鬼梨温泉殺人事件

デッドコピーたこはち

第1話

 鬼梨きなし村、妙高連峰の奥深く、袖葉そでは川流域に存在する温泉地である。古くからの湯治場であり、落ち延びてきた平家を匿った為に今でも雅な文化がそのまま残っている土地でもある。


 俺が汽車を乗り継いでこの地を訪れたのは他でもない。恋人と別れた傷心旅行の為であった。そもそも、この地へは恋人と一緒に訪れるつもりであり、彼女の誕生日を祝うのも兼ねた温泉旅行のはずだったのだ。ひと月前から宿の予約を取り、二人でこの旅行を楽しみにしていた。温泉旅行の前々日、彼女が俺の部屋へ間男を連れ込んでいる所に出くわすまでは。

 とにかく、急なことであったので予約を取り消すことも出来ず、やむなし予定を変更して傷心旅行をすることにしたのだ。

 俺が泊まっているのは温泉街の一番外れにある袖葉そでは館という温泉旅館であった。家族経営の慎ましやかな旅館で、昼間から酒を呑み温泉に入り浸るには最高の場所だった。


「ふう、いい湯だ」

 袖葉館には泊まり客専用の大浴場があり、そこには袖葉そでは川に面する露天風呂まである。僅かに香る硫黄の匂いを嗅ぎながら、塩味の強いその湯に浸かっていると疲れが悪い思い出ごと流れ落ちて行くようだ。

 青空の下で真白い雪化粧を輝かせる山々を眺めていると、大浴場から露天風呂に続く引き戸が開かれる音が聞こえた。何気なくそちらの方に振り向くと、全裸に手ぬぐいを持ち、面を被った男がこちらに歩いてくるのが見えた。その異様な風体に肝を抜かれたこちらの事は気にもしない様子で、面の男は露天風呂に入った。

「いやあ、良いお湯ですねえ」

 面の男は、湯の中で湯の花を弄ぶように手のひらを泳がせながらいった。

「えっ、ええ。そうですね」

「景色も良いし、最高ですねえ。本当に来てよかった。私、一人で東京の方から来たんですがね。途中で財布をすられそうになったり、暴漢に絡まれたり、本当に大変だったんですけど来てよかったです。そちらさんも一人ですか?」

 面の男は矢継ぎ早にまくしたてた。

「まあ、はい」

 この男は一体何ものなのだろう。面を付けながら温に浸かるのはあまりにも奇妙だ。思わず男の面をしげしげと見つめていると、男は何か察したように自分の面を叩いた。

「ああ!すみません。この面が気になりますよね?私、大陸で戦車隊に居たんですがその時に顔を焼いちまいましてね。顔が酷いことになってるもんで、他人を怖がらせないように面を被ってるんです。どうです?犬の面、愛らしいでしょ?」

 よく見ると、その面は確かに犬の顔を模したもののようで、口は露出するように下部が大きく欠けている。その手作りと思しき木彫りの面は作りが粗く、むしろ、おどろおどろしいものに見えた。

「ああ、なるほど」

「驚かせちゃいましたかね?」

 面の男は首をかしげながらいった。面のせいで男の表情は見えにくいはずだが、それでもせわしなく声色を変え、身振り手振りを交えて喋るおかげで、この男は表情豊かに見えた。

「ええ、まあ。少し」

「そりゃあ良くなかったですねえ。あとで一杯おごらせてくださいよ。私、私立探偵やってるいぬい譲吉じょうきちってもんです。怪しいもんじゃございません。『柳の間』に泊まってるんで都合の良い時に来てください。それじゃあお先に」

 乾と名乗った男はそういい、立ち上がった。

「そうだ、あなたの名前も聞いといてもいいですかね?」

松本まつもと浩二こうじっていいますが……」

「それじゃ、松本さん。また後で」

 乾は軽く礼をしてから、手ぬぐいを肩にかけて大浴場へと去っていった。

「嵐みたいな男だったな……」

 世の中には変わった人間も居るものだ。俺が思っているより世間は広いようだ。俺の悩みなど思ったよりも小さいのかもしれない。

「それにしても、俺より後に来て俺より早く出ていくとは」

 まるでカラスの行水だな。犬だけど。そんなくだらない事を考えながら、俺は少し雲が出てきた空を見上げ、深く湯に浸かった。


 俺は温泉から出た後、乾が泊まっているという『柳の間』を訪れることにした。あの話口からして悪い人間ではなさそうな気がするし、せっかくの傷心旅行なのだからいつもはしない事をしようと思ったのだ。俺の泊まっている『桐の間』は偶然にも隣の部屋であった。

 俺は『柳の間』の戸を叩いた。

「乾さん、いらっしゃいますか」

「おお!来ましたか。どうぞ。」

 戸を叩いてから、すぐに戸は開かれ、乾が現れた。そして、促されるままに俺は『柳の間』に入った。『柳の間』は『桐の間』とつくりは同じで、7畳半の部屋であった。部屋の中央には火鉢があり、その上には小さめの土鍋が置いてあった。その横のちゃぶ台には一升瓶と2つのおちょこが準備されている。

「さあ、座って座って。」

「失礼します」

 俺は火鉢の横に敷いてあった座布団に座り、乾はちゃぶ台を挟んだ真向いへと座った。土鍋の中を見てみるとお湯と豆腐と昆布が入っており、その中心には湯呑みが据えられていた。湯呑みの中にもなにかが入っているようだ。

「乾さん、これは……」

「こいつは湯豆腐ですが、ただの湯豆腐じゃないんですよ。ここの名物の鬼梨きなし豆腐の湯豆腐です。しっかりした豆腐で、煮込んでも形が崩れないし豆の味がします。この湯呑みに入ってるのはネギだれです。ネギを青いとこを刻んだのがつゆの中に入ってますでしょう?かつお節も入ってるんですが、こうやって湯豆腐と一緒に温めておくと香りがでる。ここいらじゃこうしてネギだれにつけて湯豆腐を食うんだとか。まあ、まず一口」

 乾に差し出された箸を受け取り、湯に沈んでいる豆腐を掴んだ。確かに豆腐はずっしりと重く、箸で掴んでも崩れる様子はない。上等な豆腐のようだ。その豆腐を土鍋の中心で鎮座する湯呑みの中に入れ、ネギだれにつけてから口に運んだ。

 かつお節とネギの香りがよく出ているネギだれとそれに負けない味のある豆腐との調和、確かに美味い。

「美味いでしょう。さらに一献!」

 乾は一升瓶から酒をおちょこに注ぎ、こちらに差し出して来た。おちょこを受け取り、酒を一息に呑んだ。まるで水のようだ。全く癖がなく爽やかな喉ごし。

「どうです?いけるでしょう。大吟醸ですよ!」

「本当に美味い。良いんですか?こんな上等な酒に湯豆腐まで……」

「良いんですよ。 旅は道連れ世は情けってね!そうそう、この湯豆腐はここの女将さんにつくって貰ったものです。お金は払いましたけどね。足りなくなったらまた頼みましょう。この鬼梨きなし豆腐目当てにここに来たようなもんなんでね。湯豆腐つまみに酒を呑む!これがやりたかった。一緒にやりましょう」

 乾は笑い、二つのおちょこに酒を注いだ。


「松本さん、鬼梨きなしって地名の由来をご存知ですか?」

 乾は俺のからっぽになったおちょこにまた酒を注いだ。

「いいえ?」

「昔、源平合戦の折りにこの地まで落ち延びて来た平家の侍がいたそうです。その侍は源氏の追手から身を隠す為に匿ってくれるように村人に頼みました。村人たちは侍を匿う代わりに、山に潜む鬼を倒すようにといったそうです」

「鬼ですか」

「そう、鬼です。この鬼は度々里に災いをもたらしたそうです。疫病に洪水、火の雨を降らせたこともあったとか。死闘の末、侍はこの鬼を倒してこの地に受け入れられました。だからここはそれ以来、鬼の無い村、きなし村、鬼梨きなし村と呼ばれるようになったそうです」

「なるほど」

 俺はおちょこの酒をまた一口呑んだ。


 俺と乾は湯豆腐をつまみに酒盛りをし、歓談をして大いに盛り上がった。二人ともすっかり出来上がった頃にはすっかり日が傾き、雪と風が強く窓を叩く音がしてきた。

「ああ、大分吹雪いてきましたね。うーん寒い。さっきまでいい天気だったのに」

「冬の天気は変わりやすいですからねえ」

 乾は出汁のできった昆布をかじりながら言った。土鍋の中の豆腐はすっかり食い尽くされていた。

「そうそう、今泊まってる他の客の話ってしましたっけ?」

「平田一族……でしたっけ?」

「そうそう、この地に流れ着いた平家の末裔だって言われてる名家ですよ。事業の失敗で以前ほどの権力はないそうですが、それでも金持ちです。年に一度骨休めにこの旅館に泊まるんだとか。平田家の当主、平田伊蔵ひらたいぞう。伊蔵の妻、平田麻美ひらたあさみ。伊蔵の娘、平田真理ひらたまり。伊蔵の弟、平田仁蔵ひらたにぞう。最後は正蔵の長女、上田光江うえだみつえ。最近離婚して本家に帰ってきたとか。一番大きい『松の間』に泊まってるそうです」

「よくそんなことまで知ってますね」

「まあ探偵ですからねえ、他人の事が気になるんですよ。職業病みたいなもので。そう、それで、その平田伊蔵ひらたいぞうにちょいと悪い噂がありましてね……」

 乾はそういうと酒を啜った。ちょうどその時、

「イヤーッ!!」

 つんざくような女の叫び声が聞こえてきた。

「今のは……?」

「『松の間』の方からですよ!行きましょう。何かまずい事があったのかも……」

 乾と俺は部屋を飛び出し、『松の間』へと向かった。


『松の間』の前の廊下にはこの宿の仲居が倒れ込んでいた。

「どうしましたか!?」

 乾は仲居の横にしゃがみ込み、肩を揺らした。

「あっあっ、あれを」

 仲居は『松の間』の方を指差した。戸は開かれており、部屋の中を伺えるようになっている。部屋の中では長机に仰向けにもたれ掛かる様にして男が倒れており、その体の下には血だまりがつくられていた。

「なんてことだ……」

「どうした。何があった」

 騒ぎを聞きつけてきたのか、廊下の先から禿げ頭の大男が歩いてきて『松の間』を覗いた。

伊蔵いぞう!まさかっ」

 大男は倒れている男に駆け寄り、首筋に手を当てた。

「そんな……死んでいる」

「ひいいっ」

 仲居が短く叫んだ。

「あんたら警察を呼んでくれ!」

 大男は俺たちの方を指差して言った。

「仲居さん、電話はどこにあります?」

 乾は腰を抜かした仲居の肩を支えながら問いかけた。

「玄関近くの詰所に有ります……」

「俺が行きます。乾さんは仲居さんを頼みます」

 乾はうなずいた。俺は宿の従業員のいる詰所のある玄関を目指して走った。

「警察が来るまで誰もこの部屋に入っちゃならんぞ!」

 大男の声が後ろから響いてきた。


「すみません!」

 詰所の扉を叩くと、すぐに女将が扉を開けた。

「何用で?」

「『松の間』で人が死にました。警察を呼んでいただけませんか」

「人が……。ええ、ええ、わかりました。一緒に来てください」

 女将は一瞬息を呑んだが、すぐに持ち直して身を翻し詰所の中に戻った。俺は女将に付いて行き、詰所の中に入った。女将は柱に据えられた壁掛電話機の受話器を取った。だがいつまで経っても交換手に電話が繋がらないようだった。

「おかしいですね。この吹雪で電話線が切れたのかも」

 女将がいった。

「運がないですね。じゃあ俺が駐在所まで……」

「止めてください!日も沈みましたし、この吹雪で外に出たら遭難しますよ」

 女将は強くいった。窓の外を見ると、先ほどよりも強く吹雪いているのがわかった。外に出れば、十歩先に何があるかもわからないだろう。

「吹雪が止むまで待つしかないと……」

 闇の中から来る雪と風は、さらに強く窓を叩いた。

 

 俺は女将と一緒に警察を呼べなかったことを報告しに『松の間』に戻った。その途中で、『松の間』の隣の『梅の間』に人が集まっているのが見えた。その人だかりの中に居た乾と目が合うと、乾はこちらに近づいてきた。

「ああ、女将さんも一緒に。松本さん、それでどうでした?警察は」

 乾は小さく礼をし、尋ねてきた。

「呼べませんでした。この吹雪で電話線が切れたのか……すみません」

「いえいえ、松本さんが謝ることじゃありませんよ。この吹雪じゃ外にも出れないし……」

 乾はかぶりを振った。

「それで、この集まりは何なんです?」

 人だかりには平田家と思しき者だけではなく、宿の中でよくすれ違う仲居や男の従業員も居るようだった。

「なんでも、死んだ伊蔵さんの弟の仁蔵さん……あの坊主頭のでかい人ですね。あの人が何でも宿の中に居る全員に話したい事があると。まあ、平田家とこの宿の方以外には私と乾さんしかいませんけど。今ちょうどお二人も呼ぼうとしてたとこで。さあ、中に」

 俺と女将は乾に連れられて『梅の間』へと入った。部屋の中は十数枚の座布団が敷かれていた。既に平田家の人間と袖葉館の従業員は、掛け軸を背にして座る平田仁蔵と対面するように座っていた。俺と女将とは空いている座布団に座り、乾は平田仁蔵に何か耳打ちしてから俺の隣に座った。

「仁蔵さんに警察が呼べなかった事を伝えてきました。あの隅っこで泣いてる女の人が伊蔵さんの奥さんの麻美あさみさんです。その隣で座っているのが娘の真理まりさんです。気の毒に。そのまた隣が上田光江うえだみつえさんです。」

 乾は声をひそめていった。麻美は座布団に正座したまま床に額を付けて泣き崩れ、娘の真里が彼女の背を擦っていた。真里は十代後半のように見えたが母親より冷静だ。その隣の光江みつえもまた非常に落ち着いており、毅然とした態度で座っていた。

「ううむ。皆、集まったようだな」

 仁蔵が咳ばらいをし、集まった人々を見まわしてから、話し始めた。

「俺は隣の『松の間』で死んだ伊蔵の弟、平田仁蔵だ。皆に言いたいことがあって、ここに集まってもらった。弟の死についてだ。俺は軍医をやっていた。今は正式な免許を持った医者ではないが、それでも医療の心得はある。弟は足を滑らせて頭を打って死んだようにも見えたが……違う」

「どういうことです?」

 乾はいった。

「頭の後ろの傷と机の縁の形が合わなかった。これは、殺しだ」

「ええっ」

 『梅の間』に集められた面々がざわついた。

「しかも、俺が伊蔵に触った時、まだ暖かった。死んでから数十分といったところだ。天気が荒れて、吹雪いてきたのは一時間以上前。つまり、犯人はまだこの旅館の中に潜んでいるかもしないということだ。ひょっとすると、この部屋の中に犯人がいるのやも……」

 仁蔵は顎に手をやり、首を傾げて部屋を見回した。

「まさか……」

 乾が隣で息をのむ音が聞こえた。

「この中に伊蔵を殺した犯人がいるっての……?誰よっ!誰なのよぉ。そこの仮面付けてる男!あんたじゃないの!?いかにも怪しいじゃない!」

 麻美あさみは泣きはらした顔を上げ、取り乱した様子でいった。

「違いますよ!乾さんは俺とずっと同じ部屋に居ました。確かに見た目は怪しいですが良い人ですよ。殺しなんて」

 俺と乾は伊蔵が死体で発見される三時間ほど前から同じ部屋で酒盛りをしていたのだ。乾が伊蔵を殺すことなどできはしない。飛んだ冤罪である。

「そうです、そうです!この仮面は火傷の痕を隠す為のもので……けして怪しい者じゃありません。ちゃんとした私立探偵ですよ」

 乾も慌てた様子で反論した。

「私立探偵?なら早く伊蔵を殺した犯人を探し出してみなさいよ。ホームズみたいに。できるんでしょ!?」

 麻美はほとんど叫ぶようにいった。

「いやあ、私はそういうのじゃなくてですね……もっぱら不倫調査とか失せ人探しとかそういうので。ちょっと犯人探しとかそういうのは……」

 乾の声はどんどん小さくなり、最後にはもごもごと聞き取れないほどになってしまった。

「やめなさいよ、義姉さん。見苦しい」

 無関心を貫いていたように見えた上田光江うえだみつえがいった。

「なんですって」

「あら怖い。そうやって兄さんを殺したのかしら。兄さんが死んで一番嬉しいのは義姉さんですもんねぇ。遺産ががっぽり入るんですから。保険もかけてたりして?」

 光江は自分の顎に人差し指を当て、挑発的にいった。

「やめんかっ!とにかく、警戒を怠らないことだ。常に複数人で固まり夜を過ごし、明日に吹雪が収まったら警察を呼びに行く。疑心暗鬼で体力を使っていたら持たないぞ」

 仁蔵は呆れた顔でいい、光江と麻美を睨んだ。

「そんなこと言って、伊蔵を殺したのもアンタなんじゃないの?仁蔵!伊蔵が死ねばあんたが平田家の当主だもんねぇ。ずっと伊蔵が憎たらしかったんじゃないの?そうなんでしょ!」

 麻美が叫び、立ち上がった。

「母さん!」

 真里が麻美の裾を掴んだ。

「夫を殺した奴と同じ部屋に居られるものですか!」

 麻美がそう叫び、部屋の外に駆け出そうとした瞬間、辺りは闇に包まれた。

「て、停電?」

 闇の中で女将がいった。

「まて、慌てるな。マッチがある」

 仁蔵が懐から取り出した一本のマッチを擦ると、小さな炎が生み出す微かな光が麻美とその背後に立つ忍者の姿を浮かび上がらせた。


「えっ?忍者?」

 仁蔵が呆然とした顔でいった。

 忍者は持っていた刀を麻美の胸に後ろから突き刺し、刃を上にしてそのまま切り上げた。心臓から頭の先まできれいに二つに裂かれた麻美は、呆けた顔をしたまま即死した。鮮血の噴水と化した麻美の身体を忍者は蹴り飛ばした。

「イヤーッ!!」

 真里が悲鳴を上げる。仁蔵は大きく仰け反り、余っていた座布団にマッチを落とした。マッチの火が座布団に燃え広がり、その橙の光がより鮮明に血まみれの忍者の姿を映し出した。

「何者だお前は!な、なぜこんなことを」

 仁蔵は震える声で答えた。

「何者……俺が何者かだと。俺は鬼塚おにつか浩一こういち。10年前、平田伊蔵に辱められ自害した鬼塚おにつか呉葉くれはの息子よ!忘れたとは言わせんぞ。この瞬間を待っていた。10年山に籠って修行し、この旅館に従業員として紛れていた甲斐があったというものよ」

「鬼塚……あの手伝いの……」

 光江はつぶやくようにいった。

「平田家のものを尽く殺し、その穢れた血脈を永遠に断ってやろう!ハーッ!」

 鬼塚は懐から二枚の手裏剣を取り出し、仁蔵と光江に投げた。

「ぐあっ!」

「きゃあっ」

 凄まじい回転をかけられた2枚の手裏剣は、それぞれ仁蔵の胸と光江の肩に刺さった。鬼塚は真里に視線を向けた。

「やめて……許して。お願い」

 真里は腰をぬかし、這いずりながら懇願した。その頬は涙に濡れていた。

「ふん、貴様はクズとアバズレの子よ。お前の頼みなど聴くものか!」

 鬼塚は真里を部屋の隅に追い詰め、刀を振り上げた。部屋に居る人間は目の前で繰り広げられる惨状に圧倒され、動くことができないようだった。

 

 俺は覚悟を決め、鬼塚の腰めがけてタックルをした。俺と不意を突かれた鬼塚は共に窓を突き破り、袖葉館の外へと放り出された。

 宿の外は月の光もない完全な闇であり、猛吹雪が吹き荒れていた。俺と鬼塚は、二人とも降り積もった雪の上で素早く体勢を立て直した。

「なんだと。まさか貴様……ヤーッ!」

 鬼塚は背負っている鞘に刀を戻し、垂直飛びで袖葉館の屋根、その大棟に着地した。俺はそれを追いかけ飛び上がった。

 鬼塚は大棟の上で腕を組み両足をそろえて立っていた。

「ふむ、なるほど。お前も忍者か。その身のこなし、聞き及びし戸隠とがくし流と見た」

 鬼塚はこの吹雪の中でも全く姿勢を崩す様子はない。できる。

「そういうお前は鬼塚おにつか流だな。まさか使い手がまだ居たとは」

「失伝したのを、俺が古文書を紐解き復活させたのよ。復讐のためにな!伝説で鬼と称された秘儀を見るが良い」

 鬼塚は刀を構えた。

いくさ戦争せんそうも終わった。もう忍者など必要ない。もはや、消え去るべき前時代の遺物なのだ。俺も!お前も!」

「知ったことかーっ!」

 鬼塚は大棟をそのまま直進して突っ込んで来る。俺は懐から隠し持っていたクナイを取り出し、鬼塚めがけて駆け出した。

 すれ違いざま、鬼塚は袈裟に刀を振るった。それをクナイで弾き、前方一回ひねり宙返りを打つ。鬼塚を飛び越しながら、その回転力を利用して、両手に持った手裏剣を投てきする。二枚の手裏剣が鬼塚の背中に突き刺さった。

「ぐおっ」

 鬼塚の体幹が崩れた。止めを刺す為に着地と同時に大棟の瓦を蹴り、方向転換をする。その瞬間、乾いた音が猛吹雪の中に響いた。

「卑怯とは言うまい。これはもしもの為の備えだったが……」

 鬼塚は右手で回転式拳銃を構えていた。その銃口からは煙が立ち上っていた。

「ああ」

 自分の腹を見る。宿に借りた浴衣が徐々に血に染まっていく。今更、鋭い痛みが襲ってくる。足が力を失い、よろめいてしまう。だが、歯を食いしばり、何とか屋根から滑り落ちないように耐えた。

「根性あるな。だが何の意味もない」

 鬼塚は銃をこちらに向け、撃鉄を起こした。アレをやるしかない。クナイを逆手に持ち直し、鬼塚に向かって駆け出す。

 全神経を集中させ、鬼塚の瞳を見る。鬼塚が俺の額に銃の照準を合わせているのがわかる。鬼塚の愉悦と嗜虐心の高まりがわかる。鬼塚の右手人差し指の筋肉の緊張がわかる。今だ。

 クナイが鬼塚の銃弾を弾いた。

「何っ」

 鬼塚は慌てて撃鉄を起こしたが、もう遅い。懐に潜り込んだ俺は鬼塚の心臓にクナイを突き立てた。

「くはっ」

「南無三」

 鬼塚の身体は崩れ落ち、屋根を滑り落ちて吹雪の中へと消えていった。

「止血を、しなければ」

 そう思い、右手で傷口を抑えようとしたが、もう手が上がらない事に気が付いた。膝がかくんと折れ、身体が屋根を滑り落ちて行く。俺の意識は逆らえない眠気におそわれ、完全に闇に落ちた。


 まぶた越しに暖かな光を感じる。朝だろうか。目を開けると真白い天井が見えた。自宅の天井ではない。ここは……

「おっ、起きましたね。気分はどうです?」

 声が聞こえた右を向くと、椅子に座り、雑誌を持った乾がこちらを見ていた。ここで俺は自分がベットに寝ているのに気づいた。身体を起こそうとすると、腹部に激痛が走った。

「ここは?」

「鬼梨病院ですよ。あなた、三途の川を渡りかねない大けがをしたんですから。仁蔵さんと光江さんは怪我をしましたが生きてますよ。松本さんのおかげです。あと……回復したら刑事さんたちが話を聞きたいそうです。その、あの夜に袖葉館で起こったことについてね」

 乾は気まずそうにいった。

「どうやって俺は助かったんですか?」

「乾さんが館の外に出た後、追いかけて私も外に出たんですよ。そして、しばらくしたら松本さんが屋根から落ちてきて……」

 乾はどこか白々しく答えた。

「……見ましたか?」

「はい、見ました」

 乾の仮面の下の瞳はまっすぐこちらを見返していた。

「俺は……」

「ふぁーっ、なんだか眠くなってきたな」

 乾は急にわざとらしく大あくびをし、両腕を上にあげて伸びをした。

「松本さん、すみません。ちょっと昼寝をしますわ。刑事さんから目を離さない様に言われてるんですが、こうねむきゃ仕方ない。私が寝てる間にこの部屋を抜け出したりしないでくださいね。松本さんの荷物はまとめてあそこの棚に入れてありますけど、持っていかないでくださいね。30分くらいしたら起こしてください」

 乾は犬の面の下でウインクした。

「松本さん。ありがとうございます」

「いえいえ、感謝するのは私の方です。旅は道連れ世は情けってね。それじゃあ、お願いしますよ」

 乾は雑誌を自分の顔に被せ、腕を組んでわざとらしく寝息を立て始めた。

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