第26話 桔梗の花が咲く
夏至を過ぎると真美の理屈では太陽は遠退いて行くが、輝きは益々勢いを増し暑くなった。心も熱く燃えているならそれもいいが掴みきれない女心の果てに真美との約束の場所へ行った。意に反してこの前のことなどケロリと忘れて待っていてくれた。それで少しは心が救われた。二人揃って承子さんの寺へ向かった。しかし夏の太陽は梅雨空に煽られて本格的にはまだ姿を見せなかった。今日もその断片な陽の光が注ぐかと思えば直ぐに雲が覆った中を二人は歩いた。
真美が感じたあの時より湿気を含んだ雲は厚く重たかった。時折そんな蒸し風呂状態がここひと月の間に続いた。サウナなら扉の向こうは極楽だがここは地の果てまで繋がっていた。気持ちが萎えて憂鬱にもなりかねない本能寺の変もあいつの変な告白も丁度こう云う気候だった。仁科の煮え切らない姿に逆に殺せば良いとつい口から出て仕舞ったのも頷けた。
「この前の別れ際にあたしは仁科くんに何て云ったか覚えてるの ?」
「余りにも唐突に物騒なことを言うから滅相もないって言い返したよ」
そうあの事件のように唐突過ぎて後が続かなかった。
「あの日そのあとなんて言ったかちゃんと答えてよ」
「人は恋をすると時間がなくなるんだ。それは昨日でも明日でもない今立ち尽くすその時がすべてなんだ」
そう時の思わぬ切っ掛けで日頃から思い詰めた物事に向かって突き進んでしまう。
「
「後先を考えないってことつまり死のうが生きようが眼前の人以外はどうでも良くなる」
「ほうー恋は生死も超越するってと言うのね、でもあの時の言葉はそのまま受け取ってないよね」
その前に真美ちゃんのあの眼で殺されていた。
真美の先手必勝のようなあの眼差しで僕の理性は完全に死んでしまった。それは一種の病気だ。草津の湯でも治らぬ病気だ。光秀自身も判断力を越えた心の病だった。だが真面な真美は直ぐに話題を切り替えた。
「仁科くんはいつも一人だけど友達は居ないの」
「中学生の時に友達になって高校まで一緒だったけど志望校が違って別々の大学を受験したけどこの大学へ入る一年前から会ってない」
「フーン仁科くんは一浪だよねその子は ?」
余計なことをいとも簡単に聞くところが無神経なのかそれともこの前のあの殺し文句の瞳と何処で繋がっているのか実に不思議な子だ。
「ストレートで入ったでも美大なんだ」
「へぇー絵を描くんだ仁科くんは絵が上手かったの」
「嫌いじゃなかったけどそこそこ描いていたでも彼から基本を教えてもらってからのめり込んだがどうしても追い付けなくて受験を前に諦めた」
「そうかそれっきりなのはどうして ?」
「あいつの芸術論について行けないからさ例えば街から見える遠い山並みにペインティングナイフでエッジを効かせて鋭く稜線を描けばあんな遠くの山並みがそんな鮮明に見える訳がないと言われてあとは遠近感が乏しいと、でも色彩には何も言われなかったけど」
「なんでそんな人と中学高校と六年間も一緒にいたの」
「人柄かなあちょっと変わってるんだそこに惹かれてズルズルと付き合ってたわけだけど死んじまった」
「その人は死んだの !」仁科のアッサリした言い方に真美は驚いた。
「いや彼は生きてるただそれっきりあってないから俺たちの青春がそこで死んじまっただけ」
「もうー、脅かさないで。六年も一緒にいてそれっきりなの、じゃあ絵でなく人柄ならどうして一年以上も疎遠なの」
「まだ六年で彼は絵以外では視野が狭かった。その内に漫画に活路を見付けるともう創作時間に追われて会ってくれなくなった」
それを追究すると目的のないお前は自由でいいなあと羨ましがられた。
彼は遊べなくなったそこで自分の青春が終わった気がした。それから自由に生きる意味を知りたくなった。そこに真美ちゃんに校門近くで呼び止められて歴史が貴方のこれから先の人生に大きく関与するかも知れないと言ったあのキャッチコピーに導かれて入った。勿論は君への魅力と誘惑もいやその方が大きいかなあそう思うと今までの友の存在を払拭した君は偉大だった。友には悪いがかまう時間も惜しいとつれなく追い返した友を思えば致し方なかった。
これを聴いて真美は優柔不断でなく思慮深い人だと認識を改めた。そして真実は複数もあっては成らない一つでなければそれは真実ではない。この想いを秘めて二人は土岐承子の寺へ向かった。
日記には目新しい事実はないが目新しい人物像が描かれていた。美濃の山里から物流の活溌な畿内へ来て驚く青年の目で明智光秀という人間を克明に観察していた。それは今日に残る多くの歴史書物に何ら寄与するものはなかったが、一切の誇張も推測も憶測もなくありのままに主君を書き留めていた。
研究家の目にはこれといった成果のないものだが、純粋に歴史を見ようとする者には四百年の時の流れを飛び越えて現在に通じる物が感じ取れた。
この真美の見解に承子さんも同じ心を得たりと思ったか、寺に着くと椹木は「お待ちです」と珍しく言葉を掛けられて今日は直ぐにそのまま奥へ案内した。
花を生けていた承子さんの前に用意した座布団に椹木が勧めて二人は座った。生け終わった花を床の間に置いた。そこには掛け軸が掛けられて。
時は今 雨が下しる 五月哉
と云う文章が書かれていた。
「これは愛宕神社での発句ですね」
仁科の言葉に承子はこの季節になると毎年ここに掛けていると何の拘りもなく言った。この字は清原まりやに書いていもらい、それは彼女の中学生の時と聞いていた。
「書棚にあった
「じゃあこの寺では随分とご無沙汰ね」と真美が言った。
「まあ書いた方はひとまず置いといて承子さんこれは戦勝祈願の愛宕神社で詠んだ句だから備中高松責めを読んだと句としても読み取れるンですけど。歴史家の中には信長を討つ決意ではないかと言われてますがサークルでは否定しました」
「本能寺の変の四日前に詠んだ句ですが仁科さんの仰るとおりこれは備中への出陣を前にして戦勝祈願の句なのはあの日記からも読み取れました」
「と言うことは四日前でも光秀は主君に務めていた」
「当然でしょう光秀でなくても畿内に於いて絶対権力者に盾突く人は居ませんから」
「残念ながら特に動機をハッキリ書かれていなかったこの報告に承子さんも納得されたのですね」
「当然でしょうね仁左衛門が幾らお側に仕えたとしても側近にさえ心の内を見せない人ですからそれを日記に求めるのは酷でしょうね」
何かに取り付かれたように承子は言った。
「それはあたしもあの日記を読んで感じました」と真美も応じた。
「あの仁左衛門はともかくとして片腕の斉藤利三や美濃から付き従った秀満にも打ち明けたのが二日前ですから明智の心の内は誰も触れられない言い換えれば孤独を貫き通す実に心が寂しく
それほど光秀は妻に支えられていたが、妻の死で彼の精神は病んだのが妥当だと思える行動だった。
「あの日記にはだからこうしたとはひと言も書かれていませんが読み手にそれを思わせるように書いて有る所が今までにない記録書だと思います」
確かにその時々の事件よりその前後の主君の行動が傍目にはつまらなく見えても仁左衛門の日記にはユーモアたっぷりに書かれていた。筆者も含めて当時の人は気に留めなくても今日の心理学者からすればこれは一級の資料になると三人はここで意見が一致した。同じく目を通した岩佐先生は歴史を変えるような物は何も書かれていないとサークルの面々同様に不可解のひと言で片付けられたと想像が出来た。
違いは後世に人の目に触れると意識して書かれた物とそうでない物の違いで後者が仁左衛門の日記だ。日記は丹波平定から主君に福知山城に呼び出されていた所から始まっていた。だから戦場へは一度も駆り出されずに最初の遭遇が本能寺だから、ゆあば華々しい戦記物でなく光秀その者にスポットを当てて書かれていた。だから歴史を見て人を見ない歴史家には不向きだが三人はそこに共感したのだ。
なぜこの日記は日の目を見る事なくこのまま朽ち果てていくのか。おそらくこれを書いた仁左衛門がこの旧家の当主になってこの家が尽きることなく何代にもわたって伝える義務が生じた。絶やしてはいけない血統を守る義務のためにこれを書いたとの結論に三人は達した。その時に仁科と真美は目の前にいるその血を引く土岐承子を仰ぎ見た。
そのただならぬ二人の瞳を土岐承子は受け止めた。
「桔梗が咲き誇るのは夏の終わりですが、もうすぐ最初の桔梗がまた今年も咲きます。今朝は一輪だけ蕾を見付けました」
承子は二人の視線にそう応えて裏庭へ二人を案内した。三人は縁側に佇み庭を
ーー桔梗が咲くまでの花のないこの時期に
「そう云えば蛍の舞う季節も過ぎようとしてますのね」
真美が承子の言葉を探るように季節を振り返った。
ーー七月に、いえ、旧暦六月に舞う蛍火は彷徨う土岐家の魂。愛した人の血を絶やさないように舞う蛍は命を終えた人を極楽浄土へ導く。光秀の謀叛は咲いて散る紫の花です。
土岐承子さんがあの事件の首謀者と言い掛けて今年初めて咲いた一輪の桔梗に目を留めると腐った人間には成りたくなかったのよと言った。
仁科と真美はその意味を確かめるように今咲いた一輪の花を観た。
ーー真実を求めているのです。何故に明智光秀は主君を討ったか。
「これは先祖から受け継いだ一族の使命です。桔梗はその受け継いだ誠実と光秀の云う正義を表しています」
土岐承子は桔梗の花を観てそう囁いた。
(完)
京都・桔梗の咲く寺 和之 @shoz7
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