海とゾンビに平穏あれ

デッドコピーたこはち

第1話

 誰も居ない砂浜を歩いている。聞こえるのは波と風の音だけだ。腐っていく体は常に微熱を帯びているようで、皮膚が爛れ肉が溶け落ちても、感覚は鈍く、緩やかな痒みだけを感じている。右の視野は消失し、右顔面もひどく腫れているように思えるが、判然としない。夢の中に居るかのように、何もかもがおぼろげだ。

 

 新感染症によって正気を失った人々が隣人たちを襲う姿を、画面越しに見たときも、同じように現実感が湧かなかったことを覚えている。現実感を得たのは、仕事中に突如として正気を失った同僚に右腕を噛まれてからだった。食いちぎられた右腕の肉を見た時、この災厄は既に自らにも降りかかっているのだとやっと悟った。

 そして、どうしたのだったか。確か、人が人の肉を食い散らかす阿鼻叫喚となった社屋から何とか逃げ出し、自分の車に退避したのだ。その車内で自分の傷の手当てを試みようとした時、感じるはずの痛みを感じなくなっている事に気付いた。自分の身に何が起ころうとしているのか理解した俺は……海を目指すことにした。

 

 俺は海が好きだ。生まれて初めて海を見た時の事を、今でも思い出すことができる。海水浴場を目指して父親が運転する車の中で、俺はビルよりも高く立ち上ってくる水平線を初めて見たのだ。今まで見た何ものよりも勝る海の広大さに感動した俺は、興奮のあまりシートの上で勢いよく立ち上がり、ルーフに頭をぶつけて母親に怒られたのだった。

 成人してからは忙しく、毎年欠かさずに一度は訪れていた海水浴場にもすっかり行かなくなった。大人は水遊びなどするものではないし、仕事に没頭することが良いことだと信じていたのだ。今となっては、馬鹿馬鹿しいことだと思う。だが、もう何もかも手遅れだった。


 生まれて初めて見た海、思い出深いこの海水浴場にどうやってたどり着いたのかは覚えていない。とにかく必死だっだような気がする。思い通りに生きることはできなかったが、死ぬ場所だけは自分で選びたかったのだ。

 それから俺はこの砂浜を歩き続けている。朝が来て、夜が来て、また朝が来ても歩き続けた。不思議と疲れを感じることはない。あらゆる欲求が全て流れ落ちてしまったかのようだ。

 この浜辺に来てからどれほどの時間が経ったのかもわからない。だが、その間生きた人間に出会うこともなかった。もう人類は滅亡してしまったのだろうか。


 霧がかった頭でそう思いながら砂浜に一歩一歩足跡を残していると、膝が急に力を失い、砂浜へ仰向けに倒れ込んでしまった。ああ、曇り空が見える。立ち上がろうとしたが、体のどこにも力が入らない。

 なんとか首だけを動かし、海の方を見る。灰色の空は斑で、波は強い風を受けて荒い。雲間から差し込む日光はまるで風になびくヴェールのようで、群青色の海を輝かせている。海は美しい。俺が子どもの頃と変わらずに。いや、人類が産まれるよりずっと前からそうだったし。人類が滅びた後でもきっとそうなのだろう。だから、何も問題はないのだ。

 俺は久しく感じることのなかった眠気に身を任せ、波と風の音を聞きながら目を閉じた。

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