第25話 女は歴史を変えられるか
はかどらない議論が続いたサークルでの活動を終えて仁科と真美は教室を出て段差を繋ぐ階段を下りる途中で非木川が追いついた。非木川は噛み合わぬ議論で消化不良だった。ここで非木川が山本さんの言う引くに引けない正義って一体何なのとぶり返してきた
山本さんが勝手にとって付けた正義をどう解釈すべきか二人は困惑した。罪な人だとサブリーダを悔やんでみてもしゃあないと非木川を納得させる思案が始まった。山本さんの言う引くに引けない正義が判らないのに判ったような顔をしてサークルを終えた。それを後悔したが山本自身も何処まで確信を抱いたかも不鮮明だった。それを二人はどう解釈したものか思案に暮れた。のらりくらりと躱して居ると今度はどうして岩佐先生を抜きにしてサークルを始めたか非木川が訊いた。
これは実体が伴ってるから簡単に説明が付いた。だが非木川は先生は純粋に歴史と向き合っているから決して金印が出た志賀島の二の舞はしないと言い切った。しかし今更どの面下げて先生にこの日記の存在を告白出来るか、でも後で先生も手に入れたと知ってうやむやに出来た。が非木川の言う引くに引けない正義は本当に引くに引けなくなった。
「
「何でだあ、それじゃ知らんままに聞き入れたのか」
「いや知ってるけど上手くよう説明できひんだけや」
不正不義はしないと云う意地ですよ引くに引けないのは正義でなく意地だと仁科は言い切った。じゃあ山本さんは何でそう言わんのやと今度は逆ギレされてしまった。
そこで仁科は正義は人それぞれの生きた環境や境遇によって違ってくる。ある者は正しいと思い込んでも他の人から見れば滑稽に映るも今更後戻りは出来ない。この辺りは霞ヶ関のお偉い人と似てるが、それは置いといて最初に自分が正しいと思い込んでも擦れが生じて仕舞えば修正すればいいんだ。でもヘソを曲げてしまうとそれが出来ず意地になる。やがては引くに引けない正義をかざしてしまうと後戻りは出来ない。相手がこれほどの権力者では進む事もままならない。そこへいとも簡単に実行できる千載一遇のチャンスがやって来た。しかも意のままに動かせる軍団を率いていればもう後先など眼中になく迷いも吹っ切れた。そうしたいからそうしたそれが彼の生きざまだった。
「そうかそれが仁科くんの言う出走直前の馬券買いの心理と直結するのか」
次に真美は史子の提起した夫婦愛に強い関心を持った。でもこれは山本さんがアッサリと躱してしまった。その理由は非木川史子が知ってた。
「彼はマザコンで母親以外の女には興味がないと云うか母親がそれを許さないだから彼に愛を問うのは愚の骨頂だ」と史子は赤木先輩から聞いたとスッパ抜いた。
「そんな人から周山城で歴史は足で調べと言われたくなかったなあ」と仁科がぼやいた。
「優柔不断な男と変わらないんじゃないの」と真美がチクリと言った。
二人はそれよりはどうすれば
ーー与えられた幸せより自分から求めた幸せこそ真実なのだ。そうなると玉の輿がラッキーなのかハッピーなのか本当に女の幸せなのか光秀は幸せの基準に
「ホウー史子にしては良く調べた」と真美が感心した。
しかし心の中では愛に飢えているんだと解釈したが、その顔は大きなお世話だと見栄を張っていた。寂しい女だと誇りを持って真美は仁科を見直した。
それを知ってか知らずか仁科は真美の笑顔で俺は優柔不断じゃない思慮深い男なんだと自信を取り戻した。
想えば仁科はこの真美の一喜一憂する顔に釣られたようなものかも知れん。これも愛かも知れんなら非木川の云う熙子さんの愛は何だったんだろう。山本さんは四百年の時差を経て今日のような愛に昇華したと言った。が熙子さんの場合は四百年後の現代にタイムスリップしても通じる気がした。
この時代に他に生涯側室を持たなかった大名はいるんだろうかと仁科の問いに非木川はいると答えた。
「事情があって側室を持たなかった大名もあったが私の知る限りではここまでの愛妻家は知らない」と真美は仁科の眼差しに応えた。
それに気を良くした非木川は熙子の仲睦まじくその生涯を閉じた経歴を重んじた。亡くなったのは天正四年十一月七日で本能寺の変の六年前だ。
「でもこの二人は出生や前半生が不明な割には夫婦仲に異議を唱える文献が皆無なのからしてほぼ事実と受けとめて間違いはないから」
と歴史通の真美も太鼓判を押した。
「そうすると事件に関する山本説にこの夫婦愛説も加えて考えないといけないなあ」
そうでしょうと山本に一蹴された非木川は俄然に張り切って。
「夫光秀に付きっきりで介抱したその看病疲れから体調を壊して病死した。しかもふつう夫は葬儀には
「だとすればこれは絶対に表に出ないなあ山本さんが最後に言った『彼は黙して語らず』も頷ける」
「どうしてなの」と仁科の言葉に真美が反応した。
「当然でしょう、男として、いや戦国武将としては女々しすぎる。だから明智軍記の不明の筆者もそれを考慮して妻は山崎の戦いで敗れ秀吉軍が迫る坂本城で死んだと書かざるを得なかったのだろう」
明智軍記は江戸時代中頃の庶民が娯楽を求めていた頃に書かれた。だから売れるように華々しく書くにはそんな女々しい事は書けるはずがないと素人の仁科にも判断できた。
「じゃあさっきサークルではもっとこの点を強調すれば山本さんの最後の不可解も謎が解けたかも知れないのにね」非木川が声を上げた。
「まあ明智軍記の作者といいあの日記の作者もとにかく明智光秀を立派な闘将として描きたいから夫婦仲を前面に出しにくかったのだろうなあ」
「それで奥さんの死に際まで創作するなんて許せない」
真美には頭に来たらしい
「光秀の決断の裏には秀満や斉藤利三等の側近よりも妻熙子さんの愛があった」
「どんな愛なの」と急に二人の会話に非木川が興味を持った。
「六年前に熙子さんは死んでる、しかも自分の看病でそれから六年間死に場所を探していれば本能寺の変は成功しても失敗してもどっちにしても納得がいくから決行したのかしら」
「なるほど成功すれば妻の墓前に、失敗すれば天国で再会出来るこれなら事前準備の欠如も頷けて理解出来る何も不可解なところは見当たらないし信長の『是非に及ばず』もそれに応えたのだろう」
「良い解釈ね、ちなみに信長の側室と云うかお気に入りで御つまぎの方と呼ばれた女性がいるんですけどまあ今風に言えば社長秘書、此の人はなんとあの明智光秀の義妹に当たり、熙子さんの身内になるですよ。だから彼女は光秀と信長の間を取り持ってくれたわけ。ただ残念なことに本能寺の変の前年に亡くなってるから光秀は落胆したでしょうね、更に奥さんの
「それで明智謀反と聞いて一年前に亡くなった社長秘書を想いだした信長が”是非に及ばず“とヤキモチを妬かした相手に捨て台詞を残した」
信長とその側室兼秘書が妻を亡くした光秀と三角関係に近いものがあったと推測すると俄然事件の真相が面白くなる。これは大学構内ではタブー視されるから三人はここだけの話として弾んだ。
今日は佐久間家の家庭教師の日だからと非木川は暇乞いを願い出た。
「そうかさっきのガラシャの話も奈央ちゃんから来てるんだ」
「そう彼女は例の清原まりやさんとは結構そのことで激論したようね」
「あの子はお父さんの影響もあるみたい」
大学を出て表通りで非木川と別れて二人は資料を提供された承子さんへの報告に戸惑った。
この新しい資料から少しでも謀叛人と云うレッテルをどれだけ和らげるかその思いを我々に託されたそれにどう応えるか。残念ながらサブリーダの山本さんの結論は不可解の一言で片付けしまった。もっと人間くさい物を見付けたと言いたい。時の時勢や権力者に背を向けて一気に駆け巡った男を前面に出して評価したと承子さんには言いたい。
そこに二人は何の意義も挟まなかったし、謎が多いだけに十分にこの仮説は成り立つだろうと期待した。事実これだけ妻熙子さんにこの時代としては背一杯に愛を貫いた人は稀だと仁科の言葉に真美も何の迷いもなく賛同してくれた。
「教養人の悲劇ねそれも晩年になって取り立てられた人ですもの。この歳までに細川幽斎のように実績を積んでおけば楽隠居が出来たものを。だから焦ったのですね熙子さんの献身的な愛に応えるためにも……。でもその人に尽くす前に先立たれたのがつらいわね」
「そこですよ、一か八かの勝負に出たのは目の前に人参をぶら下げられて暴走する馬のように走り出した。熙子さんしか留められないでしようが生前であれば光秀は自重出来たんだ」
「歴史を曲げられるほど心の中に生き続けられる人は稀じゃあないのかしら」
「いや死んでも自分の心にいつまでも残る人なら目の前にもいるよ」
「仁科くんも殺し文句が上手くなったのね。でもそれってあたしを自分の心の中に閉じ込めたいだけじゃあないの」
と真美はそう云う解釈をするか。
「君は篭の鳥じゃあないんだからそれは無理だろうね」
と仁科は慌てて否定した。
「じっと出来ない! それじゃあどうするのあたしを殺したいの」
言葉とは裏腹に真美は既に目で殺しに掛かった。それに仁科は泡を食った。
「滅相もない……でもそれでいいんですか? 天城越えのように」
「それって、告白、この鬱陶しい季節に」
「でも欧米では夏至は一年で一番素晴らしい季節なんですが」
「と言うことはその日を境に陽射しが陰ってくるってことか」
「ひねくれたいやな考え方をしますね」
「優柔不断なあなたを見てたらそうなるのよ。ハッキリ言ったらどうなの」
「何を?」
この男は肝心なところで一押し足らない。それに真美は呆れて「もうー
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