1-7 ランナーズダイ:症例1 長谷エラッタ
待ち合わせ相手の姿を認め、塀人は一礼した。
「夜分遅くにすみません。寒くありませんか、あなた」
「別にいいよ。すぐ済む話なんでしょ?」
「ええ、長谷さんの件で」
「大変だねカウンセラーさんも」
「ええ、早速なんですが、どうして長谷さんを暴発させたんですか、弓削さん?」
塀人の発言に、弓削の動きが止まる。
「は?」
「ご存知の通り地雷人が暴発により人を傷つけても罪にはなりません。ただし、故意に地雷人を利用して周囲に危害を加えた場合には刑法・民法で罪に問われます。そこまでのリスクを負って、どうして長谷さんに暴力をふるわせたんですか?」
「ガンガン進めないで。ねえ、なんで私なのよ」
「私を襲ったとき、エラッタさんは制服姿でした。つまり着替えていたんです。病院でご本人に確認してきました。練習後、あなたと、シャワールームに行ったそうですね」
「それがどうしたの」
「あなたはシャワーを浴びている間に、長谷さんのマスクに細工をしたんでしょう。遅ればせながら、長谷さんの暴力を振るうキッカケは先ほど判明しました」
「ああ、そう」
「ご存知ですよね?長谷さんは、嗅いだことのない匂いをキッカケに暴力を振るうんです」
弓削は答えない。
「あなたはマスクの内側に、おそらく揮発性の何かを塗布した。適当な香水を数種類混ぜたんじゃないでしょうか。長谷さんはマスク内に充満する匂いに暴走し、無差別に周囲の方を攻撃した。こういうことでしょう」
「ぜんぶ推測じゃない」
「ええ。そうですよ」塀人はあっさり頷く。
「あなたが動じないのは、トリックを再現することが私たちには不可能だからです。どんな異臭を嗅がせたかを突き止めても、すでに経験した以上、長谷さんは同じ反応を返さないでしょう」
「……もう一回聞くんだけどさ、なんなの、話って」
「ですから、動機が聞きたいんですよ」
「それも推測で突き止めればいいじゃない」
「私は探偵ではありません。直接聞くのが一番早いと思いまして」
弓削は塀人を凝視したまま、ゆっくりと口角を吊り上げる。
「私はやってないけどさあ、ムカつくよね、エラッタって」
明らかに笑いながら弓削は続ける。
「だって明らかに危険なんだよ?見ればわかるじゃん。あの仰々しいマスク。地雷抱えてるのはみんな一緒なのに、自分だけ一生懸命努力してます、立ち向かってますって感じを出すじゃない。匂いがきっかけだって分かってるなら、鼻を削いだら一発なのにさあ」
「実際にそのような処置は可能です」
「でしょう?でもやらないんだよ。あいつは悲劇のヒロインでいたいんだよ。まあ別にかまわないよ。何が腹立たしいって、他の連中がエラッタの立ち位置を是認したことだよ」
弓削は唾を吐く。見せつけるように。
「番傘も、陸上部の連中も、柳田だってそうだよ。いつの間にかエラッタの応援団。このままいったらアイツ笑顔で卒業してたよ。学校生活は大変だったけどいい思い出でしたっていうよ。ふざけんじゃねえ罪人のくせに。だから、ほら、まるごとぶっ壊してやりたいなあ、って思うことはあったって書き込みがSNSにあった気がする、忘れたけど」
後半を急激に曖昧にして、弓削は乾いた笑い声をあげた。
塀人は形式的な一礼を返す。
「非常に参考になる意見でした。ありがとうございます」
「で?どうするの逮捕するの?」
「繰り返しますが、私はカウンセラーです。そのような権限はありません」
「だよねえ、分かってて聞いたんだ」
「私からも加えて一つ、よろしいでしょうか」
「なによ」
「ポケットに手を入れるほど肌寒いのなら、もう少し厚着すればよいのではないですか」
弓削は露骨に眉を顰め、肩をそびやかす。
「……なにそれ、キモイんだけど大声出すよ?」
「単純な親切心ですよ。風邪をひくかもしれませんし」
塀人は重心を右に傾けた。
「それに、誰かを激怒させるかもしれない」
背後に接近を感じていた強烈な気配が、一歩横にずらした塀人の体を掠めた。
飛び掛かる影へ、弓削の対応は遅れた。塀人の体に隠れて見えなかったのだ。
衝突し地面に転がる二つの人影。
苦悶に呻きながらも弓削は、突然の乱入者を見定めようと起き上がろうとする。
身を起こすより早く、その下半身が浮いた。
地面にうつぶせのまま、両足を持ち上げられた弓削は必死に身をよじる。
「よくよく尾行が好きですね、あなたは」
感情のない声。地面から視線を上げれば。
塀人が話しかけている。おそらく乱入者に向かって。
「まったく気が付きませんでしたよ。これはもう、止めようがない」
淡々とした口調に、弓削が顔を引きつらせる。
そして、気づいた。
自分が招いた災難と、これから受ける暴力について。
「誰かに途中で止めてもらえればよいのですがね」
「あんた、はじめっからこのつもりでっ」
罵倒の言葉は最後まで続かなかった。
乱入者が、弓削の両足を持ち上げ、そのまま走り出したのだ。
慌てて地面に着いた掌を、アスファルトが容赦なく切り裂く。
苦痛に耐えかね突いた肘が、むき出しの肩が、摩擦に耐え兼ね擦り潰されていく。
弓削はズタズタになった腕で必死に体を持ち上げる。
引きずられる速度は一切落ちない。
何かの欠片が与えた激痛が、弓削のバランスを崩した。
もろに路面へ落下した顔面が、涙や悲鳴とともに擦り潰されていく。
塀人はそれを見送っていた。
二つの人影が闇の彼方へ消え、絶叫が聞こえなくなるまで。
ただただ突っ立って見送っていた。
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