6 新月祷

「――次、リュカ君。四点」


 基礎魔導学のゼバンテス師は冷然と言って、教壇越しに答案をリュカに返した。


「……十点満点ですか?」


 とっくに答えのわかっている質問を、それでも口にしてしまう。


「百点満点です」


 大講堂じゅうがざわついた。

 授業の後で、大勢の生徒がリュカのまわりに集まってきて慰めてくれる。


「今回は特別難しかったもんね!」


「それにほら、リュカくんは怪我してたし……ペンもうまく持てなかったんでしょ?」


「怪我が治ったらこのくらいの試験は楽勝だよね、追試でがんばろう!」


 ここ最近、普通に話しかけてきてくれるようになったのだが、どうもリュカのことをみんな有能な特待生だと勘違いしているようなのだ。異例な時期の入学、すでに受肉済み、そしていきなり生徒会執行部に入れられた、と三つも条件がそろっていれば無理もない誤解だった。


「……いや、あの……ほんとにわかんなかったんだ」


 心苦しいが、妙な過大評価を背負い続ける方がもっとつらい。


「半分くらいは、問題そのものが、意味がわからなかったっていうか……」


 リュカを囲んでいる女子生徒たちの人垣の外側から、男の声が飛んでくる。


「だから言ってるだろ。そいつは売女の息子なんだよ」

「どぶねずみだ。文字だって読めるか怪しいもんだ」

「どうせ落第だろ。とっとと退学するのが身の丈ってもんだ」


 ちらと顔が見える。

 たしか、あのロベリット・フォンゾの取り巻きの、そのまた取り巻きみたいな生徒たちだ。リュカは首をすくめる。


「学期途中から入ってきたんだからわからないのもしょうがないよね」


 女子生徒たちがすぐに庇ってくれる。女子寮で生活しているからか、リュカはほとんど女子としての扱いを受けている節がある。


「でも役員の人たちに教えてもらえばすぐできるでしょ?」

「そうだよね、レイチェルさまに教えてもらえば!」

「あの人、全教科で満点しか取ったことないんだって!」

「学院始まって以来の天才だもんね……」


 憧れに目を輝かせる女子生徒たちを見てリュカはべつの恐れを感じていた。


(来週の小試験もだめだったら執行部のみんなに大恥をかかせてしまう……)


       * * *


「教えてもいいけれど」


 生徒会室でレイチェルに教えを請うてみると、彼女は眠たそうに言った。


「交換条件」


「えっと、なにを」


「リュカの身体をすみずみまで検査させて」


 レイチェルはそう言って両手をわきわき開閉させる。


「いいけど……それって、あの、研究のために、ってことだよね」


「もちろん。知的好奇心」


 一日も早く体内の悪魔を制御できるようになるため、どのみちレイチェルには色々と調べてもらわなくては、と思っていたのだ。ところが隣で聞いていたエメリンがいきり立つ。


「レイチェルさんっ、そんな、人の弱みにつけ込むような真似をしてリュカさんにいやらしいことをしようとするなんて、はしたないですっ」


「いやらしいことじゃない。学術の探究のためなら、リュカを全裸に剥いて寝台に縛りつけてありとあらゆる箇所に様々な刺激を与えたり様々な液体に浸けたり様々な液体を採取したりするのは当然の手段」


(え、そんなことされるの? 不安になってきた……)


「リュカさん、私がお教えしますからっ、私ならそういう卑怯な交換条件をつけたりしませんから」


「エメリンの入学以来の魔導諸学の平均点は九十二点弱。一方の私は百点。どちらに教わるべきかは明らか」


「ううっ」


 エメリンは悔しげに唇を噛む。


「それじゃあさっそく教える。今回の試験の範囲はどこ?」


 リュカは教科書を開いて指さす。レイチェルは目を細めて口を曲げた。


「こんな簡単なところで満点が取れないの? 理解できない」


「ぼくにはここの内容が理解できないんだってば……」


「基礎書式なんて憶えようとするから憶えられない。宇宙の泰樹と人体の要柱のつながりを意識して星の声を細胞のひとつひとつにまで受け入れれば自然と」


「ちょっと待って一体なんの話っ?」


「二分化公式も見て理解するんじゃなくて指からの血の巡りで感じるの。関数が霊的時空を縦横に構成する様を思い浮かべてそこに蒼月と白燐の妙なる調べを」


「いやもう完全に意味わからないんだけどっ?」


 レイチェルは実験動物の死骸でも眺めるような目つきになる。


「なぜわからないのかがわからない」


 遅まきながらリュカは自分の失敗に気づいた。

 学業成績が優秀だからといって、教え手としても優秀であるとは限らないのだ。

 むしろ、息を吸うように知識を身につけてきた天才は、凡人がどこで躓くのか、どこに苦労するのか、どういう思考過程で誤りに至るのか、がまったく想像できないため、教師としてはまったく不向きなのだ。


「……エメリンさん、教えていただけますか……」


 おそるおそる申し出る。


「はいっ! 喜んで!」


 エメリンはぱあっと顔を輝かせて、大机を迂回して駆け寄ってくる。


「リュカは私のなのに……」とレイチェルはむくれる。


「私はレイチェルさんとちがって凡才ですから、リュカさんがどこで悩んでいるのかもちゃんとわかりますし、優しく丁寧に教えますね」


「ものすごくありがたいです」


「それでは私の膝の上に座ってください」


 リュカの顎が落ちる。


「……それは、あの、どういう」


「基礎魔導学は基礎ですから、なによりも反復練習が大切です。基礎書式は正しく繰り返して書くことで身につきます。ペンを握る右手のみならず呪印を結ぶ左手も大切ですから、背後から両手を取って一緒に動かして見本にするのがいちばんです」


「……それなら、こう、椅子の後ろに立てばよくないですか」


 エメリンは哀しそうな顔をした。


「それだとずっと腰を曲げていなければならないですし間に背もたれがあって腕をいっぱいに伸ばさないといけないですし姿勢がつらいです……」


「あっ、そ、そうですね。ごめんなさい」


 椅子に腰掛けたエメリンの太腿の上にそうっと尻を乗せる段になって、男一人分の体重が乗っかるのはつらくないのだろうか、という当然の疑問が湧いてきたが、エメリンが後ろから腕を巻きつけてきたのであれこれ考えるひまもなく腰を落としてしまう。

 柔らかい感触が尻と背中に押しつけられる。


「あ、あの、お、重くないですか……?」


「平気です。リュカさんは仔鹿のようです。それにリュカさんのうなじは春の野原の花のにおいがします」


 なぜぎゅうぎゅうと抱きしめてきて首の後ろに鼻面を押し当ててくるのかわからない。基礎魔導学を教えてくれるのではなかったのか。


「エメリンさん、くすぐったい……」


「はい。このくすぐったさに耐えて基礎書式の書き取りをすると効率的に身につくんです」


「なんかさっきと言ってることちがいませんか……?」


 手を取って動かして見本にするとか言っていなかっただろうか。さっきからずっとエメリンの両腕はリュカの胴体にしっかり巻きついたままだ。息苦しさと気恥ずかしさで耳がかっかと熱くなってくる。


「見本は、私のぬくもりで伝わるはずです」


(もうなに言ってるのかわからない……)


 しかしレイチェルが間近に寄ってきて「エメリンの優しくて丁寧な教え方とやらをじっくり見せてもらう」などと言ってリュカの手元を見つめてくるものだから、背後からきつく抱きしめられて腕が動かしにくい状態でもなんとか書き取り練習を進めるしかなかった。


「ああ、幸せですリュカさんにこんなに密着できるなんて」


「エメリンさん、書きづらいです、あと特になんの練習にもなってないような」


「魔導学より睦み合いの方が大切ですから」


「なんなんですかこれはっ?」


 そのとき、生徒会室の大扉が開く。

 入ってきたソニアはリュカたちの様子を見て目を丸くする。


「……なにをしているの、あなたたちは……」


 半開きの口から漏れたのはそんな言葉だ。


「あっ、ソニアさんっ?」


 エメリンはあわてふためいて椅子から立とうとするが、そんなことをすれば膝の上のリュカも無事では済まず、二人は横に投げ出されるような形で重なり合って椅子ごと床に倒れた。

 リュカを組み伏せるようなかっこうになったエメリンが必死に言い訳する。


「こ、これは、ちがうんです、ソニアさんがいつもお部屋でリュカさんとしているようなことがうらやましいからとかそういうわけでは決してなくて」


「そんなことしてないわよっ」


 ソニアは顔を赤らめて反論する。


「まったく、入ってきたのがわたしだったからいいようなものの、他の生徒たちにこんなところを見られたらどうするの?」


「見られたらその生徒にも同じことをさせて口封じすればいい」


「レイチェル! 冗談でもやめなさい!」


「冗談ではなく本気」


「じゃあもっとやめなさいッ」


 ソニアは大股で寄ってくると、ものすごい力でリュカからエメリンを引き剥がし、二人それぞれを椅子に座らせた。


「……それで、なにをしていたの?」


 怒りを抑えた口調で訊いてくるソニアに、リュカは正直に説明した。

 基礎魔導学の小試験がひどい結果だったこと。危機感をおぼえてレイチェルやエメリンに勉強を教えてもらおうとしたこと。

 聞き終えたソニアはため息をついて言った。


「むしろなぜ四点だけ取れたのか知りたいわ」


「ああ、それは……」


 リュカは右手の包帯をほどいて、変色した手に刻まれた呪紋をみせる。


「授業で習った書式の中に、この呪紋と同じやつがいくつかあったんだ。だから、それだけは見て書いて正解もらえた……」


「たしかに」とレイチェルはうなずく。「この術式はうちの学院で教えているものを基礎にしてる」


「それは、不正回答――ではないでしょうか」


 エメリンが言いにくそうに言うのでリュカは顔を伏せた。その通りだ。

 ソニアのため息はいっそう深くなる。


「つまり実質的には零点ってことね」


「うん……」


 リュカの声は消え入りそうだ。


「放置していたわたしの責任ね。最初からわたしに言いなさい。同室でしょう。夜の空いている時間にいくらでも教えるわよ」


「夜ですって!」とエメリンが反応する。「夜に二人っきりの閉めきった部屋で、私みたいに勉強を教えると称してリュカさんに触りまくるつもりですかっ」


「あなたと一緒にしないでっ」


「勉強と称して触りまくってるだけだったんですね……」とリュカはあきれる。


「あっ、い、いえ、今のは、そのっ」


 語るに落ちてあわてふためくエメリンを椅子からどかしたソニアは自分がリュカの隣に座り、教科書とまっさらな紙とを並べて置き、ペンを握る。


「基礎書式も魔導関数も、古エルド語から発展したものだから、わたしたちが普段から使っている言葉と根っこは同じなのよ。それさえ把握していれば難しくないわ。時制もひとつ増えただけ、活用も進展形と連達形が交合していると解釈すれば憶えるのは楽だし、単語の性に至っては男女の区別が現代語よりもはるかに論理的でわかりやすいから――」


 リュカは目を見張り、自分もペンをとった。

 ソニアの言うとおり、基本をおさえると非常にわかりやすかった。すらすら書ける。今まで自分が苦悩していたのはなんだったのかと愕然とするほどだ。


「……それで古エルド語も勉強しなきゃいけなかったんだ……」


「そうよ。学問はみんなつながってるの」


 そう言ってソニアは別の教科書も何冊か取り出し、聖文法や古エルド語についてもかいつまんで教えてくれた。


「……すっごくありがとう。……なんか、なんとかなりそうな気がしてきた」


「もっと早く、基礎的なところだけわたしがつきっきりで教えておけばよかったわね」


 少々ばつが悪そうにソニアは言った。


「ソニアさんに完敗です……まさか真剣に教えるなんて……」


「リュカは私のなのに……」


 残る二人は恨めしそうにつぶやいている。


「でも、どうして急に勉強しようなんて気になったの。前は、どうせ自分はできないから、みたいな態度だったじゃない。小試験なら落第の心配はまだないわよ?」


 ソニアが顔をのぞき込んで訊いてくる。リュカは気恥ずかしくなって目を伏せた。口の中で言葉を転がしながら、右手の包帯のずれを直す。


「……いや……その、色々勉強して、自分の悪魔のこと、早く知りたいなって」


 ソニアの力になるために一日も早く魔導師マグスになりたい――とは、さすがにおこがましくて口にできなかった。


「ふうん」とソニアは素っ気なく言う。「悪くない心がけね。たしかに今のリュカは、勉強するくらいしかできることがないわ」


 レイチェルもうなずく。


「早くもう一度占水をしてちゃんと魔力測定したいけれど、聖漿の入荷がだいぶ先」


「ちょうどいいわ、エメリン、今日から名前の絞り込みに入るでしょう。リュカにも作業過程を見せてあげて」


「あっ、そうですね! きっと参考になります」


 リュカは目をしばたたく。


「……名前の絞り込み……? って」


「それは――レイチェルさんが専門ですから、そちらから説明してもらった方が」


 レイチェルはうなずき、自分の執務机に行って、一抱えほどもある分厚い本をとって戻ってきた。書名は上古エルド語で書かれていて、不勉強なリュカには読めない。


「生徒会アルカナ執行部の職務は、受肉させて終わり、じゃない」


 レイチェルは冷然とした口調で言う。


「受肉した生徒が悪魔を制御するすべを身につけ、魔導師マグスとなるための補佐をするのが生徒会の役目。中でも最重要なのが、悪魔の名前を知ること」


「うん。それは前にも聞いた気がする……。でも、どうやって調べるの」


「存在しうるすべての悪魔の名前は、もう判明している」


「え……そ、そうなの?」


 リュカは驚き、本の表紙とレイチェルの顔とを見比べる。


「あ、じゃあ、つまりその図鑑? に全部載ってて、そこから調べるわけ?」


「そんなわけない」とレイチェルは肩をすくめる。「悪魔の総数は一億三千四十五万五千九百二十七体。全部載せるなんてどれだけのページが必要だと思ってるの」


 そんなにたくさんいるのか、とリュカは気が遠くなる。地上に生きる全人類と同じくらいの数ではないだろうか。


「これは算出法を解説した本。悪魔の個体数とその名前は厳密な数学的法則に基づいているの。たとえば、第八層に君臨する《深淵の七帝》の頭文字はすべてאアレフ。第七層に鎮座する《忘却の五十六王》の頭文字はすべてשシン。悪魔の位置する階層と方角と座標から秘数計算で名前の構成文字すべてが導き出せる」


 数学……。

 リュカは青ざめた。


「そういえばリュカ、算術の授業も受けているでしょう? そちらの成績はどうなの」


 ソニアが無慈悲に訊いてくる。

 はぐらかしてもしょうがないのでリュカは正直に申告した。


「ビュルイッグ先生に『自分の指の数を数えるところからやり直せ』って言われた……」


「心配しないでくださいリュカさんっ」


 ここぞとばかりにエメリンが再び飛びついてきてリュカの両手を握る。


「私が優しく手取り足取りお教えします、こう見えても魔導数理学は大得意です!」


 負けじとレイチェルも割り込んでくる。


「私の方が得意。満点しか取ったことがない。交換条件も安くしておく。血液を瓶五本分ほど採取させてくれるだけでいいから」


「二人ともいいかげんにしなさい!」


 ソニアが一喝する。


「算術もわたしが教えるから!」


 しばらく三人で寄ってたかって競うようにリュカに勉強を教え込んでいたせいで、気づけば夕刻の礼拝堂の鐘が遠く響いていた。


「……はっ。こんなことをしている場合じゃなかったわ!」


 我に返ったソニアが、大机いっぱいに広げられた教科書を残らず閉じて重ね、リュカの腕に押しつける。


「生徒会室は勉強をする場所じゃないのよ、今日は特に庶務の仕事はないから、部屋に戻ってひとりでやりなさい!」


「あ、う、うん」


 リュカはソニアの剣幕におびえて立ち上がる。


「みんなありがとう。なんとかがんばるよ」


 リュカが出ていった後で、エメリンとレイチェルが文句を言ってくるかと思いきや、二人ともなにかあると察してくれたらしく、机の上を片づけて席に着いていた。ソニアは安堵して自分も腰を下ろす。


「……リュカさんに、聞かせたくないお話ですか」


 エメリンが小声で訊いてくる。


 ソニアは、昨日フェリオが別れ際に言ったことを二人にも話した。

 王位継承上位者が命を狙われているということ。

 姉ユリアの密儀アルカナで起きた事故も、エメリンの密儀アルカナで起きた同じような事故も、作為的なものだった可能性があること。


「レイチェルさんも言っていましたね」とエメリンは隣を見て言う。


「そうだとしたら、わたしのせいでエメリンを危険にさらしたことになるわ……」


「そんなのはいいんです。悪いのは相手です、ソニアさんじゃありません」


 そこでレイチェルが無表情につぶやいた。


「どちらも同じ目的での暗殺行為だったとして、どうしてソニアの密儀アルカナのときには仕掛けてこなかったのか、気になる」


 ソニアは組んだ両手を鼻の下に押しつけて思案する。


「たしかに……そうね。わたしを殺そうとするなら、やはりわたし自身の密儀アルカナのときがいちばん公算が大きかったはずなのに」


「ソニアさんは自分ひとりで計画して、かなりぎりぎりまで私にさえ教えてくれませんでしたよね」


 少し恨みがましい口調でエメリンが言った。


「あれは……だって、第七層を喚び出そうなんて計画を事前に話したら、みんな反対したでしょう」


「そうかもしれませんけれど、でも相談もしてくれなくて、さみしかったですよ」


「私も全然気づけなかった」とレイチェルは唇を尖らせる。「真冬だったから血液もこっそり自分で採取して保管してて。あんなにまでして秘密にしてたのはひどい」


「悪かったわよ。……でも、そうね、計画をぎりぎりまで伏せていたから敵も暗殺計画を立てられなかった――のかしら」


「それだと私が暗殺者ということになる」とレイチェル。


「そっ、そんなことは言ってないわよ! だいたいレイチェルはお姉様の密儀アルカナのときは入学してもいなかったでしょ!」


「レイチェルさんの冗談はさておいて」


 エメリンは笑ってなだめに入り、それからすぐに表情を暗くした。


「学院内に敵の手の者がいる、ということに……なりますよね」


 その指摘に、ソニアは沈痛な表情になる。


「そう考えた方がいいでしょうね」


 共に学校生活を送ってきた生徒や教員や事務員の中に、笑顔で隠蔽した害意の持ち主が潜んでいる。不愉快な想像だった。


「リュカを部屋に帰したのはそういうこと?」とレイチェルが素っ気なく訊いてくる。


「ええ。一応……ね」


「リュカさんまで疑わなければいけないのは気が滅入りますね。でも、不明なところが多い方ですからしかたありません」


 エメリンは情に厚いが、情に流される人間ではない。必要なところでは現実的になれる。


「お兄様の話では、リュカはお母様が防疫局に横槍を入れて学院に引っぱってきたそうなの。だから敵だとは考えにくいのだけれど……正体がよくわからないことに変わりはないわ。気をつけるに越したことはない」


「王妃殿下が? リュカさんと――どういう関係があるのですか」


 エメリンはしばらく考え込んだ後ではっとした顔になる。


「まさかリュカさんは――ああっ、いえっ、こんな考えは王家の方々への不敬になってしまいますっ、でもでもこれが正しければソニアさんとリュカさんは血がつながっていることになりますから私にとっては好都合――」


「なにを考えているの。なにが好都合なのよ」


 エメリンも自分と同じ想像に至ったことに安心半分、あきれ半分だった。

 そこでレイチェルがぼそりと言う。


「……リュカの母親はこの学院の卒業生かもしれない」


 ソニアとエメリンの目がレイチェルの顔に集まる。

 彼女は素描画を綴じた冊子を引っぱり寄せてめくり、一枚を広げて見せた。

 リュカの右腕に刻まれた文字を克明に写し取ったものだ。


「あの右腕の保護術式は、さっきも言っていたけれど、この学院で教えている書式を基礎にしている。リュカの母親が卒業生だとすると色々な辻褄が合う」


「そうか。お母様もここの卒業生だから――」


 リュカと王妃をつなぐ線が生まれる。

 王妃が在学中に、リュカの母親と知り合っていた、という仮説だ。


「レイチェル、過去の在学生について調べてみて。お母様の在学期間中を中心に。リュカの母親の名前はミゼル、と防疫局の資料には書いてあったけれど、これは偽名の可能性もあるわね。でも手がかりはあるはず」


 レイチェルはうなずいて立ち上がった。

 生徒会室を出ていく小さな制服姿の背を見送りながら、ソニアはふと言い知れぬ不安をおぼえた。


(なぜお母様はわたしやお兄様にさえなにも話してくれないのか)


(なぜリュカの母親は、あれほどの術式を組める技術を持ちながら公職に就かなかったのか)


(なぜリュカの受肉部分には保護術式が施されているのか……)


 知ってはいけないものが、この学院の裏の闇に沈んでいる――。そんな気がした。


       * * *


 新月祷の日がやってきた。

 聞き慣れないその行事の名前を、リュカは前の日に知らされた。


「わたしたちの体内には悪魔が寄生しているわけでしょう」


 ソニアは自分の右手を指さして説明してくれた。


「これは人間部分へ侵蝕しようと絶えず圧力をかけている。そして悪魔の力は月齢によって増減し、新月の夜に最大になる。その日は、わたしたち受肉生はもう痛みと熱と苦しさで一日中動けなくなるわ。薬湯に受肉部分を浸したり、香を焚いたり、お祈りしたり、あれこれ手を尽くしてなんとか新月の夜をやり過ごすの」


 はじめて聞いたのでリュカは驚く。


「え、じゃあ、月に一回魔導師マグスが全員寝込んじゃうわけ? そのときに悪魔が出たらどうするの」


「子供だけよ。密儀アルカナのときに聞いたでしょう? 悪魔が欲しがるのは若い肉体なの。成長すれば侵蝕圧は落ち着いて、均衡状態で安定するわ」


「ああ、うん、それならよかった」


「なにがよかったのよ。さっきから他人事みたいに聞いてるけれど、あなたも一日中のたうち回って苦しむのよ? 覚悟しておきなさい」


 実際に新月の日の朝になってみると、ソニアは部屋の向こう側の寝台で毛布にくるまって荒い息をつきながら何度も寝返りを打っていた。

 リュカはおそるおそる近寄る。


「……大丈夫?」


「……今はまだ、朝だから。頭痛と腹痛だけ」


 ソニアは青白い顔で言う。唇もほとんど色を失っている。朝でこれほどなら、夜にはどれほどひどい状態になるのか、とリュカはおののく。


「……リュカは? なんともないの?」


「うん……」


 自分の身体を見下ろす。とくに痛みもないし気分も悪くない。


「おかしいわね……あなたも受肉しているのだから侵蝕圧を受けるはずなのに」


 じきに来訪者があった。


「おはようございます。替えの香油と薬湯、それから朝食をお持ちしました」


 医務官のシンシナだった。


「あら? リュカさん、起きてて平気なんですか。今日はずっと寝てていいんですよ」


「……あ、はい。……とくに具合は悪くないんです」


「不思議……ですね?」


 シンシナは手にした盆を机に置くと、リュカに近づいてきて、手の脈を測ったり、額に額を合わせて熱がないかを確かめたりした。


「平常ですね……。リュカさんは特別に魔力が強いから侵蝕圧にも耐えられるのかしら」


「魔力が強いなら侵蝕圧も強くなるはずよ」


 伏せたままのソニアが切れ切れの声で指摘した。


「ああ、そういえば……そうですよね。いつもソニアさんがいちばんひどいですし」


 香炉と湯桶の中身を交換したシンシナは部屋を出ていった。


「ちょっとエメリンさんの様子も見てくる」


 リュカはそう言って廊下に出た。ソニアがなにか言った気がするが、荒い吐息に圧し潰されてよく聞こえなかった。

 エメリンの部屋は同じ第一女子寮の二階、リュカとソニアの部屋のちょうど真下にあった。扉を敲くと、レイチェルが顔を出す。二人は同室生である。

 レイチェルもまたリュカを見てわずかに目を見開く。


「……出歩けるの? 寝てなくていいの」


「うん……。今のところなんともない」


 エメリンは寝台の上で芋虫のようになっていた。


「リュカさんっ? えっ、リュカさんがどうして、だっ、だめです、こんな髪もぼさぼさで顔色悪くて汗まみれのところを」


 あわてふためいたエメリンは寝台から転げ落ちそうになる。リュカはびっくりして駆け寄り、すんでのところで支えた。腕の中のエメリンの身体は湯上がりのように熱い。


「ああああああ、だめですリュカさん、こういうことはお互いにもっと体調が万全なときに、というかリュカさん平気なんですかっ? 寝てないとだめですよ」


 この先何度も同じことを訊かれて同じことを答えなきゃいけないのか、それなら体調はべつに悪くなくとも部屋に閉じこもっていた方がいいのだろうか……とリュカは思った。


       * * *


 太く低い鳴き声がいくつも空全体に響き渡ったのは、日没の迫る夕刻だった。

 寮じゅうがざわめき立った。リュカは部屋でレイチェルに勉強を見てもらっていたが、すぐに二人とも中断して廊下に出た。

 他の生徒たちもみな廊下に顔を出している。鳴き声の応酬はいや増している。

 この国で暮らすだれもがよく知っている、不吉な声。

 悪魔の襲来を告げる警報だ。

 梟が吼えたら、飛んでいくのと同じ方角へと逃げろ――とは、どんな幼い子供でも教わることだ。けれどここは王立魔導学院、学び舎であると同時に、魔導師マグスの基地でもある。梟たちの合唱は逃走ではなく出撃の合図だ。


 正門前広場にはすでに十数頭の馬が用意され、学院の教員兼魔導師マグスがおそらく全員集まっていた。冷たさを増す夕風に黒の法衣の裾がはためく。

 昏い曇天を見上げた女性魔導師マグスの一人が硬い声で言った。


「――第三層が少なくとも六体、総員の出動が必要と考えられます!」


 高みでは、雲を背にしていくつもの翼影が大きな円を描いて飛んでいる。その鳴き声と飛び方には出現した悪魔に関する情報が大量に含まれているという。

 報告を受けた軍務長マッグラドは険しい顔でうなずいた。この王立魔導学院第一校に配備された魔導師マグスたちの、戦闘面における指揮官である。しかし、最終的な判断権はあくまで学院長にある。マッグラドは背後に立つグリシラに目を向けた。


「新月祷の最中に学院を空けるのは不安です。何人か残しますか」


 マッグラドが訊ねるとグリシラは首を振った。


「いえ。民の安全を優先します。総員出てください」


「新月の夜は悪魔がきわめて活発になります。学院付近に現れることも考えられますが」


「私がなんとかします。今ある危機に全力で対処してください」


 マッグラドは深々と頭を下げ、それから魔導師マグス全員に騎乗命令を出した。

 二列縦隊をつくった騎馬がすべて門を出ていってしまうのを見送ると、グリシラは広場に出てきていた一般教職員や生徒たちに、校舎内に戻るようにと指示した。

 その様子を広場の隅から見ていたリュカは、ふと疑問に思い、隣のレイチェルに訊ねる。


「学院長って魔導師マグスなの?」


 レイチェルは首を振る。


「魔力は一切持っていない」


「……魔導師マグスを育成する学校の、一番偉い人なのに?」


 素朴な疑問をリュカは思わず漏らしてしまう。

 レイチェルはなんでもなさそうにうなずき、それから小声で付け加える。


「でもこの学院で最強の人間だと思う」


 聞き間違いかと思ったリュカがさらになにか訊こうとしたとき、冷ややかな声がした。


「私はただのいち教職員です。それよりもリュカ、あなたは出歩いて大丈夫なのですか。もう夕方ですよ」


 グリシラが歩み寄ってくるところだった。どうやら会話を聞かれていたようだ。レイチェルはばつが悪そうに制服の襟を立てて首をすくめる。


「……体調は、全然なにも変わりないんです」とリュカは言った。「みんなに不思議がられるんですけど……」


「私の知っている限りでは他にいません」


 さして意外でもなさそうにグリシラは言った。包帯の巻かれたリュカの右手をじっと見つめて続ける。


「術式のせいで新月でも悪魔が抑えられている――ということでしょうか」


 レイチェルが首を振った。


「これは封鎖ではなく保護術式。外から中を保護するもの。中のものを抑える効果はない」


「そうなのですか。……だとするとますます不可解ですね」


 グリシラはレイチェルからリュカに目を戻す。


「あなたは様々な点で特殊な生徒ですから今さらこのくらいでは驚きませんが、いま平気だからといってこの後で痛みや発熱が来ないとは限りません。部屋にいなさい」


「あ……は、はい、そうですね……」


       * * *


 夜がやってきても、リュカの身体にはいっこうに変調が訪れなかった。

 同じ部屋にいるソニアは、もはやほとんど意識がなく、寝台の上でしじゅう痙攣し、歯を軋らせ、時折激しく咳き込んだ。日没以降、医務官の女性ひとりがつきっきりだったが、薬湯を取り替えたり背中をさすったりする他にできることはないらしく、あとは寝台のそばに座って見守るばかりだった。


 なんの症状もない自分が申し訳なくなってくる。


 レイチェルはしょっちゅう部屋にやってきて、リュカの体温を測ったり舌をつかんで引っぱったり下まぶたをめくって血管の様子をたしかめたり耳によくわからない管を差し込もうとしたりと検査目的であれこれいじくってきた。

 眠ってしまえばよかったのだろうが、神経がひどく昂ぶっていて、眠気はまったくやってこなかった。


 梟の太い声が再び響いたのは夜半過ぎのことだった。


 まんじりともしていなかったリュカはすぐに寝台を飛び降りて扉に走った。


(出動した魔導師マグスたちがまだ戻ってきていない)


(今さらに悪魔が襲ってきたら――)


 寮を出ると、真っ暗な林の向こうにぼんやりと赤い光が見えた。


(まさか……敷地内?)


 光源は寮にほど近い耕作地の一角だった。畑の一面が赤黒く燃えるぬかるみに沈んでいた。周囲には事務局員たちが集まっており、学院長グリシラの軍服姿もあった。


「屋内に避難していなさい!」リュカを見たグリシラが厳しい声を飛ばす。「じきに開門します、危険です」


「でも魔導師マグスがいないのに」とリュカは食い下がる。


 今この学院で動ける魔力持ちは自分だけなのだ。


「リュカ、あなたは制御できていないのだから却って危険です、退がりなさい」


 グリシラがきっぱりと言った。リュカがさらになにか言い返そうとしたとき――

 赤い海面が弾けた。

 灼けた土を撒き散らし、光の表面を突き破って大きな影が這い出てくる。

 悪意と殺意だけを吸って何万倍にも膨れ上がった蛭のような、醜くおぞましい異形。背にある幾筋もの襞が蠢き、粘液をしたたらせる。


「第三層です!」


 事務官の一人が悲痛な声をあげる。


「もう二体、浮上を確認!」


 べつの一人の声が続く。揺らめく光の海面の下に黒い影が二つあり、油染みのようにどんどん大きくなっている。


「女子生徒を寮から全員避難させなさい!」


 グリシラの指示に教員の何人かが寮の方へと駆け出す。それに呼応するかのように、最初に頭をのぞかせた悪魔の一体が炎の飛沫を散らして跳び上がった。

 巨体の重量すべてをのせた前脚の一振りがグリシラを頭から圧し潰して土に埋まった肉塊に変えた。少なくともリュカには一瞬そう見えた。けれど現実には、振り下ろされた前脚は関節から引きちぎられて血と湯気を夜空に噴き上げながら弾け飛んでいた。

 グリシラはその場に顔色ひとつ変えず立ち、悪魔の返り血を浴びている。

 手に握られているのは――


(……鞭?)


 柄から伸び、宙を自在に蛇行する二筋の革帯は、鞭と呼ぶのがおそらく最も近いのだろうが、縫い付けられて隙間なく並べられた鋸刃が悪魔の四肢に巻きつき皮膚を引き裂き肉に食い込み骨をねじり折る様は、より凶悪な生き物の舌のようにさえ見える。

 一振りごとに甲高い風鳴りが響き、闇の中で悪魔の肉片が削ぎ落とされて飛び散る。グリシラ自身が鞭の一部であるかのように、その細身は宙を舞い、憤怒に燃える悪魔の爪や牙や唾液をすべて葉一枚ほどの差で避けては返す一撃を繰り出している。リュカはその信じがたい光景を目の当たりにしながらレイチェルの言葉を思い出していた。


 この学院で最強の人間だ、と。


 魔導師マグスは部分的にとはいえ悪魔、もはや人外だ。人間に限界がある以上、人ならざる力をもって悪魔と戦うしかない。

 しかし、その人間の限界とは一体どこなのか――

 だれに知り得るだろうか。


 答えの一端が今、リュカの眼前にあった。人の手になる武器と人の子として与えられた膂力と人の生をかけて鍛えた技とで穢れた血肉を少しずつ削り取り、人の力のみで悪魔を屠ろうとしている、人間。


(これは……たしかに、人間として最強だ)


(学院どころか王国全土でも、これほどの――)


 けれど、限界だった。グリシラはここに一人しかおらず、その腕は二本しかない。


「学院長ッ、二体実体化しますッ」


 法務官が叫んだ。彼らは血の海の閉門術式のためにここに残っているのであり、戦闘能力はない。最初の一体の首をねじ切って落としたグリシラがもう一体に鞭を入れて注意を引くが、残る一体はぬかるみから抜け出すと若い肉体のにおいを嗅ぎ当てて寮の方へと這い進み始めた。止める者はいない――リュカの他には。


「逃げなさいリュカっ」


 グリシラの声が悪魔の分厚い肉壁の向こうから聞こえてくる。


(みんながまだ避難してない)


(ここで止めなきゃ寮に――)


 リュカは悪魔の前に立ちはだかり、瘤だらけの醜い頭部に並ぶ五つの眼を見上げた。のっぺりとした石柱のような顎部が真横に裂けて大きく開き、口中に隙間なくびっしりと生えた牙が見える。


(ぼくはまだ体内の悪魔を制御できない)


(できないなら――)


 リュカは苦い唾を飲み込み、息を詰め、右手を持ち上げて土を蹴った。

 悪魔の口の中に右手を突き込んだ瞬間、上下の顎が閉じた。痛みよりも先に熱と閃光が目を灼いた。

 牙の隙間から黒煙が漏れ出て、噛み合わされた両顎がだらりと半開きになる。右手をくるんでいた包帯が制服の袖ごと燃えてぼろぼろになり、あらわになった黒い皮膚の表面で呪紋が青白く発光しているのが見えた。保護術式が作動したのだ。

 けれど第三層の悪魔にとっては栗が爆ぜた程度の衝撃だ。わずかな隙をつくっただけに過ぎない。リュカは悪魔の下顎に足をかけ、上顎に肩を押し当てて口を強引に開かせた。腐った血のにおいのする瘴気が肌を焦がす。


 そのまま口腔へと身体をねじ込んだ。


(制御できないなら――おまえの身体を檻として使ってやる)


(一匹も漏らさずおまえの体内で吐き出してやる!)


 首筋に、背中に、二の腕に、牙が食い込んで服を引き裂き肌を穿ち激痛が襲ってくる。リュカは唇を噛みしめ、記憶の底にあるそれに手を伸ばし、意識の水面へと引きずり出す。

 あの夜の光景。街を焼き、夜空に舞っていた数万の火の羽虫。


(もう一度踊り狂え)


 すさまじい顎の力がリュカの身体を圧し潰し、骨を砕き、血みどろの肉片に変えようとしたそのとき――


(この餌を喰らい尽くせ!)


 不意に、全身をぞっとするほど熱い虚無が包み込んだ。

 天地が揺れる。全身に押しつけられていた悪魔の口内粘膜がずぶずぶと溶けて穴だらけになっていくのがわかる。いつの間にか閉じていた目を開くと炎の色が視界に踊る。


 羽音がリュカを取り囲んでいる。


       * * *


 駆けつけたグリシラや法務官、事務官たちも、寮から出てきたレイチェルら女子生徒たちも、皆その光景を目の当たりにした。

 横様に倒れた悪魔の巨体が、内側から蝕まれて食い破られ、煙と炎とを爛れた体表の穴という穴から噴き出させ、骨格だけを残して溶解していく。無数の踊る光の粒――火を孕んだ羽虫の影が解き放たれては霧散する。


 やがて、炭化した骨が軋みながら崩れ始める。


 焼け落ちた悪魔の骸の中にうずくまっているリュカを、レイチェルが最初に見つけ、駆け寄る。その後から医務官のシンシナが助手たちを連れて走ってくる。


 リュカは全身ぬらぬらとした悪魔の体液にまみれ、制服は無残に引き裂かれ、噛み砕かれた右の二の腕と両脚とは奇妙な方向にねじ曲がり、骨のみえる裂傷から血をとめどなくあふれさせていた。


 それでも、生きている。


 自分の名前を呼ぶだれかの声を遠く聞きながら、リュカはほとんどまぶたの開かないぼやけた目で夜空を見上げた。


 中天で一筋の新月が薄笑いを浮かべていた。

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