9 帝王の覚醒

 昏い空に梟がひっきりなしに飛び立ち、がなりながら南へと飛び去っていく。


 レイチェルとエメリンが駆けつけたとき、礼拝堂は護衛兵の一団に囲まれていた。地響きはまだ断続的に続いている。明らかに、礼拝堂の地下からだ。


「近づくな! 生徒は隣村まで避難しろッ!」


 二人を見かけた護衛兵が怒鳴る。


「生徒会執行部です!」


 エメリンは大声で返して礼拝堂の入り口に駆け寄った。


「なにがあったんですか、この揺れはなんですか?」


 護衛兵は渋い顔をした。隣のもう一人が答える。


「地下のあれが動き出した」


 絶句する。


「早く逃げろ。この一帯は壊滅するぞ」


 そう告げる兵の顔も青ざめている。


 エメリンは兵の脇をすり抜けて堂内に駆け込んだ。


「あッ待てッ」


 その隙にレイチェルも続く。


 祭壇右奥、《騎士の間》にはたくさんの松明が煌々と焚かれ、学院の魔導師マグス教員が全員集まっていた。学院長グリシラの姿もある。部屋に入ってきたエメリンとレイチェルに剣呑な視線が集まる。


「危険です、早く避難なさい」とグリシラが冷たく言い放つ。


「きみたちは生徒会役員だろう、職員を手伝って全校生徒に避難を指示して!」


 教員たちからも厳しい言葉が飛んできた。エメリンはひるまず訊き返す。


「なぜ動き出したんですか? まだ拘束術式は有効だったはず――」


「我々にも詳しいことはわからん」


 軍務長のマッグラドが険しい顔で答えた。


「今は理由を詮索すべきときではありません」とグリシラは冷ややかに言う。


 エメリンもレイチェルも、密儀堂への堅牢な鉄扉を見つめる。すでに、血糊と銀粉でびっしりと呪紋が書かれている。急場しのぎの封鎖術式だろう。


「現在、可能な限りの救援要請を出しています。王国全土の魔導師マグスを集めます」


「……ソニアさんは……どうしているんですか」


「中にいます」


 グリシラは沈痛そうに言った。


「戦力が集まるまで、あれを食い止めてもらわなければ」


 エメリンは血が音を立てて頭から引いていくのを感じて一瞬気が遠くなった。


「――そんなっ、それじゃ、ソニアさんに死ねと言っているようなものじゃ」


「他にどうしようがある!」


 マッグラドが声を荒らげた。


「あれは第七層だぞ。自由にさせたら国が滅びる」


 エメリンはこう言いかける。全土の魔導師マグスを集めたところで斃せる保証などないではないか、と。

 そんなことはここに居並ぶだれもがわかっている。

 第七層の悪魔のわずか十二分の一の魔力しか持たない第六層魔導師マグスですら、王国じゅうでたった六人しかいない。総力を束ねたところで届かないかもしれないのだ。斃せる算段が立っていたならとっくにやっている。できないからこそ、地下に閉じ込めて鎖で縛りつけて見ぬふりをしてきたのだ。


 あらためて、《騎士の間》に集った教職員たちを見渡す。


(……この人たちも……)


(全員、ここで死ぬつもりだ)


魔導師マグスは兵士だから――)


 エメリンは踵を返して走り出した。礼拝堂を出て女子寮の方へと向かう。レイチェルの足音がすぐ後ろからついてくる。


「レイチェルさん、あなたは男子寮へ! まとめ役のロベリット・フォンゾがいないから避難を指揮する人が必要です、お願いします!」


「エメリンは」


「私は女子寮に行きます」


 足音が遊歩道の分かれ道でべつの方向へと去っていったが、エメリンはそちらを確認しようともしなかった。


 女子寮も混乱に陥っていた。


「また悪魔出たの?」

「全員避難ってどういうこと」

「だって今日は先生方みんないるでしょう?」


 生徒たちにはいまいち危機感がない。新月祷のときとちがって、戦力である魔導師マグス教員たちが学院に全員残っているわけだから無理もなかった。


「ともかく避難です、荷物とかはいいから早く!」と若い教員が声を張り上げているが、生徒たちの動きは鈍い。魔導師マグスではない教員はどうにも生徒から軽んじられる傾向がある。


「あっ、エメリンさま!」


「なにがあったんですか、全員避難って――」


 エメリンの姿を見つけて駆け寄ってきた女子生徒たちを一喝する。


「全員、西門から退避! 急いで!」


 普段は温厚なエメリンの、激しい形相に驚いた女子生徒たちはおびえた顔で玄関から走り出ていく。


 エメリンは生徒会で事務員や研究員を務めている生徒四、五人を見つけ、それぞれ寮の階ひとつずつを担当させて避難命令を周知させるように指示した。それから自分は第一寮の三階に走る。


「悪魔が敷地内に出ています、すぐに避難! 西門から出て先生の指示に従って!」


 各部屋の扉を乱暴に敲き、生徒たちを追い出して回る。


 最後に、廊下の突き当たりの部屋に入った。

 ソニアと、リュカの部屋だ。


 寝台の上で、リュカは膝を抱えてうずくまり、うつろな目で窓の向こうの夕闇を見つめていた。エメリンが近づいていくと、眼球がわずかに動く。反応はそれだけだ。


「……リュカさん。礼拝堂地下の、あれが動き出しました」


 エメリンはそっと言ってみる。

 リュカは興味なさそうに目を窓に戻した。


「生徒会長を喰らった、第七層の悪魔です。ソニアさんがいま食い止めています。逃げないとみんな死にます。逃げないと……」


 言葉は震え、途中で萎れ、途切れてしまう。

 逃げて、どうなるというのだ。

 ソニアはどうせ死ぬ。そしてソニアを捨て駒にして時間稼ぎをしたところで、勝てる見込みもほとんどない。


 窓の外で、梟たちの金切り声が遠ざかっていくのが聞こえる。

 いっそう強い地響きが伝わってくる。

 エメリンは寝台に膝をついてあがり、リュカの両肩に手を置いた。


「……私は、受肉したけれどまだ自分の悪魔の名前も知らず、なんの役にも立てません。でも、リュカさん。……リュカさんなら」


 声がからからの喉に張りついて痛む。


「立ってください、リュカさん。思い出して。リュカさんはその名前を知っているはずです。もうリュカさんしかいないんです。お願い……」


 リュカは無力感の中に浮かんで漂いながら、エメリンの言葉を茫然と聞いている。


(……この人は、なにを言っているんだろう)


(ぼくはなんにも知らない)


(なんにもわからない)


(自分ひとりで立つ方法も忘れてしまった)


(だから、置いていってくれればいい)


 指がリュカの肩に強く食い込む。

 痛みは鈍く、遠い。

 エメリンの手が、腕を伝って袖まで下りてくる。リュカの右手に巻かれた包帯を、やさしくほどいていく。

 あらわになる、赤黒い皮膚。そこに刻まれた鉛色の呪紋。


「……レイチェルさんが、この右手の皮膚組織を調べました」


 エメリンが節くれ立った五本の指に向かって語りかける。


「まったく再生の兆候も見られなかったと。リュカさん、この右手は悪魔の肉体ではありません。人間の肉体です。わかりますか。この変色した肌はです」


 木の皮のようになった右手の甲を、エメリンの指が優しくなぞる。

 リュカは自分の手に目をやり、それからエメリンの顔に視線をゆっくり移す。


(この人は……)


(さっきから、なにを)


(だって、ぼくは悪魔に襲われて、右手を喰われて――受肉して……)


(悪魔の肉体じゃないなら、何度も発現させてきたあの魔力はなんなんだ?)


 エメリンはリュカの頬に手を添え、目をのぞき込んでくる。


「リュカさんは受肉した夜のことを少しだけ憶えていましたね。悪魔に喰われた瞬間の光景です。ぎざぎざの暗闇に囲まれた穴の中のような場所に突っ伏していた、と。そして瓦礫の中に落ちているちぎれた自分の右腕を見ていた――と」


 何度も鮮やかに思い出せる光景。

 リュカがまだ五体すべて人間だった頃の、最後の記憶。


「ぎざぎざの暗闇に囲まれた穴――というのは、おそらく牙の並んだ悪魔の口の中です。でもそうだとすると、腑に落ちない点があります。右手を喰われたなら、どうしてその右手が外の地面に落ちていて、リュカさんがそれを口の中から見ていたのか」


 意識の端が軋るのが聞こえた。

 リュカはエメリンの瞳を見つめ返す。


「私たちはみんな、そこで考え違いをしていたんです。最初の誤りのせいで、すべてがずれてこんがらがって解きほぐせなくなってしまった。でも最初から考え直してみれば、簡単なことでした。逆だったんです。リュカさんは右手を喰われたんじゃありません。んです」


 リュカの中のなにかに亀裂が走る。

 けれどリュカはそれを認められない。認めたくない。

 ありとあらゆる自発的行動を抑圧されているはずのリュカが、それでも、ただエメリンの言葉を否定するためだけに首をわずかに横に振った。


(そんな――そうだとしたら、ぼくは)


(ぼくの身体は――)


 エメリンはリュカの右手を持ち上げさせ、リュカ自身の頬に、首筋に、胸に、左腕に、そっと触れさせていく。


「リュカさんの人間部分はこの右腕だけです。あとはすべて受肉した悪魔なんです。あの信じられないような再生力と魔力は、そのせいです」


 そんなことがあるわけがない。

 リュカはゼバンテス師の基礎魔導学の講義を思い出す。

 悪魔部分が多ければそれだけ人間部分への侵蝕圧が高く、人間性の維持が難しくなる。腕一本が限界だといわれている――。


「そうです。普通なら、そんな比率で受肉すれば、残った腕もあっという間に侵蝕されて完全な悪魔に成り果てます。だから」


 エメリンがリュカのこわばった右手を両手でそっと包む。

 焼けただれて変色した皮膚を通して、ぬくもりが染み込んでくる。

 リュカの、ほんのわずかに残された人間性の中に。


「だから、お母様はこの腕に保護術式を施した。リュカさんが新月祷のときにもまったく平気だったのは、術式が侵蝕圧を防いでいたからです」


 リュカは自分の右手を見下ろした。

 エメリンの指の間から見える、鈍色の古エルド文字の連なりが、リュカになにかを語りかけてきているような気がする。


(悪魔の肉体部分を護るためではなく)


(ぼくを――)


「――ずっと、護ってきたんです」


 エメリンの声には涙の予感が入り交じっている。


「お母様はリュカさんを、ずっと護ってきたんです」


(ぼくは棄てられたのではなく……)


 リュカを取り囲む風景が滲み、ぼやける。

 右手を両手で包み込んで寄り添っているその女性は、いつの間にかエメリンではなくなっている。


『ごめんなさい、リュカ』


 母親は、涙で濡れてしまった包帯を、リュカの右手に丹念に巻きつけながら言う。


『あなたにこんな運命を押しつけてしまって、ごめんなさい』


(これは――)


(あのときの記憶)


『この術式も、いつかは衰えて、抑えきれなくなる』


『いずれあなたはこの悪魔の力の吐き出し方を知ってしまう』


『そうしたらこの悪魔は喜んであなたを呑み込むでしょう』


『だから――』


『これからあなたの記憶を閉じ込める』


 ぼくの記憶。

 あの夜に見たすべて。

 ぼくを喰らった悪魔の姿。燃えさかる数億の虫を率いたその威容。

 そして母の言葉のひとつひとつまでも。


『あなたが知識と技術を身につけ、悪魔を御せるようになる日まで』


『あなたが魔導師マグスになれるそのときまで――』


 リュカの中で、熱が生まれる。


 身体の中心で膨れ上がり、臓腑を満たし、骨と血管を呑み込み、皮膚を切り裂いてあふれ出る。痛みはない。胸を塞ぐ息苦しさも、むしろ心地よい。


(ぼくはもう、こいつの名前を知っている)


 焼けただれた右手で、無傷の左手首を握りしめる。

 まるで自分の心臓を素手でつかんだときのような、おぞましく危険で甘美な感触。

 自分自身なのだ。すべて知っている。

 答えはいつもそこにあって、気づかなかっただけだ。

 名を呼ぶ声が――何千人、何万人という死者の声が――頭蓋の中で反響し、高まり、なお高まり、割れそうになる。


(ぼくは――)


(ぼくの名前は――)


 天が崩れ落ちてくるような感覚がリュカをとらえた。呪わしい穢れた名を呼ぶ怨嗟と渇望の声に混じって、人の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。


「――リュカさんッ」


 幻視がすべて消え去った。


 寒々しい暗闇がリュカを押し包む。ほんの一瞬前まで体内ではち切れそうだった熱が身体中の毛穴という毛穴から噴き出して失われていく。現実感が吐き気となって押し寄せてくる。呼び声はすべて激しい頭痛に変わっていた。

 荒い息をつきながらあたりを見回した。


 寝室だ。寝台の上で――


 目の前に、栗色の髪と琥珀の瞳。エメリンだ。

 寄り添ってうずくまり、両手をリュカの右手に添えている。その暖かみがなければリュカはそのまま敷布にくずおれていたかもしれない。


「……リュカさん……?」


 消え入りそうな声でエメリンは訊ね、顔をのぞき込んでくる。

 声を出そうとして、喉がねじれてまくれあがりそうになる。なんとかこらえて言葉を無理に絞り出した。


「――ソニアは?」


 エメリンの顔に、いくつもの想いが押し詰められた複雑な表情がよぎった。泣き出しそうでもあったし、リュカにすがりついてきそうでもあった。

 けれど彼女は強い意志ですべてを抑え込み、簡潔にはっきりと答えた。


「礼拝堂です!」


       * * *


 地響きのたびに、螺旋階段の奥底の赤い火が揺らめきながら這い上ってくるのがわかる。

 ソニアは石組の壁に背中を押し当て、肩を上下させて息をした。肺が灼けて痛む。

 右腕は、制服の袖がすでに焼け落ち、赤く透き通った皮膚があらわになっている。魔力を引き出しすぎたせいで悪魔部分の体組織が過熱しているのだ。

 階段に退きながら、迫りくる悪魔の触手を《砂塵の絶剣サドゥメキア》の刃で斬り落とし続けた。しかし、再生能力にまったく追いつけない。


(……階段におびき寄せていられると考えれば……無駄ではないはず)


 ソニアは困憊した意識でそう自分に言い聞かせる。

 地盤を突き破って地表に出てしまったら手がつけられないのだ。ソニアが注意を惹きつけているせいで、悪魔は未だに狭苦しい地下でのたくっている。


(だが、どれだけの時間稼ぎになっただろう?)


(王都から早馬を飛ばしても――着くのは日没後……)


 せめて、生徒たちを学院外に逃がす時間くらいは作れただろうか。

 それしかできない自分が不甲斐なく、悔しくてしょうがなかった。


(今のわたしじゃ、あいつを斃すどころか脚の一本を持っていけるかどうか)


(それでも――)


 血のにじんだ指で石壁を掻く。


(ただ死ぬわけにはいかない。せめてあいつの力を削いで――)


 不意に寒気がやってくる。

 こんなところで死ぬのか、という思いが這い寄ってくる。

 なにも成せないまま、無為に、十五歳で、悪魔の脚に踏み潰されて瓦礫の下で死ぬ。


(だめだ、弱気になるな)


(わたしは魔導師マグスだ)


 すぐ背後の鉄扉をちらと振り返る。

 びっしりと書かれた呪紋が、分厚い鉄板を透かしてうっすらと光って見える。封鎖術式だ。ソニアも内側から術式を打ったが、外側からも教員たちが厳重に封じているはずだ。

 逃げたくてもどのみち逃げられないのだ。

 あの扉が破られるのは、ソニアが殺されたときだ。


(死ぬ……)


(もうすぐわたしは死ぬ)


 地獄からの炎が階段を這い上がってきていて熱がじりじりと肌を焼いているというのに、ソニアは冷え冷えとした静かな絶望に浸っていた。


 眼下にわずかに溜まっていた闇の澱が、せり上がってきた赤い光に残らず食い尽くされる。ソニアはもうほとんど感覚の残っていない右手に意識を集中させ、力を振り絞る。光の白刃が階段をふさぐように縦横に張り巡らされ――

 けれど、押し寄せてきた肉塊にたやすく突き破られる。

 視界を埋め尽くす、赤。


(もう残っていない)


(《砂塵の絶剣サドゥメキア》が刃をつくるための空気が、風が、もうない)

(このまま圧し潰される――)


 そのとき、ソニアは背後に風を感じる。


 身体にまとわりついていた淀んだ熱が吹き散らされる。

 だれかの腕がソニアの腕に巻きつき、強く後ろへと引き寄せる。鼻先にまで迫っていた禍々しい触手の奔流が、凍りつき、ひしゃげ、ねじくれ――


 弾けた。


 飛び散った肉片が炎に包まれ、羽虫の形をした火花となって舞い、散って消えていく。


 ソニアは息苦しい暗がりから引きずり出された。視界が急激に開け、新鮮な空気が吹き寄せてきて目眩がする。


 扉が――開いている。


 たった今、自分がその扉から外に――《騎士の間》に連れ出されたのだということを理解するのにだいぶ時間がかかった。


 連れ出された。だれに?


 ぴったりと寄り添って自分を抱え、支えているその者の顔をソニアは首をねじって見やる。凛とした横顔、濡れたように黒い髪に映える赤い瞳……


「……リュカ……?」


 ソニアが名を呼ぼうとしたそのとき、ひときわ大きな震動が襲ってきた。

 開いた鉄扉の向こう、石組の壁を削って押し広げながらあふれ出ようとしている赤くぬらぬらとした肉塊が見える。

 リュカはソニアを抱きかかえたまま踵を返して走り出す。

 床にばっくりと亀裂が走り、突き上げるような揺れとともに礼拝堂全体が大きく傾いだ。


       * * *


 レイチェルが正門前広場まで走って戻ってきたとき、ちょうど礼拝堂の倒壊が始まった。

 優美な尖塔が中程から撓み、沈んでいく。贅を尽くしたステンドグラスが残らず砕け、松明の明かりを受けて星の滝となって地面に降り注ぐ。


「退がれ!」

「出てくるぞ、配置!」


 焼け焦げた暗がりに魔導師マグスたちの声が飛び交う。地響きが立て続けに置き、潰れた礼拝堂をさらに瓦解させていく。

 穹窿の屋根が滑り落ち、草地に激突する。

 その屋根を突き破り、暗天を指して屹立する赤黒い柱。


 なにか巨大なものの――腕だ。


 礼拝堂の残骸を大地ごと断ち割り、それは地の底の深みから地表へとゆっくり這い出てくる。巨体を揺するたびに地盤が軋み、あたりの木々が悲鳴をあげる。


 レイチェルも、かつて一度だけソニアに連れられて礼拝堂の地下に入り、見させられたことがあった。

 しかし、穴の底に鎖と術式でがんじがらめにされていたものを高みから見下ろすのと、こうして解放され猛り狂っているものを足下から見上げるのとは、天地の差があった。

 そのおぞましさは、人間の認識の限界を超えて美さえも感じさせた。

 世界中の人間の悪夢に現れる影を集めて煮詰めたかのような異形。相食む百億の蛇の集合体のようにも見え、夜がすべての光を啜り尽くそうと大地に突き立てた巨大な舌先のようにも見えた。


 第七層――忘却の五十六王が一、《黄昏の宣剣サトゥルニア》。


 憎悪に満ちた咆哮が無数の口から放たれ、地表を掻きむしりながら広がっていく。レイチェルは思わず耳を手で押さえてうずくまった。


「腱を狙え、一つでも破壊しろ!」

「網をかけろ!」

「一歩も動かすなァッ」


 指示の声が飛び、暗闇のそこかしこで魔力の炎が燃え立つ。

 教員の魔導師マグスたちが次々に己の体内の悪魔を顕現させたのだ。

 しかし、これほどの絶望があっただろうか。

 民や生徒を今まで何度も護ってきた魔導師マグスたちの雄々しい魔力が、真の深みから現れ出でた魔王に比しては、あまりにも矮小だった。


黄昏の宣剣サトゥルニア》が眼下の人間たちを睥睨し、短く吼えた。


 熱風が逆巻き、瓦礫や林の木々や遊歩道の石畳を地表から剥ぎ取って吹き飛ばす。真正面から風圧を受けた魔導師マグスたちは木の葉のようにたやすく吹き飛ばされて暗い宙を舞い、土に叩きつけられる。

 レイチェルも風に顔面を殴られ、もんどり打って背後の木の幹に背中をぶつけ、地面に突っ伏して土を噛んだ。


 口の中に広がる血の味にむせそうになりながら、顔を上げる。


 闇空にそびえる、地獄そのものの巨躯。


(どうしようもない)


(人間がこんなものに勝てるわけが――)


 そのとき、レイチェルの視界の端で――礼拝堂の崩れた丸屋根が、ごとり、と動いた。

 瓦礫の隙間から、烈光があふれ出てレイチェルの目を射る。


(……なに? あれは――)


 青白く鮮烈な光は暗い夜空を切り裂いて高みに伸び、《黄昏の宣剣サトゥルニア》の数万の眼球が蠢いて一斉に瞬きをする。

 空全体を覆い尽くすほどのその巨体が、次の瞬間、炎に包まれた。

 レイチェルは、魔導師マグスたちは、そして学院外に避難した生徒たちさえもが、その信じられない光景を目の当たりにして言葉を失った。


黄昏の宣剣サトゥルニア》が身をよじって苦悶している。


 赤黒く濡れた体表が泡立ち、そこかしこで弾け、光の粒となって散らばり、虚空へと溶け出し始めている。


 光の粒……火の粉? いや――


 虫だ。


 炎を宿した羽虫が、《黄昏の宣剣サトゥルニア》の体内から止めどなく生まれ、皮膚を食い破って燃え立ち、歓呼に舞い踊っている。


 雷に引き裂かれる大樹の悲鳴のような、悪魔の呪わしい呻き声が炎に入り混じって吐き散らされている。腐臭と黒煙の中でも、羽虫たちはなお殖え続け、いっそう高らかに歌い、踊り続けている。


 名を喚ぶ声が聞こえた。


 はるか太古から多くの神話と聖典に謳われ、畏れられ、忌み隠されたその者の名を、地上に呼び戻す声がはっきりと聞こえた。悪魔の苦悶の声にも、吹きすさぶ風のざわめきにも、間断なく続く地響きにもかき消されない、清冽な少年の声。


 地面に斜めに刺さって埋もれた礼拝堂の屋根の上に、人影がある。


 風になぶられる黒髪、炎を映す紅の瞳。


 リュカだ。


 左腕にだれかを抱えている。ぐったりとうつむいているので顔は見えないが、輝くあかがねの髪は見誤りようもない。ソニアだ。


 そして右手は――


 高く掲げられ、そびえる《黄昏の宣剣サトゥルニア》の頭頂部を指さす。

 肌に刻まれた呪紋が――リュカを護り続けてきた母親の言葉が、光を帯びている。全身で燃えさかる魔力から、リュカの最後に残された人間性を庇っているのだ。


「貪れ!」


 リュカの命令に応え、羽虫たちが渦を巻いて《黄昏の宣剣サトゥルニア》の腐肉を食いちぎり、なお激しく燃やし尽くそうとする。


 土を踏む足音がすぐ背後に聞こえた。全身が萎えきっていたレイチェルは、目だけを動かしてそちらを見る。息せき切らせたエメリンが、ようやく駆けつけたところだった。


「……ああ、間に合った……のですか……リュカさん」


 絶え絶えの声でエメリンはつぶやく。


「あれは……」


 リュカの背後に、二人は巨きな何者かの影を見る。

 天地を包み込むほどに広げられた十二対の翼と、いななく風を巻き起こす漆黒のたてがみ。見上げるだけで自分の存在そのものが圧し潰されて土塊に還されてしまいそうな、根源的な畏怖を呼び起こす威容。


「あれが、リュカさんの……」


 エメリンが茫然とつぶやく。

 レイチェルも、いま見ているものが信じられない。しかし、事実だ。記憶にあるすべての資料と伝承に符合する。


 地獄の最奥、第八層で世界の滅びの時を待つ深淵の七帝の一柱。


「……《蝗帝アバドン》……」


 レイチェルの唇からこぼれた名を、はるか向こうでリュカが応えるかのように叫ぶ。

 世界の三分の一を喰らい尽くすという虫たちの軍勢が、逆巻く嵐となって《黄昏の宣剣サトゥルニア》に襲いかかり、肉と骨を灼き、融かしていく。

 他の魔導師マグスたちも、もはや攻撃の手を止め、虫の群れに巻き込まれないようにと林の際にまで退がって見守っている。


 けれど――


「……再生してる」


 エメリンが乾いた声でつぶやいた。

 穢らわしい湿った音が地面を伝って響いてくる。

 食いちぎられた《黄昏の宣剣サトゥルニア》の触手が地面に落ちてのたくり、切断面が膨れ上がったかと思うと真新しい濡れた肉が生まれてまた胴体につながる。その繰り返しが果てなく続けられている。


(これが、ほぼ完全に受肉した悪魔の、地上世界にしがみつき続ける生命力……)


(このままではリュカの気力が先に尽きる)


 レイチェルはそう直観するが、かといって非力な自分にはなにもできない。

 祈りながら、リュカをじっと見守ることしかできない。

 リュカは、腕の中にいるソニアの耳元に囁いた。


「ソニア。……あれが見える?」


 憔悴しきっていたソニアは、なんとか頭を持ち上げ、リュカが指さす先を見やる。

 炎を使い果たした羽虫の骸が降り注ぐ様は、熱い雪の中のようだ。赤い岩壁のごとき悪魔の体躯のはるか高みに――

 黒いものがぽつんと引っかかっているのが見える。

 こみ上げてきた感情で、ソニアの胸がふさがれる。


 制服だ。


 羽虫の炎は生あるものだけを貪る魔力の炎である。だから、この嵐流の中でも、あれは燃えずに残っている。


「……お姉様……」


 ソニアのつぶやきにリュカはうなずく。


「ぼくが削り続ける。だから、ソニアが――」


 ソニアはじっとリュカを見つめ、小さくうなずき返した。

 身体に最後に残った魔力をかき集め、風を呼び寄せ、刃の翼を形作る。


「――翔べ、《砂塵の絶剣サドゥメキア》」


 ソニアの小さな身体は光の尾を引きながら高く舞い上がった。

 震え、悶え続ける《黄昏の宣剣サトゥルニア》の頭上をさらに越え、高みへと――

 眼下に、手も届きそうなほどの距離に、肉塊に埋もれた制服が見える。赤い腕章に刺繍された《会長》の表記までも読み取れる。


 その手は、ソニアに向かって差し伸べられているように見える。


 あの日、つかめなかった手。


 ソニアは目を閉じ、姉が自分を呼ぶ幻聴に身を委ねた。

 翼を束ねたソニアの身体は一閃の白刃となり、悪魔の頭部を抉り抜いた。


       * * *


 小山のごとき巨体が融けきるまでには、長い時間がかかった。


 穏やかな夜風がやってきて腐臭を散らし、ふつふつと泡立っていた赤いぬかるみもやがて光を失って血溜まりに変わる。


 羽虫の姿も松明の火の粉にまぎれ、消える。


 エメリンもレイチェルも、血溜まりを踏み分けながら、礼拝堂の残骸へと走った。

 立ち尽くすリュカの足下で、ソニアは姉の骸を胸に掻き抱いて泣きじゃくっていた。左腕と胸から上、そして顔の半分ほどしか残っていない無残な遺体だった。


 けれど、その左手は妹の頬に添えられていた。


 唇と閉じた目は、かすかに微笑んでいるように見えた。


 風が再び強まり始める。

 梟の羽音と鳴き声が、還ってくる。

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