四年越しの祭り

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

四年越しの祭り

 感染症による自粛で閑散としたサクラマチの中で僕たちは乾杯の声を上げた。サークルの同級生七人で集まった、小さな乾杯。しかし、それはフロアの奥から山彦のように返ってくるように感じる。並んだ暖色の灯りが居並ぶグラスに汗をかかせる。

「それにしても、俺たちの節目って自粛ばっかりだよな。生きるのも自粛しろって言われてんじゃねぇか、ってぐらいに」

 その序盤に、部長の島田が赤ら顔で放った一言に、僕たちは仮面の爆笑と誰が頼んだのかも分からない牛すじ土手を口にする。島田も、笑顔で詫びながらジョッキを一気に空ける。白々しい歓声が大人になったということを示す。その中で、

「なんだかあの時を思い出すよね、原田君」

黒髪で視線を隠した宮野さんが、僕の袖を掴んで呟いたとき、僕たちは既に四年前の世界へと頭を旅立たせていた。


 大学一年生になったばかりの日曜、家の近くのマツキヨで水やインスタントを買い込んだ帰りに、彼女は途方に暮れていた。聞けば、自転車のチェーンが外れたそうで、どうせすることもない僕は一緒に膝をついて直すことにした。八代から出てきて一人暮らしを始めたばかりの僕にとって、こうした人との出会いは新鮮であったし、何よりも素朴な黒のセミロングの少女にわずかな下心を抱いていた。

 十分ほどしてチェーンがギアに噛み合う頃には私の手は真っ黒となり、少女はお礼とお詫びとを繰り返すばかりであった。ただ、そこから奇妙であったのは少女が私の荷物を前かごに載せ、一緒のアパートに戻ったことであった。

「私も長崎から出てきたばかりで、この三階に住んでるんです」

 宮野絢奈と名乗った少女は自然と僕を部屋に上げ、汚れた手を洗わせてくれた。その日はお茶を飲んで立ち去ったが、交換したラインでやり取りを始めた。漫画が好きといった彼女は今『ヲタクに恋は難しい』にはまっており、それ以外にも有名な作品が飛び出してくる。逆に、僕が写真や詩が好きだと言うと、彼女は僕の写真を見せてとはしゃいでいた。

 こうして、大学生活の始まりにいい友人が見つかった、と僕たちは感じていた。


「もう、島田君ってば、飲みすぎ」

 二時間ほどのささやかな酒席の後、僕は宮野とともに人のまばらな下通を歩いていた。昼の暑さの逆落としのように寒さがマスクの合間を縫って忍び寄る。去年も一昨年も祭りのように人で溢れていたこの通りも、風が合間を抜けられるほどに物寂しい。

「でも、島田君の言ったこと……」

 そこまで言って、宮野が口をつぐむ。酒のためか頬がほのかに色づいている。ただ、微かに震えているのはなぜなのか。

「新型コロナウィルスが広がらないように自粛しろ、って僕たちの門出は何なんだっていう話だよな。文句を言ってもダメなのは分かってるけど、文句を言ってもいいよな」

 宮野の足が止まる。

「そう、だよね」

「ああ。他の人たちが味わえた愉しみを二度も奪われたんだ。どんなに慰められ、説得されても飲み込めるわけがない」

 カラオケの乾いた笑いも、タクシーの静かな光も僕たちの前を行き交うが、それはあくまでも他人事だ。宮野が僕の左手を握る。それはまるで、あの夜のようであった。


 宮野との出会いからわずか四日後、熊本地震が僕たちを襲った。突き上げる揺れをコタツに潜り込んで耐え、遅れてやってきた警報の高鳴りに頭が混乱する。しかし、揺れが収まってすぐに僕は宮野の部屋に行き、有無を言わさず部屋から引きずり出す。見ず知らずの道端で、異郷の二人が彷徨うことになる。ただ、行く当てもない僕たちは大きな揺れに戸惑いながらも結局はアパートに戻る。親からの電話にもどこか空虚に応じる。ただ、宮野はその日から僕の部屋に移ってきた。混乱をきたす商店で食料や衛生用品を買い込み、狭い部屋を二人で分けた。その合間にも余震が繰り返される。二人で漫画を分け合って読み、テレビの情報を二人で聞き流す。それでも、夜中に大きな余震があると揺れが収まるまで二人で手を握り合った。

 翌日、余震も落ち着き始め、大学も短期の休校で済むだろうという情報が行き交い、僕たちも冷静さを取り戻そうとしていた。

「あんまり長くいても原田君に悪いから、明日には自分の部屋に戻るね」

「怖かったらもう少しいても大丈夫だぞ」

「ううん。だって、ほら……」

 そう言って、俯いた彼女に僕はそれ以上何も言えなかった。

 しかし、深夜の激震が全てを変えた。再びの揺れに電気は消え、その闇の中を冷蔵庫が飛び跳ねる。反射が僕の身体を隣の彼女の上に覆い被させ、必死に止むのを祈る。再び遅れた警鐘に彼女は僕の左手を握り締める。

 芳香と死の香りはかほどに似ているのかという諦観の中で、僕たちは何もない闇の中へと放り出された。


「なんだか、車も元気がないみたい」

 もう一杯だけ飲みに寄った後、僕たちはタクシーに乗って帰途に就く。いつもは明るい緑色がやや精彩を欠いたように見えたのは宮野も同じだったようだ。点々と灯火の並ぶ闇の中、彼女の握る力は一層強くなる。

「ねぇ、あの時の……」

 彼女が俯きながら呟く。向かいから迫るヘッドライトがその頬を赤く照らす。

「あの、祭りの」

「そう、あの続きを……」

 彼女が言い終わる前に、僕はその手を強く握り返す。その時世界が止まり、見慣れたアパートに笑われた。


「わたし……」

 揺れが収まっても、宮野は震えていた。しどけない姿を見せる冷蔵庫と散乱したガラクタが息を潜める中、僕たちは見つめ合っていた。手は繋いだまま。この場から逃げ出さねばという切実と、この世界は現実なのかという夢想とが天秤に載せられ心の中で揺れている。それでも、ひとまずは外に出、それから小一時間ほどして部屋に戻った。手は繋いだまま。見知らぬ土地に棒きれのように放り出された二人にとって、ここ以外に逃げ場もなかった。手は繋いだまま。だから、そのまま布団に入り、静かに揺れの収まりを祈った。手は搦めたまま。

「ねえ、なんだかお祭りみたい」

 その中で、彼女は震えながら呟いた。

「お祭り?」

「うん。ほら、聞いてみて」

 そう言うと、彼女は搦めた僕の左手を胸元に置き、

「ほら、太鼓の音みたい」

僕たちは言葉を失った。


 窓から差し込む月光が彼女の姿を照らし出す。滑らかな輪郭が幻想的な闇の中に浮かび、芳香となって鼻腔を突く。静寂は雄弁な語り部となり、敷布は僅かな皺をも隠そうとする。その中で、高鳴る鼓動だけが先んじて踊りだし、この粛々たる時を照らし上げる。


 彼女の唇に触れる。離れ、裂け、本能が顔を覗かせる。肢体を搦め、口腔の湿りを交える。初めは仄かに。後に浸透する。交わされる吐息は美酒のごと。僕たちの脳髄を焼く。


 右手が双丘を往く。その旅に彼女は顔を背ける。その度に唇を重ね、その想いを交わす。次第に豊かになる祭囃子は僕たちの中で重なり合う。四年ぶりの昂ぶりに僕は既に理性の崖を堕ちていた。


 その時、大きな揺れが再び襲う。僕たちは身体を重ねたまま、その恐怖に抗った。人々の不幸の中で始めた大祭を、大地は決して許さなかった。薄衣は溶け、心音は合わさる。それでも、僕の想いは兆しを見せず、そこで僕たちの祭りは幕を閉じた。


 その幕をこじ開ける。互いに、その歓迎の宴を奪われ、今、離別の宴さえも奪われた身。だからこそ、互いにその生まれたままの姿をこの世に晒し、闇に野生を解き放つ。

「やっぱり、お祭りみたい」

「ああ。僕も踊りだしている」

 僕たちは再び唇を重ね、その先に至る。初めて人の血を見た僕は、同時に、初めて涙の中に笑顔を見た。悦楽の海原の中で私は彼女を祝い、苦悶の蒼天の下で彼女は私を祝す。そして、彼女の中心に打ちあがった花火は互いの四肢を震わせ、やがて、互いの腕の中に沈んだ。


 朧月 一つ写して 桜紙 消えるものあり 残るものあり


 翌朝、僕は隣で寝息を立てる彼女の黒髪を撫でた。粛々と進んだ四年越しの祭りの後、空はいつものように白々と蒼を湛えていた。

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四年越しの祭り 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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