幸せの牢獄

前野とうみん

グッドラック・エモ―ション

 私の目の前で死んだように眠る女性は、やはり私が知る中で最も美しい。なめらかな栗色のショートヘア。つんと上向きの小さな鼻。伏せられた大きな瞳。荒れのない肌。安楽椅子に身体を預ける彼女の左手首を取って、注射針を刺す。薬剤が注入されて、親指が少しの震えを見せた。そして、女性はまったく動かなくなる。


「ちょっと我慢してね、エミ」


 私の言葉はエミに届くことがないけれど、口に出さずにはいられなかった。二人で住む5畳の安マンションの一室に、私の声が溶けていく。つけっぱなしのテレビはずっとドラマの再放送を流し続けている。


 私が身を包んでいるのは黒装束。黒い山高帽、黒いコートに黒いスーツの、これは喪服で、私の仕事着。これは専門職で、ある種の儀式に近く、私は葬儀屋だった。


 エミの耳に私はチューブを挿入していく。髪をかき分けた先に覗く可愛らしい小さな、少し赤らんだ耳に。先端には浸透注射器。しっかりと奥まで差し込む。固定すると、チューブのもう一方に繋がっているタンクから、白い、粘性を持った液体が送り出され始めた。私は液体が零れないように、エミの頭を少し傾けて、その白い液体がエミを満たすように、グラスにワインを注ぐ慎重さで。


 さて、この液体は実は液体などではなく、粒子だという。あるいは可塑性プラスチックだとも、高分子機械群だとも。しかし私たちの職業はこれを『ミルク』と呼んでいるから、やはり液体と呼んで構わないだろう。仕組みは分からず、ただ葬送に必要な薬剤としてミルクを扱っているわけだから。


 脳内に注がれたミルクの様子は、手元のモニターで確認できた。ミルクは鼓膜をすり抜け、粘膜から脳へと至る。複雑な回路を描き、大樹を覆うツタの乱暴さで脳を網で包む。また、内部へ入り込み、独自の規範を形成していく。やがて、脳を浮かべた鍋のように頭蓋の中はミルクで満たされる。


 ミルクの注入、完了。私はミルクの浸透が上手くいっているのを確認してエミの耳からチューブを引っこ抜いた。波のうねりで拡張と伸縮を続ける分子機械の群れを横目に、用意してあった墓石ストレージ――ちょうど、ボールペン程度の大きさの黒く滑らかな棒だ――を取りだし、また同じように耳へと挿入した。


 この墓石に刻まれるのは彼女の名前ではない。が、彼女自身であったことも間違いはなかった。


 しばらくすれば、モニターの中でミルクが静止する。そろそろかと思うが早いか、間もなくミルクは逆再生のビデオテープのように、浸透とは真逆の手順での撤退を始め、もう一度耳管へと殺到し、全てが墓石へと収まっていく。ずるる、とか液体を啜る音と共に墓石が高周波のビープ音を奏で、それは同時に葬送の成功を意味していた。


 私はとりあえずの安堵と、擦り切れた達成感と共に墓石を抜き取る。チカ、チカ、チカ。ミルクと共に吸い取った情報をデリートしている最中だと、緑色のランプが吠える。小さな、卑しくもその存在を主張する、墓石に吸い込まれた情報の本流――それが、私が葬送する対象そのものであった。


「うぁあ――え、おぅうぁ」

「お疲れ様、私が見える、エミ?」

 

 エミが虚ろな声を、あるいは呻きを漏らす。目を覚ましたのだ。私はエミを抱き起すと、エミの頬に両手をあてて瞳を覗き込んだ。エミの眼球が、少し血走って赤くなった両目が正面にいる私を探す。何度も目を細めたり、見開いたり、そんなことを繰り返すうちに彼女は私を見つけたようだった。


「ああぅあ! あぇぁ――……あっあ!」

「そう、私はここ。どこへも行かないわ」


 エミが、喉を震わせて破顔する。彼女の美しい顔には喜びが見える。私の言葉を理解できたのかすら怪しく、本当に喜んでいるのかも分からない。それでも彼女は笑っている。何よりも目の前でエミが笑っている事実が愛おしい。


 私がこうして葬りさったのは、彼女の感情そのものだ。ミルクは脳の、特定の知覚部分をマスキングする。ちょうど熱した牛乳ホットミルクが膜を張るように、人間の感覚の、その輪郭をぼやけさせる技術だ。彼女の脳内に残留した高分子機械が、彼女のことを苦しみから救ってくれる。

 私は墓石をテーブルの上、私が彼女の為に買ったマグカップにペン立ての要領で仕舞う。並び立つ墓石は49本。これがエミの、私が葬ることを決意した感情の碑だった。


 私は葬儀屋だ。ストレスセラピー産業の延長線、社会になくてはならない感情の葬儀屋。誰かはストレスの解消のため、誰かは悲しみを忘れるため、誰は史上の快楽のため。ミルクと呼ばれる分子機械群を使って、人々は不快さを受け取る主体を、感情を殺す。こんな酷い技術を取り締まるほどの余裕もないほどに疲弊しきった世界の中で、人類が立てた感情の墓標が地平を覆い尽くす未来もそう遠くない。

 感情の葬儀屋――そういえば聞こえはいいが、私は自分の職業が嫌いだ。よくて感情の殺人者だろう。数えきれない感情を殺し、墓石に刻む。そうし続けなければいけない理由が目の前にいる彼女だ。


 果たしていつまで続くのだろうか、私は彼女の笑顔を失うことが恐ろしくて、彼女の感情を殺し続けている。

 彼女に巣食っているのは空白ブランクだ。どうしようもない、感情の空隙だ。





「ただい、ま」


 玄関に踏み込んで、まず先に私の鼻を突く過剰な芳香剤の香りに彼女の無事を悟った。ひとまずは安心か、私は靴を脱ぎ、コートをハンガーにかけて、スーツ姿でリビングへの扉を開ける。


「あう――……ぁ、あ?」


 4畳もないリビングの中心で、安楽椅子に腰かけるのがエミだった。部屋を満たすのはより一層キツくなった芳香剤の香りに混ざって漂う明らかに異質な臭気と、朝からつけっぱなしの、エミが大好きだったドラマの再放送の音。そして。


「ぁうあ……!あー、ああぅああっま!」


 私が帰ってきたのに気づいたエミは笑顔と呼ぶには頼りない、ただ力が抜けきっただけのような表情で呻き声をあげる。ぼんやりと焦点の合わないエミの視線が空を漂って私を探す。だらしなく開いた口が、彼女の声で音を鳴らす。

 こっちだよ。私はそうささやきながらエミの傍らにしゃがみこみ、そして彼女の頬に両手を当てた。柔らかさと共に、彼女の心臓が脈打つのも感じた。大丈夫、彼女はこうして生きていて、まだしっかりと温かい。


「ただいま」

「お……――?」


 もう一度、彼女の耳元でしっかりと。エミの栗色のショートカットが鼻に触れて少しくすぐったい。汗の臭い交じりに、ザクロのような甘ったるい彼女の体臭を感じた。


 私がすべきことはまず、安楽椅子の下部、彼女の排泄物を収集するカートリッジを処理することだった。芳香剤はこの臭いに反応して部屋に匂いを撒き散らしていたのだ。新しいカートリッジを差し込み、古いカートリッジは防臭袋に突っ込んで捨てた。

 それから、食事。彼女は噛むことはできる。だが、咀嚼し嚥下できることはまた別問題で、私はゼリータイプの栄養食をエミに与えていた。味気ないだろうけど、我慢してねと呟きながら、押し込むように。時折エミが吐き出してしまうことから、ゴム製の涎掛けは必須だ。

 また、お風呂が一番大変だ。座って過ごす生活の内、彼女はもはや自力で立ち上がることもできなくなっていた。人間の身体は重い。身体を洗う時というのは本当に「洗っている」という気持ちの方が先行するほどだ。徐々にやせ細り、艶を失っていく身体は直視することができなかった。


 どの間も、彼女はずっと曖昧に笑っている。その感情は分からない。あるいは、もうすでに感情はないのかも知れなかった。

 どちらにせよ、彼女をこうしてしまったのは私に他ならなかった。


 空白ブランク現象と呼ばれるその症状は、感情の過剰な葬送によって引き起こされるものだった。感情を受容する部位への過度なマスキングが重なると、受容体が退化し不可逆へと陥る、ミルクの致命的欠陥。結末はエミの、現状の通りだ。ぼやけた世界の中で、ぼやけたままに人生を送る。

 原因はミルクの過剰摂取だ。感情の葬送の度に脳内に残留した高分子機械群はやがて己の使命に特化していき、マスキングの延長として感情の受容体をそのまま本人から独立させ、切り離してしまうのだ。

 聞こえないわけでも、見えないわけでもない。喜びも悲しみも、そのすべてを感じてはいる。が、それらは決して行動として現れることはない。感じたことは受容体の、代替されたミルクの中だけで完結してしまうのだ。


 だから、彼女の笑顔は厳密には笑顔などではない。上手く出力されない、靄のかかった感情が見せる筋肉の綻びが笑顔に見えるだけだ。

 でも、彼女の笑顔にしか私は救われない。たとえまやかしであろうと、その笑顔を信じるしかない。だから、私は彼女の悲しみや苦しみという感情を、葬り続けているのだ。

 たとえそれが、更に彼女の空白を広げることになろうとも。



「エミ、ミルクの時間だよ」


 私は努めて優しく、エミにそう語り掛ける。相変わらず漏れるのはあう、とかおぁ、とか言葉にならない声ばかり。私は安楽椅子で横になるエミを見ながら、葬送の用意していた。全て、職場から盗んできたものだった。初めてエミに葬送を施したあの頃から。


 墓石は50本目だ。そして今日は、私と彼女が出会って一年目の記念日でもあった。


「エミ、憶えてる? 私とあなたが最初に出会った時のこと。きっかけは私の一目惚れだったよね。バーだった。私、あまりにあなたの笑顔が素敵だったから、すっかり夢中になって」


 私は思い出していた。一年前、仕事の終わりにたまたま寄ったバーで酔いつぶれていたエミを。豪快な大笑いでお酒に溺れていたエミの、生き生きとした笑顔に私は惹かれた。職場の愚痴をひたすら続けるエミに私は話しかけて、そこから関係は始まったのだった。

 最初の墓石は、二人で愚痴を言い合った末に、嫌なことを忘れたくってできたものだった。最高だった。私たちは友達だって、二人で笑った。


「いろんな場所に行ったよね。それで、なんども嫌なことを葬送した。それでよかった。それがよかった。なのに」


 じきに、エミがこう漏らすようになった。葬送は怖いと。これで終わりにしよう、と。自分が自分でなくなるようだとも。

 でも、でもでもでも。それじゃあ、私はどうなるの? ミルクがなくって、楽しいことがなくって、それって私、あなたの特別じゃなくなる。そんなことって耐えられない。

 私は彼女を幸せにすると証明しなければいけなくなった。私はエミを幸せにできる。どんなことでだって。例えば――どんな酷いことをしたって。


「あなたが悪いの。だから、私はあなたをむちゃくちゃにした。それも乱暴に。でも、私の下にいる間、あなたは幸せだったでしょう? だってあなた、笑ってた。苦しいこと、痛いこと、辛いこと、全部私が葬ってあげたのから」

「うぅえあ……ぉおおあぁぁあああ!」


 準備が終わった。私は声を上げる彼女の耳にチューブを突き立てる。もう薬剤の注射で気絶させる必要もない。だって、彼女は、満足に動くことだってできないのだから。

 私はエミの股ぐらへ左手を伸ばした。彼女の身体が一瞬、びくりと跳ねる。少し湿っていて、ざらざらとした感覚を中指と薬指に感じる。私はあの日の少し酸っぱくて鉄臭い部屋が、僅かにフラッシュバックした。


「ちょっとざらっとしてるね。また剃ってあげないと。……大丈夫、何も痛いことも恥ずかしいこともないよ。すぐに幸せになれるんだから」

「ん――!!! ぁああ……――うああぇええあおぉぉあ――――」


 エミが声を上げるのは、私の言葉が聞こえているからなのだろうか。薄ぼんやりとそんなことを思いながら、私は浸透注射器を引き絞り、彼女にミルクを与える。

 ぱしゅ。ミルクがエミに注入される音がして、エミが声を発さなくなる。

 同時に、じんわりと、私の指に濡れる感触。ぬるり、と、指が迎え入れられるかのように、エミの身体の緊張が解けた。エミの顔を見やれば、そこにはいつもの、柔らかな笑顔がある。


「エミ、聞こえているかしら。今のあなたの笑顔、すっごくかわいい。あなたがどう感じているか、どう思っているか――そんなこと関係ない。私はただ、あなたのその笑顔をずっとみていたい」


 50本目の墓石をエミの耳に突き立てる。彼女の身体が再び跳ね、収集しきれなかったミルクが少しだけ、彼女の耳から首筋へ垂れた。つつ、と雫の先から舐め取る。無味無臭の可塑性プラスチックからは、彼女の汗の味と甘い香りだけを感じた。反射だろうか、彼女の身体が跳ねる様子が愛おしい。


 彼女はずっと笑っていた。私にかき回され、唇を奪われ、汚されながらも、彼女の口はずっと緩んだままで、目はとろんと浮かされている。


 彼女は今、きっと幸せを感じている。不快感も、怒りも、彼女は感じられるわけがないのだ。私が用意したのは喜びだけだ。尽きることのない幸せのなかで、彼女はただ笑ってさえいればいい。私はそれで満足だ。


 私は彼女を愛している。エミは私を愛しているだろうか。憎むことも恨むこともできない牢獄の中で、彼女は。


 少なくとも、私が一目惚れした笑顔には二度と出会うことができない。それだけは揺るぎようのない、ただ一つの事実だった。


 


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