4 浴場での魔力測定
自分は母親に避けられていたのだとリュカは思う。
物心ついてから、母親に抱き上げられたり撫でられたりした記憶がほとんどない。
母親について憶えていることといえば、まず部屋で客をとっているときの、気のなさそうな嬌声。リュカは隣の物置で毛布にくるまって、情事が終わるのを待つのが常だった。
それから、怒っているところと、泣いているところ。
よく泣きながら謝っている人だった。
リュカが客をとっていると知ったときも、激怒し、それから泣き崩れ、そんなことをさせてごめんなさい、と何度も何度も言われた。
謝ってほしいわけではなかったのに。
ただ、二人でまともな食事ができる日が少しでも増えればいいと思っただけだったのに。
あの夜も母親はリュカに謝っていた。
黒く変色した右手に包帯を巻きながら――
(……これは)
――リュカ、ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい、と――
(……これは、あの夜の記憶?)
――謝り続けていた。
(……街を焼かれ、ぼくが悪魔に喰われた夜の……)
どうしてあんなに謝っていたのだろう。
売り飛ばすことに罪悪感をおぼえていたのだろうか?
それなら――
* * *
リュカが目を醒ますと、目の前に女の寝顔があった。柔らかい栗毛が鼻をくすぐる。心地よいぬくもりがリュカを包んでいる。
(……母さん?)
(……なんだ、いなくなったわけじゃなかったのか)
安心してまた目を閉じ、眠気に身を預けようとしたとき、女がもぞりと動き、まぶたを薄く開いた。
母親ではなかった。エメリンだ。
現実感が吐き気のようにこみ上げてきて、リュカは思わず毛布をはねのけて起き上がろうとした。ところがエメリンはリュカの肩に腕を回して抱きつくかっこうで寝ていたため、うまく身を起こせずエメリンの上に突っ伏してしまう。
「……ああっ、リュカさん! リュカさん、よかった、もう目を醒まさないのかと」
エメリンが腕を強く巻きつけて抱きしめてくる。そこでリュカはとんでもないことに気づいた。彼女も自分も、裸なのだ。怖くて毛布の中を目では確かめられないがおそらく触れ合っている感じからして上から下まで完全に。
「……あ、あ、あの、ど、どうして、服」
「え? ああ、これは、お互いかなりの失血でしたから体温低下していまして、こうするのが体温保持には最適ですから」
「い、いや、でもっ」
とにかく離れたかったが、そうすると自分が毛布から出るかエメリンを毛布から出すかで、どちらにせよいずれかの裸体が晒されることになり、リュカは進退窮まっていた。もぞもぞと身体を回転させてエメリンに背を向けるしかない。背中にふたつの柔らかいものがぴっちりと押し当てられていて、リュカは耳から湯気が出そうになる。
「――リュカっ? 起きたのっ?」
声と同時に扉の開く音がして、室内にばたばたと足音が駆け込んできた。
寝台で一枚の毛布にくるまってぴったりくっついているリュカとエメリンを目にして、ソニアは口を半開きにしてしばらく硬直した。その白い顔がさあと赤く染まっていく。
「――なにしてるの二人ともッ」
そこに後から駆け込んできたのは医務官のシンシナである。
「医務局で騒がないでくださいっ」
そこでようやくリュカは、自分が寝かされていたのが学院医務局の看護室だということに気づいた。殺風景な室内にはこの寝台だけではなく、他にあと七つ置いてある。してみるとエメリンはおそらく隣に寝かされていて、先に起きてリュカの方に潜り込んできたのだろう。
「エメリンっ、あなたね、リュカは仮にも男なんだからっ」
(仮にも、じゃなくて男なんだけど……)
「リュカさんと毎晩同じ部屋で寝ているソニアさんに言う資格はないと思います」
「わっ、わたしはちゃんと衝立をたててるからっ」
頭痛がやってきた。一体どうしてこうなったんだっけ。たしか、
思い出そうとしても、エメリンとソニアがまだなにか言い合っているせいで気が散ってしょうがなかった。
騒ぎのせいで、重大な事実の発覚が遅れた。
最初に気づいたのはソニアである。
「……リュカ、あなた……脚が」
言葉の続きを口にできず、目を見開いて固まっている。裸身に毛布を巻きつけたリュカの、左脚。
「……まあ」
服を着ている途中だったエメリンも、リュカの肩越しにのぞき込んで驚きの声を漏らす。
「……これ、一体どういう……だって、たしかに……」
シンシナも寄ってきてリュカの前に膝をつき、おそるおそる手を伸ばす。
左脚が、ある。膝から先も、完全な形で、傷ひとつなく。
リュカの頭は困惑でいっぱいになる。
たしかにあのとき、左脚は血の海に引きずり込まれて食いちぎられたはずだ。
「リュカさん、動かしてみてください」
足の裏を手で支えたシンシナが言う。
リュカは足の指を順番に曲げ伸ばしし、足首を回し、さらには膝を折りたたんで伸ばしてみた。動く。なんの違和感もない。
「……大丈夫、みたいです」
自分でもわけがわからないが、そう答える。
ふと見ると、寝台の足下には血まみれの布が大量に落ちている。
「そう、そうです、きのう私がたしかに、傷を縛って止血して、この布をかぶせて留め具でびっちり締めた――はずです」
シンシナが信じられないという顔で言う。
「膝のすぐ下から、欠損していました。たしかです。……完全に再生しています」
「……受肉した……のでしょうか。あのとき、他の悪魔も結界から出てくる気配がありましたから、それで……」
エメリンが震える声で言う。
「まさか」
ソニアがすぐに否定する。
「受肉したのならあの場で再生しているはずでしょう。だいいち、いったん受肉した者が別の悪魔と再度共生した例なんて聞いたことがないわ。二体の悪魔同士の拒絶反応で身体がばらばらになるはず」
「そっ、そう、そうですね……」
エメリンもリュカの目の前に回り込んできて素足をさする。
「……ああ、でも、とにかく、よかったです」
その目に涙が浮かんで瞳の色がぼやける。
「あのとき、私たちを助けようとして――あんな、リュカさんがあんなことに……私、ほんとうにもう、自分が赦せなくて、でも……」
言葉の続きは形にならず、代わりにエメリンはリュカの足の甲に頬を押し当てた。
* * *
寮の自室に戻ってきたときには、日がだいぶ高くなっていた。窓からくっきりした陽光が差し込み、部屋の真ん中に立てられた大きな衝立の片面を照らしている。
「……午前の授業、全部休んじゃった……ただでさえ遅れてるのに……」
「そんなこと言ってる場合じゃなかったでしょう。昨日も一晩中うなされてて全然休めていないはずだから、今からでももう少し寝なさい」
「あ、うん……」
そこでリュカはふと疑問に思って訊ねる。
「なんで一晩中うなされてたって知ってるの」
「……そっ、それは」
そういえば先ほども、リュカが目を醒ましたのを察してすぐに看護室に入ってきたのだった。ずっと医務局にいたのだろうか。
「エメリンを看てたのよ! 受肉後の経過を看るのも執行部の仕事だし、それでついでにあなたの様子も見てただけよっ!
「あ、ああ、うん、そうか……そうだよね……」
リュカはうなだれて自分の寝台に向かいかけた。その背中をソニアが呼び止める。
「まだ言っておくことがあるわ」
振り向くと、ソニアは思い詰めた顔をしている。
「……なに?」
「……わたしと、エメリンを助けたのよね。まずその点については、ありがとうを言わせて」
「う、うん……」
「でもリュカ、あなたあのとき一度あきらめたでしょう」
リュカは下唇を噛んで目を伏せた。
「わたしとエメリンが巻き添えになるから――という理由だけじゃなかった。まるであなたはあの中に行きたがってるみたいに見えた」
その通りだった。だからリュカはなにも答えられない。
「あなたは今でもこう思ってるんでしょう。自分の命だから勝手にさせろ、他人に口を出されることじゃない、って」
うなずくことも、首を振ることも、できない。
「わたしも勝手に助ける。何度でも。あなたが自分の生に誇りを持てるようになるまで、何度でも。あなたはもう生徒会執行部の一員なのだし、わたしの――」
ソニアは口ごもり、踵を返して部屋の扉に向かう。
「――夫候補、なのだし……」
扉が閉まり、リュカは部屋にひとりきりになる。
寝台にあがり、毛布をかぶって丸くなった。
まぶたの裏に、またあの血の海のあたたかい光が現れる。静かにうねり、波打ち、リュカを手招きするようにたゆたっている。
* * *
翌日、リュカははじめて農科の授業を受けた。
「当学院では、麦以外のすべての農作物を自給自足しています」
農科の教官はそう言って、両腕を誇らしげに広げてあたり一面の芋畑を示す。土のにおいのまっただ中に立つ、純白の法衣を着た痩身の中年男性
「……なんで魔導学院に入ってこんなことを……」
「下民に全部やらせりゃいいだろうに……」
リュカの近くにいた男子生徒たちが芋の苗を手にしてぼやいている。
それが聞こえたのかどうか、教官は声を張り上げた。
「いいですか諸君、当学院は有事の際に近隣住民の避難所となり、大規模瘴害の際には砦ともなります。大規模瘴害とは――最も新しい例でも諸君の生まれる前ですから知らんのも無理はないでしょうが、局地的に悪魔が大量出現して殺戮の限りを尽くすことがある。大人数が立てこもったときに備蓄食糧だけではとても足りません。だから諸君がその手で耕し、植え、育て、収穫するのです!」
生徒たちの間には白けた空気が漂う。
教官は咳払いして付け加えた。
「それになんといっても新鮮な野菜はとても美味です。そうでしょう?」
少し笑いが起きる。
たしかにこの学院の給食は美味しい。リュカはここに来るまで新鮮な野菜などほとんど食べたこともなかったのだ。ただで食べさせてもらっているのだから少しは貢献しなければ、という気になってくる。
作業始め、と教官が号令をかけ、リュカはかがみ込んだ。春の土のにおいがする。金属のこてで畝を整え、苗を埋め込んでいく。
今朝もソニアから、まだ大事を取って休んでいた方がいいと言われたが、身体は健康そのものだったし、眠くもないのに毛布に潜ってじっとしていると余計なことを考えてしまいそうで、こうして授業に出てきたのだった。
しかし、まさか農作業をやらされるとは思っていなかった。黙々と手を動かすだけなので、これもやはり余計な考え事をしてしまいそうだった。
おまけに、他の生徒たちからの注目がますますきつくなっていた。
「あいつ、
「なんで生徒会に入れたんだろ」
「なんかひどい事故が起きたって聞いたけど」
「エメリンさまが――」
「それであいつが」
「ほんとに?」
教室内での講義ではなく広い畑での実習なので、教師の目が届かず、ひそめた会話もそこかしこで交わされていて、リュカはますますいたたまれなくなった。
(やっぱりソニアの言うとおり寝てた方がよかったかも……)
縮こまり、なるべく芋に意識を集中させる。
畝づくりに苦戦していると、不意に声をかけられた。
「こての背中を使うとうまくいくよ」
びっくりして顔を上げると、男子生徒の一人がすぐそばまできて腰を折ってリュカの手元を見ていた。土の山を指さして言う。
「硬すぎるとうまく芽が出ないからな。ほら、こんなふうに」
その男子生徒はリュカの道具を借りて手早く畝を盛り上げ、芋の植え付けまでしてくれる。
「……あ、ありがとう……ございます」
「同じ初級生だろ。その馬鹿丁寧な言い方はやめろよ」
男子生徒は笑う。
「まあ、俺は進級試験に失敗しまくってるから三巡目なんだけどな……」
それでやけに手慣れているのか。しかし、なぜまた自分に話しかけてきたのだろう、とリュカは訝しむ。
彼だけではなかった。他にも男子生徒が一人、また一人、畑のあちら側からやってくる。
「おーい、俺も終わった。手伝うよ」
「さっさと終わらしちまおう」
自分の割り当て作業を終えてしまった男子生徒がみんなリュカのところに集まってきて、あっという間に植え付けが完了してしまった。
「……あ、あの、ありがとう、でも、どうして」
寄ってたかって手伝ってもらう理由に心当たりがない。
「ん? 俺ら全員、落第生なんだよ。芋は慣れてる」
「これのせいで初級で落第したやつを《芋》って呼ぶんだよ」
全員がげらげら笑った。
「慣れてるやつがさっさと終わらせた方がいいだろ」
「それより、なあ、話聞かせてくれよ!」
男子生徒たちは目を輝かせてリュカに寄ってくる。
「おまえ、あのロベリット・フォンゾをぼっこぼこにしたんだって?」
「え……う、ううん、いや、その」
公言していいことではない気がしたが、みんなの目を見るとどうやらとっくに噂は広まってしまっているようだった。
「……あれは、事故みたいなもので」
「それでもすげえよ!」
「フォンゾは第三層だぜ? 第三層っつったら一個大隊皆殺しにできるんだ」
リュカはぞっとする。そんな男を怒らせてしまったのか。いや、これまで見てきた悪魔や
「俺らはさ……」
最初に声をかけてきた生徒が、他の数人を見回す。
「なんとなく見てわかるだろ。全員、平民の生まれなんだよ」
「俺の親父なんてただの町役人なのに背伸びしちゃって息子をこんなとこ入れてな」
「なまじ初等校でちょっと資質があるなんて言われちゃったからな」
「うまいこと
自虐めいた苦笑が交わされる。
「現実はこれだけどな。初級からも上がれやしねえ」
「フォンゾ一派にも憂さ晴らしの道具みたいに扱われてさ……」
「でもリュカ、おまえはすげえよ!」
右から左から肩を強く叩かれる。
「もう受肉してるんだって?」
「何層なんだ?」
「フォンゾより強いんだろ、第四層なんて五年に一人も出ないっていうぜ」
「それにおまえ、入ってすぐに生徒会に選ばれたんだろ」
「なんで? 王女さまと知り合い? あっ、お、おまえひょっとして王家の隠し子とかじゃないだろうな?」
「だったら俺たちが気軽に口聞いていい相手じゃないな」
「血筋でもフォンゾの大負けじゃねえか」
「ち、ちがうよ」
リュカは必死に否定した。どうやら冗談だったらしく、まわりの男子生徒たちはそろって笑い転げた。
「でもほんとうらやましいよな、放課後あの三人とずっと一緒かあ……」
「……うらやましいの?」とリュカは訊ねる。今のところ、生徒会室ではひどい目に遭った記憶しかない。
「当たり前だろ!」
「今の執行部の三人は第一校の憧れだぞ?」
総攻撃で怒られる。
「ソニアさまはあの麗しさにして王国最強の
「エメリンさんは全校生徒完璧把握! 俺たちみたいな屑の一人一人まで名前と専科を憶えててくれる学院の聖母だ」
「レイチェル嬢は学院始まって以来の天才児! 入学して一ヶ月で受肉許可が下りるという空前絶後の最速記録の持ち主だ! でもソニアさまを超える
「やっぱり一推しはソニアさまだろ、あの誇り高すぎて正視できないお顔!」
「いやエメリンさんだって、俺とすれ違っても笑って挨拶してくれるんだぜ? おまけにあの人、胸が大きすぎて制服を特注してるって聞いたぜ!」
「レイチェル嬢できまりだよ、仔猫みたいだよな! 膝の上にのせて、あの研究以外なにも興味なさそうな冷たい目でにらまれたい!」
好みの発露大会になってしまったので、リュカは苦笑して見守るしかなかった。
* * *
ロベリット・フォンゾは耕作地の外周を走り込んでいた。
すでに
芋畑の傍らを通過するとき、ふと自分の名前が遠くから聞こえてきた。
「フォンゾ一派にも憂さ晴らしの――」
「フォンゾより強いんだろ――」
「血筋でもフォンゾの――」
足を止め、肩で息をしながら、声のした方をにらんだ。
整地された畑の一角に、作業着姿の男子生徒たち何人かが寄り集まってしゃがみ込み、なにやら談笑しているのが見えた。そのうちの一人は――
(リュカ……)
ロベリットは歯噛みする。
よく見れば他の面々も、平民出身の落第生ばかりだった。よく『指導』と称して面倒な採集課題を押しつけたり肥溜めの点検などの汚れ仕事を集中的にやらせたりしていたので、顔をなんとなく憶えていたのだ。
(屑どうしでつるんで、俺の悪口を言っているのか)
(今ここで悪魔が湧きでもすれば、駆除の巻き添えを装ってあの屑どもを残らずひねり潰してやるんだが)
ロベリットは左手にぐっと力を込めるが、そこであの場面がまざまざと脳裏に浮かぶ。リュカが入学した日のこと。挑発し、先に魔力を出させ、叩きのめしてやろうとして、逆に危うく焼き殺されかけた。
あの屈辱は、忘れられない。
(それだけじゃない、一昨日の
怒りを腹の奥にぐっと押し込め、ロベリットは走り込みを再開する。
人目を避けるように木立の合間を縫って走っていると、行く手の遊歩道に、教室移動中らしき女子生徒の一団の背中が見えてくる。
「――で、エメリンさまがほんとうに危なかったんですって」
「でもソニアさまも、他の
「ソニアさまは授肉の介添人だったからそれで精魂使い果たしちゃって」
「他の
「えええ、ロベリットさまも?」
「うん。あの人も情けない声あげて逃げ回ってたって」
「なんだか幻滅」
「普段あんなに偉ぶってるのに?」
「いくら第三層っていっても実戦配備されたら怖がって逃げちゃうんじゃないの」
ひそめた笑い声。ロベリットは奥歯を軋らせた。
「……でもそれでどうやってみんな助かったの」
「ほら、あの、リュカって子が」
「あの子なんなの? ソニアさまと同室だよね」
「男の子だってほんとなの?」
「あんなに可愛いのに?」
「ね、ね、今度話しかけてみようよ、寮にいるんでしょ」
少女たちの黄色い声が遠ざかっていく。
ロベリットの視界は憤激で赤く染まりかけていた。
ふと、耕作地と植林地の境目にある横長の木造鶏舎が目についた。鶏たちのやかましい声が壁越しに聞こえ、むっとする糞のにおいが漂ってくる。
鶏舎に踏み込むと、中にはだれもいなかった。中央の通路の左右に柵が立てられ、その向こうで何百羽という雌鶏たちが歩き回り、地面の餌のかけらをついばんでいる。
「……やれ、ビュレッスス」
呼んだ瞬間、いちばん近くの足下にいた一羽がいきなりぐしゃりと潰れ、みるみるうちに血まみれの肉塊に変わった。肉と骨をもろともに握り潰す感触を、ロベリットは悪魔の見えざる手を通じて楽しんだ。
哀れな雌鶏をさらに三羽、怒りを紛らわすためだけに殺した後で、ロベリットは早足で鶏舎を出た。潰している瞬間は少し胸がすいたが、済んでしまうとさして気分が晴れていないのに気づいた。
(あいつをこうしてやれたらな……)
どす黒い思いを抱えながら第一男子寮に戻ったロベリットを、待ち構えていた人物があった。紺色の法衣を着た初老男性。教務長のモルガングだった。この学院にいる
「ああ、フォンゾ君。身体作りの走り込みに行っておったのか。感心だな」
モルガングはそう言って近づいてくる。
「なにかご用ですか、先生」
「君はたしか午前の授業はなかったはずだな。今すぐ一緒に私の部屋に来てくれ。非常に重要な客人が来ている」
ロベリットは訝しげに眉をひそめた。
* * *
「――私がだれの代理人なのかは、私のためにも、君のためにも、はっきりさせない方がいいだろうな」
教務長室で待っていたその男は、ロベリットの顔をちらと見て横柄そうに言った。
「しかし、従うしかない、という点だけはすぐにでも理解してもらいたい。だからこれを見せておく」
男は懐中から一振りの短剣を取り出し、机に置いてロベリットの方に押しやった。
柄に美しい彫刻の施された装飾剣だ。白く塗られて黄金で縁取りのされた鞘のちょうど真ん中あたりに、紋章が刻まれている。
ロベリットは目を見開いた。
双頭の紅竜。
王家の紋章だ。ロベリットは侯爵家の生まれであり、宮廷にまつわる様々な事物に幼い頃から親しんできた。だから一目で確信できる。本物である。
紋章入りの短剣を下賜されている――ということは、この人物は王位継承権を持つだれかの全権委任を受けている、ということになる。
ほとんど無意識にロベリットは最敬礼していた。
「そういうのはいい。私も暇ではない」
男はにべもなく言って短剣を懐にしまった。
「本題だけ言おう。君にはこの学院のとある生徒について調べてもらいたい」
ロベリットは眉を寄せて男の顔を伺った。
「リュカという、最近入学した者だ。知っているね」
驚きを表情に出さずに押し殺せたかどうか、ロベリットは自信がなかった。
「防疫局が調べた程度の情報は私も持っている。だから君に求めるのはもっと詳しい情報だ。リュカという者の出自、保有する悪魔がなんという名で第何層なのか、どのような魔力を有しているのか、そしてなぜこの学院に入ることができたのか」
「王家の方ですら――それを知らないのですか」
「君からの質問はなしだ」
ぴしゃりと言われ、ロベリットは身を固くする。男は続けた。
「十日に一度は報告をあげるように。私への報告の方法はモルガング教務長を通じて別途指示する」
男は立ち上がり、杖と外套を取り上げた。
「調査の成果いかんでは、君は卒業してすぐ辺境勤務なしで討魔庁本部に登用されることになるだろう。期待している」
「――は、はいっ」
ロベリットは上ずった声を返す。男が部屋の扉を開くと、廊下でずっと待っていたらしきモルガングが深々と頭を下げた。
寮に戻ってからも、ロベリットは身震いを抑えきれなかった。震えている理由の半分は気力の昂ぶりであり、もう半分は戦慄だった。
(……リュカ……あいつは一体何者なんだ)
(王家の人間すら正体を調べようとしている、だと?)
(ソニア王女の知り合いで、口利きによってこの学院に入学したものと思っていたが……)
(まあいい。とにかく好都合だ。どのみち徹底的に調べてやろうと思っていたところだ)
できれば殺す命令も出してもらえないか、とロベリットは思う。
いつぞやは後れを取ったが、あれは相手の力をよく知らなかったからだ。
多少は魔力量が高いようだが、自分の意思で扱えないのなら持っていないのと同じだ。
(厳しい訓練を積んだ
(そうだ、報告にそれとなく、リュカが暴走の危険ありと判断されるような内容を仕込んでおこう。材料がなければ多少の捏造もかまわないだろう)
(そしてこの手で殺す)
ロベリットは声に出さず笑い、自室を出た。
(どこから調べるか。まずは――)
林の向こうにそびえる、生徒会塔を見やる。
* * *
放課後、リュカが生徒会室に顔を出すと、三人の女たちがすでにそろっていた。
「ひゃ」
また舐められるのではないかと思いリュカは妙な声をあげる。
「……ほんとうに元通りになっている……」
その後もレイチェルは皮膚をつまんで引っぱったり筆の先でぐりぐり押したりとさんざんいじり回し、挙げ句の果てに言った。
「もう一度斬ってみていい? また生えるか確かめたい」
「レイチェルっ?」
「レイチェルさんッ」
ソニアとエメリンが同時にいきり立つ。
「なんてことを言うんです! 冗談でもやめてください!」
「冗談ではないのだけれど」
「冗談じゃないならもっとやめてくださいッ」
「レイチェル。それはもういいから」
ソニアはため息まじりにたしなめる。
「密儀堂の調査結果はどうなったの」
レイチェルは不機嫌そうに唇を曲げ、自分の執務机に戻って書類を束ねた板を取り上げた。大雑把にめくりながら言う。
「あの後すぐシンシナ先生が医務局員総動員して浄化してしまったので、あまり調べられなかった。床の下書きの溝は問題がなかったから、少なくともエメリンの失策ではない」
「そう……ですか」
エメリンはほうと息をついてソファに腰を下ろした。
「え、っと……」
状況をよく飲み込めていないリュカは三人の顔を順繰りに見比べる。
「あの、
「それがわからないから調べているのよ」とソニアは肩を落とす。「
「前にも同じことがあったの?」
「……ええ。……お姉様のときのに……似ている」
ソニアの姉。
無人の執務机のひとつに目を走らせる。
たしか、生徒会長なのだと言っていた。今は不在だ、とも。
その先を言いよどんでいるソニアに代わってエメリンが説明する。
「もともと、私は第五層を開いて悪魔を喚び出すつもりでした。開門深度は結界円の術式でかなり正確に規定できるはずなんです。でも、実際に開いてみたら深すぎた。……会長の
そこまで言って、エメリンもやはり暗い顔で口をつぐんでしまった。
沈黙がいたたまれなくなり、リュカはそっと訊ねる。
「……それで、ソニアのお姉さんは……亡くなったってこと」
ソニアは首を振った。
「生きているわ」
生きていたんだ、よかった――とはとても言えない、深い哀しみに満ちた表情をソニアはみせていた。リュカは沈黙するしかなくなる。
(なにが……あったんだろう?)
「私は……幸い、みんなに助けていただいて、なんとか受肉はできましたけれど」
エメリンは自分の左手を不安げにさする。
「分不相応な力……かもしれません」
「エメリンだからなんとかなったのよ。普通の生徒なら死んでいたわ」とソニア。「もう二度とあんな事故は起こさない、と誓ったのに……」
「事故ではないかもしれない」
レイチェルがぼそりと言った。ソニアは眉をひそめる。
「どういうこと?」
「さっきも言った通り結界円の図式は完璧だった。それに、開門できなかったとか、層が浅すぎたとかの失敗例はいくつも記録が残っているけれど、深すぎたという失敗はまるで前例がない。調べた限りでは、たった二例。一昨日のと、……会長の」
レイチェルの手から書類を受け取ったソニアは、ざっと目を通し、押し殺した声で言う。
「……つまり、事故ではなく――だれかの作為によるものだ、と?」
レイチェルは素っ気なくうなずいた。
「可能性はある」
「作為? ……あのとき密儀堂にいただれか、ですか?」
「可能性としては」
「お姉様の
「ロベリット・フォンゾさんも両方に出ていますね。会長のときは見学の候補生として、今回は警備要員の
思わぬ名前が出てきてリュカは身をこわばらせた。
「あくまで可能性」とレイチェルは無表情に言った。「これから調べる」
そのとき、生徒会室の扉が敲かれた。
女子生徒が一人、顔を出す。下階の生徒会事務局の娘だ。
「ソニアさま、占水の準備ができました」
「ありがとう。すぐ行くわ」
ソニアに促され、リュカもみんなと一緒に生徒会室を出た。
「占水って?」と塔を出たところで訊ねる。
「体内の魔力量を計測するのよ」とソニア。
「受肉したのがなんという名前の悪魔なのか知ることが、制御のための第一歩です」
エメリンは左手を気にしながら言った。
「魔力量は重要な手がかりになります。あとは出現時の姿、そして深度といった情報を総合して、数秘術的に計算すれば名前が絞り込めるんです」
そういえば
「そうだ、リュカさんもついでに計測しましょう」とエメリンが言った。
「そのつもり」とレイチェルもうなずく。「あんなに大量の聖漿、エメリンひとりに使っておしまいにするのはもったいない」
「リュカの場合は魔力量がわかっても他の情報が全然足りないわね……」とソニア。「そうだ、
「……あ……そういえば」
リュカは慎重に言葉を選んで話した。
結界円からあふれ出てきた血の海を見たときの印象。
「……懐かしい感じ?」
ソニアは露骨にいやそうな顔をした。
「それであんな無茶をして飛び込んできたんですか」
エメリンも哀しげな顔で言う。
「私もソニアさんも助けられましたけれど……でも……」
エメリンに腕をぎゅうっと強くつかまれ、リュカは顔を伏せる。
「他には」
レイチェルはきわめて事務的な口調で促した。
「……あとは……うん、医務局で眠ってたときに、昔のことを夢で見て……母のこととか、あと襲われた夜のことも少し……」
「腕を食いちぎられたときのこと?」
「あ、それが……昨日は、その後のことも……」
どこかに寝かされていて、傍らに母がいて、右手に包帯を巻きつけながら一心になにか謝っていた。おそらく、母を見た最後の記憶だ。
「ふうむ」
レイチェルはリュカの隣を歩きながら、右手の包帯をじっと見つめる。
「その保護術式を施術したのは、リュカのお母さんかもしれない」
「……え? ……いや、そんなわけないよ。だってこれ、よくわからないけど、魔術にものすごく詳しくないとできないんじゃないの」
「あなたの母親は教会管轄下の高等教育を受けていたふしがある。あなたが母親から教えられたという読み書きの水準が高すぎる。うちの学院の教科書をすべて読めるなんて」
「そ……そうなの?」
「わたしもそれは気になっていたのよね」とソニアもうなずく。
「でも、それだけの技術のある方なら、教会なり討魔庁なり文科庁なり、それなりのところで職に就いているはずじゃないでしょうか」とエメリン。
「それは、なにか事情があったのかも……」
「術式の意図はやはりわからない。どうして悪魔の肉体部分をわざわざ保護しているのか」
「そうね……。なんにせよ、リュカのお母様にお逢いできないのは残念ね。施術したのは別人かもしれないけれど、受肉したところを目撃しているかもしれないし、もし魔導教育を受けているならもっと詳しいことも聞けたかもしれない」
そんな話をしているうちに、一行は女子寮に到着した。
寮の棟に併設された大きな石造りの平べったい建物に、ソニアたちは入っていく。リュカは驚いて足を止める。
なんの建物なのか、聞かされてはいたが、一度も足を踏み入れたことはなかった。
なぜなら――
「なにしているのリュカ。早く来なさい」
入り口でソニアが振り返って言う。エメリンとレイチェルはすでに中に姿を消している。
「い、いや、だって、ここ、お風呂だよね?」
「そうよ。さっさとしなさい」
女子用の大浴場である。
屋内には、磨き上げられた花崗岩造りの大きな円形の浴槽が設えられていた。女子寮の住人およそ二百人全員が縁にぐるりと並んで腰掛けても余裕がありそうなほどの広さがある。
リュカは男なのでもちろんここを使ったことは一度もない。毎晩、男子寮の浴場まで出かけている。あちらとは比べるべくもない広さと豪華さだ。
「普通なら個人用の浴槽くらいの大きさで済むのだけれど」とソニアが言う。「受肉したのが第六層となると、かなりの水量が必要。計測に使えるのは大浴場くらいなのよ」
「ここを占水で使うのはソニアさま以来ですね」
準備を手伝っていた事務局の女子生徒が言う。
見れば、浴槽には湯ではなく、淡く青紫に濁った液体が満たされていた。
「聖漿」とレイチェルが教えてくれる。「十五種類の鉱物の粉末。とても高い。この量だと生徒会予算の三ヶ月分くらい」
「魔力を吸収して振動に変える性質があるんです」とエメリン。「だから、まだ制御ができない人間が魔力を解放しても安全確保できますし、生まれる波紋の広がりとか波の高さ、波長で魔力量が計測できます」
「ああ、じゃあこの中に入って――って、なんで脱いでるのッ?」
リュカはあわてて後ろを向いた。エメリンが制服をするすると脱ぎ捨てて全裸になろうとしていたからだった。
「え? だから、中に入るからですけれど」
「エメリン! なに考えてるの、リュカは男なのよ! 衝立があるでしょう、あそこで脱ぎなさいっ!」
「私は気にしませんよ。リュカさんになら見られても大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないわよっ」
大浴場を出ていこうとしたリュカの腕をレイチェルがつかんで引き留める。
「どこ行くの。次はリュカも計測するんだから、やり方を見ておかないとだめ」
「い、いや、でもっ」
レイチェルの手を振りほどこうとするが、その小さな体格のどこに潜んでいるのかという握力で、逃がしてくれなかった。
「リュカさん、大丈夫ですよ」
エメリンの声が、やや離れた背後から聞こえてきた。
「もう聖漿水の中に入りましたから。濁ってて見えないはずです」
おそるおそる振り向く。
エメリンの姿は、彼女が言ったとおり、広い浴槽のちょうど真ん中にあった。青紫に染まった水の中にしゃがみ込み、胸の上あたりまで浸っているため、裸身のほとんどは見えない。リュカは安堵した。
浴槽の両側に事務局員の女子生徒が一人ずつ立つ。右の娘は身長ほどもある目盛り付きの巨大な定規を、左の娘は砂時計を手にしている。
「エメリンさま、始めてください!」
左の娘が言った。
エメリンは目を閉じ、ぐっと身を沈めた。栗色の長い髪が青紫に濁った水に溶け込むようにして広がり、揺らめく。
リュカは不意に、ぞわりと総毛立った。
記憶にある感覚だった。そうだ、ロベリットが目の前で魔力を解放したときにおぼえたのと同じ寒気だ。
エメリンを中心にして、波紋が生まれる。最初はさざ波の繰り返し。やがて波の頭がエメリンの肩を洗うほどの高さになる。
ソニアが目配せすると、左の娘が砂時計をひっくり返した。
「……26……27……24……23……25……」
右の娘は定規を浴槽の中に差し入れている。波の高さを測っているのだろうか。隣ではレイチェルが読み上げられた数字を速記していた。
波は、砂時計の砂が残らず落ちきってもまだ衰える様子をみせなかった。
「エメリン、自分で止められる?」
ソニアが言う。
「やってみます」
エメリンが目を開けて答えた。
深呼吸し、唇あたりまで水の中に身を沈めた。
全身の寒気が引いていくのをリュカは感じた。同調して、水面の波紋も静まっていく。
「すごいですねエメリンさま、悪魔の名をまだ明かしていないのに、自力で鎮められるなんて。もうほとんど
定規で計測していた娘が感嘆する。
(魔力を自分で鎮められるのが
リュカは自分の包帯まみれの右手を見下ろす。
(ぼくには全然無理だ。どうやるのか見当もつかない)
「気が早いですよ。まだまだ私には鍛錬が必要です」
エメリンは笑って、立ち上がった。濁った水がざあっと流れ落ちて裸身が表れる。
「わあっ」
リュカはあわてて後ろを向いた。
「エメリンっ! 気をつけてって言ったでしょう! リュカが見てるんだからっ!」
ソニアの怒声が飛ぶ。
「リュカさんなら見られても」
「だめなのっ」
「でもソニアさんは毎晩見せてるんですよね? 一緒の部屋なんだし着替えを手伝わせたりしてるんでしょう」
「最初の日しか見せてないわよっ」
「最初の日は見せたんですか……」
「あっ、だから、それは、そのっ」
女二人のかなり意味のわからない言い合いを聞いていられなくなり、リュカは耳をふさいでしゃがみ込んだ。しばらくしてレイチェルがリュカを強引に立たせる。
「もう服着たから大丈夫」
こわごわ振り向くと、エメリンが制服姿に戻っており、濡れた髪を大きな布で拭いているところだった。目が合うと微笑みかけてくるので顔を伏せるしかない。
ソニアがレイチェルの手元の紙を見ながら言う。
「8660の11240。……第五層で間違いないわね」
数値がなにを示しているのかはよくわからないが、ともかく第六層の悪魔に腕一本を授肉したため、体内の悪魔の魔力は第五層相当、ということなのだろう。
「……はい。一日も早く扱えるようにならないといけませんね」
「エメリンならできるわよ。大浴場で計測してよかったわ、大した数値ね」
「ソニアさんのときには水が浴槽からあふれてしまいましたものね」
そこでレイチェルがぐいとリュカの背中を押した。
「早くリュカを測りたい」
「えっ? あ、う、うん」
リュカは、まだ肌がしっとり濡れているエメリンの顔と、青紫の水を湛えた大浴槽とを見比べる。自分も計測する、ということは、つまり同じように――
「さっさと脱いで」
レイチェルにいきなり制服の上衣を剥かれた。
「ちょ、ちょっと待ってっ?」
待たないどころかレイチェルは信じがたい手際の良さで瞬く間にリュカの上半身を裸にしてしまい腰帯に手をかける。
「レイチェル! みんな見てるでしょ、なに考えてるのッ!」
ソニアは激昂し、事務局員の女の子たちは顔を赤らめて両手で目を覆うふりをしながらも、開いた指の間からしっかり見ている。
「私は気にしませんけれど」
「エメリンが気にしなくてもわたしは気にするの! というかエメリンも気にしなさい!」
「でもソニアさんは毎晩見てるんですよね? 一緒の部屋なんだし」
「見てないわよっ!」
リュカは浴場の隅の衝立の裏に避難した。
「いい? 衝立を浴槽の縁まで持ってきて、全部脱いだらすぐに水に飛び込むのよ、肩まで水に浸かったら合図して!」
ソニアの言うとおりにしていると、いったい自分はなにをやっているのだろうという気分になってくる。おまけに春とはいえ水はまだまだ冷たく、肩まで沈めると全身が縮こまる。
大浴槽の真ん中までのろのろと進み、「いいよ」と合図した。
浴槽の外で背を向けていた女たちが全員振り向く。
「じゃあ、魔力を出して」
ソニアに言われるが、出し方などわからない。
「やり方がわからないでしょうけれど、出せるまでそうやって水の中よ」
凍えてしまう。リュカは水中で丸くなって途方に暮れた。
そこにエメリンが助け船を出す。
「リュカさん、出せたときのことを思い出してください。どんな気持ちだったのか。それをなぞれば、計測に必要なだけの魔力は出ますから。大丈夫です、リュカさんならできます」
(……出せたときのこと……)
憶えている限り、一度だけある。ロベリットに絡まれたときのことだ。
あまり思い出したい記憶ではない。
しかし、そんなことは言っていられない。
(このままじゃ、ぼくはこいつに振り回されてみんなに迷惑をかけ続ける)
(なんとか制御を身につけなきゃ……)
あのとき胸の内にあったのは、ほんのひとつまみの怒りと、それを溶かし込んだ泥の海のような絶望だった。冷たく、冷たく、手足の指先にまで暗さが広がっていくのを感じていた。頭を踏みしだかれ、それでもあきらめの感情しかなかった。
虫だと認めろ、と言われて、その通りだと――
虫。
そう、虫だ。
(あのときぼくは、虫のことを考えていて、それで――)
ひた、となにかが背中に触れた。
水の感触だ。水面が揺れたのだ。波が広がり、はるか彼方の縁にぶつかり、衰えながらも戻ってくる。その繰り返しが、徐々に強まり始める。
「……来た」
遠くでレイチェルがつぶやくのが聞こえた。
リュカはいつの間にか閉じていた目を開いた。
ざわめきがあたりに満ちている。羽音だ。ちらちらとした火花のような羽虫の小さな幻像が無数に踊り、水面に炎の色を映している。波紋が青紫の濁りをかき乱している。じきにそれは波ですらなくなる。激しく泡立ち、うねり、しぶきを散らし始める。
「ソニアさま、これ……」
定規を手にした女子生徒がおびえた声を漏らして浴槽から一歩離れた。ソニアたちも目を見張ってリュカを凝視している。
大浴槽を満たす聖漿水は今や煮え立つ海面に変わっていた。弾けた水泡の中から透き通った火の羽虫が生まれ、飛び立ち、踊りながら光を散らしては消えていく。
リュカは自分の両腕を掻き抱いた。
もう冷たさは感じなかった。あたたかいわけでもない。水と自分が完全に同化してしまったような感触だ。天も地も消え失せる。無音の炎の中に浮かんでいるようだ。
腕をほどき――
解き放った。
土砂降りの雨のような音が少女たちの悲鳴をかき消す。視界が蒸気で真っ白に染まった。そのときリュカはようやく皮膚を掻き削るような熱を感じた。焼けた湿気に押し包まれて息もできなかった。
蒸気がゆっくりと薄れ、晴れていく。
ソニアは膨れ上がった蒸気の風圧で壁際に押しやられていた。見れば、エメリンもレイチェルも同じだ。定規を持っていた事務局員の女子生徒は浴場の隅に倒れてうめいている。
「大丈夫ですかっ」
エメリンが駆け寄って助け起こす。蒸気圧を真正面から受けて吹き飛ばされたのだろう、後頭部を押さえて顔をしかめている。額には血の筋がある。ソニアもそちらに駆け寄ろうとしたとき、レイチェルが硬い声を飛ばした。
「ソニア、あれ」
足を止め、レイチェルの指さす先、浴槽の方を見て絶句する。
聖漿水は消え失せていた。
まったく空っぽになった大浴槽の真ん中に、裸のリュカが縮こまっていた。
視界の端で、レイチェルの手が紙の上を動くのが見える。こう走り書きしていた。
――『計測不能』。
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