親友が事故に巻き込まれ、早すぎる生涯を閉じた。その通夜に出席した主人公が、それまでの日々を回想して、物語が進んでいく。
物語の中で、主人公と、親友と、その彼女、三人は素敵な関係を築いていた。
ただ、三人が共に真面目で優しかったために、ふとしたきっかけで、その関係が壊れてしまう。そして、いつしか、負の螺旋に巻き込まれていく。
それは、激震に襲われた、あの日……。
通夜の開式が迫る時刻、夏だと言うのに黒いセーターを着た女性が会場へと入っていく。しかし彼女は、式の途中だというのにぬけだして……。
その彼女を追った主人公が、踏み込んだ世界は……? そこで見たものは……?
亡くなった親友は、彼女を奪い返しにきたのではないのだろう。親友を、現実へと立ち返らせ、現実を受け止め、新たな道を歩めと諭しにきたのかもしれない。
もう、三人で、『今』は語れないのだから……と。
この作品のもとになっている『遠野物語』の中のお話は、数年前から注目を浴びるようになった。わたしも縁あって、「あの話」とともに自分の喪失について考えようとしている人に多く出会った。
「あの話」が印象的なのは、大事な人と別れた者に、わかりやすい慰めを与えるものではないからだ。
あなたを選んでよかった――そう言われるような救いの方が、ずっとわかりやすい。だが「あの話」は、そんな慰撫は与えてくれない。打ちひしがれた人をさらに追いつめる内容にすら思える。
けれどもそのわからなさが、「あの話」が多くの人をとらえている要因なのだろう。寓話の寓話たる真価は謎の中にこそ、ひそんでいる。
この「新遠野物語」は、約120年前に起きたとされるこのお話が、現代において「ふたたび生きられていた」そのひとつの可能性を描いた物語。
長くはない短編だから、三人のキャラクターの輪郭はシンプルで、細い。でも三人の交錯する想いは、水彩画のような繊細な色をたたえていて目をひきつける。プロットに横たわる昔話と、多くの人の日常を変えたあの出来事、そして架空の人間たちの人生とが、高い物語構成力で編みあわされていると感じた。
主語やその他の言葉をあえて削ぎ落としていらっしゃるのだろう、わたしには読んでいてつまづく部分もあった。けれどもそれは相性の問題だと思う。
主人公は、120年前の彼より、ほんの少し救われている。それはこの作品における三角関係がV字ではなく正三角形であったためだったとしたら? 自分の面影を、自分の一部を、「その人」が一緒に連れて行ってくれると信じることができたためだとしたら?
だがそのことは、読み返しても作品内にはっきりと示されてはいない(と思う)。おそらく、誤っていて、偏った読みだ。