魔法使いイエルオーク
「ああ、危なかった……」
その場にペタリと座り込んだまま、イエルオークは、安堵の声を上げる。
体のコントロールを取り戻した彼女は、立ち上がる前にまず、自分の指を股間から引き抜いた。
指先が、体液で濡れて光っている。彼女は顔をしかめた。
「気持ち悪い……。さっきの男に、
自業自得な部分があるのは承知した上で、そう吐き捨てるのだった。
ここは魔法学院の女子寮であり、イエルオークも当然、学院に通う生徒の一人。
ただし彼女は、在学中の身でありながら既に『魔法使い』の称号を授与されるほど、優秀な学生だった。授業では教えないような――それどころか講師たちが存在すら知らない――禁術まで、いくつかマスターしている。
降霊魔法オカティも、そうした秘術の一つ。冥界から死者の魂を呼び寄せて、自分の身に宿らせる、という魔法だ。
霊体に体を明け渡すことになるが、その間、イエルオークの意識は精神の奥深くに
ただし『共有』といっても、霊体の方では意識のチャンネルの開き方を知らないため、霊体側にイエルオークの意識は流れず、一方的な話となる。だからイエルオークの肉体を得た死者の魂は、最初は混乱するのが普通だった。
とりあえずは鏡で「自分の姿とは違う!」と確認するだろう。そう考えて、イエルオークは鏡に仕掛けを施していた。イエルオークの肉体が持つ魔力と反応して浮かび上がるメッセージだ。
簡単な事情説明と「詳しくは机の引き出しの中のノートを見て」と書いておいたのだが……。
「まさか、文字の読めない男の魂が来てしまう、なんてね」
立ち上がったイエルオークは、服を着ながら苦笑する。
今まで恋愛話とは無縁だったイエルオークにも、最近、気になる男の子ができた。ネメッキという名前のクラスメートであり、彼の方でも満更でもないらしく、今週末にデートしよう、という話になっている。
だから。
デートに備えて、男心を理解しようと考えて、男性の霊体を呼び出してみたのだった。
しかし。
よりにもよって、別の世界で死んだ魂を引き寄せてしまうとは!
それも、あんな童貞男の魂を!
「だけど、あの男。鏡の魔力検知システムを一瞬で推察したくらいだから、
降霊魔法オカティは、術者の強い想いに応じて、最も相応しい人材の魂を召喚するシステムのはず。その意味では、あの童貞男こそ、今のイエルオークに必要ということになるのだが……。
「もしかして、ハンサムでクールガイのネメッキくんも、一皮むけば中身は今みたいな童貞男とか……? いや、まさかね」
ブンブンと首を振って、頭に浮かんだ可能性を否定するイエルオーク。
元々の予定では、今日一日、呼び出した魂に体を使わせるつもりだった。しかし危なっかしくて見ていられないので、イエルオークは強制的に、童貞男の魂を追い出したのだった。
いや正確には『追い出した』ではなく『追いやった』と言うべきだろうか。
降霊魔法オカティで一度召喚された魂は、イエルオークの精神の奥深くで眠る形になる。つまり現在イエルオークの肉体には、彼女自身の他に、これまで召喚した106人の女性の魂と、先ほどの童貞男の魂が共存している。
そしてイエルオークが眠っている時。肉体も眠りを必要としている間は良いのだが、肉体は疲労回復したのにイエルオーク自身の意識はまだ目覚めていない、という時間。これらの魂の一つがランダムに表層に出てきて、イエルオークの代わりに、その肉体を動かすことになる。
これが、降霊魔法オカティの最大のデメリットだった。
だから、いずれ先ほどの童貞男が、またイエルオークの体を自由にできる可能性もあるわけで……。
あの男のために、特別なメッセージを用意する必要があった。あの男はイエルオークの世界の言語を理解できないが、幸いイエルオークの方では、意識を繋げた際に、彼の世界の言語をかろうじて覚えることができた。
その文字を用いて、鏡のメッセージに書き足せば良い。いや、枕元にもメモを置いておこうか。万一、女子寮の友人が部屋に入ってきたとしても、童貞男の世界の文字は読めないだろうから、大丈夫だろう……。
そんなことを思いながら、イエルオークは引き出しから、雑記帳を取り出す。
そして童貞男に向けたメッセージの草稿を、考え始めるのだった。
『私は魔法使い、イエルオーク。あなたの魂を冥界から呼び出しました。まず最初にお断りしておきますが、私は処女です。だから指で膜チェックなんて、やめてください。続いて、状況を説明しますが……』
(「その日彼女は童貞だった」完)
その日彼女は童貞だった 烏川 ハル @haru_karasugawa
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