1-4 ランナーズダイ:症例1 長谷エラッタ
「いつまでついてくるんだ、あんた」
校内の廊下に入ってすぐ、柳田は振り返った。
塀人に向けるまなざしにはありありと非難の色が浮かんでいる。
「お気づきでしたか」
「気づくようにつけてきたんだろ」
「尾行がきっかけで暴力をふるう症例もありますから。高橋と申します」
「柳田。長谷から聞いたろ」
きわめて簡潔な自己紹介に、塀人は首をかしげる。
「ご自身の地雷については、説明なさらないんですね」
「言う必要があるか?」
無表情で返す柳田。
塀人はしばし沈黙し、コートのボタンを一つ外して言った。
「なるほど。それであなたのお悩みは何ですか?」
「……あぁ?」
「あなたは自分の地雷を知っている。その上で説明をしない。この状況で私の言動は大幅に制限される。あなたの都合のよいように。そこまでは分かります。しかしそれは、あなたにとっても同じ筈だ。あなたは私の地雷を知らない。そんな相手の尾行に気づいたうえで、わざわざ声をかけてきた。それだけのリスクを取って何を話したいのですか」
「ペラペラしゃべる野郎だな」
柳田は目を丸くした。
「俺が、まくしたてられたらキレるタイプだったらどうするんだよ」
「実際は違ったので、問題ありません」
塀人はあっさり言い放った。
柳田は軽く両手を上げた。癪に障るしぐさだが塀人は口には出さない。
「こう言うつもりだったんだ、長谷と関わると命がいくつあっても足りないぞ、って。あんたには効果ない言葉みたいだな、高橋さん」
「お友達ですか」
「犠牲者だよ」柳田は微笑した。
「半年前に肋骨をおもいっきりやられた。おまけに俺は石段の上にいてさ。あちこち折って最近まで入院してた。進級も、引退試合も、全部パアだ」
「学年が違う、とおっしゃっていました」
「留年したからな。なのに病院から帰ってきたら、向こうが敬語を使ってきた。優等生は違うよな。やっぱり」
伏し目がちの柳田の、平板な喋り方からは、感情を読み取るのが難しい。
「参考までにお伺いしますが、暴力を振るわれた理由は何だと思いますか」
「見当もつかねえよ。俺、背中向けてたし」
「ご本人は匂いに関係があるとおっしゃってます」
「知ってるよ。だからあのバカみたいなマスク被ってるんだろ」
「バカみたいなとは」
柳田はうつむいたまま呟いた。
「たぶんだけど、効果がないからだよ」
どういう意味です、と塀人は聴き返そうとして。
数瞬早く、悲鳴が耳に入った。
運動部と思しき集団が、血相を変えて校舎へ駆けこんできた。
先ほど運動場で見た顔を見つけ、塀人は袖をつかんで呼び止める。
「何が起きたんですか」
「エラッタがぶっ壊れたの」
女生徒はそれだけ言うと、抑止を振り切り逃げて行った。
塀人は反対方向へ向かって駆け出す。
校庭には見る限り数名の人影が転がっていた。一様に腹や腰を押さえている。
苦悶する生徒を誘導していた番傘が大声を上げながら駆け寄ってきた。
「高橋さん!」
「長谷さんが爆発したと」
「突然です。タイム測定中にいきなり駆け出して、無差別攻撃ですわ」
「なるほど、本人はどこへ行きましたか」
「あまりに突然で、見失いました。おそらくまだこのあたりに」
辺りを見渡す番傘の巨体が、吹き飛んだ。
塀人の死角、斜め後ろから駆け出したエラッタは、獲物である番傘ごと吹き飛び、校舎の壁に激突した。地面に転がる二人は動かない。塀人は静かに間合いを測る。
「長谷!」
背後から柳田の声。塀人は振り返らずに言った。
「柳田さん。この場を離れてください。そして救急車の手配を」
泥まみれのガスマスクを被った頭をもたげ、エラッタがゆっくりと起き上がる。
柳田はほとんど悲鳴のような声を上げた。
「長谷!やめろ!」
「柳田さん!」
塀人は恫喝する。柳田が息を飲むのが分かる。
「あなたもお判りでしょう。この状況で、言葉は無意味です」
エラッタは猛牛のように頭を振ると、再度、その場にうずくまった。
ズタズタの制服から片脚を後方に伸ばし、爪の割れた両手の指を地面に就く。
悪夢のようなクラウチングスタートの姿勢。
「長谷!」
柳田の絶叫とともにエラッタは駆け出した。
正気の人間ではあり得ない加速。
棒立ちの塀人めがけ、エラッタが地面を蹴る。
コートを捕まれる寸前に塀人は動き出していた。
飛び蹴りの軌道から半歩横へ。勢いをいなし、そのまま投げ飛ばす。
宙を舞ったエラッタは足から地面に激突し、動かなくなった。
塀人は大きく息を吸い込み、コートの汚れを払う。
その手の震えに気づき、塀人は自らの手を押さえた。
遠方から救急車の、騒音で暴走する人間に配慮した控えめなサイレン音が聞こえてくる。
視線の先にいるエラッタが、ガスマスク越しに苦悶のうめき声を上げる。
右脚の、膝から下が、反対に折れ曲がっていた。
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