お梅が渕

田所米子

お梅が渕

 一介の百姓の娘には勿体ないぐらいの着物では、今が盛りと花と蕾を付けた梅の枝が、槍のごとく並んでいる。その匂い立つような梅の根元を埋め尽くす松竹の葉も。紅い空を飛び交う鶴も、生き生きと精緻に染め抜かれていた。

 大名のお姫様か、裕福な商人の娘は、婚礼の際にまっさらな――白無垢と呼ばれる衣装を仕立てるのだという。だがそれは鄙びた田舎の娘には、馴染みのない倣いだった。

「ほんとにきれいだなあ。おらがこんなきれいなべべ着て嫁入りできるなんて、夢みてえだ」

 みよが夜なべして縫った花嫁衣裳を前に、三つ年上のねえやはうっとりと微笑む。

「庄屋さんとこの玉ちゃんだって、こんなべべ持ってねえべ。なのにおらにこんなべべくれるなんて、水神様ってのはおやさしい方なんだなあ」

 どこまでも穢れを知らぬ顔で。水神様の嫁になるという意味を、ついぞ理解せぬまま。


 山の裾野に抱かれたみよの村の東の外れは、河に面している。米作りのために、はたまた、飲料として。村人たちが生きて行くためには、一時たりとも欠かせない河の水は、豊かで清らか。その上、鮎や岩魚といった魚が良く獲れるのだから、村人たちが「水神様」としてその河を祀らないはずはなかった。

 とても穏やかで、赤子に乳房を含ませる母のように慈悲深い水神様は、けれども男子おのこであると村では代々伝えられている。それも、年若い男子なのだと。春になってすぐの、芽吹いた樹々の葉を映して碧色に澄んだ渕を見つめている分には、俄かには信じがたい話である。みよ以外の村人も、普段は忘れてしまっているぐらいだ。

 しかしと言うべきか、だからと言うべきなのか。水神様は数年に一度、己もまた丈夫ますらおなのだと村人たちに示す。梅雨の雨を蓄えきれず、堤いっぱいに溢れた泥水として。はたまた、村人たちが血と汗を注いで育てた、お上に年貢として取られた残りの僅かな米を攫う、暴れ川として。

 水神様の激情が、いつ村を襲うかは定まっていない。村一番の年寄りの語るところでは、十年どころか二十年氾濫が起こらなかったこともある。一方で、年に三度も猛々しいうねりがなけなしの家財のみならず、牛馬までをも呑みこんだこともあったのだという。また別の年寄りは、水神様のお心の平穏は長くて五年も保たないのだから、としきりに促してきたのだが。

 様々に食い違う村の古老の語りだが、ある一部分ではぴたりと、口裏を合わせたのではないかと勘繰りたくなるほど一致していた。曰く、水神様のご乱心は恐ろしいが、村人の命までは滅多に取らない。だがもしも村人が川底に呑みこまれれば、その翌年は豊作となり、また水神様のご機嫌も長く保たれるのだと。

 みよは数えで十三になったばかりの小娘だが、水神様の荒々しい一面を存外に多く知っていた。みよが生まれる少し前から、水神様は以前よりも気難しくなっていたからである。

 お上からの取り立ては、厳しくなりはしても緩みはしない。疾く水神様のお心を鎮めねば、今年は良くても来年、再来年は村人全員が野垂れ死ぬやもしれぬ。

 村の庄屋は決心して、藩主様の御膝元の、朱塗りの鳥居も見事なやしろに参拝した。するとその晩、庄屋の夢枕に見目麗しい男子が立って、こう告げたのだという。梅という名の娘を、私の妻として渕に捧げよ、と。

 藩主様の御膝元から帰って来た庄屋は、唇を噛みしめてみよのおっとうおっかあにお告げを打ち明けた。お前の上の娘は水神様に選ばれたのだ、と。そして姉の行く末を悟って号泣した小さな与助の側で呆然としていたみよに、目にも綾な反物を押し付けたのだ。お前は針仕事が得意だから、水神様が下さったこの布で、梅に花嫁衣裳を仕立ててやれと。

 庄屋が去った狭苦しいあばら屋で、頬を涙で濡らしていないのは当の姉だけだった。

「あれまあ、きれいな布を、こんなにたくさん。こんだけありゃあ、おらの着物だけじゃなくて、みよやおっかあの分も仕立てられるぞ」

 良かったなあ、みよ。おっかあ。

 平平凡凡なおっとうおっかあ、みよや弟にはまるで似ていない、藩主の姫のごとく、寒風にも負けずに開いた満開の梅花のごとく美しい姉。そのあでやかな面の雪じみた白さを引き立てる、紅梅の唇は匂やかにほころんでいた。お告げの話が村中に広まった後も。

「おら、水神様の嫁になるだよ。きれいなきれいなべべ着て、水神様のとこさ行くだ」

 おはじき遊びや泥団子作りの合間に、通りすがりの村人を捕まえては、同じ話を繰り返す姉。いつまでもいとけない姉の笑みは、春の陽光を跳ね返す水面さながらに輝いていた。


 姉の嫁入りは、早春、梅の香りが山中に馥郁と漂う頃に行われる。他の誰でもない姉が望んだ刻までに、花嫁衣裳は仕上がるだろう。

 すらりと長く細い、白魚と紛う姉の指とは似ても似つかない、ちんまりしたみよの指。縫物と野良作業で拵えた胼胝だらけの不格好な指が操る針が形にしているのは、紅の小袖ではなく、ろくに梳られてもいないのに艶やかな姉の髪のごとく黒い帯なのだから。

「みよは針仕事がうめえなあ。おらなんか、何度やっても、指に針を指しちまうってのに」

 一切の穢れを宿さぬ目でみよの指先を、みよの指先が形にするものに見入っていた姉は、ふと整った眉をしかめた。

「水神様は、こげな不器用な嫁でも、気に入ってくれるだろうか。役立たずはいらねえって、追い返されはしねえよなあ……」

「……ねえちゃんは水神様の嫁になるんだ。水神様の屋敷には大勢の奉公人がいるはずだから、そげな心配せんでええ」

「そうだなあ。みよの言う通りだ。みよはほんとうに頭がいいなあ」

 心の底から感心したように頷いた姉は、やはり笑っていた。まだ五つを越えたばかりの与助よりも無垢に。

 ところで、梅という名前は決して珍しいものではない。隣の家にも、姉と同じく梅という名前の、十七になる娘がいるぐらいだ。だから、水神様の嫁になる娘は、なにも姉でなくとも良かったのだ。だのに姉が水神様の嫁に選ばれた。いや、選ばれたとされたのは――

「おら、水神様の屋敷に行ったら、たくさんたくさん自慢するだよ。おらには、かしこくて縫物上手の妹がいるって。おっとうは働き者で、おっかあは優しくて、弟の与助は目に入れても痛くねえぐらいかわいいって。村のみんなのことも、たーくさん自慢するだ」

 器量よしだけれど知恵遅れのお梅。父母亡き後は村の厄介者になるだろう姉を、今の内に始末しておこうと、誰かが算段したのだろう。その誰かは村の年寄りの一人なのかもしれないし、はたまた庄屋本人なのかもしれない。

 こんなことを考えるから、みよは家族を除く村人たちから、姉と比べて可愛げが無いと陰口を叩かれるのだろう。梅とみよが逆だったら良かったのに、とは村の若衆が良く呟いていた文句だった。

 べっぴんのお梅の頭の方こそ真っ当に働いていて、姉の足元にも及ばぬつまらない顔立ちのみよこそ、知恵遅れだったら。それでも水神様の嫁には、姉が選ばれただろう。鄙には稀な美貌の姉だから。そして、もしも姉の頭が真っ当に働いていたら、姉にはきっと想いあう相手がいて、それゆえ姉は酷く苦しんだはずだ。

「うれしいなあ。たのしみだなあ。水神様の御殿は、おらには想像もできねえぐらい広いんだろうなあ」

 姉が知恵遅れなのはもしかしたら、自らの花嫁とされる定めの下に生まれた娘への、水神様からの贈り物だったのかもしれない。いつまでも、どんな時でも、幸福で在れるように、と。

 姉がもしも普通だったら、同じ年頃の村娘には妬まれ憎まれ爪はじきにされ、若衆には奪い合われただろう。だが知恵遅れだけれど、あるいはそれ故に無邪気な姉は村の誰からも愛され、親しまれていた。姉を人柱に捧げるとの決定を下した庄屋が、水神様からという名目で反物をくれたのも、姉だったからなのだろう。

 お梅ちゃん、ほら、綺麗なお花が咲いてるね。お梅ちゃん、そこに近づいたら危ないよ。村人たちが姉を呼ぶ声がしない日は、一日たりとてなかった。みよはいつも胸の片隅で、誰からも愛される姉を羨んでいたのだ。


 奇しくもみよが姉の帯を縫い上げたその日に、最初の梅の花がほころんだ。姉は普段は垂らしたままの髪を結い上げ、紅の槍梅の小袖に光の加減で捻り梅が浮かび上がる黒の帯を締めて、村の男が担ぐ輿に乗った。うっすら化粧さえ施された姉は、藩主の姫様も及ばぬ麗しい花嫁だった。

「じゃあな、みよ。おっとう、おっかあ、与助。おら、水神様のところでも幸せになるだよ」

 姉を捧げてから、水神様の怒りが村を襲うことはなくなった。美しく純真な姉だから、水神様にも気に入られたのだろう。

 十七になったみよが、隣村に嫁ぐ前。足を延ばした姉が嫁いだ渕の際には、誰が植えたのか紅梅が咲き誇っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お梅が渕 田所米子 @kome_yoneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ