カーテンの向こうには【03 今なら、引き返せばまだ】
侘助ヒマリ
KAC20203お題『Uターン』
気がつけば、またしてもあたしの指先は唇に触れていた。
あの時のキスの感触を、確かめるように。
☆
一週間前、恭くんと九年ぶりに行った夏祭りの帰り道。
買い物に付き合ってくれたお礼と言って、恭くんはあたしにキスをした。
キスと言っても、唇が軽く触れるくらいの、
ドイツ育ちの彼にとっては、きっと挨拶みたいなもの。
でも、あたしの唇には、触れ合ったその一瞬の感覚が今も鮮明に残っていて。
気がつけば、あたしはその感覚を何度も何度も指先で確かめてしまうのだ。
「……んあぁーっ!」
何だかよくわからない唸り声を上げて、あたしはベッドにダイブする。
枕に顔を埋め、息苦しさで胸の詰まりを紛らわせる。
窒息寸前で顔を上げ、はあーっと大きく息を吐いたとき。
勉強机に置いた携帯の通知音が鳴った。
☆
「梨衣ちゃん、飲み物買ってくるけど何がいい?」
椅子に腰掛けたあたしに、恭くんが微笑みかける。
立ったまま腰を屈めて話しかけてくるから、顔が近い。
また唇が触れるんじゃないかとドキドキする。
「あ、ありがと。じゃ、アイスカフェラテのMをお願いします」
暗がりとは言え、あたしは恭くんを正視できなくて、まだ何も映っていないスクリーンに視線を逃がす。
「了解。ちょっと待っててね」
恭くんは、あたしのそんな動揺を気にも留めない様子で席を離れた。
やっぱり恭くんにとっては、“あれ” は単なる “お礼” だったのかな……。
今日だって、いつものように図書館へのお誘いLINEかと思いきや、送られてきたのは『映画観に行こうよ』というお誘いだった。
こんなに悶々とするなら、誘いを断って家にいた方がよかったかな────
けれど、あたしのそんな迷いは。
「お待たせ! キャラメルのいい香りがしたから、ポップコーンも買ってきちゃった」
満面の笑みでぶんぶんと尻尾を振る恭くんを前にすると、空気の抜けた風船みたいに、しおしおとしぼんでしまうのだった。
☆
恭くんの選んだ映画は、ハリウッド発のSFアクション超大作。
開始早々はドリンクやポップコーンに時折手を伸ばしていた恭くんだけれど、映画が中盤に差しかかる頃にはその手も止まり、スクリーンに釘付けになっている。
そう言えば、と、あたしはまたあたしの知ってる恭くんを思い出す。
男の子の特性なのか、お互いの家で遊んでいる時も、一度何かに夢中になると、出されたおやつも食べずにのめり込んでいたよね。
そういうところはやっぱり昔と変わってないんだなあ。
恭くんが映画に夢中なのをいいことに、あたしはほころぶ口元を隠しもせず、アイスカフェラテのストローをくわえた。
☆
映画はいよいよクライマックスへ。
主人公が侵略者との決戦に赴く前夜、ヒロインが彼の元を訪ねてきた。
死を覚悟した彼の揺るがない決意を尊重しつつも、やっぱり無事に戻ってきてほしいと願う彼女。
けれど、主人公は自分が生きて帰る可能性が限りなく低いことを知っている。
そんな彼は、彼女にこう告げた。
『俺はもう後戻りはできない。だが、君は今から人生を引き返すんだ。君がUターンした場所から新たに続く道を、俺が必ず作ってみせる』
そんな彼の言葉に感極まった彼女は、彼に抱きついて熱いキスを交わす。
『何度引き返したって同じよ。私の選ぶ道はただ一つ。たとえその先が断崖絶壁であろうとも、たった一人であてどなく歩き続けることになろうとも────』
その台詞にじん、と心を熱くしたあたしだけれど、視界の端に恭くんの手が僅かに動いているのが見えた。
ふと視線を移すと、恭くんはスクリーンを見つめたまま、もぞもぞと手を動かしている。
ドリンクを取ろうとしてるのかな?
恭くんの手にカップを持たせてあげようとして、あたしも手を伸ばし────
その手を、恭くんがつかんだ。
そしてそのまま指を絡める。
恭くん、映画に夢中になってたんじゃなかったの……?
結局エンドロールが終わり、館内の照明が灯るまで、恭くんが絡めた指先をほどくことはなかった。
☆
「あー、すっごい面白かった!」
ドリンクやポップコーンの容器を捨てて、身軽になった恭くんが伸びをした。
「たとえ字幕でも、やっぱり母国語の方がストレスなく映画を楽しめるよね」
綺麗な歯並びを見せて笑う恭くんを見ていると、ドキドキしっぱなしだったあたしの心臓がふわりとほぐれて楽になる。
「あたしも久しぶりに映画観たけど、やっぱり大きなスクリーンは迫力あるね」
「梨衣ちゃん、普段は映画観ないの?」
「映画館で観たのはすごく久しぶりだよ。この春までは受験生だったしね」
「そっか……」
「もう夕方になるし、帰ろうか」
ポップコーンやドリンク代は割り勘を申し出たのに結局恭くんがもってくれたし、夕飯まで外食したらお金がかかっちゃう。
それに、母や美也子さんにもご飯いらないとは伝えてこなかったし。
「……うん、そうだね」
恭くんは何かを言いたそうに口元を歪めていたけれど、あたしの言葉に素直に頷いた。
☆
「雨、降ってきちゃったね……」
「まずいな、ゲリラ豪雨かも。家に帰るまで天気がもつといいんだけど」
映画館の入ってるビルを出て駅前のバスターミナルに向かう時にはすでに灰色の雲がたれ込めていたけれど、バスに乗ってしばらくすると、窓にぽつぽつと雨粒がつき出した。
二人がけの座席から窓の外を窺っていたけれど、嫌な予感は的中して、バスを降りる直前からバケツをひっくり返したような大雨になってしまった。
「恭くん、どうしよう。雨が止むまでこのままバスに乗り続ける?」
「バス停のすぐ前は公園だし、あそこの
ボタンを押して、自宅最寄りのバス停で降りることにしたあたし達。
バスのドアが開くと、恭くんはあたしよりも先に降り、羽織っていた薄手の綿シャツを頭上で広げてあたしが降りるのを待ってくれた。
「梨衣ちゃん、足元気をつけて」
綿シャツをあたしの頭の上に広げたまま、あたしに合わせて恭くんが横を走る。
東屋に辿り着くと、二人そろってふうっと息を吐いた。
「梨衣ちゃん、大丈夫?」
「恭くんのおかげであたしはほとんど濡れずにすんだけど、恭くんがかなり濡れちゃったね」
ほんの二、三十メートルの距離だったのに、恭くんの髪は濡れてところどころ束になってるし、着ているTシャツがべったりと肩に貼りついている。
「拭いてあげるから、ちょっとじっとしててね」
あたしは慌ててバッグからタオルハンカチを取り出すとベンチに腰掛けた彼の前に立ち、濡れた髪や肩の水分をできるだけ吸い取っていった。
「……梨衣ちゃん」
しばらくそうしていると、シャンプー後の大型犬みたいに大人しくしている恭くんが口を開いた。
「さっき気になったこと、聞いてもいい?」
「うん、なあに?」
「梨衣ちゃんはさ、付き合ってる彼氏とかいるの?」
「……へっ?」
唐突な質問に、あたしは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「い、いないけど……どうしていきなりそんなこと聞くの?」
「もし梨衣ちゃんに彼氏がいたら、今まで俺がしてきたことって、結構まずかったんじゃないかなって思って……」
「ええっ、何を今さら!?」
「うん。今さらでごめん」
不安げに尻尾を垂らしたような恭くんの様子に、あたしは呆れるのを通り越して吹き出してしまった。
「恭くんがそこを気にするなんて……。ドイツ育ちの恭くんにとっては、デートもキスも、きっとなんてことないことなんだって思ってた」
「……なんてことないなんてわけないじゃん。俺にとっては、梨衣ちゃんと過ごす時間は全部特別なんだから」
「え……っ」
恭くんの肩にハンカチを押し当てた手が止まる。
大きくてがっしりした、男のひとの肩。
あたしを見上げた恭くんの瞳は、少年の眼差しじゃない。
何かを渇望するような、危うげな熱を孕んでいる。
「きゃ……っ」
不意に腕を引かれて、バランスを崩したあたしは目の前の恭くんに抱きとめられた。
「俺の鼓動聞こえる?」
雨で湿ったTシャツ越し、硬い胸板に押しつけられた耳から、トクトクと微かな心音が伝わってくる。
「うん……聞こえる」
「梨衣ちゃんといるとき、俺はいつもこんなにドキドキしてるんだよ。梨衣ちゃんはどう……?」
「あたしもすごくドキドキしてるよ。成長した恭くんが、あたしの知らない恭くんだから……」
「この夏の間に、梨衣ちゃんの知らなかった今の俺を、もっといっぱい知ってほしい。梨衣ちゃんをもっとドキドキさせたいんだ」
屋根を打つ雨音が、あたし達と外の世界を遮断する。
恭くんの腕に閉じ込められたまま、あたしは考える。
この夏の間に、あたしの知らない恭くんをもっといっぱい知って。
この夏の間に、あたしの知らない恭くんにもっといっぱいドキドキしたら。
そうして、夏が終わったら────
その後には何が待ってるの?
さっき観た映画の台詞を思い出す。
このままUターンすれば、
今ならまだ、あたし達には幼馴染みのままでいる道が残っているはず。
「恭くん……。雨、だいぶ小降りになってきたよ。これならあんまり濡れずに帰れそうだよ」
恭くんから体を離したあたしは、なんてことなかったように微笑んで、小雨の降る中を東屋から飛び出した。
《KAC20204につづく》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054894589721/episodes/1177354054894589766
カーテンの向こうには【03 今なら、引き返せばまだ】 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari
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