女と唇を重ねた。月の私を抱きしめる力は強く、苦しい位だった。骨が折れるかとも思ったが、それでも良かった。肋骨が折れてでも、月と今の私との絆の強さを感じたかった。私はさらに強く月を抱きしめた。

 私と月は自分と相手の境目がわからなくなるほど、ずっとそうしていた。

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