きみと目が合ったから
笹野にゃん吉
きみと目が合ったから
真上からの照明が、アヤセさんの指先を輝かせている。タタンとステージを踏む音がすれば、長い髪が舞い上がる。天をさす指を中心に。螺旋をえがいて照明のあかりさえ弾き飛ばしてしまう。
アヤセさんの演じる彼女は、愛した人より、踊りの熱を選んだ。
いま、彼女の夢は叶い、大衆の心は彼女に魅了されようとしていた。
「わあ……」
体育館にずらりと並んだ席の先頭。
ぼくは、まさに彼女に魅せられた有象無象の一人だった。
ぴたり、音楽が止めば。
彼女の髪がはらり、白い肩のうえに落ちた。毛先が小さなカーブを描き、汗ばんだ肌にはり付いた。
クラスメイトの艶めいた姿に、背徳感がこみ上げる。
なのに、ぼくは目を逸らせない。
長い睫毛の下。煌めく彼女の瞳に、吸い込まれていくようだ。
胸が高鳴る。
見事な芝居だ。
でも、それだけじゃない。
この時、ほんの一瞬、
「……あ」
きみと目が合ったから。
ぼくは魅せられたのだ。
「ありがとう」
繋がりは、彼女の一礼とともに断たれた。
幕が下り、ややあって、再び幕があがるとカーテンコール。
まばらな拍手。
席をたつ生徒の中で。
ぼくは拍手をすることも、立ちあがることもできずいた。
やがて、漫才がはじまり笑いの渦が巻きおこっても、ぼくの心は彼女の観客のままだった。
――
ぼくはブレザーの下からセーターの袖をひっぱり出し、冷えた指先をこすった。赤く濡れた机に触れると、ほんの少し暖かい気がする。
「夕日の赤! あと数時間もしないうちに消えてしまう赤……。嗚呼! まるで、ぼくの心みたいだ!」
「なに言ってるんだよ」
おどけた調子でやってきたのは、お調子者のノダだった。
彼のような人間には、冷えた眼差しも報酬になるから性質が悪い。椅子の背もたれに肘をついて座ると、ニヤついた笑みを向けてきた。
「心の声を代弁してやったんだよ」
「ぼくの心を読めるみたいな口ぶりだな」
「誰が見ても、お前の気持ちなんて丸わかりだぞ」
はっきり言い切られると、急に不安になる。ぼくは教室に居残った連中にも目をやった。五人ばかりの居残り組から返ってくる、眼差しの肯定。
「マジか」
「しょっちゅうチラチラ見てりゃな。気付くなってほうが無理」
「逆にノダは、そんなにぼくのこと見てるの」
「あー、見てますよ」
つまらない反撃の一言は、却って相手を呆れさせただけだった。
「で、なんで?」
「え?」
「きっかけ。好きになったきっかけあんだろ」
気付かれているのなら、早々に打ち明けないほうが損だ。どうせ話すまでしつこく詰め寄られるのだから。ぼくはひとつ嘆息をこぼした。
「演劇だよ」
「学園祭か、確かにエロかったな」
「やめろよ。そういう言い方」
「なんだぁ、王子様気取りか?」
「違うよ」
「純粋だねぇ」
からかって欲しくて打ち明けたんじゃない。
ぼくは通学リュックに手を伸ばした。
「まあ、待て。どうすんだ、これから」
「どうするって、どうもしないよ」
「はぁ?」
なぜか今日一番のあきれ顔を向けられて、ぼくは困惑する。
「だって、アヤセさんだよ?」
「なにが」
「人気とか」
「この前も告られたって話あったな」
「それに比べてぼくだ」
「確かに見劣りするかも」
「ちょっとひどい」
「自信あるのか」
「そんなに見劣りするかな?」
思わず、額にできたニキビに手をやった。
「べつに」
「……」
「で、お前のなにがいけない?」
「アヤセさんと違って、熱心に打ち込んでる事とかないし」
「アヤセに熱心なんだからいいだろ」
「は?」
今度はぼくが呆れる番だ。
てっきりそう思っていたのに、ノダの表情は真剣そのものだった。
「あのな、なにが良いか決めるのはアヤセだ。お前が勝手に決めんな」
「そういうんじゃ」
「決めてんだ。お前のこと好きかもしれないだろ」
「ないない」
「なんで。本人にきいたか?」
「きいてないけど……」
ありえない。
その呟きを聞いたみたいに、ノダは眉をひそめた。
「後悔するぞ」
「いいよ。結果なんて見えてるし」
「だから勝手に決めんな。俺は後悔したぞ」
そう言うと、ノダは窓外に目をやった。瞳が真っ赤に染まって、揺れた。
「中学のとき、気持ち伝えなかった相手がいてさ。あの時は、それでいいって思ってたなぁ。なのに、今でも思い出して、眠れなくなったりして。そういうの、フラれるよりつらいぜ。ずっとさ」
ノダがぼくを見た。
たまらず、ぼくは目を逸らした。
こいつと話すようになってから、何度か恋に敗れて泣いているのを見た覚えがある。その涙の痕は一生残ってしまいそうで。とても放ってはおけなかった。
そのノダが、気持ちを伝えないのはフラれるよりつらいと言うのだ。
ぼくは、あの時のノダの苦しみを否定しているような気になった。
「……じゃあ、どうすればいいかな?」
「告白すれば」
急な投げやりな態度に、ぼくは面食らった。
けれど、すぐに違うとわかった。
ノダの視線は、横を向いていた。
そこに女生徒がいた。髪をかき上げ、机の中をいじっていた。
「あっ」
アヤセさんだった。劇を観ていたときみたいに、ぼくは意図せず声をあげていた。
「ん?」
それにアヤセさんが気付いた。
とっさに目を逸らすと、ノダが立ちあがった。
「アヤセ、こいつが話したいことあるって!」
「はぁ!?」
ぼくは慌ててノダを見上げた。
なぜか、ノダは緊張した様子だった。
意味が解らなかった。
どうして、こいつが緊張しているんだ。ぶん殴ってやろうか。
気持ちが沸騰した。
「どうしたの?」
でも、この状況で暴力に訴えかける展開はあり得ない。
じゃあ、どうする?
残念ながら、アドリブに対応する力はぼくにない。演劇部じゃないから。
もう、すべて打ち明けるしかなかった。ぼくは立ちあがった。
「あの、ア、アア、アヤセさん!」
「わっ、声でか」
「あ、ご、ごめん……」
「今度は声ちっさ」
アヤセさんが笑う。
ぼくは混乱する。
せめて二人きりなら、なんて考える余裕もない。なにを言いたいかさえわからない。
その時、ノダに背中を叩かれた。
この野郎……!
怒りのあまり拳がメキメキと音をたてた。
でも、怒りはぼくを冷静にさせた。頭の中に弾ける電気のような焦りが消える。
今度は観客じゃない。いまは、ぼくが主役だ。そう何度も心に言い聞かせた。
「学園祭、観てた」
「演劇? ありがと」
「あの、すごく素敵だった。最高の、思い出になった。目も合ったり、あっ」
慌ててぼくは口をふさいだ。
ダメだ、こんなことを言ったら。気持ち悪いと思われる。アヤセさんが、ぼくのことを見ていたはずはないのだ。ぼくは彼女と目が合ったと思い込んでいる一般人だ。
またぞろこみ上げる焦り。目を合わせていられない。
どうすれば。どうすればいい?
間もなく焦りは臨界点を超え、肉体を衝き動かした。
ぼくの腰が九十度に折れ曲がった。
「ありがとう!」
「……」
静寂が押し寄せた。
頭の中が漂白されていた。
たった一言、ぼくの心が反応した。
は?
「……ぷっ!」
一方、アヤセさんの反応は笑いだった。それはすぐに哄笑に変わった。
「あ、はは……」
もはや、ぼくも笑うしかなかった。
目端に浮かぶ涙を拭うと、アヤセんがぼくを見た。
「アッハハ! なんで、きみがありがとうって言うの」
「あー、おかしいよね?」
「おかしすぎ」
ぼくもそう思っていた。他の言葉を告げるはずだったのだから。
でも、いまさら熱っぽい気持ちを伝えるのは無理だった。
「ありがと。そろそろ部活もどるね」
去っていく背中に、頑張ってねと声をかけるのが精一杯だった。
「お疲れ」
「よくやった」
そこへ腫れ物に触るかのような労いの言葉がかかった。
ノダが肩を叩いた。
殴る気にもなれなかった。
ぼくの恋路はおかしな終わりを迎えたのだ。
――
校舎をでると闇が目立つ。西の空はまだ赤いものの、地上は泥をかぶったように濁り始めている。吹く風は冷たい。ぼくは襟をかき合わせ、背中を丸めて校門をでる。
「……はぁ」
まだチャンスはある。
あのあと、ノダの言ってくれた言葉だ。
でも、チャンスなんてどこにある?
アヤセさんだって、ぼくが何を言おうとしていたのか分かっていたはずだ。
なのに、ぼくはあんなことを言った。
意気地なしと思われたに違いない。あの笑いはきっと嘲笑だった。
「やあ」
赤信号で足を止めると、背後で声がした。
ふり返るのも億劫で、一度は無視することにしたが。
「おーい」
さすがに、もう一度声となると聞こえないフリを押し通すのは無理だ。不承不承ふり返る。どんよりとした目を、ぼくは見開いた。
「……アヤセさん?」
「やあやあ」
なぜかちょっと息を荒げたアヤセさんが目の前にいた。
わけが分からなくて、ぼくは二十回くらい瞬いた。
「これ」
もう二十回瞬くと、アヤセさんが手を差しだしてきた。手のひらに紙切れが載っていた。
「なにこれ?」
「わたしのID」
「あい、でぃ」
脳の回路が完全にショートしている。言葉の意味が理解できない。
そんなぼくをアヤセさんは笑う。
こう言い直した。
「連絡先だよ」
「……なるほど」
ぼくは、なにもわかっていないくせに納得した風に言った。人は驚き過ぎると、静かになるようだ。
風の音がぼくらの間を吹き抜ける。
信号が青になる。
「えっと、これいいの?」
やっと発した一言がそれだったのに。
アヤセさんは微笑んで頷いてくれた。
ぼくはちょっと肩の力を抜いて、訊ねた。
「あの、これ嬉しいんだけど」
「うん」
「どうして、ぼくに教えてくれるの?」
アヤセさんは、すぐには答えなかった。伏し目がちに目を逸らした。嫌な気は全然しなかった。
むしろ、ぼくは魅せられていた。
あの時と同じ。
踊っていた彼女と同じ表情に。
その目が、ふっと持ち上がってぼくを見る。
「きみと目が合ったから」
その言葉に、胸が熱くなる。
焦りの熱はすっかり、その熱に取りこまれて。
ぼくはやっと表情を綻ばせた。
すると、アヤセさんもアヤセさんの顔に戻って、こう言った。
「ちゃんと観ててくれたから。熱心に観ててくれたから。話してみたいなって思ったの」
きみと目が合ったから 笹野にゃん吉 @nyankawa
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