2 執行部の三姫

「……悪魔の強度は《層》という単位で表します」


 基礎魔導学の講師は、そう言って黒板に何重もの大きな同心円を描き、外側から数字を振っていった。八重の円だ。


「これは地獄の想像図から考案された単位で、すり鉢状の巨大な穴になっており中心部にいくほど深く、棲息する悪魔も強力であろう、との理屈ですが、実際に悪魔の棲息する領域を観測できたわけではないため例え話程度に考えておくことです」


 講師はゼバンテスという、片眼鏡をつけた痩せぎすの中年男性で、黒い法衣に梟の紋章入りのケープを羽織っている、いかにも博識の魔導師マグスといった風体だった。声は落ち着いていて抑揚がほとんどなく、学校の授業の経験がまったくないリュカは、眠気に抗うのに必死だった。


 講堂は大きな扇形で、教壇を見下ろす生徒の席は急勾配の階段状になっており、リュカはそのいちばん後ろの隅に座っていたため、居眠りをしても気づかれないだろうと思われた。


(いや、でも、ちゃんと聞いていないと後でソニアに怒られる……)


 掌でまぶたを強くこすり、なんとか黒板をにらむ。


「理論上、悪魔は第八層まで存在するとされています。歴史上のいくつかの大災害は第八層の悪魔の出現によるものだと考えられていますが、これまで観測で確定された例はありません。観測上の最大は第七層です。通常の魔導師マグス出動案件の掃討対象はほぼ第一層か第二層でしょう。ところで」


 ゼバンテス師は、二段式の黒板の上段と下段を入れ替え、まっさらな方にいくつかの数式を列記した。

 リュカは頭が痛くなってきた。読み書きは母に習っていたが、算術はさっぱりだ。


「《層》と、実際の悪魔の魔力量は、12を底とした指数関数の関係にあります。諸君、ビュルイッグ先生の算術の授業は真面目に受講していますね?」


(受講してない……だって今日がはじめての授業だし……)


 リュカはもう逃げ出したくなった。


「《層》がひとつ深まると魔力量は12倍になる計算です。つまり、第八層の魔力は第一層の8倍どころではなく、12の7乗倍、すなわち35831808倍です」


 白墨が黒板を掻く音が続く。


「わかりやすく諸条件を省いて表するなら、第一層の悪魔が人間ひとりを殺すのにかかるのと同じ時間で、第八層は三千六百万人を殺すことになります」


 三千六百万人。

 大陸ひとつが滅びる。

 講堂じゅうに、ぞわりと冷気が広がっていくのをリュカは感じた。


「ここまででなにか質問はありますか」


 ゼバンテス師がそう言って講堂を見回す。

 最前列で男子生徒の一人が手を挙げた。


魔導師マグスの階級も《層》で数えますけど、なにか関係があるんですか」


 質問に、ゼバンテス師は無表情でうなずいた。


「同じ尺度です。魔導師マグスの魔力は悪魔の魔力を支配下に置いたものですから」


 やはりそうなのだ、とリュカは思う。

 魔導師マグスとは、自らの身体に悪魔を寄生させ、魔力を使役する者のこと。ロベリットがそうだった。あいつの左腕は悪魔が受肉したもの。


(ぼくと……同じ)


 包帯に包まれた自分の右手をリュカは見下ろす。

 そしてソニアもおそらくは、同じ。


「しかしここでひとつ注意するべき点があります」


 ゼバンテス師の語調がわずかに強まった。

 片眼鏡の奥の目が、講堂をぐるりと睥睨する。


「ある悪魔に授肉すると、その悪魔と同層の魔導師マグスになる――わけではありません。魔導師マグスが引き出せる魔力量は、悪魔に与えた肉体の比率に依ります」


 ゼバンテス師は黒板に人体とおぼしき簡略図を描いた。


「全身を悪魔に与えてしまえば全魔力量を解放できますが、これはすでに人間ではありません。受肉した悪魔そのものです。逆に言えばこの《完全受肉》が悪魔の狙っているところであり、実際に歴史上いくつも例があります。どれも甚大な被害を引き起こし、掃討のために多数の魔導師マグスが動員され、戦死しました。このような悲劇を招かぬよう、注意深く人間部分を保全し、一部分のみを授肉して定着させることが求められます」


 黒板の人体図の片腕を、ゼバンテス師は白墨で塗りつぶした。


「大多数は片腕を授肉します。悪魔部分が多ければそれだけ人間部分への侵蝕圧が高く、人間性の維持が難しくなる。腕一本が限界だといわれています。腕一本の人体に対する比率はおよそ1/12。得られる魔力量もこれに応じて減算されます。つまり、受肉した悪魔の《層》より一つ浅い《層》が魔導師マグスの保有する魔力量をおおむね示すわけです。与える肉体の部位が少なく、1/144を下回れば、二つ浅い層になることもあります。いずれにせよ、どうやっても、悪魔と同等以上の層に人間が到達することはできない」


 先ほど質問した生徒がつぶやいた。


「じゃあ、観測できたのが最大で第七層ってことは……」


 おそらく質問ではなく独り言だったのだろうが、ゼバンテス師はその言葉を拾って答えた。


「はい。第六層魔導師マグスが今のところ人間の限界ということになります。王国全土でもたった六人しかいません。そのうちの一人は諸君も知っての通り、当学院の生徒ですが」


 講堂がざわついた。


「それって」

「そう、王女様」

「ほんとに……」


 ひそめた声が交わされる。リュカも驚いて息を詰めていた。

 そう、たしかに学院長がソニアに向かって言っていた。学院でただ一人の第六層魔導師マグスだと。


(あいつ、魔導師マグスとしてもそんなとんでもないやつだったのか)

(そりゃあ、ぼくごときの暴走は一撃で鎮められるわけだ)


 王国最高の魔導師マグスの一人が、「育て直す」などと言ってきたのだ。今後どれほど厳しい指導が待っているのかと考えると、リュカは暗い気持ちになった。

 ぱん、と乾いた音がして、講堂の騒がしさを断ち切った。

 ゼバンテス師が教科書を閉じた音だ。


「大切なのは、より深層の魔導師マグスを目指すことではありません。身の丈を知り、己と悪魔を正しく制御することです」


 その日の授業でもひときわ険しく厳しい口調と目つきだった。


「在学中、受肉の許可を得られるのは、諸君のうちでも二十人に一人でしょう。狭き門です。それだけ危険な行為なのです。そこをくぐり抜けてさえ、まだ魔導師マグスではありません。ただの悪魔との共生体です。侵蝕され悪魔に堕ちる危険さを考えれば常人の方がまだしも有益です。だから、学び、鍛え、修めなさい。それが力を持つ者の責務です」


 ゼバンテス師が自分をじっと見つめているようにリュカは感じ、身をすくめさせた。


「――以上、閉講」


       * * *


 授業が終わり、ゼバンテス師が出ていってしまった後も、リュカは席でずっと縮こまって、講堂を出ていく足音を聞いていた。

 ただの悪魔との共生体――という師の言葉がずっと耳に残っていた。

 他の生徒たちも、リュカをちらちらと見ているような気がした。


(悪魔を制御する方法を、学び、鍛え、修める)


(そんなことぼくにできるんだろうか)


(これまで勉強なんてなにひとつしてこなかったのに)


 全員出ていってしまったのを確認してから、最後に講堂を出た。

 それでも、廊下に何人かの生徒がたむろしていて、目を留められてしまう。


「……あいつ」

「フォンゾさんを?」

「らしいな」

「どうやって」

「だってあの人第三層だろ?」


 昨日の噂がもう広がっている。リュカは首をすくめて通り過ぎた。


 あのあと、学院の教職員の重鎮たちが集まった査問会なるものにリュカは出頭させられた。敷地内で魔力を行使した以上は当然である。もう一方の当事者であるロベリット・フォンゾの級友たちも出頭し、リュカが先に魔力を発現させたと証言したが、弁護に立ったソニアが、魔力顕現はロベリット・フォンゾの挑発が原因であることと、リュカの受肉が偶発事故によるもので保護観察対象であることを主張し、けっきょくリュカは処分を免れた。


 ただ、悪評が広まるのを止められるわけではない。


「フォンゾさんは貴族だぞ」

「淫売の子が、なに考えて――」


 背を丸め、足早に廊下を抜けようとした。


「リュカ!」


 凛とした声が廊下に響く。

 ぎょっとして声の方を向くと、廊下の端に夕陽を受けて燃え立つ人影がある。

 ソニアだった。大股でこちらに歩み寄ってくる。まわりにいた他の生徒たちもおしゃべりをやめて見入っている。人目を惹きつける人物というのはほんとうに輝いて見えるものなのだ。髪の色と西陽のせいだけではない。


「授業はどう、わからないところはあった?」


 リュカはどぎまぎして答える。


「大丈夫。古エルド語の授業はちょっと……難しかったけど、初等神学と基礎魔導学は、まあなんとか」


「そう、よかった。行きましょう」


 ソニアは先んじて歩き出す。


 すれちがう生徒のだれもが、ソニアに会釈をする。ソニアも「ごきげんよう」と返す。半歩後ろをついていくリュカには不審そうな視線が集まることになり、ひどく居心地が悪かった。けれどソニアは気にしたふうもなく話を続ける。


「魔導学は補習も毎回受けて早く三年分を追いつきなさい。体内制御の実践に取りかかれないわ。他は焦ってもしょうがないわね。教養というのは一朝一夕では身につかないものよ」


「う……やってみるけど……」


「でも教科書を問題なく読めるというのは意外ね。初等教育も受けていないんでしょう?」


「読み書きは母さんが教えてくれたんだよ。詐欺とかに引っかからないように、って」


「それにしたって神学の聖構文まで教えるかしら……」


 ソニアは歩きながらしばらく思案顔になる。


「防疫局の資料によれば、あなたのお母様は娼婦という仕事をなさっていたそうね。どういうお仕事だったのかしら。学術関連の専門職?」


 リュカは絶句した。


(娼婦を知らない……?)


(そうか、これがほんもののお姫様か……)


「……いや、あの。べつに、そういう。……つまんない肉体労働だよ」


「ふうん? そう。でもずいぶん教養のある方だったようね」


 思えばこのとき、娼婦というのがなんなのか詳しく説明しておくべきだったのだろうが、どう言葉を選べばいいかわからず、リュカは口ごもるばかりだった。


「まあ、今はお母様の教育に感謝することね。とにかく一日も早く制御法を身につけないと、今のあなたは抜き身の剣をぶら下げて歩いているのと同じだもの」


「う、うん……」


(これは、要するに――ぼくに魔導師マグスになれ、って言ってるのか?)


(無理だよ、そんなの……)


 けれど、他に行く場所もないのだ。リュカは母親に売り飛ばされ、住んでいた街も焼けてしまった。ここなら、食事も寝床もすべて用意してもらえる。薄汚い街の男たちに尻を差し出して日銭を稼いでいた生活に比べれば楽園だ。


(せめて、暴走が起きないようにしておかないと)


 考え事をしていたせいで、ソニアが見知らぬ建物に入っていったことにしばらく気づかなかった。遊歩道で彼女を見失い、右手にある建物の玄関口の奥に後ろ姿を見つけ、あわてて駆け込む。


「ここは? 部屋に戻るんじゃないの」


「自治棟よ。わたしは放課後だいたいここに来るから、あなたも明日からは自分で来なさい。今日みたいにいちいち迎えにはいけないわよ」


 古風な造りの、円錐形の塔だった。二階、三階とのぼっていくにつれ少しずつ回廊の一周が短くなっていく。すれ違う生徒たちは制服の上に白衣を着ている者が多い。なにかの研究施設だろうか、とリュカは思う。

 最上階、四階の大扉には、梟の紋章とともに、こう書かれた金属板が埋め込まれていた。


《王立魔導学院 生徒会 アルカナ執行部》


(……生徒会……?)


「我が校は生徒の自立を強く推奨しているの。そのための自治機関よ。入って」


 ソニアはそう言って扉を引いた。

 中は、広い円形の部屋だった。中央に巨大な円卓があり、ソファが四つそれを囲んでいる。奥側の壁際には等間隔で円弧を描くようにして執務机が四つ置かれていた。

 右端の執務机にいた一人の女子生徒が、立ち上がってこちらに小走りに寄ってきた。


「ごきげんよう、ソニアさん! そちらが、あの?」


 柔らかな栗毛の、真夏の大輪の花を思わせる少女だった。ひとつふたつ歳上だろうか、ソニアよりもずっと大人びた体つきで、とくにその豊満な胸部は、神秘的な意匠の魔導学院制服とあまり合っていない。左の二の腕には、深紅の腕章を巻いていた。《副会長》と刺繍されているのが読み取れる。


「紹介するわ。こちら、新入生のリュカ。わたしの……」


 ソニアは言葉の途中で言いにくそうに口ごもる。


「……同室生よ」


「まあ」


「リュカ。こちらはエメリン。アルカナ執行部の副会長を務めているわ」


「はじめまして。エメリン・エロンドと申します」


 エメリンはリュカに向かってにこやかに品の良いお辞儀をした。作法の心得がないリュカはどう返していいものかわからず、「あ、は、はい」と間の抜けた返事をする。


「私、催眠術が得意中の得意ですからきっとリュカさんのお役に立てると思います」


 満面の笑みで言われてリュカは目を白黒させる。


「……さ、催眠術……?」


「リュカ。あなたが体内の悪魔を制御できるようになるまでにはいくつもの課題があるのだけれど」


 ソニアが横から言う。


「まず、記憶の問題が大きいわ。防疫局からの資料によれば、あなたは襲われて受肉したときのことをほとんど憶えていないそうね?」


「……う、うん……」


「制御を得るためにはその悪魔のことを深く知る必要がある。どのような悪魔なのか、どんな力を持っているのか。最終的には、悪魔の名前を知ること。偶発的に受肉したという事例はわたしもはじめてだから確かな対処法とは言い切れないのだけれど、受肉時の記憶はなにかしら手がかりになるはずなのよ」


「……でも、ほんとに全然憶えてないんだ。寝てたところを襲われたし、死にかけてて、もうめちゃくちゃだったし……」


 リュカは縮こまって消え入りそうな声で言う。


「そこで私の催眠術です!」


 エメリンが目を輝かせて言う。


「記憶はなくなってしまうのではなく、埋もれて掘り返しづらくなっているだけです。身も心も落ち着かせて、深い眠りの中に導けば、自然と思い出せるようになるかもしれません。私はそのお手伝いをします」


 リュカは戸惑いながらもうなずく。

 焼かれて、食いちぎられた、あの夜の記憶。


(忘れたままでいいならそれでよかったけれど……)


「さ、リュカさん、さっそく始めましょう」


 エメリンは部屋じゅうの燭台の火を消し、円卓に並べてあった香炉にひとつずつ火を入れていった。紫や緑の仄明かりの中、幻惑的なにおいの煙が室内に広がっていく。


「こちらで横になってください」とエメリンはソファに腰掛ける。


 おそるおそるリュカがエメリンのひとつ右隣のソファに腰を下ろそうとすると、エメリンは眉を寄せて言った。


「そうではなくて、私の隣に来て横になってください」


(え? 横に……?)


 それぞれ三人掛けくらいのソファである。隣に座って横になったらぶつかってしまうではないか、とリュカは思う。


「私の膝を枕になさってください。それがいちばん施術しやすいんです」


「ええええ……?」


 しかし、リュカのためにしてくれることなのだ。否やは言えなかった。言葉通りエメリンと同じソファに座り、こわごわ上体を傾け、彼女の膝に頭を預けた。視線が合わないように、エメリンに背中を向けた横臥のかっこうだ。

 耳と頬に押しつけられる清潔な布地の感触、そして太腿の柔らかさに、リュカは動悸がきつくなるのを感じる。


「全身の力を抜いて、目を閉じて……」


 そう言いながらエメリンはリュカの髪に指をくぐらせる。


「私になにもかも預けてください。そうです、安心して、心も身体も解放して……いいですよリュカさん、くるおしいほど可憐です、ああ、このすべすべした頬、さくらんぼのような唇、食べてしまいたい……」


 エメリンの指がリュカの顔のあちこちをまさぐり、唇をなぞる。


(え、なに? ぼく、なにをされてるの?)


(でも言う通りに目をつぶってないと……)


「首筋もすてきです、潤った瓜の皮のような張りで、ああ、それに鎖骨の輪郭が一筋の雲のような造形、それに胸の――」


(なんで胸に手を入れられてるのっ?)


「エメリン。施術中だから静かにしていたかったのだけれど」


 向かいのソファのソニアが引きつった声で訊ねる。


「その――あちこち触っているのは催眠にどういう効果があるのかしら」


「あ、これは無関係です。リュカさんがあまりにも可愛らしいので施術するふりをして愛でていただけです」


「関係なかったんですかッ?」


 リュカは跳ね起きて言った。


「それでは催淫効果のあるこちらの紫の香をしまって、ちゃんと催眠効果のあるこちらの青の香を出して、本番を始めましょう」


(催淫って言った……)


「まったくもう……」とソニアもあきれている。


 エメリンが香炉のひとつを取り替えると、円卓のあたりをほのかに照らし出していた明かりの色が変わる。再び促されたリュカは、エメリンの膝に頭を預けた。

 髪をなでる手つきも、先ほどとはなにかちがっている気がした。


「……、……」

 エメリンの唇からこぼれ落ちるつぶやきも、リュカの知らない言葉だ。


(でも、なんだか安心する……)


 リュカは目を閉じた。

 懐かしいにおいが胸を満たしていく。

 柔らかく心地よい闇の中へと、リュカは沈み込んでいった。


       * * *


 リュカ、あなたはそんなことをしなくていいの、と母は激怒した。

 十二歳ではじめて客をとった夜のことだ。頬を強く叩かれ、泣かれた。

 そんなことをさせるために育てたわけじゃない。勉強だけしていなさい。


 けれど二人が貧しいのは事実であり、読み書きを必死で憶えたところで麦一粒ぶんの銭にすらならないのだ。リュカは母親に隠れて街角に立った。


 母親に知られるたびに、怒り方も泣き方も少しずつ悲痛でやるせなくなっていった。だからといって身体を売るのをやめることはできなかった。少しの間我慢するだけでいい金になる。だいいち母親は病気がちでしょっちゅう寝込んでいたので、その間はリュカが稼ぐしかなかったのだ。


 そんなことをさせるために育てたわけじゃない――。


 母親の口癖だ。


 でも、それならなんのために育てたのか。そもそも子供はなにかのために育てるものなのか。二人して、なんのために路地裏のぬかるみで身を削って暮らしていたのか。なんの喜びも楽しみもないのに。


 ごめんなさい、リュカ。


 寝込むと母親は気弱になり、嘔吐するようにして謝り続けた。


 ごめんなさい。ごめんなさい。リュカ、赦して。ごめんなさい……。


 なにを謝られているのかわからなかった。謝ってどうなるのか。腹が膨れるのか。金になるのか。もっと暖かい部屋に引っ越せるのか。


 ねえ、母さん。あなたはどうしたかったんですか。どうするつもりだったんですか。ぼくはどうすればよかったんですか。


 答えがないまま、十五歳のあの夜がやってくる。

 地揺れで目を覚ます。壁が裂け、夜空を焦がす炎が見える。

 黒煙の中で、火を纏った小さな羽虫が何千何万と踊っている。

 助けを呼ぶ声。

 激痛と、身を焼かれる熱。

 悲鳴、哄笑、獣のうなり声。

 リュカはぎざぎざの暗闇に囲まれた穴の中のような場所に突っ伏して、なにかに向かって右手を必死に伸ばしている。右肘から先はもぎ取られ、虚空に向かって血をだくだくとあふれさせている。

 視線の先で、ちぎれた右手が瓦礫の中に転がり、炎の舌先になめられている――。


       * * *


「――っ?」


 リュカは跳ね起きた。

 頭が割れるように痛む。暗がりの中で火がちらちらと揺れていて目に障る。


「リュカさん、大丈夫ですかっ」


 だれかがそう言って頬や額をまさぐってくる。リュカはその手を払いのけた。

 まるで頭蓋骨の裂け目を無理に摺り合わせてつなげるようにして、現実感が戻ってくる。歯を食いしばってあたりを見回す。ぽつ、ぽつ、ぽつと明かりがともり、視界が開けてくる。


 大きな丸い部屋だ。目の前の円卓の上には、香炉がいくつか倒れて転がり、中の灰をぶちまけさせている。火がくすぶっている。


(……そうだ、眠らされて……)


 リュカははっと思い出してすぐ隣を見た。エメリンが心配そうな顔でのぞき込んできている。おどろいてのけぞり、離れようとしてソファの手すりに背中をぶつけてしまう。


「……あ、あ……」


 さっき乱暴に払いのけたのがエメリンの手だと気づき、罪悪感が苦い唾とともに喉からこみ上げてくる。


「……気分が悪いのですか。申し訳ありません、人によっては催眠が身体に合わないこともあるようで……香の選択も良くなかったかもしれません……」


 消え入りそうな声でエメリンが言う。


「……い、いえ。大丈夫です。……ぼくの方こそ、すみません。叩いたりして」


 エメリンは哀しげに首を振った。

 絨毯を踏むかすかな足音がした。振り返ると、ソニアだ。どうやら部屋の燭台にまた火を入れて回ってきたらしい。


「それで、なにか思い出せた?」


 円卓の香炉を片づけながらソニアが素っ気なく訊いてくる。

 リュカはまだずきずきと痛むこめかみを両手で押さえながら、今し方見た夢のことを話し始める。隣でエメリンが紙を挟んだ板と羽筆を手にして書き留めていく。


「……防疫局の資料とほとんど変わらないわね」


 話を聞き終えたソニアが、不満げに言う。


「……ごめん。やっぱり全然思い出せなくて」


 そこでエメリンが思い詰めた顔で言った。


「リュカさんの記憶は封鎖されている可能性があります」


 ソニアは目を見開いた。リュカも驚いてエメリンの顔を凝視する。


「……封鎖、って、……なんですかそれ」


「私の催眠術式でも思い出せる箇所がまったく変わらないなんて普通ではあり得ません。それに、断片的なところで妙に記憶が具体性有りなのも気にかかります。羽虫のことをはっきり憶えていましたよね。それから倒れていて腕が切断されているのを見る場面もです」


「この、『ぎざぎざの暗闇に囲まれた』というのは、悪魔の口腔ではないかしら」


 ソニアが横から言う。


「その可能性は大きいですね。牙が多数あり――リュカさんの全身がすっぽり入るほどの口ということは全体の大きさは――ううん、これでも手がかりというにはほど遠いです。前後の記憶がすっぱり消えているのは作為を感じます」


 作為?

 記憶を封鎖? だれが、なんのために?

 困惑するリュカを放置して二人の女が会話を続ける。


「記憶を封鎖なんて専門技術が必要でしょう。だれがなんのために? 防疫局の人間がわたしたちになにか隠すためにやったとか?」


「現場に出動した魔導師マグスの方々はなにか知らないんですか」


「到着時に地区のほとんどが壊滅していたのよ、生存者も十人くらい。悪魔の目撃証言も具体的なものはひとつもないわ」


「リュカさんのお母様は?」


「リュカの引き渡し後、いなくなってしまったそうなの。対価の支払時にどうせまた局に来るだろうから、ということで身柄の確保どころか滞在場所の確認さえもせずにいたら、そのまま姿を現さなかったのだとか。これは完全に防疫局の手落ちよね」


「困りました。悪魔の姿すらわからないとなると……」


 今さらながら、リュカは自分の身に巣くっているものにぞっとする。

 防疫局の監察官は、「偶然受肉したのなら下級悪魔だろう」と推測していた。しかし同じことを言っていたロベリットを――正当な訓練を受けた第三層魔導師マグスを、リュカの暴走しかけた魔力はねじ伏せてしまったのだ。

 包帯に包まれた右手に左手を添える。


(こいつは、どんなやつなんだ)


(ほんとうにぼくなんかが抑え込めるやつなのか……?)


 気づけば、ソニアとエメリンの視線もリュカの右手に注がれている。


「けっきょくのところ……」


 ソニアがあきらめたようにつぶやく。


「その右手を調べるしかないみたいね」


「そちらはレイチェルさんの専門分野ですね」とエメリンがうなずく。


「レイチェルは今日は補習だから少し遅れるはずだけれど――」


 ソニアがそう言いかけたときである。リュカの座っているすぐそばの低い場所から、いきなり少女の声がした。


「もう来てる」


「――わあっ?」


 リュカは驚いて腰を浮かせた。

 いつの間にそこにいたのか、ソファの足下に一人の小柄な女子生徒がしゃがみ込んでリュカの右手に顔を近づけてしげしげと観察していたのである。制服の上にだぶだぶの白衣を着た、灰色のくせっ毛の少女だ。目つきもしぐさも、どことなく高貴な野良猫を思わせる。白衣の左の二の腕には、やはり深紅の腕章が巻かれていた。《書記》とある。


「レイチェル、驚かせないで」とソニアがため息をついた。「ほんとうに、いつもいつも物音を全然立てないんだから」


「レイチェルさん、リュカさんのことは――」


 説明しかけたエメリンを、レイチェルと呼ばれたその少女は手で遮った。


「資料を読んだから知っている。調べるから少し静かにしていて」


 鼻をリュカの体表にほとんど触れさせ、あちこちに顔を動かし始める。


(……え……におい嗅いでる?)


 くすぐったくなってくるが、調べてもらっているのだから動いてはいけない、とリュカは自分に言い聞かせて我慢する。しかしレイチェルが膝立ちになってリュカの身体に沿って顔をどんどん上へと移動させてくるとソファの隅の方へと逃げずにはいられなくなり、頬をぺろりと舐められるに至っては「ひゃああああっ」と妙な声をあげてしまった。


「レイチェル! いいかげんにしなさいっ!」


 ソニアの声は完全に猫を叱るときのそれである。


「レイチェルさん……私でもそこまでしなかったのに……」


 エメリンの口調はなんだかうらやんでいるように聞こえる。


(なんなんだ、この人たち……)


 ひょっとして身分の高い女性というのは他人への接触に対して抵抗がないのだろうか、と思ってしまう。


「味覚は分析の上で大切な情報だから」


 しれっとした顔でレイチェルは言って立ち上がった。リュカを追い詰めるようにさらに身を寄せてくると、右手の包帯をむしり取る。反射的に隠そうとしたリュカの左手も払いのけ、赤黒く変色した皮膚と刻まれた文字とをまじまじと観察した。


「さすがにこれを舐めるのは危険そう」とレイチェルはつぶやく。


「危険そうじゃないものでも舐めるのはやめなさい、まったく」


 ソニアはあきれて嘆息する。

 画板と細い石墨を取り出したレイチェルは、リュカの右手を詳細に写生した。驚くほど早く、しかも正確な素描だった。


「こんなに体組織が変質しているのははじめて見る。受肉した部分は完全に蘇生するはずなのだけれど」


「そうなのよね……」とソニアも自分の右手に左手をあててうなずいた。彼女が魔導師マグスの力を発現させたところをリュカも見ている。あの右手は悪魔の肉体のはずだ。肌はまっさらで、傷も痣もひとつもない。


(ぼくの受肉は……失敗したんだ、ってロベリットが言っていたっけ)


「事故で受肉するとこうなってしまうのでしょうか」とエメリン。


「その可能性はある。とにかく組織を採取してみたい」


 画板を円卓に置いたレイチェルが、次に白衣のポケットから取り出したのは、筆ほどの細長さの手術刀だった。

 リュカはとてつもなく嫌な予感をおぼえた。


「少し皮膚を削るだけだから。痛くしないから」


 レイチェルは目をぎらつかせて言う。目以外は無表情なのがいっそう不安を誘う。


「……う、うん……」


 右腕の肘をぐっとつかまれ、ソファの手すりの上で固定される。リュカよりも二回りほど小柄なレイチェルだったが、似つかわしくない腕力だった。

 刃が右手の甲に触れる。

 赤黒く硬い皮膚に刃先が潜り込もうとしたそのとき――


「――ッ?」


 不意の烈光が視界を塗り潰した。

 火花が散り、レイチェルの小さな身体が天井にまで吹き飛ばされて叩きつけられ、落ちて円卓の端にぶつかり、絨毯の上で弾んで転がる。


「レイチェルさんッ?」


 エメリンが蒼白な顔で駆け寄る。


「なにをしたのッ?」


 ソニアがリュカに詰め寄ってくる。リュカもなにが起きたのかまったく理解できなかった。


(……また……悪魔の力が暴走したのか……?)


 そう思い、右手を見下ろしたリュカは息を呑む。

 肌のそこかしこに刻まれていた文字列が、今は青白く明滅しているのだ。


「……これは……」


 そばにいたソニアも声を詰まらせて、光る文字を食い入るように見つめる。

 絨毯の上をレイチェルが這って近寄ってきた。髪がぼさぼさに乱れ、ところどころ焦げて縮れ、ぶつけたときに口の中を切ったのか唇の端に血がにじんでいたが、かまわずリュカの右手に鼻先をこすりつけそうなほど接近する。


「レイチェルさん、怪我をしているんでしょう!」


 エメリンの言葉にもまったく耳を貸さず、レイチェルは微光を帯びた文字列を見つめながら言った。


「術式を発動させてしまったみたい」


「悪魔の力ではないの? 術式の力?」とソニア。「これはどういう術式なの。防疫局の調べではこの腕の悪魔を封鎖しているのではないかと書いてあったけれど」


 リュカの腕からまだ目をそらさないまま、レイチェルは首を振った。


「封鎖じゃない。これは保護術式」


「え……?」


 全員の視線がレイチェルの顔に集まる。

 レイチェルは立ち上がり、白衣についた煤を払い落として言った。


「封鎖術式というのは、外側からの施錠。中の者が外に出てこないようにするもの。でも、これは――」


 リュカの右手を指さす。文字列はようやく光を失い、黒い引き攣れに戻っている。


「――封鎖とは正反対。いま見た通り、外部からの攻撃的な干渉に対して拒絶するようにできている。保護術式」


「……つまり」


 ソニアが唾を飲み込む音がリュカにまで聞こえた。


「この腕の中にいる悪魔を、護っている式だということなの?」


 レイチェルは素っ気なくうなずいた。

 その背後に控えていたエメリンが、震える声で訊ねる。


「悪魔を、わざわざ外部の攻撃から守ってるんですか? どうしてそんなことを」


「さあ。まだわからない。詳しく調べてみないと」


 そうつぶやいたレイチェルは、ふと自分の右手がまだ握りしめていた手術刀を見下ろし、大きな目をさらに大きく見開いた。


「あ。ちょっとだけ組織が採れてた。嬉しい」


 あいかわらず目以外はまるで嬉しくなさそうだったが、たしかに彼女の言う通り、刃先にほんのわずか赤黒い切片がこびりついていた。ポケットから取り出した小瓶に、その小さな組織片を慎重に落とし入れ、きつく蓋を閉める。

 それからリュカを振り返ったレイチェルの目には、なにやら危険な光が宿っていた。


「……もうちょっと切ってみたい」


「だ、だめっ、だめですってばレイチェルさんっ」


 エメリンが泡を食って羽交い締めにする。


「こんな小さい刃じゃなく、たとえば大鉈で切り落とそうとしてみたらどれくらいの拒絶反応が起きるのか試してみたい」


「今ので懲りてください! もっとご自分もリュカさんも大切にしてくださいッ」


「エメリンはそうやっていつも探究心を邪魔する……」


「探究心より命の方が大事ですっ」


 リュカはおびえて壁際まで逃げ、ソニアは嘆息して円卓の上を片づけ始める。


「そういえばちゃんとした紹介ができていなかったわね。リュカ、あの子がレイチェル。執行部の書記よ。もっとも、書記といっても実質上は見ての通り研究職だけれど」


 レイチェルはエメリンの腕から逃げ出し、今は反対側のソファに丸くなってじっとこちらをにらんでいる。ほんとうに猫みたいだ。気を抜いたら今すぐにでもこの右腕めがけて飛びついてきそうな気がする。


「……う、うん。よろしくお願いします」


 リュカはレイチェルに向かって頭を下げ、それから三人の少女たちを順繰りに見る。


「副会長、書記……ってことは、ソニアが会長か」


 言ったとたん、部屋の空気がみしりと軋んだような感触があった。


(……あれ?)


 ソニアは片づけの手を止めてしまったし、エメリンは困った笑みを浮かべているし、レイチェルはそっぽを向いている。


(……ぼく、なにかまずいこと言った……?)


 ソニアは執務机のひとつに歩み寄り、引き出しからなにかを取り出した。

 深紅の腕章だ。左の二の腕に巻く。《代行》の字が見えた。


「……わたしは会長代行」とソニアが言った。「会長は、べつにいるわ。わたしのお姉様。今は不在だけれど」


「……あ、うん、そうなんだ」


 言われてみれば執務机は四つある。

 でも、なぜ会長の話でこんなぎこちない雰囲気になるのだろうか。

 リュカの疑問には答えず、ソニアはわざとらしく語調を強めて言った。


「とにかくリュカ、さっきも言ったけれど、これから放課後はここに来なさい。慎重に、けれどできるだけ早く、あなたの悪魔の解析を進めたいわ」


「……うん。わかった」


 毎日エメリンとレイチェルにさっきみたいな《調査》をされるのか、と思うと気が重い。

 ところが、二人へちらと走らせた視線をソニアは逆の意味で解したのか、いきなり噛みついてくる。


「さっきみたいなのを期待してるんじゃないでしょうねっ、身体をあちこちまさぐられたりとか、な、舐められたりとかっ!」


「そんなことないよ!」とリュカはあわてて言った。


「自覚が足りないのよ、あなたはわたしの、お――」


 言葉の途中でソニアはいきなり真っ赤になって口ごもってしまう。


「――夫候補、なんだから……」


 消え入りそうな言葉の続きはやっとのことで聞こえた。

 あれは冗談ではなかったのか、とリュカは唖然とする。


「だいたいっ、この生徒会室がああいうふしだらなことをしている場所だと思われるのは困るわ! 自重なさい!」


(……自重するべきなのはぼくなんだろうか……?)


「それでしたら、ソニアさん!」


 エメリンが声を弾ませた。


「生徒会室に毎日来ていただくのですから、この際リュカさんも執行部の一員になっていただきましょう。そうしたら下の研究室や工作室のみなさんにも変に思われないでしょうし」


「ん……? ふむ……。それもそうね……」


 ソニアは執務机の引き出しからもうひとつの腕章を取り出すと、リュカに歩み寄ってきて、左の二の腕に巻いてくれた。

 刺繍された役職名は、《庶務》。


「これであなたも執行部役員よ。生徒たちを束ねる立場だという自覚を持ちなさい」


「あ、う、うん」


 こんな目立つ地位を与えられたら、またロベリットみたいな連中から目の敵にされないだろうか、とリュカは心配になる。


「リュカさんっ」


 エメリンは満面の笑みで近寄ってきてリュカの両手を取る。


「これでリュカさんは私の部下ですね、生徒会のことならなんでも訊いてください、業務について手取り足取り教えてさしあげますから!」


「……え、あの、ぼくもなにかやるんですか。というか、なにをやるところなのか」


 興奮してばかりのエメリンに代わってソニアが説明してくれる。


「生徒の自治活動すべてを統括しているのだけれど、いちばん重要なのは――」


 ソニアはリュカの腕に巻かれた腕章を指さした。

 その、《執行部》の前に置かれた単語を。


「――密儀アルカナの執行よ」


 その言葉は、何度か耳にした。そう、ロベリットが言っていたのだ。

 おまえは密儀アルカナなしで受肉した、と。

 つまり――


「受肉の儀式、のこと?」


「そう」


 答えるソニアの声は、なぜか冷え切っていた。

 エメリンの方に向き直って言う。


「エメリン、あなたの密儀アルカナが五日後にあるでしょう。リュカにも立ち会わせようと思うの。かまわないかしら」


 緊張した面持ちでエメリンはうなずいた。


「はい。そうですね。……思い出す助けになるかもしれませんし」


 ソニアの視線が再びリュカに戻される。


「……魔導師マグスになるというのがどういうことか、知ってもらうわ」

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