ウイルスは拡散していく
烏川 ハル
ウイルスは拡散していく
皆さんは、レトロウイルスをご存知だろうか。
いや、そもそもウイルスというものを、どこまで理解しているのだろう。もしかすると、
俺がウイルスについて学んだ研究室は『分子微生物学講座』という名称だったが、勉強すれば勉強するほど、ウイルスを生物とは思えなくなった。
生物の定義には「単体で独立して、同じ形態の子孫を作ることが出来る」と書かれている。確かにウイルスは、子孫を作るための遺伝子を持っているが、しょせん遺伝子は設計図に過ぎない。その設計図からウイルス自身の
そう、細胞だ。そもそも生物ならば、
しょせんウイルスなんて、遺伝子とそれを包み込むカプセルに過ぎない。細胞に感染――侵入――すると、もうその時点で、最初のウイルスはバラバラになってしまう。でもバラバラになることでカプセルから放出された遺伝子は、細胞の中で次々と複製されるし、オリジナルおよび複製された遺伝子からは、ウイルスの
そんな単純な繰り返しが、ウイルスの生態だった。だから
……と、俺がウイルスを擁護したくなるのは、ウイルスを研究している学者だからかもしれない。ウイルスを我が子のように思っているからかもしれない。
ただし、これらは一般的なウイルスの話であり、こんな俺でも擁護したくないのが、レトロウイルスだった。
レトロウイルスは、上述のような『ウイルスの生態』を示さない。もちろん普通のウイルスのように子孫を作るのだが、それだけではなく、レトロウイルス自身の遺伝子を宿主の遺伝子に組み込んで、一体化させてしまう。細胞の外へ出ていくウイルスとは異なり、細胞どころか遺伝子の中に
なんとタチが悪い話だろう!
俺は専門家ではないから、余計にそう感じるのかもしれないが……。
レトロウイルスにだけは、絶対に感染したくない。どんなに致死率が高いウイルスであっても、普通のウイルスならば、感染してから発症するまでの間にウイルスを排除すれば死ぬことはない。発症前に排除ということは、症状すら出ないのだから。
つまりウイルスの
だが、レトロウイルスの場合は違う。感染者自身の遺伝子に、レトロウイルスの遺伝子が組み込まれてしまうのだから……。感染したが最後、もう一生、
そんな『俺の専門ではない』レトロウイルスについて、何故わざわざ説明したかというと……。
今の職場で、俺も少しだけ、レトロウイルスに関わるようになったからだった。
そもそも学生時代からの俺の専門は、Cウイルスといって、重い風邪を引き起こす病原体だ。風邪というと軽く聞こえるかもしれないが、あくまでも『重い風邪』であり、死に至ることもある。というより、風邪で死んでしまう場合、ほとんどはCウイルスが原因だろう。
とはいえ、普通に健康だったならば、人間自身が持つ免疫力のおかげで、感染しても発症以前に――あるいは重篤化の前に――Cウイルスを排除できるから、大騒ぎする必要はないのだが……。
ここで、レトロウイルスの話が絡んでくる。Hウイルスという有名なレトロウイルスがあるのだが、こいつの症状は、人間の免疫力を低下させる、という厄介なもの。おかげで、Hウイルス患者が最終的にCウイルスを併発させて死ぬ、というケースも非常に多くなっていた。
そして。
この『併発』という点に着目したのが、俺の与えられた研究テーマだ。
Hウイルス患者は、Cウイルスにも感染する。二つのウイルスは感染者の体内で、全く同じ細胞内に存在し得るのだから、Cウイルスを利用してHウイルスを治療できるのではないか、という考え方だった。
このような「あるウイルスを利用して別のウイルスをやっつける」という試みは、ウイルス学の分野では、すでに広く行われていた。先述のように、しょせんウイルスは遺伝子とそれを包み込むカプセルに過ぎず、ウイルス遺伝子の一部に手を加えて組換えウイルスを作ることも、それほど難しくないからだ。
実際、かつてアフリカで大流行したエボラ出血熱の場合。VSVという安全な――引き起こす病気は全く異なるが遺伝子的には少しだけ近縁の――ウイルスをベースにして、エボラの抗原性を示す遺伝子を組み込む、という組換えウイルスワクチンが開発されてきた。研究室レベルでの動物実験から始まり、臨床試験でも安全性や有効性が確認された結果、すでに実際のパンデミックでも用いられたという。
俺の専門であるCウイルスは、エボラVSVのケースと違って、Hウイルスとは遺伝子的に近縁でも何でもない。
だが、組換えウイルスの研究では、例えば「宿主側の免疫遺伝子を組み込むことで、ウイルスの感染時の免疫効果をいっそう強くする」なんて研究もあるくらいだ。ウイルスに組み込む遺伝子は、ウイルス遺伝子でなくても構わないくらい、もう何でもアリなのだ。
それを思えば、レトロウイルスとはいえ、Hウイルスも一応はウイルス。その一部をCウイルスに組み込むのは、比較的簡単な話に思えた。
また、レトロウイルスの『自身の遺伝子を宿主の遺伝子に組み込む』という機構。それには関わらない遺伝子だけを研究に用いていたから、俺は、あまり怖くも感じていなかった。
学生時代、大学でCウイルスの研究をしていた頃。
器具の準備・洗浄や研究室の掃除などは、自分たちで行うことになっていた。ウイルスを扱っている以上、何よりも滅菌することが大切であり、ひとつ準備するだけでも、かなりの時間がかかる。専用の機械が必要であり、それを各自が勝手に使うわけにもいかず、当番制になっていた。
このような、実験そのものとは別の部分で、少し不自由さを感じていたのだが……。
研究機関に雇われてからは、そんな下準備や後片付けからは解放されるようになった。研究員とは別に、実験道具を洗ったり用意したりするスタッフや、部屋全体の清掃係などが雇われており、彼ら彼女らに任せておけるようになったからだ。
研究員は、純粋に研究に専念できる。素晴らしい環境だ。そう感じて、嬉々として組換えCウイルス開発に励んでいた。
あんなことが起きるまでは。
――――――――――――
今。
世界は滅亡の危機に瀕している。
あの恐ろしいウイルスが世界中に広まったせいで。
誰かが意図的に外へ持ち出した、とは思えない。かといって、うっかり流出させるようなミスを、ウイルスの専門家が行うとも考えられない。
だから俺は、研究員以外のスタッフ――専門の教育を受けていない者――が廃棄処理を誤ったのだ、と想像しているのだが……。
そんな原因究明は、もう意味がない。どうせ世間からは、責任転嫁だと思われ、俺たち研究者が非難されるのだろう。
ああ!
俺は平和のために、組換えCウイルスを開発しているつもりだったに。
大げさにいうならば、人類救済の種になり得る、とさえ思っていたのに。
それがまさか、逆に、人類破滅の種になるなんて……。
(「ウイルスは拡散していく」完)
ウイルスは拡散していく 烏川 ハル @haru_karasugawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
カクヨムを使い始めて思うこと ――六年目の手習い――/烏川 ハル
★212 エッセイ・ノンフィクション 連載中 300話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます