7 禁じられた研究記録

 ソニアにはこっぴどく叱られた。


「自分から悪魔の口の中に飛び込むなんて、なに考えてるのっ? わたしが動けなかったからってまたそういう無謀なことを、死ぬかもしれなかったのよっ?」


 医務局の寝台の上でリュカは縮こまる。


 一夜明け、すでに手足の再生は始まっていたが、肉が骨まで達するほどえぐれてしまった部分が多く、布と包帯にまみれてまったく身動きできなかった。ソニアの憤りを甘んじて受け入れるしかない。


「わたしもエメリンも動けなかったし……だから、……あなたには助けられたけど、でも、もうこんなことは……」


 ソニアは涙ぐんで言葉を詰まらせた。


 医務官のシンシナには枕元ですさまじい量の小言を浴びせられた。


「入学から一月しかたっていないのにどれだけ大怪我すれば気が済むんですか、普通だったらもう三回は死んでますよ? どうせ治るから大丈夫だと思ったんですか? 以前治ったからといって今回もとは限らないでしょう、だいたい前回治ったのは左脚だけ! 他も治るかどうか確かめたわけじゃないでしょう?」


 返す言葉もなかった。

 説教をする間もシンシナの手はてきぱきと動き続け、包帯をほどいて練った薬草を傷に塗り込み清潔な替えの包帯を素早く巻きつけていく。まったく遠慮のない手つきなので痛みで声をあげないようにするのに必死だった。


 学院長グリシラまでが医務局にやってきた。


「リュカ。あなたのとった手段が結果的に最善だったことは認めます」


 冷然と言う。


「けれど確実性は非常に低かった。私は生徒の安全を預かる教育責任者として、昨日のあなたのやり方を褒めるわけにはいきません」


 リュカはうなだれる。

 そこでグリシラはふと声の調子をわずかに変えた。


「私だけではなく、王立魔導学院の全校において、学院長は魔力を持たない者が任命されています。さらにいえば、討魔庁の長官も、各地の支所長もです。おそらくあなたは、魔導師マグスを統括する責任者がなぜ魔力を持たない凡人なのか、疑問に思っているでしょうね」


 リュカは顔を上げ、グリシラの目を見つめ返した。


「……ええ、あの、……」


 うまく言葉にできない。凡人――とはまったく思えないが、たしかに、学院長がなぜ魔導師マグスではないのかは疑問だった。グリシラは自分とリュカの右手をそれぞれ見比べて穏やかな声で答える。


魔導師マグスの力とは結局のところ悪魔の力を借りたものです。しかも、有望な未来のある子供たちの生を悪魔に差し出して得る力です。不安定で、不確かで、危険な賭です。現状の我々はそんなものに頼るしかない。それでも――」


 グリシラの目が、窓に移される。

 差し込んだ午後の柔らかい光が、寝台の隅に菱形の陽だまりをつくっている。


「あなたたちを地獄へと送り込む、その最後の判断と責務だけは、人間が負わなければいけない。そして最後の時には人間があなたたちの後駆として立ち、盾となって死ななければならない。それをよく憶えておきなさい」


 リュカの胸にグリシラの指が突きつけられた。


「次に同じ状況が訪れたときも、私はあなたに撤退を命じます。あなたが護られるべき子供であり、我々の命の方が安いからです。それが不満なら、身体を早く治し、また学びに戻ることです。あなたが悪魔の制御を体得し、魔導師マグスに叙されたら――」


 グリシラは丸椅子から立ち上がった。


「――私は喜んであなたに戦闘命令を下しましょう」


       * * *


 怪我は前と同じように二日で完全に癒えた。

 大事を取って今日も授業は休めとソニアに言われたため、日中を自室の寝台で漫然と過ごした。眠くもないのに眠ろうとすると、また要らぬ考え事をしてしまう。

 思い浮かぶのは、燃える羽虫の群れに囲まれた光景ばかり。

 悪魔を制御できていないのだ。思い浮かべるだけで魔力が漏れ出てしまっても不思議ではない。グリシラの言葉が胸に刺さって残っている。


 結果的に最善だった――。


 たまたまうまくいったに過ぎない。

 次は失敗するかもしれない。リュカが死ぬだけではなく、まわりを巻き込んでもっとひどい結果をもたらすかもしれない。


 一日も早く悪魔を抑え込めるようになるしかない。


 そう考えるとじっとしていられず、授業の終わりを告げる鐘を聞くとすぐに部屋を出て生徒会塔に向かった。


 生徒会室には、エメリンがすでに来ていた。


「リュカさん! もうお加減は良いのですか、まだお休みになっていた方が」


 心配そうな顔で寄ってくるエメリンをリュカは両手で押しとどめる。


「もう大丈夫です。……すみません、心配かけて」


「いえ。……私も、あの夜はずっと伏せっていて……なにもできませんでしたから。リュカさんにはほんとうに、助けられてばかりで」


 リュカは目を伏せて首を振った。

 偶然なんとかなっただけなのだ。


「私も早く魔導師マグスになって、みなさんのお役に立たなくては」


 エメリンは声をやや明るくする。


「受肉の後、新月祷を何度か経験すると体内の悪魔を把握しやすくなるといわれているんです。実際に最初の新月祷直後に悪魔の名前が判明する場合が多くて」


「そう……ですか」


 肩を落としたリュカを見てエメリンははっと気づいて口に手をあてた。リュカは新月に受肉者を蝕むというその苦痛を経験していないのだ。


「あ、あの、その……リュカさんは、私なんかよりずっと魔導師マグスに近づけていると思います。ほんとうに、あと少しのところまで」


 慰めるつもりなのか、エメリンはそんなことを言い出す。


「だって魔力を出せていますよね。しかも第三層の悪魔を倒せるほどの、ですよ。実はリュカさんはとっくにご自分の悪魔の名前を知っておられるのではないでしょうか」


「え……?」


 リュカは目をしばたたく。


「実は知っている、って言われても……。知らないものは知らないです……」


「ですから、以前お調べしたときに、記憶が封鎖されている可能性があると言いましたよね。埋もれていて引き出せないだけかもしれません」


 記憶が封鎖されている。

 あらためて考えてみると、ぞっとする可能性だった。人間の記憶がそんなふうに術式とやらでいじくれるのだとしたら、一体なにを信じればいいのだ。


(だれがそんなことを……)


(母さんが? どうして)


 こめかみがずきずきと痛み始める。

 たしかに、街を焼かれたあの夜のことを思い出そうとすると、なにか違和感がある。炎を宿す羽虫たちばかりが脳裏に浮かび、まるで他のことを覆い隠そうとするように視界いっぱいに殖えてしまうのだ。


「ということでリュカさん、記憶を掘り起こしてみましょう」


「え……前にやってもらったやつですか……?」


 不信感を顔に出さないように、と気をつけたが、失敗したようだった。


「いえっ、あの、いかがわしい催眠術ではなくて、ですね」


 自分でいかがわしいと言ってしまうのだからもうどんな反応を返せばいいのかわからない。


「もっと簡素で直截的なやり方です。思い出したい状況をできる限り再現するんです。同じ服を着たりとか、同じ場所に行ったりとか、同じものを食べたりとか」


「あ……ああ、はい。なるほど」


 予想よりもまともそうな方法だった。


「悪魔に襲われた夜、リュカさんはなにをなさっていましたか?」


「……寝てました……。疲れてたし、帰ってきてなにも食べずにそのまま」


「あっ……そう、そうですよね。夜ですものね。……ええと、その、寝る前は、なにをなさっていましたか……?」


 リュカは目を伏せた。


「仕事……です……」


「リュカさんのお仕事……あっ……」


 エメリンは両手で口を覆って顔を赤らめた。知っている様子だった。


(そういえばソニアもぼくのことを最初からいくらか知っていたっけ)


 おそらく防疫局から回されてきた調査報告を生徒会執行部の面々が事前に読んでいたのだろう。しかもエメリンのこの反応は、あきれるほど世間知らずだったソニアとちがって、どうやらちゃんと仕事内容を知っているようだ。


(もうこの話は終わりってことでいいかな……)


 ところがエメリンは赤い顔のまま意気込んで言う。


「で、ではっ、そのお仕事も再現しましょう。記憶を取り戻すためです、なんでもやってみなくてはっ」


 リュカは目を白黒させる。


「え、えええ……? いや、あの、再現って」


「私も協力します! お客の役を私がやりますから」


「お客って、その……なにするかわかってるんですか」


 リュカの方も顔がかっかと熱くなってきた。


「もちろんわかっています! リュカさんがお相手なら平気です、むしろ大歓迎です、リュカさんにならいくらでもお支払いしますから!」


 熱っぽく迫ってきたエメリンの肩をリュカはつかんで必死に押し戻す。


「あのですね、ぼく、そのっ、……男性が相手だったので……」


 もっと他に言うべきことがある気がしたが、リュカも動転していた。エメリンはしばし呆然となった後で、さらに食いついてくる。


「そうですよね、リュカさんくらい可愛らしければ当然です、私もっ、女としても経験ありませんけれど男役としてがんばりますからっ」


「なにをですか、あの、ちょっと待って」


 エメリンはリュカをソファの方へぐいぐい引っぱっていき、押し倒して馬乗りになる。


「ええとっ、どのようにすればいいのでしょうか、あっ、私が上でいいのですか? こういう場合は男が上でしょうか、あの、男というのはつまりリュカさんのことではなく男役の私のことであり、もちろんリュカさんも男なのですけれど」


 もはや二人ともわけがわからなくなっている状態で熱気だけが募ってエメリンの顔がゆっくりリュカの唇目がけて落ちてくる。押しのけようとして持ち上げた手がエメリンの柔らかい胸のふくらみに遭遇してリュカは頭が沸騰しそうになり、あわてて手を引っ込める。するとエメリンを止めるものはもうなにもなくなり、そのまま背中をソファに押しつけられ――


「なにしてるのよあなたたちはッ?」


 突然の声にエメリンの身体は猫のように跳び上がった。


「――ソニアさんっ?」


 声が裏返る。

 両開きの大扉を開いて生徒会室に大股で踏み込んできたのはソニアだった。


「全校生徒の規範となるべき執行部役員が生徒会室をはしたないことに使わないでっ」


 ソニアは真っ赤になって大机に掌を叩きつける。


「いえ、はしたないことではないんです、これは」


 エメリンは着衣の乱れを直しながら言い訳する。


「リュカさんの悪魔の名前を探るために記憶を掘り起こす作業中だったんです、再現法というもので受肉当時の状況になるべく近い状態に身を置いて記憶を喚起するわけで」


「今のが当時の状況なのっ? どこが――」


「こういうことをするのがリュカさんとお母さんの仕事なんです、街娼というお仕事、ソニアさんはどういうものかご存じないですよね? 私は知ってますから!」


 ソニアは鼻白んで目をしばたたく。


「……知らないけれど」


 リュカに目が移される。


「……そういう仕事なの? ほんとうに?」


 嘘をつくのもどうかと思ったので、リュカは目をそらしつつも曖昧にうなずく。これでソニアから軽蔑されてしまうのではないか――と思いきや、彼女はふうっと息をついて言った。


「そう。それならしかたないわね。まだいまいちどういう仕事なのかわからないけれど、世情に疎いわたしが口出しすることではないようね。ごめんなさい」


 妙なところで王女の慎み深さが発揮されてしまいリュカは唖然とした。


「邪魔して悪かったわ。それじゃあ続けなさい」


「い、いえ。あまりうまくいかなかったようなので、今日はこのへんにします」


 さしものエメリンもソニアが見ている前で続ける蛮勇は持ち合わせていないようだった。リュカはひそかに安堵する。

 まともな方向に話を持っていこうと思い、訊いてみた。


「……あの、ソニアが悪魔の名前を知ったときって、どんな感じだったの」


 ソニアは腕を組んで思案顔になった。


「それ、よく訊かれるのだけれど、わたしのはあまり参考にならないと思うわ。受肉して目を醒ましたらもう身体の中にいるのが《砂塵の絶剣サドゥメキア》だとわかっていたから」


「ソニアさんは天才ですから……」とエメリンが苦笑する。


 リュカは弱り果てた。たしかにまったく参考にならない。ソニアが続けて言う。


「でも、他の魔導師マグスにも話を聞いたけれど、みんな似たり寄ったりよ。計算で名前を絞り込んだり、魔力を測定したり、悪魔の姿から推測したり――と、ある程度の助けになる方法はいくつも考案されている。でも、これだけの歴史を重ねていても、確実なやり方はひとつも定式化されていない。最終的には、訪れるその瞬間を待つしかない。あるとき突然、わかるのよ。そうね、自分が何者なのかに気づく、というか」


 自分が、何者なのか……。


「悪魔の名前を知る、というよりも――忘れていた自分の名前をふと思い出す、という感覚の方がずっと近いわ」


 それを聞いたエメリンが自分の左手首を右手でつかんで、染みるような声でつぶやく。


「私たちは……もう、ほとんど悪魔――なのですね」


 グリシラも似たようなことを言っていた、とリュカは思い出す。

 魔導師マグスは根本のところで、もはや人間ではないのだ。


 妙な空気になってしまったのを気にしてか、ソニアはわざとらしく声を明るめに変えた。


「わたしよりもレイチェルに話を聞いた方がずっと参考になると思うわ。理論派だし。今日はまだ来ていないの?」


「あ、はい。レイチェルさんは昔の在校生について調べるので、今日はだいぶ遅れると」


「ああ……」


 ソニアはリュカの顔をちらとうかがう。


「そういえばわたしが頼んだのだったわね」


「でも、ちょっと心配です」


 エメリンは眉根を寄せてため息をつく。


「レイチェルさん、調べ物が軌道に乗るとまわりが見えなくなってしまいますから。無茶なところに首を突っ込んでいないといいのですけれど……」


       * * *


 王立魔導学院第一校の敷地の西端に、窓がひとつもないのっぺりした外観の太い塔が建っている。地上六階建て、地下は何階まであるのか公開されていない。


 図書院、である。


 一般的な図書館とはちがい、悪魔に関連した蔵書が大量にあり、稀覯本や禁書も収められているため、何段階もの複雑な閲覧許可制度があり、どの階も細かく区分けされてそれぞれ厳重に施錠されていた。


 レイチェルが足を踏み入れていたのは、司書さえもおそらく存在を知らない地下八階だった。入室許可をもらえたのは地下五階まで。そこから先は手製の錠前破りの道具に頼った。露見すれば退学もあり得る暴挙だったが、好奇心と危機感がレイチェルの背中を押した。


(生徒会に残っていた資料と、執務棟で確認した研究計画書、そして王都から取り寄せた討魔庁の人事記録)


(情報を総合すれば――私の探しているものはここにある)


 暗闇の中に並ぶ書架は、納骨堂を思わせた。

 空気は冷え切っており、黴と古い紙のにおいが染み渡っている。


 目当てのものを夜光燈のかすかな明かりだけで探し出すのは非常に困難な作業だった。夜光燈の蛍光石には三日分の陽光を浴びさせて限度いっぱいの光量を蓄えさせているが、それでもほとんど手元しか見えない。


 手触りと音を頼りに、暗闇の中を這い回った。


 どれほど経っただろう。夜光燈の光はすでに半分ほどまで弱まっていた。レイチェルはかじかんだ手で書架から抜きだした何百冊目かを開く。


 手が止まった。


(……あった。これだ)


 震える指でページをめくる。


 執筆者として列記された名前をたどる。四人の高名な魔導師マグスが並び、その次に記されているのは共同研究者の生徒たち。最初の一人は――


(王妃……)


(ここの生徒だったときに、この研究に加わっていた)


 後に王妃となるほどの身分の高い生徒が参加していた研究の結果報告が、なぜこのような禁域に死蔵されているのか。


(おそらく、内容があまりにも危険すぎて公表できないから)


(それでいて破棄されていないのは、成果が大きすぎて惜しかったから)


 報告書を読み進めていくにつれてレイチェルは自分の直観が正しかったことへの確信を深めていく。

 使用された術式が具体的に列記されているページにたどり着いた。レイチェルは書を膝に置いたまま懐から折りたたんだ紙を取り出し、広げてページに並べる。

 リュカの右手の保護術式の図案を写し取ったものだ。


(高度な術式には、必ず施術者固有の書式の癖が織り込まれる)


(併行解析していけば、同じ施術者をあぶり出せるはず)


 真っ暗闇の中、暗算で解析を進めていく。王立魔導学院開設以来の天才児と呼ばれるレイチェルでなくては不可能な芸当だった。


 やがて、ページの上の図案をたどっていた指が止まる。


(一致した)


 施術者の名は、カミナ。

 王妃と同年齢の同期生だ。年齢的にもリュカの母親である可能性が大きい。


(推測通り、リュカの母親は王妃と同時期にこの第一校に在学していて――しかも、同じ研究に携わっていた)


(しかも、この研究は……)


 胎児への術式。門の固定化。定期的な瘴気の投与。

 恐るべき記述が次々と現れる。レイチェルは戦慄した。鳥肌がおさまらない。


(こんなおぞましい研究が、王立の学院で行われていたなんて)


 それでいてレイチェルは、一人の研究者として、理解できてしまう。これは棄てられない。あまりにも惜しい。倫理面に目をつぶって進めていればどれほどの成果が得られたか見当もつかない。


(どこまで進んだのか――)


(少なくとも一人、成功例がいた)


(リュカだ)


 存在自体が危険なこの報告書を持ち出すべきか、あるいは今ここで読み切ってすべて暗記してしまうべきかレイチェルが迷っていると、ふと後方になにかの気配を感じた。


 振り向くより早く、レイチェルの胴体を鈍痛が貫いた。


 夜光燈が落ちて砕け、ガラス筒の中の蛍光石が散ってささやかな銀河となる。

 レイチェルは床にうつぶせに倒れた。

 遠ざかる意識の中、視界の端にだれかの足が見えた。

 かがみ込み、レイチェルの身体の下から報告書を引きずり出す。

 真っ暗闇の中、顔どころか体つきさえわからない。


 襲撃者もおそらく、この暗さであれば声をたてない限りなにもわかるまいとたかをくくっていたのだろう。しかしレイチェルの観察力と記憶力はその想定をはるかに凌駕していた。音もなく正確な一撃を加えてきたのが悪魔の力であることも把握していたし、打突物の形状からどの悪魔なのかもほぼ絞り込んでいた。


(今のはビュレッススの見えざる鞭毛……)


(ロベリット・フォンゾ……!)


 足音が遠ざかるにつれ、レイチェルの意識は薄らいでいき、じきに真の闇が訪れた。


       * * *


 司書の目を盗んで図書院の裏口から脱出したロベリットは、林の中に駆け込んで木立の根元に座り込み、荒い息を繰り返した。

 夕暮れが近づき、陽はすでに城壁の向こうに隠れていたが、それでも真っ暗闇から逃げ出してきたばかりのロベリットにとってはあたりの明るさが目に痛いほどだった。


 自分の左手を見つめる。

 指に残る、悪魔の毛先越しの手応え。


(殺してはいない。気絶させただけだ。大丈夫だ)


 自分に必死に言い聞かせる。

 手荒なことをするつもりはなかった。しかし、レイチェルの長すぎる閲覧時間を不審に思った司書が地下におりてくる気配があったのだ。二度とないかもしれない好機を邪魔されたくなかった。

 なにより、あの王家の代理人だという男から命じられた任務を、一刻も早く済ませて身軽になってしまいたかった。

 リュカの正体を調べ上げること。


(あの女があれだけ長い間読み込んでいたものだ。有力な情報にちがいない)


 懐に押し込んであった報告書を取り出し、周囲に人の気配がないことをもう一度たしかめ、ページを開く。

 読み進める内に、寒気が押し寄せてくる。

 何度、閉じようと思ったかわからない。しかし、今さら遅かった。

 知ってしまったという事実は――どうやっても消せない。


(なんてことだ。あいつは……リュカは……)


 記述と図解を目でたどりながら、ロベリットは何度も髪を掻きむしった。

 読み終えた後、樹の幹に背を預け、しばらく放心する。


(俺は……もう終わりだ)


(こんなものを知ってしまったら)


 侯爵家の三男として生まれ、幼い頃から貴族社会の空気を呼吸して生きてきたロベリットは、宮廷政治を支配している力学が身に染みついていた。この情報がどのように波及してどのような影響を広げていくのかをかなり正確に予測できた。


(これを素直に依頼者に報告したら、俺は消される)


(父上も俺を護ってはくれないだろう)


 侯爵の息子とはいえ、自分は三男である。嫡子ではない。領地も与えられていない。


 魔導師マグスがどれほど名誉ある職だと言われていようとも、その実態は常に地獄の際で生命を危険に晒して戦う兵卒である。ほんとうにかけがえのない息子や娘を王立魔導学院に進ませる貴族はいない。

 いざとなれば簡単に棄てられる。ロベリットはだれよりもよく理解していた。


(なぜ俺がこんな目に遭う?)


(だれよりも努力し、第三層魔導師マグスに叙任され、寮長として学院側からも信頼され、男子生徒たちのまとめ役として――それが……)


(あいつだ。あいつが来てからすべて狂った)


 ロベリットは拳を背後の樹に叩きつけた。

 ほとんど無意識に発現させていたビュレッススの触手が幹に巻きついて食い込み、へし折る。倒れる木の軋みを背中に聞きながらロベリットは立ち上がった。


(俺がこれからどうなるにしろ、その前にあいつを――)


       * * *


 リュカは寮への道を急いでいた。

 もう陽はすっかり沈んでしまい、林の際に敷かれた遊歩道は木立の影で真っ暗に塗り潰されている。風が強まり、梢の葉擦れが不吉に響いて聞こえた。


 けっきょくレイチェルは生徒会室に顔を出さなかった。ソニアとエメリンはもう少し待つというので、リュカだけ先に寮に戻ることになったのだ。レイチェルがなにを調べているのか、二人とも教えてくれなかった。どうにも、リュカに知られたくないようだった。


(しかたない。いくら執行部庶務に任命されていたって、ぼくは身元もよくわからない新参者なんだ)

(信用してもらえるわけがない)


 今の自分にできるのは、一日も早く魔導師マグスになれるようひたすらもがき続けることだけだ。


(部屋に戻ったら数理学の復習をしよう)


 そう決めたリュカは歩を早めた。


 遊歩道の途中で、ふとその足が止まる。


 左手の林の中から、ゆらりと現れた人影が前に立ちはだかったからだ。

 長身の男子生徒だった。その明るい金髪には見憶えがあるはずなのに、形相が変わり果てていて、一瞬だれかわからなかった。ロベリットだ。

 リュカは、その凶暴な視線にぞっとして、後ずさった。


「……ぼくに、なにか――用ですか」


 こわばった声で訊ねる。

 ロベリットは答えず、制服の懐からなにかを取り出した。

 一冊の、綴じの粗い本だ。

 ページを開き、目を落とし、つぶやき始める。


「……16377728902……」


 意味のわからない、数字の羅列だった。

 それでもリュカは、身体が魂ごと内側から捲れ返るようなすさまじい恐怖をおぼえた。舌がからからに乾いて歯の裏に張りつき、息もできなくなった。


(これは――)


(だめだ、聞いてはだめだ!)


 本能的に身体が動き、ロベリットから遠ざかろうとする。

 けれど遅かった。


「……屈従せよ」


 結句がロベリットの口からぼたりとこぼれる。その瞬間、リュカの全身が冷たい泥水に浸かったかのように重くなり、力なく石畳の上に膝をつき、くずおれ、うずくまってしまう。


(なんだ……これ)


(寒い。苦しい。重たい)


 遊歩道の石敷に頬を押しつけながら、リュカはひきつった喉を鳴らして細い呼吸を必死に繰り返した。


「……ほんとうに効くのか」


 声が降ってくる。

 足音が近づいてきて、頭のすぐ後ろで止まる。かがみ込む気配があり、髪をつかまれ、強引に首がねじられて顔を上向きにさせられた。

 目の前に、ロベリットの双眸がある。どろりと濁った光が瞳に差している。


「……は、は。ほんとうにこんな簡単な命令句が効きやがるのか。じゃあ、この報告書は全部ほんとうか。は、ははッ、……くそったれが」


 ロベリットのうつろな哄笑がリュカの顔面に吐きかけられる。

 身動きができない。


 身体が動かない――のではない。


 動かす気が起きないのだ。


「俺が今なにをしたのか教えてやろうか?」


 憎しみをあらわにした口調でロベリットが言う。手にした書を持ち上げ、ページを開いてリュカに突きつける。


「こいつだよ。数列だけで発動する定型術式だ。おまえのあらゆる行動に必要となる精神活動を根源的に抑圧した。俺が解除するまで、おまえはただそうやって這いつくばるだけしか能がない蛆虫だ」


 ロベリットは歯を剥いて笑う。


「なぜこんなに簡単にできたかわかるか? おまえの身体の中に最初から仕込まれていたからだよ。赤ん坊の頃からだ。おまえ専用の首枷なんだよ、この数列は」


 そう言ってロベリットはリュカの首の後ろを踏みつける。


「おまえの母親は二十年前、この第一校に入学した。後に王妃になる公爵令嬢と同期だ。二人は同じ研究班に配属されている。王家の主導で進められた秘密裏の大規模研究で、公爵令嬢はおそらく名目上だろうが、この研究の責任者になっている」


 踏みつける足の圧力が強められる。ロベリットはリュカの耳に口を寄せて、悪意にまみれた言葉を注ぎ込む。


「吐き気のするような研究だよ。妊婦の腹に管を差し込んで、微量の悪魔の肉片と瘴気を注入する。少しずつ増量しながら何度も何度も投与する。『悪魔は若い人間の肉体を欲する』という経験則を極限まで推し進めた実験だ。もちろんこんな馬鹿なことをすればほとんどの胎児は生まれる前に死ぬ。だが、ごくわずか成功例があった」


 指が頬に食い込む。憎悪を剥き出しにしたロベリットの両眼がすぐ真上にある。


「生存した胎児の肉体は、悪魔にきわめて近い。肉体そのものが地獄への門になっているといっていい。深層に接続しやすく、儀式なしでも容易に受肉する。そうなったときに飼い慣らせるように、あらかじめ抑圧のための定型術式を仕込んでおくわけだ。俺の言っていることがわかるか? 蛆虫」


 リュカにはわかる。

 行動のための精神活動が抑圧されていても、聞くことと理解することは止められていない。

 だから、わかってしまう。


(それじゃあ。ぼくは)


(ぼくのこの身体は――)


「おまえは深層の悪魔を捕まえるための餌袋だ」


 ロベリットが吐き捨てる。


「猟のとき、獣が警戒しないように獣の糞のにおいをつけて罠を仕掛けるだろう。あれと同じだよ。そうして首尾良く捕まえた悪魔を――」


 リュカの右手がねじり上げられる。巻きつけられた包帯が引きむしられ、剥ぎ取られ、黒く変色した肌とそこに刻まれた鉛色の呪紋があらわになる。


「おまえの母親はこうやってご丁寧に保護術式でくるんで防疫局に売り渡したんだ。事情を知らない魔導師マグスが見たら殺処分するかもしれないからな」


(母が、ぼくを……)


「息子の身体よりも、そこに寄生した悪魔の方が大事だったんだよ。おまえの母親は」


 ロベリットの言葉が、がらんどうになったリュカの意識の中で何重にも反響する。


(僕は、ただの容れ物で――)


(悪魔を捕らえて売るために、ずっと育てていて)


(そんなの、わかっていたはずじゃないか)


(わかっていた。ぼくは母に売られたんだ。最初からわかっていたのに)


 リュカの唇の端から、地面に触れた指先から、靴底で踏みにじられたうなじから、体温と生気と現実感とか漏れ出ていく。暗く冷たい虚無が打ち寄せてくる。

 ロベリットは身を起こし、リュカの顎を強く蹴り飛ばした。痛みはまるで他人の身体のように遠く感じられた。


「こんなおぞましい研究が王家の指示で進められてたなんて、公にできるわけがない。途中で打ち切られたのもそこを問題視されたんだろう。だが研究内容自体は価値がある。それで棄てられずに図書院に残されてたわけだ。……こんなもの、残らず燃やせばよかったんだ。くそったれが」


 彼の言葉はもはやリュカに向けられたものではなかった。


「こんなもの馬鹿正直に提出したら俺は殺される。魔導師マグスなんて戦死を装って簡単に殺せるんだ。俺が黙っていてもいつか明るみに出る。レイチェルが知ってるからだ。どうすればよかった? あの場であの女を殺せばよかったのか? 黙ってこいつを書架に戻してしらばっくれればやり過ごせたのか? そんなわけない。そんなに甘くはない。じゃあどうする。どうしてこうなったんだ。おまえが。おまえがこの学院に来たからだ。おまえさえいなければ。忌々しい。おまえも一生這いつくばって俺と同じ地獄を味わえ。俺は、俺は――」


 リュカへの呪詛の言葉を吐き散らしながら、しかしロベリットはリュカを見ていなかった。暗い遊歩道の先に横たわる絶望を凝視していた。


 ぶつぶつというつぶやきと、引きずるような足音とが遠ざかっていく。


 なお色濃い絶望の中に、リュカは取り残される。


(ぼくは今まで、なにを思い上がっていたんだろう)


(自分がだれかの役に立てるなんて)


魔導師マグスになって、ソニアを護りたいなんて……)


(母親にも見捨てられた糞虫なのに)


 その絶望が術式による精神抑圧なのか、自分の本心からにじみ出てきたものなのか、リュカには判別できない。

 いや、心の動きに本物も嘘もない。

 そう感じているなら、それが真実だ。


(ごめんなさい)


 なにに対して謝っているのかも、リュカはもうわからない。


(ごめんなさい……)


 背を丸め、膝を抱え、リュカは打ち寄せてくるむなしさのまっただ中で固く縮こまり、ばらばらになりそうな自分を必死につなぎ止めていた。


       * * *


 レイチェルは暗がりの中で飛び起きた。


 身体から毛布が滑り落ちる。


 自分が今どこにいるのかとっさに理解できない。柔らかいものの上に横たわっていたようだ。寝台? 意識を失う前は――そう、図書院の地下八階で報告書を発見して……


 記憶が一気に流れ出てくる。


 あらためてあたりを見回した。


 と、暗闇の中に明かりがともる。ランプの柔らかい火だ。手にしているのはエメリンだった。レイチェルと目が合うと、その顔が安堵にゆるむ。


「ああ、レイチェルさん! よかった、目を醒ましたんですね。具合はどうですか、お怪我はないようでしたけれど、気分が悪かったりは」


 レイチェルは「大丈夫」と首を振る。

 もうひとつ、もぞもぞと闇の中で動く気配がある。寝台の足下の床でだれかが布にくるまってうずくまっていたらしい。立ち上がって光の中に入ってくる。ソニアだ。


「レイチェル、あなた……相当無茶なことをしたんでしょう? 図書院の立ち入り禁止区域で倒れてるのを司書が見つけたのよ」


 ソニアは憔悴した顔で言った。


「今は……夜中?」


 レイチェルは暗い室内を見回して訊ねる。


「ええ。あなたを生徒会室で待っていたら、司書が青い顔で飛び込んできて」


 図書院の地下八階の錠前を破って侵入して、過去の研究の記録を探していて……。

 そうだ、あのとき後ろから襲われて――報告書を……


「……ロベリット」


 レイチェルは思い出してつぶやいた。


「ロベリット・フォンゾは? 今どうしているかわかる?」


 ソニアとレイチェルは顔を見合わせる。


「……彼がどうかしたの。彼にやられたの? あなたは図書院でなにを調べていたの?」


 答えようとしてレイチェルは言葉に詰まる。

 自分が発見した情報は、猛毒だ。知っているだけで危険なのだ。

 この二人に話すわけにはいかない。


「とにかくロベリットを捜して。私が見つけたものはあいつが持っていってしまった」


「どうしてフォンゾさんが……? 見つけたものってなんですか」


 エメリンが身を乗り出して訊いてくる。レイチェルはまた首を振る。


「言えない。危ない」


「リュカがああなったのと関係あるの? ロベリットがなにかしたのっ?」


 ソニアがレイチェルの両腕をつかんで口調を強める。


(リュカ……?)


 レイチェルはソニアの肩越しに部屋の反対側を見やる。そこでようやく、ここが自分とエメリンの寝室ではなくリュカとソニアの部屋であることに気づいた。向かいの壁に押しつけられた寝台にはリュカが寝かされている。


 離れた場所から見てもすぐにわかる、異様な雰囲気だった。


 目を剥いて天井をにらんだまま、身じろぎもしない。半開きの口の端には涎の跡がある。眼球は血走っている。レイチェルが寝台から飛び降りて駆け寄ってもなんの反応もない。


「これは……」


 まぶたをめくってみたり、口の中から舌を引っぱり出したりしてみる。


(……抑圧術式をかけられている。間違いない)


(あの報告書にあった、被験者胎児に施されていたという安全装置だ)


(ロベリットがやったとしか考えられない)


「なにがあったんですかレイチェルさん、説明してください! リュカさんは林のはずれで倒れているのを発見されて、それからずっとこうなんです!」


 エメリンが寄ってきてすがりつくようにして言う。

 しかしレイチェルは首を振るばかりだ。


(だめだ。なにも話せない)


(この二人を巻き込むわけにはいかない)


「レイチェルさん! どうして――」


 声をよじれさせるエメリンの肩に、ソニアの手が置かれた。目でエメリンを黙らせ、レイチェルに一歩近づき、腰をかがめて目の高さを合わせてくる。


「レイチェル」


 名を呼ばれただけで、身体の中のどこか大切な臓器を素手でつかまれたような気分になる。その深い空の色をした瞳を、ただ見つめ返すことしかできない。


「……なにかわかったのね? ……わたしの頼みで調査して……それで、おそらくは、知っているだけで命を狙われるような、そういう危険な情報に行き当たってしまったのね」


 うなずくことさえできない。

 でもソニアにはすべて伝わってしまう。


「でも、あなたひとりで抱え込まれては、わたしもエメリンも哀しい。友人として」


 レイチェルはソニアのまっすぐな視線に耐えきれなくなり、うつむいてしまう。


「現実的な話もするわ。あなたひとりでその情報を抱えていたら、口を封じたい者はあなたひとりを消せばいい。でもわたしとエメリンとで共有すれば、そうもいかなくなる」


 あたたかいものが肩に置かれるのがわかる。

 エメリンの手だ。

 同じくらいあたたかい声。

「私もソニアさんも、一緒に背負いますから」


 ゆっくりと時間をかけて、レイチェルの中に二人の思いが染み込んでくる。

 分かち合えば――猛毒も薄まるのだ。


 レイチェルは小さくうなずき、顔を上げた。


 二人が優しく微笑んで迎え入れてくれる。


 ひとつひとつ、話し始めた。

 報告書に書かれていた研究の内容。胎児への悪魔肉片投与。体質改造による自発的受肉。

 聞いていたソニアの顔は徐々に嫌悪と哀しみに歪み、エメリンは口元を両手で押さえて表情を翳らせる。


「……それじゃあ、リュカさんは……」


 レイチェルの話を聞き終えたエメリンは、寝台で凍りついたままのリュカを見やって言葉を詰まらせる。


「……お母様が……そんな研究に……」


 ソニアも声を震わせる。

 しばらく、だれもが黙り込んでいた。


「……この状態は、それじゃあ、術式を解除しなければずっと続くんですか」


 やがてエメリンがリュカの額に手をあてて言う。レイチェルはうなずいた。


「でも、かけた者でないと解除できない」


「ともかくロベリットを捜しましょう」


 ソニアは言って、部屋の戸口に向かった。


       * * *


 男子寮の生徒たちは、深夜のソニアの訪問に驚いていたが、ロベリットの所在を訊ねられるとみな納得顔になった。


「戻ってきてないんです」


「無断でどこか遊びに行くような人じゃないんですが……」


「なにかあったんですか?」


 男子寮生たちが心配そうに訊いてくる。


「……詳しくは話せないけれど、面倒なことに巻き込まれている可能性があるわ。なにか知っている人がいたらすぐ報せて」


 そう言い置いてソニアは男子寮を後にした。

 暗い遊歩道をひとり歩きながら、思案する。


(なぜロベリットがレイチェルを襲った?)


(わたしの命を狙っているという学院内部の敵が――やはりロベリットだったのか)


 執務棟に足を向けた。深夜だからもうだれもいないだろうかと思ったが、三階の窓に明かりが見えた。学院長室だ。

 グリシラはまだ部屋にいた。執務机で山積みの書類を険しい顔で読んでいた彼女は、ソニアが入っていくとすぐに立ち上がった。


「私の方から行こうと思っていたところです。レイチェルは目を醒ましましたか?」


「……はい」


 図書院のことは当然グリシラの耳にも入っているだろう。レイチェルは違反行為をしていたわけで、ここは慎重にならなければいけない。学院長は完全に味方とは言い切れないのだ。


「ロベリット・フォンゾが、図書院の禁止区域に入っていくのを見かけたそうです。止めようとして追いかけたところ、反撃を受けたと。気絶させられただけで、別状ありません」


 不在のロベリットに不法侵入の罪を着せるのは良心が痛んだが、この切羽詰まった状況で問題を増やすわけにはいかなかった。


「ロベリットが?」


 グリシラは片側の眉を上げた。


「なるほど。そのような話にするわけですね」


 ソニアの嘘はどうやら見抜かれていて、その上で黙認するようだった。グリシラとしても今は面倒を増やしたくないのだろう。


「それでロベリットは今どうしていますか」


「行方がわかりません。男子寮に戻っていない、と」


 そこでやや迷ってから、リュカに手を出したことも伝えた。ただし定型術式のことは伏せる。説明すればリュカの出生にまつわる忌まわしい研究のことまで言及しなければならない。いずれグリシラには知らせるべきかもしれないが、今はそのときではない。


「ロベリットは、王家からの密使と接触していた節があります」


 グリシラが言った。ソニアははっとして目を見開く。


「なにか命じられていたのだとすれば、今回の行動にも説明がつきます」


(……では、やはりロベリットが刺客だったのか?)


「けれどソニア、あなたを殺そうと密儀アルカナで工作したのはべつの人物ではないかと考えられます」

 ソニアはグリシラをじっと見つめ返した。

 グリシラも、二度にわたる密儀アルカナでの異様な事故が何者かによる暗殺工作だという推測にたどり着いていたのだ。


「これを」


 グリシラがそう言って視線を落とした先、机の上に、小さなガラス容器が置いてあった。

 円筒形の密封容器だ。

 中に、黒いなにかが入れられている。


「……なんですか、これは」


「土です。先日の新月祷の際、悪魔が出現した開門地点の土壌を精査しました」


 ソニアは首をかしげる。どういうことだろう。


「学院内は入念に浄化されています。悪魔が出現する可能性がそもそも極めて小さいのに、あの夜は第三層が三体も出ました。不審に思い、調べさせたのです」


「あれも……作為的なものだったということですか」


「はい。土から血液によって描いた法円の形跡が見つかりました」


 ソニアは机に両手をつき、容器の中の土を凝視し、顔を上げてグリシラを見た。


「……新月祷の日……ということは、やったのはロベリットではない……」


 ロベリットは未成年の受肉者であり、あの日はソニアたちと同じように悪魔組織の侵蝕圧に苛まれて伏せっていたはずだ。


「はい」


 グリシラは無表情にうなずいた。


「学院内に、他に敵がいます」

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