第5話 花はちる
結局、吉数は成仏しないまま春休みに突入した。進路希望は地元の保育科がある短大に変更した。じいちゃんには保育士の資格を取った後、京都の本山の大学に編入する事で、納得してもらった。
春休みが始まると、毎日園の手伝いをした。保育士には、ピアノ演奏が必須のスキルだ。まったく経験ゼロの俺は、ゆな先生に指導を頼んだ。彼女は心よく引きうけてくれた。
へたな演奏を優斗たちに笑われても、怒る余裕もない。そんな必死な姿をそのうち園児たちは、応援してくれるようになった。
吉数もさすがにピアノのスキルはないようで、うるさいつっこみをいれずただ応援してくれた。あんなに、吉数の成仏を願っていたのに、もうそばにいるのが当たり前のようになっていた。
誰かに見守られている。そんなこと、今までなら鬱陶しいだけだった。でも、その無償の行為によって、自分は一人ではないのだと気づくことがやっとできだ。
もうすぐ年長組の卒園式がある。中央ホールで卒園生の歌の練習に付き合っていると、年少組の先生が俺を呼んだ。じいちゃんから帰ってくるよう、連絡が入ったそうだ。
庫裡へ帰ると、じいちゃんとばあちゃんが出かける用意をしていた。
「康正、出かけるからしたくせい。雅恵のとこいくぞ」
俺に背を向けて言う。雅恵は、一〇年以上会ってない母の名前だ。
「お父さん、そんな急に言っても康正が混乱するだけや」
俺の顔を真正面から見て、ばあちゃんは言った。
「雅恵が事故にあったと今連絡がきた。詳しい状況はわからんけん、いっしょに病院行こ」
俺は行かん。それだけ言って二人に背を向けた。
「康正の名前枕もとで呼んでるそうや。思うところはあるやろうが、今行かんと後悔する」
そう説得するばあちゃんの声から逃げるように外に飛び出し、山門へ向かった。そう言えば寺の敷地から出るのは久しぶりだ。足は無意識にあの桜の木へと向かった。
「康正、どこいくんや。お母さんとこ行かへんのか?」
「今さら会ってどうすんだ」
「お母さんにも会えん都合があったんやろ」
「うるさいな、わかったような事いうな!」
人目を気にせず、大声をあげた。通行人が怪しい目で俺を見る。その視線に腹が立つ。何もかも、腹が立つ。母親を追い出したじいちゃんに。それを止めなかったばあちゃんに。事故を連絡してきた奴に。俺を呼でいる母親に。そして、誰よりも素直に会いにいってやれない自分自身に。
黒々としたアスファルトを、睨みながら歩いていく。すると、ぽつぽつと白い点があちこちに落ちていた。進むにつれ、その点はある中心に向かって集まっていた。見上げるとその中心に、色をとりもどした大桜が立っていた。
春のくすんだ空に、とけていきそうなほどはかない薄紅色。無数の枝の先端まで花が咲いている。少し西に傾いたのどかな春の光に照らされ、幾千、幾万の小さな花たちは淡く輝いていた。
ああ、なんてきれいなんだろう。
今目の前のこの光景を言葉にしたくて、さっきどなった事を忘れふりむいた。吉数も桜を見上げ立っていた。先ほどまでうるさかった騒音は消えている。桜に吸い取られたみたいだ。
その静寂の中動かない姿が霞んでいく。思わず、引き留めようと腕をのばした。しかし、指先は空をつかみだらりと落ちた。
白いカッターシャツ姿の美少年は、フイルムを早回しするように年をとっていき、スーツを着た老人の姿へと変わった。
「思い出した。わし、この桜を見に来たんやった。なんで忘れてたんやろ」
晴れ晴れとした吉数の声。のどにつかえていたものを思い出した清々しい表情。だけど、その顔は一遍し、眉間に深いしわが刻まれた。
「間に合わんかった。迎えにきてやれんかったんや」
俺とは違う誰かに向かって懺悔しているのに、その悲痛な声が胸をうつ。
「どういう事だ?」
声を聞き、吉数の意識が俺に向いた。
「わしの息子は二十歳の時、ここで事故におうたんや。バイクツーリングにきて、接触事故にあった。命に別条はないって連絡が京都にいたわしにきたんや。でも、迎えに行かんかった。バイクは危ないって反対したのに、勝手にいったもんが悪いて」
突然、春の強い風が吹いた。風に煽られ、散る花びらが、吉数の姿と重なった。
「嫁はんが迎えに行ったら、息子の容体が急変した。慌ててわしも九州にいったけど、もう息子は冷たなってた。変な意地はったさかい、間に合わんかった」
風はやんだのに、落花は止まず花びらは俺の上にも落ちてきた。はらはらとこぼれ落ちる花びらが頬を伝う。しっとりとした冷たさが胸にしみいる。
迎えに行かなかった吉数と、迎えに来てもらえなかった俺。二つの思いが桜の下ですれ違い彷徨う。そんな人間の勝手な思いにはお構いなく、桜は花びらを散らし続ける。
「息子を連れて帰る前に、事故現場が見たくてここへ来た。そしたらこの桜が咲いてたんや。今日みたいに満開に咲いてたけど、ちっともきれいやと思えんかった」
満開の桜の下、膝を抱え母親を待っている丸まった背中。桜を見上げる老人のしおれた背中。白昼夢の中、二つの背中は重なった。
「死ぬ前にもう一度この桜見て、その時は最高にきれいやって思ってやろう。つまらん意地はったなさけない記憶をぬりかえようってそう思たんや。けど、やっぱりこの桜みたら、泣きたなるわ」
見上げていた顔は、くしゃくしゃにゆがんだ。先ほどから振り払おうとしていた別れの予感が、じわりじわりともう目の前に迫っている。
離れたくない、でも言わなければ……
「のんびり花見してる場合じゃないだろ。早く息子さんにあやまりにいけよ」
「ああそうするわ。世話になったな。そうや、ここでお経あげてくれるか?」
「今すぐじゃなくてもいいか?」
「ええよ。おまえがこっちに来るまででかまへん」
「ずいぶん気長だな」
「なあに、時間なんてあっという間にたつ」
最後に「ほな」と一言言って、吉数の姿はあっけなく消えた。
俺は目を閉じ、桜に向かい手を合わせた。あたりはいつの間にか騒音に包まれ、桜はあわただしく花びらを散らしている。
見上げると、重なり合った花の間から白い空がのぞいている。その空にせかされ、西日に照らされたアスファルトの道を一歩踏み出した。
了
心なく花はちる 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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