1-3 ランナーズダイ:症例1 長谷エラッタ
町はいつも通り静まりかえっていた。
行きかう人々はみな足早で目が合えば愛想のいい挨拶を忘れない。騒音やマナー違反や無視をきっかけに暴力をふるうのは地雷人の主流だ。道行く人と関わらぬよう、それでいて傷つけぬよう、全員が神経を擦り減らすことで、見かけだけは閑静で平穏な町が作られている。
見えない地雷原の中を、塀人の運転する車はしずしずと進む。
やがて、エラッタの通う高校が見えてきた。
通用門に備え付けられたモニターに、国家指定のカウンセラー証明書を翳し、アポイントを告げる。慇懃無礼な案内とともに、武骨なゲートが開く。
校内は閑散としていた。土地面積に対して建物が少なすぎるのだ。この高校は市内ではかなりの知名度を有するが、それでも、ひと学年三クラス程度だろう。
原因は当然、少子化ではない。人口そのものが大きく減ったからだ。
来賓用の駐車場の枠内ピッタリに車を収め、塀人は職員室へ向かう。
エラッタの担任は見るからに頑強な男だった。
「長谷の担任の番傘と申します」
「カウンセラーの高橋です。貴重なお時間をありがとうございます」
「や、長谷から話は聞いております。どうぞどうぞ」
番傘の堂々たる応対に塀人は内心で舌を巻く。
学校側に塀人のプロフィールは連絡済みだ。カウンセラーとしての義務でもある。
つまり番傘は、暴力を振るう可能性がある塀人を前にして、明るい笑顔を見せながらソファーを勧め、一対一で話あおうとしているのだ。
そのことを訪ねると、番傘は快活な笑い声をあげた。
「年中、数十人の生徒を相手にしてますもんでね。腹は括っとります」
「実際、被害に合われたことは」
「二度ほどね」番傘はジャージの右袖を捲った。螺旋状に白い傷跡が残っている。
「雑巾みたいに捻られました。複雑すぎる骨折で一年間ギブスですよ」
塀人は驚きと痛みで顔をしかめているような表情を意識して浮かべた。
危険すぎる職業として志望者が殆どおらず、給与が鰻登りに高騰し続けている点を考慮しても、やはり教師には相当のリスクがあるらしい。
「それで、長谷のことでしたな」
「ええ。学校での生活態度などはいかがでしょうか」
「きわめて品行方正、クラス委員を任せております。成績も優秀ですし」
おや、塀人は内心で呟く。あてが外れた。
「長谷さんは私に、カウンセリングを依頼した動機をはっきりおっしゃいませんでした。
てっきり受験に備えて、内申点を上げるためかと思ったのですが」
「その点は私も疑問に思っとります。ここだけの話、きっかけが分かっている生徒ほど心象が良いのは事実です。しかし長谷は、そんな心配をしなくても、十分志望校に行ける実力がありますからね。自身で予防もできとりますし」
「……校内での長谷さんの様子を、診させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ。いまは部活中でしょう。グラウンドにいる筈です」
「ああ、高橋さん」
ストレッチ中のエラッタは片手を上げて塀人を出迎えた。
学校指定の体操着の上にジャージを羽織り、ショートパンツから長い脚を伸ばしている。
「これから練習ですか」
「いえ、クールダウンです。一通り走り終えたので」
「ええ、夏の大会に向けて」エラッタは声を弾ませた。「私、初めて出場するんです」
「それは素晴らしい。マスクをつけたまま走るのは大変そうですね」
「地獄ですよ。汗が目に入っても拭えないし、すごく臭うし」
「おやおや」
「でも私、こんどの大会でやっと、公式の記録がつくんです。それが凄く嬉しくて」
エラッタは喜び、塀人は頷く。
単に競技会に出場するだけでも地雷人は手続きが必要になる。トリガーもバーストも分かっていなければなおさらだ。
「どうして陸上競技を?」
「昔から走るのが好きだったんです。大きくなったら短距離走をやろうって決めてました。目標を変える理由がなかったんです」
「なるほど」
「確かに不安だけど、後悔したくないから、できる限りのことをやりたいんです」
そういうとエラッタは小首をかしげて見せた。
ガスマスクに隠れて見えないが、きっと笑っている、と塀人は判断した。
エラッタの肩越しに、グラウンドの向こう側から走ってくる生徒が見えた。
女生徒も怪訝な顔で塀人を見ながら、エラッタに声をかける。
「おーいエラッタ、ミーティングだよ」
「ユーリありがと、すぐ行く!……すみません高橋さん、いったん失礼します」
「ええ、よい結果が出せるよう、応援していますよ、それと」
塀人は笑顔を崩さずに尋ねた。
「先ほどから私を尾行ている、あの男子生徒は誰でしょうか」
「え」
「どうかそのまま、顔色を変えないように」
思わず言った直後に塀人は後悔した。エラッタが顔色でばれるはずがない。
「貴女の位置からだと見えるはずです。細身で長身の生徒で、目つきが鋭い」
「あれは……柳田君です」
エラッタの声は、どこか沈んでいた。
「お知合いですか」
「ええ。学年は違いますけど」
それだけ言うとエラッタは、黙礼して走りさっていった。マスクの後ろから突き出したポニーテールがたなびくのをしばらく眺め、塀人は振り返った。
視界の隅で、目つきの鋭い男が身を翻したのを認め、塀人は後を追った。
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