第4話 迷子

 暖かい室内から一歩足を踏み出すと、冷たい冷気が鼻の奥を刺激する。優斗は俺のジャンパーの裾を握りしめずんずんと門に向かって歩いていく。鉄の門の前で立ち止まり俺を見上げる。


 その目は今にも泣きだしそうだった。俺は優斗の手を強く握り、じいちゃんにばれたら怒鳴られる覚悟で門を開けた。


 門を出て右、西の方角から車の激しい往来の音が聞こえてくる。すぐ側に四車線あるバイパス道路が通っている。優斗は迷うことなく西へ歩いていく。バイパスと園の前の道が交わる交差点の角で止まった。


 排気ガスと騒音が充満する場所に、大きな桜の木が一本立っていた。俺が生まれるずっと前、ここら一帯の土地を買い上げ、バイパスを通す計画がもちあがった。しかし、この樹齢四〇〇年はある大桜を残すよう住民運動がおこり、バイパスは当初の計画から少しずらされた。


 残された桜は、アスフアルトのほんの少しの隙間から太い幹をのぞかせ、ビルの無機質な白さを背景に、二月の寒空の下丸裸の枝を無数にのばしていた。


 色をなくした桜の下で優斗は、母親が迎えに来る方角を向いてじっと立っている。その横顔を見ていると、昔信じていたものを思い出し、優斗にかけるべき言葉が喉の奥へとすべっていった。肺につきささる程冷たい空気を思い切り吸い込み、ぎゅっと目をつむった。


 忘れたいのに、忘れられない情景がまぶたの裏に映る。おめでたくもなんともないのに、馬鹿みたいに咲き誇っていた桜の木の下、優斗と同じ顔をして座っている自分の姿。縋りつきたいのに、その縋りつくものがみつからなかった心細さから逃げ出したくて、目を開けた。


 もう夜なのに、街灯やバイパスぞいのコンビニの灯り、車のライトのせいでうそみたいに明るい交差点。「何時まで引きずってんだ」そうつぶやいた俺の言葉を、車の騒音がかき消した。


 握りしめていた優斗の手はだんだんと、力がぬけていった。俺の足先はじんじんとしびれ、スニーカーの中敷きを何度も踏みしめた。


 見慣れた軽自動車が、信号の向こうからこちらに走ってきて、俺たちの前を通り過ぎ保育園へ向かった。フロントガラスに二つの影がうつっていた。


 優斗は俺の手をふりほどき、車を追いかけ走りだした。俺も慌てて追いかけるが、胸が嫌な予感でむかむかしていた。優斗のママと呼ぶ声に、駐車場に止まった車から出てきた二つの影が振り向く。


「ごめんねえ優斗。今日は仕事じゃなかったけど遅くなっちゃった」


 まったく悪びれていない。あっけらかんと優斗の母親は言った。その声を聞き、俺の中の何かが切れた。


「仕事じゃないのに、なんでこんなに遅いんだよ! 男とあそ……」


 俺の暴言を遮るように、ゆな先生が俺と母親の間に割って入った。母親の後ろで男が俺を睨んでいた。


「風間さん、遅れる時はご連絡下さい。時間の超過が続くようでしたら、延長保育事態、お断りする事になります」


 母親のムッとした顔に笑顔を向け、ゆな先生はしゃがみこんだ。不安から解放され、母親の足にじゃれつく優斗に先生は言った。


「ご挨拶しようか。先生さよなら、優斗くんさよなら、また明日」


 二人のハイタッチの乾いた音が薄暗い駐車場に響く。何事もなかったように優斗たち親子は帰っていった。


「やすくん、優斗くんを不安にさせるような事言わないで」

 車を見送る俺の背中に、厳しい言葉が突き刺さった。


「どんなお母さんでも、優斗くんのお母さんはあの人しかいないの。優斗くんの前でそのお母さんを否定したら、一番傷つくのは優斗くんなんだよ」


 優斗の気持ちを代弁したつもりになっていた。子供の気持ちを推し量れるほど、俺は大人じゃない。自分の中の大人になりきれない甘っちょろさが吠えただけ。ゆな先生に向かって頭を下げたが、優斗にも心の中でわびた。


「どうしたんや、何時ものおまえと違ったな」


 駐車場から庫裡くりに向かう砂利道を歩いていると、今まで静観していた吉数が声をかけてきた。その声を無視して、わざと音がでるように、砂利を踏みしめて歩く。前方に闇をまとった古めかしい本堂が見え、立ち止まった。


「俺もずっと、あの木の下で待ってたんだ」

 幽霊になっても耳が遠いままなのか、吉数は、はあ? と聞き返した。


「俺が六歳の時、母親が再婚したんだ」


 じいちゃん達には一人娘しかなく、四五〇年続くこの寺を継がせるため婿養子をとった。それが俺の父親。でも、俺が生まれた直後に離婚した。


 じいちゃんが気に入って婿養子にした男を、その娘は気にいらなかった訳だ。そして、娘が選んだ相手はじいちゃんが気にいらなかった。再婚を許すかわり出した条件は、俺を置いて出ていく事だった。


「ここに置いていかれた俺は、あの桜の木の下に座って迎えに来てくれるのを待ってた」


 ずっとずっと。じいちゃんに怒られても、ばあちゃんになだめられても。母親が迎えにくる姿を想像して、またいっしょに暮らせる事を夢見て、一人桜の木の下にいた。


 でも、どんなに待っても母親は来なかった。今日を最後にもう待たないと決めた日。俺は木の陰に一日中隠れていた。母親が来ないのは、自分を見つけられないからだと、納得できる理由をつくるために。


 あの日から、俺はずっと迷子のままなんだろうか? そんなんだから、迷子の幽霊にとりつかれるんだ。そう思い吉数を見ると、腕を広げ俺の目を見据え近づいてくる。思わず逃げようかと思ったが、金縛りにあったように動けない。


「あの木、大きすぎるからお母さんはおまえの事みつけられへんかったんやろ。かわりに俺が見つけたったんやから感謝し」


 そう言って、俺を抱きしめた……かったんだろうが、吉数の腕は俺を通り過ぎ二人の体は重なった。


 二月の寒空の下、幽霊と抱き合うとか、なんのコントだよ。美女の幽霊なら大歓迎だけど、いくら若くても男だし……


 幽霊の気遣いが、ばかばかしいような、くすぐったいような、安心したような。湿った気持ちを振り払うように、腹の底から笑いがこみ上げてきた。こんな幽霊コントには、笑いが必要だ。笑うことでこのコントも成立する。


 俺は大声で笑った。母親を恋しがった昔を笑い、幽霊といる状況を笑い、すべてを受け入れるため笑った。口から出る笑いは、白い息とともに夜の空へと昇っていった。

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