殺伐百合の臨界点

認識をしても、感じられない。
クオリアへの麻酔技術、このことをSF作家の伊藤計劃は自作のなかでどう呼んだのかな、とふと考え、それが痛覚マスキングという言葉だったことを思い出す。

それで、本作「幸せの牢獄」。

痛み、というのは単なる肉体的な感覚ではない。情動へ突き刺さる衝撃でもある。あらゆる感情に密接に繋がっている根源的な感覚ですらある。
痛みとは嫌なことだ。不快なことだ。でも、感情を刺激する不快なことを遮断し、内観が外部へ出力される回路が閉ざされば、世界が正しく認知できなくなる。いや、それすらも外からは想像すらできない。

そこはまさしく牢獄であり、主人公「私」が述懐する自らの職業はそれ以外にふさわしい言葉はないだろう。

感情、などというものは脳内の化学物質の分泌により揺り動かされるものに過ぎない。それを制御するガジェットの名称も、百合作品らしく甘く純白で耽美さを添えている。

百合とは精神性である。殺伐百合とはグロテスクで頽廃的で破綻を感じさせる、腐敗した精神性にこそ魅力があると思う。

腐臭の甘い臭い、とはよく言うが決してそんなことはない。腐臭とは、噛んで含んだような、口のなかに広がる不快な粒子の動きだ。

この物語は間違いなく不快な物語だ。

だから、クレイジーサイコレズ主人公の膿み腐った精神性は、読んだ者の心にずっと爪痕を残す。1回読んで「いやこれはないだろ」と思いもう1回読んでレビューするのにまた1回読み直しました。