いつの日か、あなたの帰りを
ささはらゆき
いつの日か、あなたの帰りを
親愛なる旦那様へ。
私は今日も夜明け前にベッドを出ました。身支度を整え、屋敷内の見回りを済ませてから、いつものように庭に向かいます。
道々では夜のあいだに強い風が吹いて木々が倒れていないか、生け垣や花壇が傷んでいないかもよく確かめることも忘れません。
庭木の枝打ちや草刈りはすこしまえに済ませておきました。皆様が帰ってきたときにまっさきに目にする庭はいつもきれいであるように気をつけているのです。
夜闇にまぎれて庭に忍び込んだ不届き者を見つけたこともあります。お屋敷には鍵がかかっているため入ることが出来なかったのでしょう。
私の姿を見るなり逃げ出してしまったので、詳しい事情は聞けずじまいでしたが……。
幸いなことに、今日も庭に問題はありませんでした。
ただ、
坊っちゃんはこの季節になると奥様が作られる唐桃のジャムがそれはお好きでしたね。皆様がお帰りになる日のために取っておきたいのはやまやまなのですが、残念ながら私は熟した実を長いあいだ保存する方法を知りません。唐桃の旬がすぎるまでにお屋敷に帰ってこられることを願っております。
それから私は井戸でバケツいっぱいに水を汲んだあと、旦那様の大事になさっていた薔薇園へと入りました。
よく空調の行き届いた温室のなかで、薔薇たちは競うように花弁をほころばせています。
なかでも旦那様のお気に入りだった黄薔薇は今年はとくにみごとな色合いで、花弁のバランスといい素晴らしい咲きぶりです。
私が薔薇たちに水をやりながら思うことは、ここに旦那様がおられればどんなに喜んだか、そして、この景色をお見せできないことが本当に残念だということです。
むかし、旦那様は私に薔薇の育て方と鑑賞法を教えてくださいました。
おかげでこうして日々薔薇たちの世話をすることが出来るのですが、花を愛でるということに関しては、私は旦那様に遠く及びません。
この温室で咲き誇っている薔薇たちも、本来なら旦那様がご覧にならなければ意味がないものなのです。
もし屋敷にお帰りになられたときは、どうか旦那様を待ちわびていた薔薇たちを可愛がってあげてください。愛でられることなく咲いては散るむなしい繰り返しも、そうすればきっと報われることでしょう。
薔薇のお世話が終わるころには、外はもうすっかり明るくなっています。
お屋敷のなかに戻った私は、いつものように掃除に取り掛かります。
玄関から応接間、食堂、廊下、そして旦那様の書斎……。
旦那様がお屋敷を出ていかれてから、私はすっかり掃除が得意になりました。
一日たりとも休んだことはありません。
なにしろ私以外の使用人たちには暇を出されてしまったので、私以外には掃除をする者もいないのです。
けっして不満を申しているのではありません。むしろ誇らしく思っています。
もしいま旦那様が戻ってこられても、気持ちよくお過ごしいただけるように、念入りに家具の埃を払い、床を掃き清めています。お屋敷のどの部屋にも、蜘蛛の巣ひとつありません。
きれい好きな奥様にもきっとお気に召していただけるはずです。
ひととおり掃除を終えたところで、私は中庭に出て小休止を取ります。
しばらく手を休めることをお許しください。太陽の光を浴びる時間はどうしても必要なのです。
いつぞやなどは何日も雨の日が続き、厚い雲に日差しが遮られていたために、私はずいぶん調子が悪くなってしまったものです。
こうして晴れた日にぼんやりと中庭に佇んでいると、頭に浮かぶのは旦那様やご家族との思い出ばかりです。
坊っちゃんはいかがお過ごしですか。
初めてお会いしたときから私のことをいたく気に入って、使用人たちのなかでいつも私を遊び相手に選んでくださいましたね。
背中に乗せると大変お喜びになって、何時間でもそうしてはしゃぎまわっていたことを、まるで昨日のことのように覚えています。
皆様がお屋敷を発ったあの日の朝も、坊っちゃんは私も連れて行ってほしいと旦那様や奥様に懇願なさっておいででした。
けっきょくそれは叶いませんでしたが、坊っちゃんは別れ際に私に頬ずりをして「ごめんね」とおっしゃいましたね。
いいえ、なにも謝る必要はないのです。皆様の留守を守ることは、私にとって無上のよろこびなのですから。
奥様は私のことがあまりお好きではなかったように思います。
無理もありません。私は身体が大きく、それに動くときにおおきな音を立ててしまいがちでしたから、繊細な奥様には嫌な思いをさせてしまったことでしょう。
奥様が大切にされていた
奥様はキッチンの掃除と、料理をすることだけは、とうとう最後まで私ども使用人にはお任せになりませんでした。
私も厳しいお叱りを受けたことを重く受け止め、陶磁器類は丁寧に扱うように心がけしております。
だから、奥様がお屋敷に戻られたときは、どうかご安心なさってください。
さわるなとおっしゃるなら、そのとおりにいたします。
そして、旦那様。
最後に旦那様をお見かけしたのは、もうずっと以前のことです。
行き先はとうとう教えていただけませんでした。
せめてご旅行かお仕事かだけでもお伺いしたかったのですが、やむにやまれぬ事情があったのだろうと思惟いたします。
あれからずいぶん時間が流れましたが、いまも変わらずお元気でいらっしゃいますか。
旦那様と奥様は、お年を召されてますます素敵なご夫婦になられていることと存じます。
もしかしたら坊っちゃんはもう大人になられて、ご家庭を築かれているかもしれません。
どうしても気がかりなのは、皆様が出ていってから、遠くの空で何度も光がまたたいたことです。
情報を集めようにも、そのときには――正確には、皆様がお出かけになった直後から――外部との連絡は出来なくなっていました。
無断で外に出ることは旦那様に固く禁じられていましたから、私は屋敷から動きませんでした。
外の世界がどうなったのか、私には知る術もありません。きっと知る必要もないことなのだと考えます。
私の仕事は、皆様がお留守のあいだ庭を手入れし、この屋敷を清潔で快適な環境に保つことなのですから。
最後に私の身体についてご報告します。
近ごろは目もよく見えなくなり、昔ほど機敏には動けなくなりました。
左手の指はほとんど動きません。
嵐で壊れた雨樋を修理しようとして、うっかり屋根から滑り落ちたときにひどく傷めてしまったのです。
自分でなんとかしようと努力してみましたが、私の力ではどうすることも出来ませんでした。
旦那様は私よりも私の身体のことをよくご存知ですから、屋敷にお戻りになられたらこの左手もすぐに元通りにしていただけると信じております。
追伸――。
たとえ日持ちはしなくても、奥様と坊っちゃんに喜んでいただけるなら、そうしたほうがいいと考えます。皆様は今日の夜にもお帰りになるかもしれないのですから。
私に料理の心得があればジャムを作って差し上げたいのですが、私は一度もキッチンに立ったことがなく、上手くやれる自信がまるでないのです。
それに、坊っちゃんには奥様のお作りになったものが一番でしょうから。
動かなくなった左手も、枝切りバサミで落とした実を受け止めることくらいは問題なく出来ます。
もうすこしだけ太陽の光に当たったら、午後の仕事に……。
***
耳を聾する轟音とともにひとすじの白煙が空に流れた。
携帯式の
いったん上空に打ち上げられたミサイルは、くるりと鉛直方向に姿勢を転換すると、屋敷の中庭へとまっすぐに吸い込まれていく。
弾頭先端部に搭載されたシーカーが熱源を探知し、攻撃目標として認定したのだ。
屋敷全体がぐらりと揺れたのは次の瞬間だった。
中庭で生じた爆風が一帯を駆け抜け、上空には火薬の炸裂を示す黒い煙がたちのぼっている。
「へっ、ざまあみやがれ――――」
いかにも愉快げに言って、ミサイルランチャーを担いだ髭面の男は下卑た笑い声を立てる。
その傍らに立つ痩せぎすの男は煙を双眼鏡で確かめながら、はしゃぐ髭面を肘で小突いた。
どちらも薄汚れた戦闘服を着込み、胴体にはボディアーマーとタクティカルベストという物々しい出で立ちだ。
「よお、油断するのはまだ早いんじゃねえか。アイツがこんな簡単にくたばるとは……」
「トップ・アタックが決まったのを見ただろう。こいつは偽物じゃなく、武器商人に大枚はたいて買った戦前の
髭面はふんと鼻を鳴らすと、唯一のミサイルを失っていまや無用の長物と化したランチャーを地面に置き、自動小銃の
周囲に最大限の警戒を払いつつ、二人の男は屋敷へと駆けていく。
電子ロックで施錠された扉を
邸内に足を踏み入れると同時に、焦げくさいにおいが鼻を突いた。
はたして、黒煙がもうもうとたちこめる中庭でうずくまっていたのは、一匹の巨大な蜘蛛だった。
むろん、本物の蜘蛛ではない。蜘蛛を模した多脚型ロボットだ。
「見ろよ、こいつ、特注品だぜ。
「回収したら使えるんじゃねえか?」
「やめとけ。戦前ならともかく、いまじゃ世界じゅう探しても直せる奴ぁいねえ」
髭面が金属の蜘蛛を蹴り飛ばすと、小気味よい音が響いた。
すぐれた金属加工技術のみが実現しうる優婉な造形は、いまでは技術そのものが失われた戦前の工業製品ならではの特徴だ。
ミサイルの直撃によって無惨に破壊された残骸とはいえ、
男たちが興味を示さないのは、この屋敷にはそれ以上に価値のあるものが眠っているからだ。
「この屋敷にはむかし裕福な夫婦とガキが住んでたって話だ。男とガキの部屋には戦前のコンピュータ、女の部屋には宝石や金銀細工のアクセサリーに
髭面は舌なめずりをして、戦前風の瀟洒な建物を見渡す。
あまり時間の猶予はない。
もたもたしていれば、物音を聞きつけた近くの
難攻不落の蜘蛛屋敷がついに陥落したとあれば、労せずしておこぼれにあずかろうとハイエナが蝟集してくるのは目に見えている。
わざわざ武器商人から高価な対戦車ミサイルを買った髭面には、この屋敷に眠っている財宝を独占する権利がある。すくなくとも当人はそう信じて疑わなかった。
同業者どもを悔しがらせるために、去り際に屋敷に火をつけてやれば完璧だ。
「う、わ――――」
悲痛な叫び声が髭面を現実に引き戻した。
とっさに振り向けば、身体を串刺しにされた相棒が目に入った。
タクティカルベストの裂け目から覗いているのは、脚の先端に装着された枝切りバサミだ。
バカな――と、髭面は合わない歯の根のあいだから切れ切れに震えた声を漏らす。
対戦車ミサイルが命中して動けるはずがない。こいつはたしかに死んだはずだ。
「来るな……く、来るんじゃねえっ!!」
髭面はほとんど半狂乱になりながら自動小銃を乱射する。
対人用の銃弾では金属の
フルオート射撃によってまたたくまに弾薬を使い果たした男は、後じさりつつポケットから
蜘蛛を倒せるとは思っていない。ただ、この屋敷から逃げ出す時間を稼げればそれでいい。
転瞬、髭面の視界を黒いものが覆った。
蜘蛛が枝切りバサミの装着された脚を振るい、相棒の死体を放り投げたのだ。
痩せぎすとはいえ、大人の男ひとり分の体重をぶつけられた衝撃はかなりのものになる。
死体と抱き合うみたいな格好で転倒した髭面に覆いかぶさるように、金属の蜘蛛がおおきく身を乗り出した。
***
蜘蛛屋敷のヌシが退治されたらしいという情報は、たちまち近隣のならず者のあいだに広まっていった。
我先にと屋敷に踏み込んでいった盗賊たちが最初に目にしたのは、中庭に散乱した二人分の死体と、なにかが爆発したような痕跡だった。
ひとしきり屋敷の内部を物色し、それぞれ収穫を手に引き上げようとした彼らは、庭の片隅でそれを見つけてぎょっと足を止めた。
いったいここでなにがあったのか。なぜ七十年ものあいだ、外敵の侵入を阻んできた屈強のガード・ロボットがこんなところで機能を停止しているのか。
皆目見当もつかない盗賊たちは、最初はこわごわ残骸を遠巻きにし、完全に破壊されていることを確かめると、今度はふざけ半分に銃弾を撃ち込んでいった。
やがて残酷な遊びにも飽きると、彼らは足早に屋敷から立ち去ったのだった。
夕闇が屋敷と庭園を包んでいった。
外殻に備え付けられたセンサーがかすかに瞬いたのは、あるいは機器の誤作動だったのかもしれない。
熟した果実の甘やかな香りが漂うなか、物言わぬ蜘蛛は、二度とは覚めないまどろみのなかに落ちていった。
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