紅葉鬼譚

田所米子

紅葉鬼譚

 中秋を過ぎたとはいえ、十分に称賛に値するがさやかな月が、庭の紅葉を照らす。義父は武家の長として荒くれ共を率いるよりも、京の都の公家にでも生まれた方が、よほど心性に合っていただろう。

 既に亡い恩人の審美眼がくまなく行き届いた庭園は、秋こそが最も華麗であった。それは、男が干したばかりの盃に酒を満たす妻が、生を受けた季節だからであろうか。

「お前さま」

 しっとりとした声で新たな一杯を促す妻は、五人の子を産み育てたとは到底信じられぬ、臈長けた花のかんばせ。黄金の光を映す池も及ばぬ髪は艶やかに黒く、白いものなどただの一筋も混じらない。

 豊かな黒髪に縁どられた細面には、多少なりは過ぎ去った年月の証が刻まれている。が、それが却って古酒めいた芳しい色香を醸し出し、初めて引き合わされた数十年前よりも麗しいのはどういうことだ。

 天人というよりもいっそ妖めいた美貌の妻の面には、何年経っても、恐らくは死んでも慣れぬままだろう。この屋敷や、早逝した愛妻の忘れ形見たる一人娘を掌中の珠のごとく慈しんでいた義父に押し付けられた、後継の婿という立場にも。

「もう、要りませぬのか」

 妻から逃れるように眼差しを座敷の向こうに向ければ、空にはやはり円かな月。自分が注いだ盃に手を付けようともせぬ夫を詰るにしては、その囁きは平板だった。

 義父は己の独り子を溺愛していたが、同時に武家の娘に相応しく、厳しく躾けてもいた。妻たるもの、いかなる時も夫に従い、夫を支え家を守らねばならぬ。ゆえに、己のつまらぬ物思いに耽るなど以ての外。かようないとまがあるのなら衣を仕立てるなりして、夫のために使うがよい、と。

 ために、妻が元々は下級武士の子である男を軽んじた例 《ためし》など、ただの一度もなかった。ただし妻は、その匂やかな唇を悋気に尖らせはしないし、ましてや可愛らしい我儘を紡ぎもしないのである。これも全て、義父の教えの賜物だった。楽ではあるが、楽しくはない。

 妻の目が隅々まで行き届いた屋敷は塵の一つも赦さぬほど掃き清められ、日に三度の食事には、男の好みを忠実に倣った美味が並ぶ。男が酒と肴を欲すれば、妻自らが直ちに参上する完璧さは、息苦しいほどであった。あえて例えるならば、女の黒髪でじわじわと首を絞められるような。

「……済まぬ。だが、月があまりに見事なものでな。見入ってしまった」

 嘘だった。耳に馴染んだ拙い琴の音が秋の夜風に混じらぬのを、男はいぶかっていたのである。だが、今宵ばかりは好都合でもあった。珍しく――というより覚えがある限り初めて、妻より一献誘われたのだ。応じぬわけにはいかぬまい。

「確かに。それに紅葉も、月の光を浴びて一層赤みを際立たせておりまする」

 長い睫毛が頬に濃い影を落とす面が上げられれば、まろい肩口から豊かな髪がさらさらと零れる。妻が纏っているのは、亡き義父から譲られた屋敷の庭園と同じく、赤や朱の紅葉が雅やかに散る打掛だ。その上を流れる黒髪は、月のない夜の河さながらであった。この黒髪に、ただの一本でもいいから白いものが混じっていれば。さすれば、男は己には過ぎた妻を愛することはできずとも、親しめはしたのかもしれないのに。

「紅葉といえば、お前さまは、ご存じですか」

 一体どうしたのだろう。今宵の妻は、珍しく饒舌だった。

「昔、信濃の国には、鬼女がいたのだそうですよ。紅葉という名の、美しく恐ろしい鬼が」

 そうして妻は、歌うように過去の物語を詳らかにした。


 今は昔、平安の頃。陸奥の国の子の無い夫婦は第六天魔王に祈願し、珠のような女児を授かった。呉葉と名付けられた娘は美しいだけでなく、和歌を詠ませても、琴を弾かせても、世に並ぶもの無き腕前で人々を魅了する。

 成長し父母と共に京に上った呉葉は紅葉と名を改め、琴の道で身を立てた。しかしある時、紅葉は経基公の目に留まって寵を受け、間に息子を儲けるに至ったのである。となれば、邪魔なのは経基公の奥方だ。

 奥方にとってかわろうとでも思ったのだろう。紅葉が第六天魔王に縋ったところ、公の奥方は病に煩わされる身となった。しかし、とある高僧に呪詛を看過され、紅葉たち親子は遠く信濃の国の戸隠まで流されることと相成ったのである。そしてこれこそが、紅葉が鬼となる切っ掛けだった。

 華やかな都の御殿で人々に傅かれる生活から一転、侘しい岩屋暮らしに耐える身となった紅葉だが、その美しさは衰えなかった。しかも、紅葉は周辺の村人に裁縫や琴を教えるだけでなく、妖術で病を治しもしたのだから、村人たちの尊敬を集めぬ方がおかしい。だが、紅葉の心は、あくまで都に傾き続けていた。

 もう一度、あの方の御側に戻りたい。あの方に愛されていた頃の、望めば手に入らぬものなどない暮らしが懐かしい。

 都への想いを募らせるあまり、山の賊を妖術で従えるまでになった紅葉の悪名は、京のみかどの耳にも届いた。そこで帝は平維茂将軍に紅葉討伐の命を授けたのである。

 紅葉は妖術でもって差し向けられた軍勢に対抗し、第一軍、第二軍は追い返した。だが、北向観音に願掛けして授かった降魔の利剣を携えた平維茂将軍に首を刎ねられ、全て終いとなったのである。


「紅葉が首を刎ねられたのは、秋の暮れだったとか」

 ――鬼女の血に染まった紅葉は、きっと、それは見事だったでしょうなあ。

 昔語りを締めくくった妻は、男に一杯を進める。だが丹塗りの底に金箔の紅葉を散らした意匠の盃を、口に運ぶ気にはなれなかった。清しい秋の夜気に血の生臭さが入り混じっているように感じられるのは、妻の先程の一言のせいだろうか。今一度耳を澄ましても、響くのは鈴虫の音ばかりで、男が目を懸ける娘が、逢瀬の誘いにと爪弾く琴の音はやはり聞こえない。

 桜が薄紅の雨を降らせる春の終わり。妻は病で親兄弟全てを喪ったという遠縁の娘を、屋敷に迎え入れた。そして、第四の娘とまではゆかずとも、同じ血を分かち合う者同士らしい情でもって、自ら娘に様々な手習いを施しだしたのである。

 娘は妻の熱意によく報いたが、琴だけはいつまで経っても、妻が認めるほどには上達しなかった。拙い琴の腕を恥じ、草木も眠る丑三つ時に琴爪を嵌めていた娘の健気さに、男の心が打たれたのは、一体いつの晩だっただろう。

 男の子らはいずれも妻の面差しを継いで見目麗しく才気煥発な、自慢の子供たちだ。二人の息子はどこに出しても恥ずかしくない若武者であるし、三人の娘には縁談が引きも切らない。

 ただ、良くも悪くも自分に似ていない子らを前にすると、男は時折勘ぐってしまうのだ。これは本当に、己の子なのだろうか。妻が神仏もしくは妖物に――それこそ第六天魔王に祈願して得た、妻だけの血を引く子ではないか、と。

 妻の貞節を疑っているのではない。いつ戦が起きてもおかしくはない世の中だ。ゆえに亡き義父は婚礼前夜、妻に懐剣を手渡したという。貞操を穢されかねない事態に陥ったら、これで胸を突いて自害せよと。

 愛情深くも峻厳な亡父の薫陶を受けて育った妻は、万が一が生じれば迷わず父の言葉に従うだろう。だがそれは、男への想いに殉じてでは断じてないのだ。

 その点、琴の稽古の刻が近づけば体調を崩すまでになった養女は、拙くても良いではないかと慰めた男を、一心に慕ってくれた。最初は、男と病に奪われた父を重ね合わせてのことだったかもしれない。しかし季節が夏に移ろう頃には、男は養女とふとした弾みで男女の仲となり、更に人目を忍んで密会を重ねるまでになっていた。

 盛夏の熱気に急かされるがごとく衣を脱ぎ捨て、互いの身体を貪った後。養女は、寝物語に秘め隠していた心情を明らかにした。

「奥方様も、お兄さま方もお姉さま方もお美しいだけではなく、どんなことも完璧にこなすけれど、それ故に恐ろしい」

 ――特に奥方様は、同じ人の子ではないようにすら感じられる。あの方の前では、身の置き場が無くなってしまうのです。

 娘の若々しい頬を伝った一筋の涙は、男の胸の裡から零れたものでもあった。

 親類ではあるが優婉な妻には一欠けらも似ていない娘の面立ちは、可憐ではあるが平凡の域を出ない。けれどもころころと良く笑う娘は、男がまだ義父に見出される前に抱いていた夢を思い出させた。

 気立ての良い妻を迎え、妻子といつまでも仲睦まじく、賑やかに暮らす。男はそれだけを望んで刀を握ったはずなのに、こんなにも遠くまで来てしまった。

 男は経基公ではないから、公に娘を囲うことはできない。だが、それゆえに娘への愛おしさは、男の胸に降り積もる一方だった。

 秘密の情人への想いに身を焦がす男の沈黙を、なんと曲解したのか。

「お前さまは、恐ろしいのですか」

 小首を傾げた妻は、涼やかな切れ長の瞳で男を覗き込む。

「……当然だろう。紅葉は鬼だ。鬼を恐れぬ者など、いるはずがないだろうに」

 嫋やかな眉が僅かに寄せられた様は、見惚れるほどあでやかではあったが、普段の妻からは想像もできない行いである。男が何事かと身構えたその瞬間、妻は側に控えていた女房を淑やかに手招いた。

「わたくしは、そうは思いませぬ。紅葉という女は妖術を扱いこそすれ、良くも悪くも、ごく普通の女子おなごでござったのでしょう」

 静かに置かれた螺鈿の箱が開かれると、そこには男も良く知る娘の首。

「だって、女は皆、身の裡に鬼を棲まわせているものですから」

 満月を背に嗤う女の唇は、血を塗りこめたよう。

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紅葉鬼譚 田所米子 @kome_yoneko

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