3 受肉の夜

 五日後の放課後は、学院じゅうが奇妙な緊張感と高揚感に包まれていた。


 リュカはレイチェルに付き添って、密儀アルカナの準備のために学院のあちこちを回って必要な資材を運んだり連絡事項を伝えたりした。

 すれちがう生徒たちはみな、レイチェルを見かけると興奮気味に挨拶をしてくる。


「レイチェルさま、いよいよ今日ですね、エメリンさまの密儀アルカナ!」


「見にいけませんけど、成功をお祈りしてます!」


「レイチェルさまのときには立ち会えるようにがんばって勉強しますね!」


 学院の生徒にとって、この密儀アルカナという式事がいったいどういう位置づけにあるものなのか、リュカにはいまいちよくわからない。


「立ち会えるのは、ごく少数の成績優秀者だけ」


 レイチェルが道々で説明してくれる。


「つまり、次回以降の密儀アルカナを受ける可能性のある生徒のみ、ということ。危険な儀式だから、希望者をみんな列席させるわけにはいかない」


「……そんな危険な儀式なのに、生徒だけでやるの?」


 学院長にも、警護隊長にも、「堂外で待機しているのでなにかあったらすぐ呼ぶように」と言われた。つまり儀場には大人たちは一切立ち会わないのである。


「悪魔はとにかく人間の若い肉体を求めてる」


 レイチェルは素っ気なく答えた。


「悪魔に感情があるのかどうかはわからないけれど……子供は『好んで食べようとする』のに対して、大人は『嫌って殺戮しようとする』。境界はおおむね二十歳くらい。だから儀場に大人がいると悪魔が不安定になって失敗の原因になる」


 それで、か。

 重責を担う魔導師マグスの候補生が、少年少女しかいないわけなのか。


「だから密儀アルカナはすべて子供の手だけで執り行う。そのための生徒会執行部」


 リュカはぞくりとした。

 この国の安寧は、ひどく儚いもので支えられているのだ。


 準備のために最後に訪れたのは、執務棟の医務局だった。

 医務官はシンシナという眼鏡をかけた清楚そうな若い女性で、レイチェルとリュカを地下の氷室に連れていってくれた。


 薄暗く寒い土壁の地下室で、床から漂う冷気が目に見えそうなくらいだった。冬の間に採った雪を床下に大量に貯蔵することで室内を一年中冷たく保っているのだという。


「エメリンさん、だいぶがんばっていましたものね。保管にも気を遣いました」


 そう言ってシンシナは、棚の一角にずらりと並ぶガラス瓶を箱詰めしてリュカに渡した。どれも赤黒い液体で満たされ、蝋で封がしてある。


「なんですか、これ」とリュカは訊ねた。


「エメリンの血液」


 レイチェルがなんでもなさそうに答えるのでリュカはぎょっとする。


「ああ、そうでした、リュカさんは密儀アルカナを受けていないのでしたっけ」


 シンシナが詳しく教えてくれる。


密儀アルカナで用いる結界円は、自分の血を使って描かなきゃいけないんだそうです。だから何ヶ月も前から少しずつ採血して、こうやって氷室で保管するんです。凝固しないように薬品を混ぜて」


 リュカはぐっと唾を飲み込み、抱えている箱の中身を見つめる。


「でも、こんなに貯めたのはエメリンさんがはじめてです。そうとうな深層を目指すということですよね。幸運を祈っています」


 執務棟を出て儀場に向かう間、抱えている箱からかすかに聞こえてくる瓶同士のふれあう音を聞きながら、リュカは言い知れぬ不安がひたひたと打ち寄せてきているのを感じていた。


(要するに、わざわざ自分で悪魔を呼び寄せて身体に寄生させる儀式なんだ)


(平穏なものなわけがない。それはわかっていたけれど)


 想像もつかないものが闇の奥でのたくっている。そんな気がしてリュカは身震いした。


       * * *


 学院の敷地の北隅、いかにも急造という見てくれの小屋の床に、下り階段が口を開けていた。岩盤を雑に切っただけの粗末な段々が闇の中へと落ち込んでいる。リュカはレイチェルに続いてその階段を下りていった。レイチェルの持つランプの灯だけではまったく足下が見えず、おまけに一段一段の幅が不規則なせいで、リュカは何度も踏み外しかけて肝を冷やした。大切な血液を大量に抱えているのだ。落として割ってしまったらエメリンのここ数ヶ月の苦労がすべて無駄になってしまう。


 気が遠くなるほどの時間、ひたすら足を動かし続けた。悪夢の中に墜落していくような錯覚にとらわれた。空気も心なしか薄くなっている気がした。


 ふと気づくと、足下が平らになり、砂混じりの感触に変わっていた。

 前方の闇の中に、いくつもの光の粒がちらちらと揺れているのが見えた。


 しばらくまっすぐな横穴を進んでいくと、やがて、ふ、とあたりの気配が開けた。


「着いた。密儀堂」


 レイチェルが振り返りもせずに言った。


 密儀堂――とは名ばかりで、そこはただの洞穴だった。

 ただし、すさまじく巨大な穴だ。暗さのせいもあるが、天井の高さはまったく見当がつかず、穴のあちら側の壁も見えない。床はむき出しの砂岩だ。天然の洞窟をそのまま使っているのだろう。岩壁に等間隔で簡素な鉄製の燭台が打ち込まれており、数百の小さな火が大きな大きな環をつくって闇の中で揺らめいている。


「……立派な名前がついてるから、もっと、なんていうか、ちゃんとした造りの場所だと思ってたんだけど」


 リュカは正直に言った。


「ちゃんとした造りの密儀堂もある。でもそっちは閉鎖中。ここは仮設。天然の洞窟をそのまま使ってる」


 やはり天然洞だったのだ。しかし、閉鎖の理由については教えてくれなかった。話しにくいことなのだろうか、と思いながらリュカはあらためて洞窟内を見回す。

 壁際に、いくつも人の気配がある。

 それから、洞穴の中央のやや窪んだ場所にも、二つの人影が見える。


「リュカさん、レイチェルさん、ありがとうございます!」


 二つの人影の片方が手を振った。エメリンの声だ。洞窟内で奇妙に反響し、不気味に聞こえた。レイチェルは小走りに駆け寄るが、割れ物を抱えたリュカはゆるやかな斜面を忍び足でゆっくり下っていった。


 ソニアはいつもの制服姿に腕章だが、エメリンは袖のない真っ白で簡素な長衣を着ていた。その下にはなにもつけていないらしく、身体の輪郭が布地にくっきりと浮き出ており、リュカは思わず目をそらしてしまう。なるべく正視しないようにしながら、エメリンの足下に箱を置いた。彼女が裸足であることにもそのとき気づいた。

 あたりの床一面に、すでに結界円の下書きがしてあった。鉄の棒かなにかで砂岩の床をえぐって溝を刻みつけたのだろう。複雑な同心円と直線、三角形、そしてリュカには読めない文字の羅列が幾何学的に配置されている。


「では、みなさん壁際で待っていてください。急いで済ませますね」


 エメリンはかがみこんで箱から瓶をとり、中身を床の下書きの溝に注ぎ入れる。結界円の図形が血の色でなぞられていく。

 リュカたちはその様子を遠巻きに見守った。堂内にいた他の生徒――儀事委員や、立ち会いを認められた成績優秀者――もみな壁際に退がっている。リュカは立会人の中にロベリットの姿を見つけてぎょっとした。

 レイチェルもリュカの視線に気づいて耳打ちしてくる。


魔導師マグスなんだから、警護要員として立ち会わせるのは当然」


それもそうか、とリュカは思う。

 大人の魔導師マグスは教職員に何人もいるが、儀場内に入れられない。子供の魔導師マグスは貴重な戦力なのだ。

 ロベリットもこちらに気づき、大股で近づいてくる。その目には露骨な憎しみの色がある。首筋の皮膚の赤い変色は、リュカの魔力にやられたときの火傷だろうか。


「おい、貴様がなぜここにいる」


 それからロベリットはリュカの左腕の腕章に目を留め、隣にいたレイチェルの顔と見比べ、渋い表情になった。


「……うまく取り入ったもんだな。だが、そのうち貴様の化けの皮を剥いでやる。悪魔め」


「フォンゾ、静かに。そろそろ始まる」


 レイチェルが冷ややかに言った。ロベリットは舌打ちして離れていく。

 リュカは周囲を見回し、今のやりとりが他の生徒たちに聞こえていなかっただろうか、と肝を冷やす。


(ほんとうに、なんでぼくもここにいるんだろう)


(同じように受肉済みだから、警備要員として期待されている……?)


(まさか。だって、魔力の使い方も知らない)


 かがみ込んでいたエメリンが立ち上がった。

 儀事委員の女子生徒が空瓶をおさめた箱を運び去り、堂の中央にいるのはエメリンと、それに付き添うソニアだけになる。

 ソニアは、細く赤い紐を制服のポケットから取り出した。

 エメリンをじっと見つめて、静かに訊ねる。


「……今からでも、授肉比率を減らしていいのよ。この結界円なら第五層まで開く。指だけでもかなりの魔力を得られるはず」


 エメリンは薄く笑って首を振った。


「それではせいぜい第三層魔導師マグスにしかなれません。ソニアさんの助けになるには全然足りないでしょう」


 むきだしになった自分の左の二の腕を指さす。


「予定通り、上腕でお願いします」


 ソニアは唇を噛みしめ、それから赤い紐をエメリンの二の腕の付け根に巻いて結んだ。

 二人は後ずさって、血で描かれた結界円の外に出た。ソニアはその足下に置かれていた重たく長いものを持ち上げる。

 幅広の、片刃の剣だ。


(……剣?)


 ソニアは魔導師マグスである。頼むのは魔力であって鋼ではないはずだ。


(あれは……じゃあ……武器ではなく……)


 これから起こることをリュカは予感しつつある。

 エメリンの腕に巻かれた紐の、象徴的な赤さが目に焼き付く。授肉比率、というソニアの言葉が耳に粘り着いている。

 結界円の縁で、エメリンは両手を組み合わせ、祈りの言葉を詠み始めた。


「……御旨のままに地を恵み、城壁を築き給え。葦の海は御怒りにふれて干上がり、我らは荒れ野を行き深い淵を渡りたり。山々よ、すべての丘よ、実を結ぶ木々よ、野の獣よ、地を這うものよ、翼ある鳥よ、讃美せよ……」


 彼女を遠く取り巻く燭台の火が、彼女の足下に靄のような影をつくっている。

 祈りに合わせて、結界円を形作る血の線が、まるで脈打つように明滅し始める。洞窟全体がひとつの臓器になり、収縮と弛緩を繰り返しているのではないか、という錯覚にリュカは囚われる。

 地の底から、なにものかの低い声が響いてくる。

 リュカは総毛立つ。戦慄と、――法悦で。


「……慈悲深き聖執行者の御名において命ずる」


 エメリンがおごそかに告げた。


「――開門せよ!」


 血の法円がどろりとした光をあふれさせた。エメリンの長い栗毛と白い長衣の裾が不意の風を受けて躍り上がる。

 洞窟が揺れた。

 錯覚ではない。たしかな現実の震動だ。砂がぱらぱらと天井から降り注ぐ。燃え立つ結界円の中央部が、赤黒い光を一層強めながら隆起する。


 咆哮が轟いた。


 最初に現れたのは、腕とも鰭ともつかない一対のぬめる末端器官だった。節ひとつだけでエメリンの身長と同じだけある。続いてその間の地面が大きくせり上がってくる――かに見えたのは、そのものの頭部があまりにも巨大だったからだ。一本一本が槍の穂先のような逆立つ剛毛に覆われたその頭には、びっしりと無数の眼球が埋め込まれ、地上すべてを憎悪し欲望する赤い炎を宿している。眼の列のすぐ下の肉がぞろりと横に裂けて開いた。四列の牙がのぞく。口だ。馬車ひとつ丸呑みできるだろう。


 やがて全身が現れる。


 蛞蝓とも蜘蛛とも蟹とも獅子とも似ているようで、それでいて地上のありとあらゆる生物と根本的に異なっている、そう形容するしかない姿だ。

 これは、たしかに、こう呼ぶ他ない――


 ――悪魔、と。


 恐怖が感染して広がっていくのがわかる。立ち会った生徒たちが後ずさり、壁に背中をこすりつけている。殺される、とだれもが直観していた。今すぐこの場にいる無力な人間たち全員が食い殺される。人類が何千人何万人束になろうと、こんな異形の怪物に抗えるわけがない。


 しかし、悪魔は身をよじったり牙を剥いて汚らわしい唸り声を漏らしたりするだけで、その場から動かない。

 見れば、巨体に網のようにびっちりと赤く発光する網のようなものがからみついている。


(……結界円!)


(血と祈りと図式の力で、抑え込めているのか)


 しかし、その網が、そこかしこでぶつり、ぶつり、と少しずつ引きちぎられているのを見つけて、リュカはおののく。

 じきに束縛しきれなくなる。


「……でかすぎる」


 すぐそばでだれかがつぶやいた。ロベリットだ。さすがに魔導師マグスであるためか、他の生徒のように恐慌に陥って逃げようとはしていないが、その顔は青ざめている。


「俺のときの比じゃない。なんだ――こいつは」


 かつ、かつ、という乾いた音が聞こえた。

 振り向くと、信じられないことにレイチェルはこの状況下にあって画板を抱えて石墨で悪魔の姿を速写していた。それから手を止めて叫ぶ。


「ソニア! エメリン! 退化した翼状器官を背部に確認した、第六層と断定!」


 レイチェルの言葉を聞いてソニアが目を見開く。

 エメリンは悪魔の数百の眼をにらみ返したまま動かない。


(……第六層?)


(ソニアと同等以上の魔力を持つ――ということか?)


「エメリン、開門が深すぎたわ。第五層を喚ぶ予定だったのに」


 こわばった声でソニアは言う。


「このまま腕一本授肉したらあなたの負担が――」


「もう遅いです!」


 悪魔から目をそらさずエメリンが強い口調で遮った。


「この条件で喚び出したのですから、約定どおりに進めないと危険です」


 そこでエメリンは、笑う。

 淡く、儚く、悲壮に。


「大丈夫です。やり遂げてみせます」


 ソニアは下唇を血がにじむほど噛みしめ、やがてうなずき、手にしていた剣を両手で握り直した。

 エメリンは結界円の中に踏み込んだ。

 一歩、また一歩、悪魔の見上げるほどに大きな顔面へと歩み寄っていく。

 リュカのまわりでいくつも、ひぐっ、と喉を鳴らす音が聞こえた。立ち会った生徒たちが泣きそうな声でつぶやく。


「エメリンさま……」


「なにしてるんだ」


「だめ、逃げて」


 魔導師マグスになるというのがどういうことか、知ってもらう――とソニアは言っていた。あれはリュカだけに向けられた言葉ではなかったのだ。やがて受肉を許可されるであろう生徒たちはみなここに集められ、見届けることを義務づけられる。

 貴族の子女たちは栄えある護国職に就くことを目指して厳しい入学試験をくぐり抜け、学友らと切磋琢磨し、信頼と叡智に彩られた式典で資格を与えられ、輝かしい讃辞と祝福に包まれて魔導師マグスの末席に連なることを夢見ているのだろう。


 けれど、目の前のこれが現実だ。


 魔導師マグスに栄誉などない。

 美しい式典も、あたたかい祝福もない。

 あるのはただ、血と呪いと痛み。


 その現実を魂にまで刻みつけるため、彼ら彼女らは密儀アルカナの立会人に選ばれ、この地獄に共に閉じ込められたのだ。


 エメリンが左腕を悪魔の口先に向かって差し出す。


 口がわずかに開き、びっしりと生えた何百もの牙が脂ぎった唾液に濡れて光っているのが見える。

 受肉とは――防疫局の監察官が言っていた――である。


「ぃやぁあああ……」


 リュカの背後で女子生徒の引き絞るような声が聞こえる。

 エメリンが、上下に並ぶ牙の間に左手を差し入れる。

 その顔が、長衣の胸が、真紅に染まった。

 エメリンの肘から先は今やぴったりと噛み合わされた悪魔の口の中にある。


「ソニアさんっ! 切断をッ」


 張り詰めた声でエメリンが呼んだ。横に立つソニアは剣を振りかぶり――二の腕に巻かれた目印である赤い紐目がけて振り下ろした。


 肉と骨が断ち斬られる致命的な感触が、壁際で遠巻きにしているリュカたちにすら伝わってきた。鮮血が高く噴き出して悪魔の眼球のいくつかを塗り潰す。エメリンはそのままふらと後ろに倒れかける。剣を投げ捨てたソニアがそれをすんでのところで支える。


「エメリンさま、血、血が」


「止血しないと」


「し、死んでしまう」


 震える声がいくつもあがる。けれどエメリンもソニアも、ほんの少し前まで腕があった場所からだくだくと流れ続ける血を止めようともせず、咀嚼を続ける悪魔をにらみ据えている。この痛みと流血は必要なものなのだ、とリュカは直観する。体内にあった血を、体温を、生命を、ひとたび外部へと吐き散らし、そのむせかえるようなにおいと気配と死の予感と生への渇望とで悪魔を押し包み――


 引き戻して集束させる。


 エメリンの顔はもはや蝋のように白く、ソニアの支えがあってさえ立ち続けることもできず、身を折って結界円の縁にひざまずく。ソニアもその背中側から手を回して寄り添いながら膝をつき、今はもうないエメリンの左手の代わりに自分の左手をエメリンの右手と組み合わせる。二人の唇から祈りの聖句の続きが切れ切れにこぼれ始める。


「……御手によって造られたものすべてを治め、その足下に置かれん。羊も牛も野の獣も空の鳥も海の魚も海路を渡るものも――すべて――御名は力強く全地に満つる。聖なる宮に、天の御座に、御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べ、災いの火を降らせ、燃える硫黄をその杯に注がれる……」


 声が高まるにつれ、悪魔が身体を揺すり、よじり、全身に生えた葦のような毛を振り乱して苦しみ始める。数百の眼から炎が間欠泉のように噴き出す。身にまとわりついた結界円の血線を次々に引きちぎっていく。しかし、それを上回る勢いで床の血の海からぞわぞわと赤黒い筋が生えて悪魔の体表を這い上り、結びつき、新しい束縛の網が形成される。


「……我は試された、銀を火で練るように――我が魂は満ち足りぬ、乳と髄のもてなしを受け、我が唇は歓喜の歌を告げ、讃美の声を届かせよう!」


 祈りの声は今や嵐の中で響く雷鳴のようだ。二人の少女と、小山のような巨体の悪魔との間で、魂さえも引き裂かれそうなほどのせめぎ合いが起きているのをリュカは見て取った。


「――贖え!」


 エメリンの喉から結句が迸る。


「――贖え!」


 ソニアが自分の声を追わせる。


「――贖えッ!」


 二人の声が重なる。


 不意に――悪魔の全身が、わずかに弛緩した。

 ほんとうにごくわずかな、けれど決定的な変化だった。


 悪魔の咆哮がよじれ、潰れ、甲高くなる。その体躯が奇妙にひしゃげていく。まるで空間そのものが歪み、圧壊していくかのように。体毛が抜け落ち、岩のような皮膚が溶けてぬめる脂に変わり、からみついた血の網にすすられ、徐々に分解され――


 集束は一瞬だった。


 悪魔の肉体はわずかに抵抗をみせるかのように膨れ上がった後、弾けて数万の赤黒い筋にばらけた。そして逆巻きながら束ねられ、一点へと――エメリンの左腕の付け根の生々しい切断面へと引きずり込まれていく。


 巻き起こった風が、血のにおいを吹き飛ばした。


 静寂が訪れる。


 洞窟の空間全体を圧迫していた巨体が、消え失せている。

 結界円に残った仄赤い光は、ただ虚空を照らすばかりだ。

 急激に寒く、空気が薄くなったように感じられる。


 ソニアとエメリンの身体が折り重なって地面に崩れ落ちた。


「……エメリンさま……?」

「ど、どう……」


 リュカもエメリンの身体を凝視する。


 左腕が――ある。


 悪魔に噛み砕かれ、ソニアの剣で斬り落とされたはずの腕が、完全にまっさらな無傷の状態で、肩につながっている。


 最初に安堵の息を漏らしたのは、ロベリットをはじめとする魔導師マグスたちだ。

 それから受肉候補生たちの、ためらいがちな喜びの声。


「……成功、したの?」

「受肉している」

「成功だ、生きてる!」

「エメリンさま!」


 何人かがエメリンとソニアのもとに寄ろうと駆けだした。

 そのとき、レイチェルの声が飛ぶ。


「待ってッ! 閉門していないッ!」


 全員が雷に打たれたかのように足を止めて立ちすくんだ。


 結界円が光を失っていない。それどころか、大量の血や粘液を浴びて、脈動を強めつつある。結界内の地面がぼぐ、ぼぐ、と泡立っている。もはや砂岩の地面ではなく、血の海面だ。

 リュカは、肚の底に不気味な熱をおぼえた。

 おぞましくもあり、心地よくもある、懐かしさ。


(ぼくは、あの光と炎と泥を知っている)


(よく知っている)


(あの下に、深くに、底にある場所を知っている――)


 赤く燃える海面が爆ぜ、のたうつ触手状のなにかが飛沫を撒き散らしながらうぞうぞと大量に現れる。気を失ったままのエメリンとソニアの身体に這い寄り、巻きつき、絡め取り、引き寄せ始める。


「ひッ」

「引きずり込もうとしてるぞッ」

「だれか上へ! 人を呼んでこい!」

「結界円を強制閉門しろ!」


 声が飛び交う。我に返った立会人生徒の何人かが洞窟の出入り口の横穴へと転げるように走り出す。ロベリットら魔導師マグスの生徒たちはそれぞれが自らの悪魔の名を呼びながら結界円へと駆け寄ろうとする。

 血の海が膨れ上がり、結界円からあふれ出す。


「やあああああああああああッ」


「やめ、やめろ、くそッ、さ、さわるなァッ」


 悲鳴がいくつもあがる。血まみれの触手が枝分かれしながら爆発的に伸長して魔導師マグスたちに襲いかかったのだ。左手を呑み込まれたロベリットが「ひィッ」と声を上げてのけぞり、触手を引きちぎりながら後ずさる。


「こ、こ、こいつらッ、魔力を吸うぞッ」

「近づけない……」

「先生たちを待つしか――」

「エメリンさまが!」

「ソニアさまァッ」


 生徒たちの悲痛な叫びが洞内に複雑に反響する。ソニアとエメリンの身体はすでに下半身が血の海に沈み、なおぞぶぞぶと殖え続ける触手に包み込まれつつある。

 ほとんど無意識にリュカは走り出していた。


「――リュカっ?」


 レイチェルが呼び止める声も耳に入らない。見つめている先はソニアとエメリンですらない。煮え立つ赤い海面だ。


(あそこへ行かなきゃいけない)


(あそこはぼくの場所だ)


 結界円の縁から、ためらうことなく血の海の中に踏み込んだ。海面はなんの抵抗もなくリュカを受け入れる。ぬめる繊毛がリュカの脚に、腕に、優しくからみつく。


「……なんで……あいつは平気なんだッ? 悪魔め!」


 ロベリットがわめくのが遠く聞こえる。

 ソニアとエメリンの身体は、少しずつ結界の中央に向かって引き込まれていた。リュカは泳ぐようにしてそこにたどり着く。全身から血と体温が啜り出されていくのを感じる。


 禍々しく、快い虚脱感。


 二人の少女の身体を、まとめて右肩に担ぎ上げる。全身の骨が軋み、筋が悲鳴をあげる。


(連れていかせるわけにはいかない)


 身をねじり、深みで脈打つ光に背を向け、赤いぬかるみの中を這い戻る。一歩進むごとにぶつりぶつりとなにかがちぎれる感触がある。深淵から湧く触手が断裂しているのか、それともリュカ自身の筋肉が引きむしられているのか、わからない。


 結界円の縁まで二人を運び、息も絶え絶えに地面へと投げ出した。


 力尽き、膝を折る。


 ず、ず、ず――とリュカの身体は再び血だまりの中に引き戻され始める。四肢から胴体、首筋にまでびっしりと赤黒い筋が粘り着き、ほとんど皮膚と同化しかけている。


(そうだ。連れていくなら、ぼくを連れていけ)


 海が収縮を始めている。門が閉じかけているのがわかる。リュカはぐったりと力を抜いて、ぬめる虚無に意識を預けた。


「――リュカ?」


 声に、引き戻される。

 顔を上げる。ソニアと目が合う。いま意識を取り戻したばかりなのだろう、瞳が混乱で濁っている。それでも手を伸ばしてきた。リュカの包帯まみれの右手が、震えて力のないソニアの両手でつかまれる。


「リュカさん……っ?」


 エメリンもだ。土気色の顔で、必死に砂を掻いてリュカに近づき、手を持ち上げる。


 やめてくれ。なにしてるんだ。


「……手を放せ。また一緒に引きずり込まれるぞ」


「なに言ってるの、ばかっ!」


 ソニアが泣きそうな目で叫ぶ。


(ぼくは、もういいから)


(捨てていってくれ。母だってそうしたんだ)


(あんたらなんて血のつながりもない、まだ逢って半月も経っていない)


(だから、もう――)


「リュカさんっ、そっちの手も! 早くっ!」


 エメリンが声を引き絞る。

 大勢の足音が寄ってくるのが聞こえる。すでにリュカの視界はかすんでいて、闇の中にちらつく明かりが血の海の熾火なのか燭台の灯なのかもよくわからない。先生早く、という女子生徒の悲鳴に近い声。肉の焦げる音。

 気づけば、何人もの気配がリュカを取り囲んでいる。


(……どうして)


(どうしてぼくを捨てていかない?)


 ずるり、と左手が泥の中から抜ける。エメリンが泣きじゃくりながらリュカの顔を手探りしている。


 その手を、左手でつかんだ。


 なまあたたかく微睡む故郷の記憶が、はるか地底へと遠ざかっていくのをリュカは感じた。左足に鈍痛とも虚無感ともつかないものがまとわりついていた。首をねじってなんとか自分の下半身を見やる。


 左の膝から下が、ない。


 むしりとられた脚は、溶かされ、潰され、ばらばらにほぐされて、血だまりに咀嚼されている。結界円からあふれるほどだった血の海も、もはや雨後の水たまりほどにまで縮んで地中に吸い込まれつつある。


「ああ、リュカさん、そんな、そんな……」


 エメリンが胸にすがりついて嗚咽まじりの声をぼろぼろとこぼしている。

 かつて脚があった部分から、血と体熱がとめどなく流れ出ていくのをリュカは感じる。顔を叩きながらなにか叫んでいるのはソニアだろうか。


 目を閉じ、押し寄せてくる闇に意識を預けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る