マインドマインド

佐賀砂 有信

プロローグ 多度津木陰


プロローグ 多度津木陰



 多度津木陰の記憶は、人生で二回途切れている。


 一度目の断絶は木陰が十六歳、高校一年生のときに起きた。

 木陰は夜道を急いでいた。

翌日の文化祭の準備ですっかり遅くなってしまったのだ。

教室を出際に見た時計は十一時を回っていた。下手したら日をまたいでしまう。

 木陰はフルスロットルで市街地を走った。街灯が多くそこまで不安は感じなかったもののそれでも薄気味悪い。人影をまったく見なかったのも寂しかった。

 不安と自転車を加速させる木陰。

 慣れ親しんだ道に出た。次の角を曲がれば自宅はすぐだ。

木陰が緩やかにブレーキを握った、その一瞬後。


視界が、真っ青に染まった。


染まったというより何もなくなったというのが感覚的には正しい。

晴れ渡った青空や澄んだ海の色ではない。

CG処理時のブルースクリーンのような、人口的な青色。

どれくらいの間、青色に囲まれていたのかは分からない。

木陰は自転車から降りたような気がする。そのまま数歩歩いたような記憶もある。

最終的に記憶を失う直前、木陰はどうやって脱出すればいいか、途方に暮れていた。



目覚めると横倒しの自転車が見えた。

急いで起き上がる。車道の上に大の字で転がっていたようだ。よく轢き殺されなかったものだと安堵しながら、木陰は急いで家路についた。

チャイムを鳴らすと出てきたのは姉だった。おかえり、というその表情がおかしい。

「……どうしたの」

「なんかね。わたし病気かも」

 玄関に上がってよくよく見れば、姉がパジャマ替わりにしているTシャツに、茶色の巨大なしみがついている。染め直したのかってくらいのコーヒー色のシミ。

「こぼしたの、それ」

「ん」姉があいまいに頷いた。「なんか視界がさあ、いきなり真っ青になって」

 え、お姉ちゃんも、私も見たよ/マジ!?なにかしら事件じゃん/なんか爆発したのかと思った/きっとUFOだよUFO/落ち着きなよお姉ちゃんまた大学落ちるよ……

 姉はおおっぴらに、木陰はひそかに興奮しつつ、その晩は眠りについた。

 翌朝、木陰は首をひねりつつも待望の文化祭へ向かった。

だからこれ以上のエピソードはない。ここからは彼女の姉から聴いた話になる。

 姉は受験勉強そっちのけで新聞社へ電話した。

なにかしらのスクープになることを期待したらしい。

しかし電話はつながらなかった。何回かけてもつながらなかった。

 

 あの晩、多度津姉妹が目撃した青色の光を、世界中の人間が見ていたのだった。


 二度目の断絶はそれから半年後に訪れた。


「あの夜」以降、校内の治安は崩れ落ちるように悪化していた。

 暴力事件や器物損壊が絶えず、パトカーが頻繁に出入りするようになった。出席率も極端に下がった。大怪我を負って入院する生徒が続出したのだ。自分たちに何が起こったのか。残された生徒は、日々、怯えながら過ごしていた。

 荒れ果てた学校の中で、図書室は木陰にとって唯一の救いだった。現実の不安を忘れるべく木陰は本を読み続けた。その時間を確保すべく率先して手を上げ、図書委員に選任された。本と安寧を愛する木陰の図書室は、静かな人気を呼んだ。

 その日、木陰は図書室で返却された本を書架に戻していた。彼女の背後で扉が破裂するような音を立てて開いた。注意しようと振り返った木陰は、ニヤついた男たちが揃って図書室へ入ってくる様子を認めた。

 先頭の男は髪を赤く染めていた。見覚えがあった。たしかヤマノイという名前のその男は、教員を立て続けに病院送りにし、何度も補導されていた筈だ。

先ほどまでの安寧に満ちた静けさではない、不穏な緊張感が室内に充満する。

室内をねめつけていたヤマノイは、硬直して動けない木陰と、その右肩に止められた「図書委員」の腕章をみつけた。ニヤリと笑ったヤマノイは木陰の前に立ちはだかった。

本棚とヤマノイの巨体、取り巻きに囲まれて動けない木陰にヤマノイが言葉を投げる。

「なあ、俺にも本貸してくれよ、エロいやつ」

 仲間うちの嘲笑に気を良くしたのかヤマノイは続ける。

「あんだろ?ブンガク」「濡れ場濡れ場」「エロいとこ図書委員さん読んでよ、ほら」

 恐怖と、それを上回る恥辱で、木陰は何もいうことができなかった。どうしてこんな目に合わされるのだろう。不条理が悲しく、木陰はただ震えていた。

 ヤマノイの顔から嘲笑が消えた。ノーリアクションがカンに触ったらしい。

 ヤマノイはおもむろに木陰めがけ手を突き出した。とっさに避ける木陰を無視して本棚から一冊のハードカバーを抜き出す。たった今、木陰が書架に戻した本だ。

「ぜんぜん知らね、だれだよこいつ」

 ヤマノイは無造作に本を床に放り投げ、不必要に音を立てて踏みにじり、唾を吐いた。



 大きく体を揺らされ、木陰は意識を取り戻した。

 目を開けたが暗闇のままだった。状況変化が処理できず悲鳴が出せない。

 ひとまず大きく吸い込んだ息にガソリンの匂いが混じっていて、木陰は自分が車中にいることを知った。不快な振動に頭を揺らしながら、木陰は途切れた記憶を呼び戻そうとした。

(何が起きたんだろう……ヤマノイが来て、本を捨てて、それから……)

 無意識に額に当てた指先に違和感があった。薄く硬い膜のような感覚。気づくとその感覚は全身にあった。指先と腕と服と顔と髪が生臭い何かで固まっていた。

 それが血液だと気づいたとき、木陰はやっと絶叫できた。


 ここから先は面会に来た姉から聞いた話になる。

 職員室に駆け込んできたのは図書室の愛好家とヤマノイの取り巻きだった。

 なにが起きたか説明しようとする彼らは一様に号泣していた。

数人は会話が不可能なほど嘔吐していた。

どうにか事情を察した教員数名は、木陰の身を案じ図書室へ駆けつけた。

 木陰は無事だった。夥しい血を浴びていたが怪我はなかった。

 そして木陰は、ヤマノイの体を、五十音順に棚に収めていた。

 彼女が向き合っている「は」行の棚には既に、ヤマノイの歯、肺、ひざ、肘、左足、左腕、左目、左耳、人差し指、ふくらはぎが、丁寧に陳列されていた。

 木陰の足元にはヤマノイが転がっていた。人体と血液の大部分を失った塊に、木陰は無造作に手を突っ込み、油粘土をちぎるように、一掴みの肉体をえぐり出した。

 木陰が丁寧に血糊を拭った肉塊には、大きなホクロがついていた。



 この時点では木陰は、乾いた血に塗れ怯えるだけだった。

 やがてトラックは乱暴に停車し、幌が引き上げられた。

 隙間から覗き込む。

 だだっ広い、草木が枯れ果てた校庭のような広場。

 放射状に並んだ夥しい数の銃口が、こちらを向いていた。

 銃を構えた人影は、いや人かどうかも分からなかったが、一様にヘルメットとゴーグルで顔を覆い表情が読み取れなかった。木陰は幌から顔を突き出したまま、腰が抜けたことに気づいた。逃げられない。

 フル装備兵士の合間を縫って、一人の男が近づいてきた。

 背が高い。スーツにロングコート。一見するとビジネスマンのように見えるがだとしたら営業職ではないだろう。木彫りの面のように無表情だ。

「多度津木陰さんですね」

 平板な声だった。町中でいくらでも耳にしそうな周波数。

「え」

「多度津木陰さんですね」男は繰り返した。

「え、あ、はい」

「高橋と申します。ご無礼な振舞い、誠に申し訳ございません。差支えなければ、そちらから降りていただいてもよろしいでしょうか。室内へご案内いたします」

 高橋と名乗った男は淀みなく喋った。まるで自動音声のように聞き取りやすい発音だった。ひょっとすると高橋こそ機械なのかもしれない。

「どうされましたか」

「……説明してもらえませんか」木陰は声の震えを実感した。「私に何が起きたんでしょうか。誰の血を浴びたんでしょうか。ここはどこでどうして連れてこられたんでしょうか」

 しばらくの間ののち、幌の向こうから返答が返ってきた。

「わかりました。お話しする前に、まず一つだけご理解ください―――」



「―――あなたは、地雷人です」

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