前日譚 追憶
「お前の父ちゃん人殺し!」
……なんでだろう。どうしてこんなことになっちゃったんだろう……なんでこんなことを言われなきゃならないんだろう。
隣のクラスのガキ大将だ。今まで仲が良かったわけでもなかったけど、それなりに上手く付き合えていたように思える。なのに――
「ヒトゴロシ~」
「ヒトゴロシのウンテンシ~」
子分の男子二人も一緒になって捲し立ててきた……一人じゃなんにも出来ないくせに、いやらしい笑いを浮かべて……なんでかな? どうして……
高梨壮太の死は深い悲しみと大きな衝撃を持って、残された者達の心を真っ暗な闇の底へ突き落としていた。
しかし、バス運転士の死亡事故というあまりにもセンセーショナルなニュースは世間の注目と関心を集め、高梨一家と宍道湖交通の関係者もろとも、心静かに故人を悼む時間さえ与えようとしなかった。
宍道湖交通はバケツをひっくり返したような忙しさだった。社長を初めとした重役の面々はマスコミや関係各所の対応に追われた。総務や運行管理の者達は鳴り止まない電話の応対、そして再発防止の対応策を内外に示す必要があったため、その準備を通常業務の間に急ぎ取りかからなければならなかった。
整備の者達は回収された車両を警察の調査が終わると同時に、毎夜遅くまで復旧に向けて悪戦苦闘していた。必死に懇願した社員達の願いが叶い、修復させる方向で社長からの指示が下りたからだ。
残された運転士達には箝口令が敷かれ、誰に何を聞かれても一切余計なことは言わないようにと口を閉ざされた。元より横の繋がり意識が強い運転士である。仲間の死についてあれやこれや自ら口外する者など誰一人いなかった。
そんな中、壮太や柴田の先輩である運行管理者永嶋誠二は、壮太の葬儀や告別式にかかる準備諸々の作業を自ら買って出ていた。
失意のどん底にある妻、幸枝を手助けするために……表向きの理由はそうであったかも知れない。しかし本心は何かに自分を忙殺させていないと気が狂いそうだったからだ。あの日──柴田の代わりに壮太を走らせることを選択したのは自分なのだ。何も感じるなと言う方が無理な話だったのかも知れない。
松江営業所から手の空いてる他の運管や運転士を連れて来ては、幸枝に断りを入れながら雑務の全てをこなしていた。
気がつけば、永嶋の尽力もあり葬儀の方も滞りなく終わらせることが出来た。幸枝も、壮太の母親である朝子も、最初は取り乱し手がつけられなかったのだが次第に落ち着きを取り戻して行った。
ひとつひとつの作業が片付くにつれ、誰もが高梨壮太の死を受け入れていく……いや、受け入れざるを得なかった。
壮太の遺体が骨となり灰となり、お経が唱えられる。葬儀場の外からセミのうるさい鳴き声が聞こえていた。線香の煙と共にまるで壮太の魂が天に昇って行くかのようだった。泣き腫らした顔で、幸枝はぼんやりとその煙を見つめていた。
終わったのだ。高梨壮太という男の人生が……辛くても、それでも誰もが現実と向き合わなければならない……明日に目を向けなければならない。少しずつ──それが〝生きる〟ということなのだから。
しかし、どうしてもそれを出来ない人間が二人いた。
――柴田と、今日子である――
告別式が終わり、幸枝や永嶋が弔問客を見送っていた。残っているのは僅かな親戚のみだった。幸枝はその相手をするために今日子を連れ葬儀場の中へと項垂れながら入って行った。永嶋も残った片付けを――と思った矢先である。会館から少し離れた駐車場の片隅に見覚えのある男の姿を認めた。
黒いポロシャツにグレーのスラックス……葬儀のために来たわけではないことは格好を見れば明らかだった。永嶋の怒りの感情が一気に沸点へと到達する――
「柴田ぁっ!」
気持ちはわかる。自分の代わりに走った親友が、自らの腕の中で死んで行ったのだ。その辛さたるや計り知れないものだったろう。だが、だからこそ柴田にも責任があるのだ……壮太の最後を、幸枝や今日子に伝える責任が――
永嶋は全速で柴田の元へ駆け寄り胸ぐらを掴んで締め上げた。大柄な体躯の永嶋が力任せにやったものだから柴田は持ち上げられて爪先立ちになってしまう。しかし、生気を感じられない表情の柴田は、ただ力無く永嶋を見つめ返すだけだった。
「何やってたんだこの野郎っ! お前が……お前がここにいなくてどうすんだよっ」
永嶋は激情に任せて柴田を怒鳴りつけた。いつも穏和でどこかひょうひょうとしている永嶋が初めて柴田の前で見せた怒りの表情だった。それだけ……それだけ義務を果たさず逃げた柴田が許せなかった。
しかし、そんな永嶋の想いなど知ってか知らずか……柴田は顔色ひとつ変えることなく、先ほどまでと変わらない表情で永嶋を冷ややかに見つめ返すだけだった。それが余計に永嶋の癇に触った。
「――な、なんとか言えよっ! お前には、お前にはやらなきゃならんことがあるだろうがっ!」
「……」
永嶋は力任せに柴田を突き飛ばした。柴田は力無く焼けたアスファルトの上に倒れ込む……が、柴田は痛みも熱さも感じていないかのように……まるで夢遊病者の如くゆらゆらと無言のまま立ち上がった。
「……今からでも遅くない。奥さんと娘さんに頭下げ――」
永嶋が言い終わらないうちに柴田はポケットに入れてあったくしゃくしゃの〝何か〟を取り出し永嶋の前に突き出した。
「――?」
永嶋がそれを受け取る……それは、香典袋と一ヶ月間の〝休暇届〟だった。
「こ、このっ」
渾身の力を込めて柴田の左頬をぶん殴る――柴田は倒れた……というよりまさしく〝ふっ飛んだ〟……だがそれでも柴田は先ほどと同じように力無く立ち上がるだけだった。頬が赤く腫れあがり、切れた口元から血が流れていたが拭う素振りさえ見せない。
「……」
柴田は永嶋に僅かに、ゆっくりと頭を下げ振り向いた。そしてゆらゆらと……陽炎のように歩き出す。
「待て! おい柴田待っ――」
永嶋は柴田の左肩を掴み振り向かせようとした。まだ話は終わっていない……が、顔だけこちらを向けた柴田を見て絶句する――
「!」
先ほどまでがまだ可愛いとさえ思えるほどの冷たい眼差し――まさに〝死人〟と呼べるほどのものだった。永嶋の三十五年という人生の中で初めて見る〝目〟だった。そのまったく温度の感じられないさまよえる視線に、永嶋は思わず掴んでいた手を放す。
「……」
柴田は何事も無かったかのように向き直り、再びゆらゆらと歩いて行った――恐怖に半ば呆然としていた永嶋がはっと我に帰る。
「許さねぇぞ……絶対許さねぇからな!」
遠ざかって行く柴田の背中に精一杯の罵声を飛ばす。だが、その言葉も虚しく柴田の体をすり抜けて行くだけだった……
悲しみと怒りと情けなさが入り雑じり、ぐちゃぐちゃになった感情が永嶋を覆い尽くす。拳を握りしめ、絶対にこいつなんかのためには泣くまいと歯を食いしばった。
「ちくしょう……ちくしょう」
セミがひっきりなしに鳴いている……今日という日にあまりにも似つかわしくない青い空と入道雲が、永嶋を虚しく包み込んでいた。
夏休みが終わった……この前、生まれて初めての〝オソウシキ〟というものをしたのだけど、なんだか良くわからなかった。白と黒ばかりの場所……お花がいっぱい飾ってあってとてもきれいだったのに、お坊さんが何やらごにょごにょうるさくて台無しだった……びっくりしたのは見たこともないようなお父さんの大きな写真が真ん中に飾ってあって、なんだか照れくさかったこと……
こんな凄い写真なんだからみんなもっと笑えばいいのに、何故かお母さんもお婆ちゃんもみんな下を向いて泣いていた。なんでだろう……お父さんがいないから? お父さんは今病院で寝てるの。多分〝ニュウイン〟ていうのだと思う。ごめんなさい……みんなバスマンがいないとつまらないよね。
お父さんの会社の人達がいっぱい来てたみたいだけど知らない人ばかりだった。みんなが「頑張るんだよ」とか「辛かったね」とか言うんだけどなんでかな……バスマンがいないから私が悲しいって思ったのかな。
お父さんはすぐに良くなって帰って来るから。だって病院で見たもの……お父さんはちゃんとベッドで〝眠って〟たよ? 元気になったらまたバスマンにならなきゃいけないんだ。だからそれまでみんな待ってて。
――たったそれだけのことなのに――
「ヒトゴロシ」
意味がわからなかった。二学期が始まってすぐ……みんな気持ち悪いくらい優しかったのに……あの〝変なニュース〟がシンブンに書かれてから何かがおかしいんだ。みんながこそこそし出して、仲の良かった友達も近寄らなくなった。
そして放課後……ウサギの当番だったから小屋に野菜屑を持って行ったんだけど、その時隣のクラスの〝古川くん〟に捕まった。子分の子二人もいる。
「おい高梨ぃ、なんとか言えよぉ? お前の父ちゃんバスでコーツージコしてお客さん殺したんだってみんな言ってんだぞ?」
言いながら大きいお腹を揺らして古川くんは笑った。なんのこと言ってるの?
「シンブンに書いてあったってうちの父ちゃんも言ってた! ウンテンシのセキニンがなんとかって。ギャハハ」
子分Aが鼻水を垂らしながら笑う。ちょっと頭が変なのかも……バスマンがそんなことするはずない。
「うちのママもお前と仲良くするなってさ」
子分B……いつも一人だとこそこそしてるくせに古川くんがいると強くなるんだ。やっつけてもらわないと……正義のミカタなんだもん、バスマンは。
今日子はただ俯いて黙っているだけだった。
「おいなんとか言えよヒトゴロシ!」
古川が今日子を小突く……今日子の体がよろめく。
「なんとか言えよヒトゴロシ」
子分Aが今日子の髪を引っ張った。
「ヒートゴーローシ!」
子分Bが手拍子を打って囃し立てる。
三人はますます調子付いた。品のない笑い声が校舎裏に響き渡る……だがこの時、彼らは完全に油断していた。今日子が、今日子がただのおとなしい女子だと舐めていたのだ。
「ヒートゴーローシ!」
下唇をきゅっと噛む――
「ヒートゴーローシ!」
拳を握りしめる――
「ヒートゴーローシ♪」
古川を睨みつけた――
自分が信じたもの……愛したものを貶められた時……ただ黙って泣いているだけのか弱い少女などではない。相手が悪かった――
「お父さんの悪口をそれ以上言うなぁっ!」
言うが早いか今日子は古川に掴みかかたった。とても女子とは思えない馬鹿力で飛びついたものだから、二人もろとも地面に倒れ込む。古川は何が起こったのか理解出来ず一瞬呆然としてしまった。瞬間、顔面に激しい衝撃が走り瞑った瞼の奥で火花が飛んだ。
慌てて子分二人が古川救出のために割って入る。それでも、激しい怒りの奔流に取り憑かれた今日子は攻撃の手を緩めない。
放課後の校舎裏……四人の小学二年生は、泥だらけになりながらもみくちゃになった。
ひぐらしが鳴いていた。日はまだまだ沈んでおらず明るかったが、その寂しい鳴き声がその日の終わりを告げると共に、悲しさも一緒に運んでくる。
幸枝はただ口を固く結び、壮太と……今日子と共に過ごした愛すべき我が家の〝傷口〟をただ、ただじっと見つめる他無かった……
壁に赤いペンキで書かれたであろう〝ヒトゴロシ〟の文字……黒いマジックで書き殴られた〝人殺し運転士〟の貼紙……今まさに幸枝は、人の持つ負の側面〝悪意〟を目の当たりにしている。
どうして――
〝あの日〟以降、自分たちを取り巻く世間は同情的だったと思う。不幸にも夫を亡くした妻として、誰もが悲しい顔で気を使っていてくれてたように記憶している。だが先日、とある新聞のコラムで「悲劇にも起こってしまったバス事故。二度と繰り返さないためにも、問われる会社の管理体制と運転士の責任」という記事が書かれた……まるで〝あの人〟が悪いかのようにも取れる言い回しに激しく憤った。
宍道湖交通の方々がすぐさま抗議してくれたらしいが、もう後の祭りだ……確かに事故の瞬間を捉えた映像も無い……生き残った二人の女性のありがたい証言も、本当に確かなものなのかと言われれば確証などどこにも無かった。
正に〝真実は闇の中〟だ……こちらとしては幸いにも、ダンプを運転してた側に過失があると警察が判断してくれただけに過ぎない。しかし――不運にも命を落としたダンプの運転手とあの人……公平に双方の過失について疑問視する声があがったとしても不思議ではなかった。
私がどんなに夫の正統性を主張したとしても、それこそ第三者の心には届かないだろう。現場にいなかったという意味で言えば、私だって〝部外者〟なのだから……十人の人がいれば、十通りの受け取り方、考え方がある。受け取る側全ての人が好意的に受け止めてくれるわけが無いのだ。
肩まで下ろした髪をもう一度後ろで結ぶ。バケツに水と洗剤を入れタワシで擦った。乾いてしまっているのでそう簡単に落ちるわけないのはわかっている……わかっている……けど、幸枝はやらずにはいられなかった。
ゴシゴシ──
ゴシゴシ──
パートから帰ってきた汗ばんだ体に再び汗が滲み出てくる……それでも構わず、無心で動かし続ける。
ゴシゴシ……
ゴシゴシ……
「──幸枝ちゃん」
後ろで声がした……幸枝は気づかない。ただ一心不乱にタワシを擦り続けていた。
「幸枝ちゃん……」
肩に感触を感じ幸枝はやっと我に返る……振り返るとそこには朝子の友達〝山口久子〟の姿があった。
「あ……おばさん」
「大丈夫かい?」
久子は当の幸枝よりも苦しげな表情を浮かべて言った。
「まったく、いったい誰がこんな!」
玄関に貼られた貼紙を足早に駆け寄って剥がす。くしゃくしゃに丸めてエプロンのポケットに素早くしまった。それを見た幸枝は久子の気遣いに力無い作り笑顔で応えた。
「……すみません」
やりきれない想いが二人を無口にさせる。しばしの沈黙が流れた……夕方とは言え、まだまだ熱気をはらんだそよ風が、砂埃と共に二人を包む。
「私はこんなデマ信じないよ? 壮太さんみたいな立派な人がそんなデタラメな運転するわけないもの」
先に口を開いたのは久子だった。今言える精一杯の慰めの言葉を幸枝にかける。
「……ありがとうございます」
久子の気持ちに救われた想いではあった幸枝だったが、目の前の〝悪意〟を再び目にすれば、状況は何も変わっていないということに気づかされる。
「……幸枝ちゃんあのね……あんたの田舎、鳥取の〝八頭〟の方だって言ってたよね? まだお父さんもお母さんも健在なんだろ? 朝子さんと今日子ちゃん連れて――」
「おばさん」
久子が言い終わらないうちに幸枝は言葉を被せた。しゃがんで壁の〝悪意〟を見つめたまま幸枝は言った。
「今ここで逃げたら……壮太さんが人殺しだって認めるようなものだもの……」
悲しいが、だがそれ以上に力強い瞳でまっすぐ前だけを見て幸枝は言う。その視線の先に壮太がいるかのようだった。
「け、けどこのままじゃ……朝子さんだって寝込んだままだし、今日子ちゃんだって……」
久子の言うこともわかる。おそらくそうした方が義理の母親や娘のことを思えば正解なのだろう。意地を張ってる場合ではないことは百も承知だ。けど……幸枝は立ち上がり久子の方を向く――
「ここは壮太さんと私が愛した町だもの……今日子が産まれた町だもの。だから……だからここで育って欲しいの」
まっすぐに──泣けるくらいまっすぐに幸枝は言った。胸を張り、何も恥じることなく堂々とした笑顔で……なんて強い子なんだろう。
久子は込み上げてくる嗚咽を必死で堪え幸枝の両手を握った。強く、しっかりと。
「うん……うんそうだ。あんたの言う通り!」
幸枝は久子の気持ちに心から感謝しつつ笑顔で頷いた。が、その時――
「!」
久子の肩越し、少し後ろで立ち尽くす我が娘――今日子の姿があった。膝は擦りむいて血が流れており、髪はボサボサ……全身泥と痣だらけだった。
「今日子!」
慌てて幸枝は今日子の元へ駆け寄る、しゃがんで今日子の腕や足に触れ、他に怪我は無いか慌てて確認する。
「苛められたの?」
先ほどまでの毅然とした態度とは打って変わって、今にも泣き出しそうな顔で幸枝は聞いた。今日子は俯きしばらく黙っていたが、やがて――
「古川くんも泣いてたから負けてない」
口を固く結んで今日子は言った。
「そうじゃなくて!」
「……ねぇお母さん……お父さんはヒトゴロシなの?」
「――!」
思っていたことが、心配していたことが現実になった。先ほどまでの決意が揺らぎそうになる……堪らず幸枝は今日子を抱きしめた。
「違う! お父さんは人の命を救ったの! 立派な運転士だったの」
幸枝は今日子を抱きしめたまま耳元で力強く言った。そして、泣いていた……
「みんなひどいことばかり言うんだよ? 古川くんも子分の子達も……お父さんニュウインから帰ってきたらお仕置きしてもら――」
「今日子!」
うわ言のように話し続ける今日子を、幸枝は強い声でその言葉を止めた。この子はまだ――
「お父さんは死んだの! お客さんの命を助けるために死んじゃったの……もういないの」
絞り出すように幸枝は言った。
「お母さん変なこと言わないで? お父さん死んでなんかないよ……〝あの時〟病院で見たでしょう? ちゃんとベッドでいい子して〝寝てた〟じゃない」
それは聞いた幸枝はぎゅっと瞼を閉じた。堪らず久子が声をかける。
「今日子ちゃん……辛かったねぇ。いいんだよもう片意地張らなくたって、泣いたっておばさん笑わないから……約束する」
久子が包み込むような慈悲深い笑顔で今日子を諭した。意地を張ってるのだと思ったのだろう……しかし――
「山口のおばちゃん……何言ってるの? お父さん帰ってくるよ? 帰ってきたらまたバスマンになってバスに乗るん――」
「もうやめてっ」
激しい口調で今日子の言葉を遮る。体を離し、まずは自分を落ち着かせるためにゆっくり息を吸った。今日子の肩に手を置き強く握る……そしてくしゃくしゃの顔で娘の虚ろな目を見つめ言った。
「どうしてそうなの? どうしてそうお母さんを困らせるの……お父さんは死んだの……バスマンはもういないの!」
言い終わると全身の力が抜け、幸枝はその場でへたり込んだ。今日子の肩に置いていた手も力なく滑り落ちる……両手で顔を覆った。せめて声を上げて泣き叫ぶことだけはすまいと必死で嗚咽を噛み殺す。
「幸枝ちゃん……」
久子が幸枝に寄り添い肩を抱いた。そして今日子に再び語りかける。
「さ……二人共晩ご飯の時間だよ? こういう時はね? 温かいもの食べて熱い風呂に入って寝るに限るんだから! さぁ」
久子が今日子も抱き寄せようと手を伸ばした時だった……今日子は一歩後退りし、久子の手から逃れる素振りを見せる。先ほどから俯いたままで、表情が伺えない。
「……帰ってくる……お父さんは必ず帰ってくるんだ。帰ってきたらバスマンになって、悪いヤツをみんなやっつけてくれて……それで、それで元通りになるんだ!」
拳を握りしめ今日子は言った。怒りの感情が今日子を包み込む。お母さんも、山口のおばちゃんもわかってくれない。お父さんは帰ってくるのに……帰ってくるのに――
「今日子!」
「今日子ちゃん!」
今日子は衝動的に今来た道を駆け出して行った。幸枝や久子の呼び止める声も聞かず、夕暮れの町の中へ……
誰もかれもが悲しかった……たった一人の男がいなくなっただけで、全ての歯車が狂い始める。持って行き場の無い感情を、幸枝は久子にすがることでしか紛らわすことが出来なかった……ひぐらしが、泣き叫んでいるようだった。
今日子は走った。夕暮れ時の住宅街を西へ東へあてもなく走った。まだまだ残暑も厳しく、強い西日が容赦なく今日子を照りつける。額から、首筋から、背中から止め処もなく汗が噴き出してくる……しかし、今の今日子にはそんなことは些細なことだった。
それよりも何よりも腹が立って仕方なかった。古川くんと子分ABにも勿論腹は立ったけど、結局は他人だ。お父さんに会ったことがあるわけでもないし、バスマンのバスに乗ったことも無いだろう。そんな子達に苛められたところで、さっきみたいにやり返してやれば済むだけの話なのだ。
許せないのはお母さんやお婆ちゃんだ。お父さんがニュウインしている大事な時なのに、この間から泣いてばかりいる。お父さんが怪我して心配なのはわかるけど、あんなに毎日泣いてばかりいたら病院にいるお父さんも心配でおちおち寝ていられない……怪我だって早く治らない。
最近では山口のおばちゃんまで一緒になって泣いている始末だ。本当にいい加減にして欲しい。バスマンはピンチなんだから、みんなで元気出さないでどうするんだ……
腹が立つ……
腹が立つ……
腹が立つ……
腹が――
「!」
今日子はある考えに思い至り足を止めた。息は切れてるし汗も滝のように流れているが、そんなことはどうでも良かった。先ほどまでの苛立ちなどどこへやら……あまりの名案に自然と笑みが溢れる。
「……そうだ。今から病院に行ってお父さんとお話してこよう! それでお父さんは元気だってお母さんやお婆ちゃんに教えてあげればみんな安心するもん」
なんて素晴らしい考えなんだろうと自画自賛する。おまけにしばらく顔を見ていない父に逢えるのだ……こんなに心踊ることはなかった。だが――
「……病院て、どうやって行けばいいんだろう」
いつも遠くにお出かけする時は父や母に手を引かれてだ……近所の町内が世界の全ての今日子にわかるわけもなかった。
どうしたものかと考える……こんな素敵な作戦なのだ。なんとかして実現させたかった。
「――あ」
今日子が思案していると目の前の県道を見覚えのあるバスが通り過ぎて行った――上と下が青色……真ん中に同じ色合いの青と黒で線が引かれている。そして横のドアのとこに可愛らしい〝二つのしじみ〟のマーク……
「バスマンのバス!」
今日子は爛々と目を輝かせる。そうだ! あのバスに乗ればお父さんの会社のウンテンシさんに会える。訳を話せばきっと病院まで連れて行ってくれるはずだ。今日はなんて冴えてるんだろう。
今日子は無我夢中だった。早く追いつかねば置いて行かれる。とにもかくにもあのバスに乗らないと――!
高鳴る胸が今日子のはやる気持ちを加速させる……もう幼い眼には、ゆっくり遠ざかって行くしじみバスしか映っていなかった。
早く――早く!
今日子は駆け出した――あれに乗るんだ。あれに乗ればお父さんに逢える。全てが上手くいく。泣いていた人達も笑顔になるし、苛めっこもいなくなる……だから――
県道へ飛び出した今日子――瞬間けたたましい音のクラクションが鳴り響いた。驚いて立ち止まる……音のした方へ目をやると物凄い勢いで車がこちらへ向かって来ていた。
激しいブレーキ音。タイヤと路面が激しく擦れる音がクラクションと共に今日子に襲いかかる――身体が動かない……何も考えられず、ただ今日子は目を閉じる他なかった――
直後激しい衝撃に体は宙を舞った――だがそれは、固く冷たい自動車の〝それ〟ではなく、覚えのある〝温もり〟だった。
男は小柄な体で尚も今日子を包み込み、抱き抱えたまま道路の反対側へ飛び出した。一瞬二人の体は宙を漂ったのも束の間、次の瞬間には激しく歩道へ打ちつけられていた。
時間がしばし止まる――慌てて急停車した車のドライバーも何やら喚いていたが、男と今日子の耳には届かなかった。道行く人や車も動きを止め二人を注視していたが、無事なことを確認すると何事も無かったかのように再び流れ出した。
今日子を力いっぱい抱きしめていた腕がやがてほどける。男は起き上がり自分に出来た擦り傷など気にも留めないかのように、今日子をゆっくり立ち上がらせた。短く刈り揃えられた白髪混じりの頭に、茶色く色の付いたレンズの眼鏡……そのレンズの奥から力強い眼差しが今日子を覗き込んでいる。
「……っ」
男は今日子の姿を見て歯噛みした。先ほど出来た傷ではない。身体中に出来た痣や傷……そして泥だらけで所々破られた衣服……普段ならきれいに手入れされているであろう長い黒髪はくしゃくしゃになり見る影も無かった。誰か心無い者にされたのだろう……男は込み上げてくる激しい憤りを堪えることが出来なかった。
膝立ちのまま先ほどの幸枝と同じように今日子の両肩に手を置く……男はそのまま、そのやるせない想いを噛み殺すかのようにしばらく俯いたままだった。手が震えている……子供には過ぎる力で肩を強く握った……
「痛っ……」
何が起こったのか未だ理解が出来ておらず、虚ろな目の今日子だったが、さすがに痛みで顔をしかめた。そして――
「……お前が、お前が死んじまったら誰が母ちゃんと婆ちゃんを守ってやるんだ! 死んでしまったら……死んでしまったら終わりなんだぞ? なんにもならんのだぞ? お前わかってんのかっ!」
男は子供相手だとわかってはいたが、高ぶる感情を抑えることが出来ず一気に捲し立てた。
「……死?」
呆然としていた今日子の無防備な心に、その単語が雷鳴の如く響き渡る。今までずっと聞きたくなかった言葉……受け入れなかった言葉。自分がしっかりバスマンを信じてさえいれば、そんな言葉聞かなくったって問題はなかった……けど……
今日子が見ていたのに〝見ようとしなかった〟記憶の断片が一枚一枚蘇ってくる。
病院で寝ているだけにしては、あまりにも〝白い〟お父さんの顔……どんなに揺さぶったって決して動くことは無かった――
〝ヒツギ〟という物に入れられて、いっぱい花が飾られた……そのヒツギを〝カソウバ〟というところで燃やされた――
骨になっちゃったお父さん……なんだかわからないけど、長く大きな箸でその骨を入れ物の中に入れた。
オソウシキで誰もが言ってた「ナクナッタ」って……ニュースでは「シボウシタ」って――
……そう、誰も……お父さんはニュウインしてるなんて言わなかった。言ってるのは自分だけ――
死……
死……
死んだ……
今日子の胸の一番、一番深いところから悪寒が込み上げてくる。その感情は背中を凍りつかせ、か弱い小さな心を真っ暗な闇の中へと引き摺り込もうとしていた……七歳の少女にはあまりにも酷な現実が、今まさに冷たい刃物となって喉元に突きつけられている。
「……ぇぐ……ぉとうさん……死んじゃった……」
嗚咽が止まらない……必死になって心の奥底で塞き止めていたダムが、男の言葉で小さな亀裂を作りやがて……決壊する――
「ぉとうさん死んじゃったよぉ! お父しゃん、お父さんいなくなっちゃった。嫌だ、嫌だよ! ヒッ、お父しゃん! お父しゃん! お父さんっ――わぁぁぁぁぁっ」
感情の全てを吐き出す。七歳の少女にしてはやけに落ち着き払い、達観した印象の今日子だったが、今やっと……ようやく本来の〝らしさ〟で悲鳴をあげた。止め処もなく涙が溢れ出る……
底抜けに明るかった父……
誰よりも優しかった……
怒っても、必ず後で抱きしめてくれた……
制帽を被ってバスマンになると凄くかっこよくて、いつも誰かに自慢したかった……
だけど……もういないのだ。世界中どこを探しても、高梨壮太はいないのだ。
それが〝死ぬ〟ということ……
今日子が初めて、父の死を認識した瞬間だった。
親鳥を必死で探す雛のようにあらんばかりの声で、心で今日子は泣き叫んだ。
「お父さん……ぉとうさん!」
それを見た男も今にも泣き出しそうな顔をしていた。それを隠すように必死になって小さな身体を抱きしめる……そして、今日子の耳元で何故か「すまん」と絞り出していた……
日が暮れていた。あれだけ茹だるような暑さだったというのに、少しだけ冷たい風が流れていた。どこかでコオロギが鳴いており秋の訪れを告げている。
二人は近くにある小さな公園の片隅にあるベンチに腰かけていた。今日子の手には牛乳とあんパン……先ほど男が買い与えたものだ。
ひと口かじる……どうして泣いた後に食べたものは味がしないんだろう。お腹は減ってるのに全く美味しくない。悪さをして、お父さんやお母さんに叱られ大泣きした後のご飯も……そう言えばちっとも美味しくなかった。
「うまいか?」
男は先ほどとは打って変わり、落ち着いた口調で今日子に聞いてきた。微笑んでいるのだが、その表情の奥底には依然として悲しみが透けて見える。
「……おじさんだぁれ?」
美味しくないと言うわけにも行かず、子供なりに気を使った今日子は、さっきから気になっていたことを聞くことで話を逸らした。
「わしか? わしは……宍道湖交通運転士一筋二十年! 岩橋――あ、いや……ただの運転士のオジサンだ。バスのことならわしに任せろ!」
男は少し困ったような顔で苦笑いをして見せた。今日子は〝ウンテンシ〟という言葉に反応する。
「……おじさんもバスマンなの?」
今日子は泣き腫らした瞼を見開いて男に聞いた。見るとお父さんと同じシャツとズボンを着ている……カッコはお父さんの方がずっと素敵なのだが、この人も同じ会社の人なのかも知れない……
「なんだぁ? そのバスマンて」
男は少し驚いた感じで逆に今日子に聞き返した。バスマンを知らないなんて、このおじさんは本当に〝ウンテンシ〟なのだろうか? ちょっと怪しい……
「……バスマンは、正義のミカタなの」
今日子は前を見据えて言った。まるでそこに誰かいるかのようだった。
「……父ちゃんのことか?」
男の問いに今日子は黙って頷いた。そして牛乳を飲む。その様子に、男もなんとなくだが謎の単語の意味を理解した。
「お前の父ちゃんほどじゃあないが、わしもずっと誇りを胸にバスに乗ってきたつもりだ……そういう意味ではバスマンかもな」
「ホコリ? 汚いバスなの?」
胸を張ってカッコつけたつもりだったが、今日子はあまり良くわかってないようだった。男は苦笑いして照れ隠しに後頭部をさすった。
「ハハハ……父ちゃんは、凄いバスマンだったのか?」
話の腰を折るのも気が引けたので、男はそのまま話を続けた。その問いに今度は今日子が自慢げに答える。
「うん……お客さんは困ってる人がいたらね? いつも助けてあげるんだ。強くて、優しくて……バスマンがバスに乗るとみんなが笑顔になるの。道を歩いてる子だって手を振ってくるんだから」
誇らしげに、ひとつひとつの場面を思い出しながら今日子は答えた。だが――
「……けどもう、いないの……コーツージコで、お父さん死んじゃったんだ……もうバスマンはいないんだ。お母さんそう言って泣いてた」
再び今日子は俯いて肩を落とした。腫れた瞼に涙を浮かべて、今しがた受け入れたばかりの現実を絞り出すように呟く。どうしようもない孤独感と悲しみが全身を覆うかと思われた時だった――
「――!」
その腕は太くもなく疲れた中年男の〝それ〟だったが、力強く……そしてしっかりと今日子の肩を抱いた。温かいその腕はどこか父の温もりを思い起こさせ、再び悲鳴をあげそうになった今日子の心をギリギリで踏み留まらせた。
「父ちゃんは死んじまったのかも知れん。だが……だがな? そのバスマンは死んじゃおらん」
傍らで今日子を覗き込みながら男は微笑んで言った……このおじさんは何を言ってるんだろう? バスマンはお父さんのことなのに……やっぱりちょっと変な人なのかも知れない。悪い人じゃ無さそうだけど――
今日子はどう返したらいいのかわからず、戸惑いながらも男を見上げた。今日子の気持ちを察したらしく男は続ける。
「お前がなればいい……バスマンに」
「!」
男は今日子の肩を抱く腕に力を込めて言った。その言葉に今日子はハッとする……いつかの夕焼け空の下、父と交わした約束……でも……
「でも、お父さんいないと……どうしたらバスマンになれるかわからないよ」
俯く今日子。だけど男は首を横に振り、もう片方の腕で握り拳を作り自分の胸を叩いて見せた。
「ここにその夢をずっと抱いておくんだ。お前がバスマンを信じている限り、お前の胸の中で父ちゃんは生き続ける」
男は今日子の胸を指す。少し難しい話だったがなんとなくわかったような気がした。
「いいか? なりたい者になれるのはな……なろうと頑張ったもんだけがなれるんだぞ」
──今日子のその後の人生を決定付けた言葉だったかも知れない。小さな今日子の胸にその言葉は一筋の光となってしっかりと突き刺さった。
なれるんだ……お父さんを信じてれば、頑張れば……なれるんだバスマンに!
疲れきった身体の隅々から力が沸き上がってくる。〝あの日〟以来、初めて今日子の瞳に光が蘇ってきた。
「なれるかな? 私バスマンになれる?」
敢えて今日子は聞いた。背中を押してもらうために……
「あぁ、信じてればいつかきっとな!」
男は白い歯を見せて笑った。清々しいくらいに、なんの迷いもなく……今日子も飛び上がりたい気持ちを堪えてはにかんだ。
ついさっきまで泣き顔だった二人の間に、ようやく温かい空気が流れる――
「今日子ー? 今日子!」
「今日子ちゃーん?」
「! お母さん、山口のおばちゃん」
遠くで自分を呼ぶ声に慌てて立ち上がる。そう言えば行き先も言わずに飛び出して来たのをすっかり忘れていた。
「……おじさんありがとう。もう行かないと」
子供らしい笑顔で今日子は言った。男はあんパンの袋と牛乳の容器を受け取る。そして――
「――辛いか?」
男は今日子の手を取り聞いた。少々意地悪だったかも知れないが、これからの今日子の人生を思うと〝その言葉〟を聞いておきたかった。
「……ううん、もう大丈夫! だってお父さん……バスマンはここにいるもん」
今日子は自分の胸に手を当てた。彼女らしい健やかな笑顔で……まっすぐ、しっかりと――
「うむ! さ、早く行け」
男は満足し頷く。そして顎で行き先を指し示した。それを合図に今日子は駆け出した。振り返らず、手だけ振りながら……
「やれやれ」
男は今日子の背中が闇の中へ消えたのを確認し、ひとつため息をついて立ち上がる。すると、今日子が走り去った反対側の暗闇からスーツ姿の痩せた背の高い男が、音も立てず現れた。
「社長、本当に良かったのですか? 高梨壮太の娘と接触などして……」
闇から現れた男は言いながら胸ポケットから眼鏡ケースを取り出しベンチの男に差し出した。
「望月か……正体は明かしておらんよ。葬儀の時もあの娘わしらの顔など見ておらんかったからな」
男は縁無しの色眼鏡を外し、ケースに入っていた度の厚い黒縁眼鏡とかけ変えながら言った。
「明日の記者会見、予定通りでよろしいのですか? 長らく秘書としてお仕えしてきた身から言わせて頂きますが、まだ敦郎様では……」
望月は社長と呼ばれた男よりも歳を重ねているようだった。顔に刻まれた多くのシワが苦悩している彼の心境を物語っている。
「……ん、もうここまでの事態になってしまったのだ。誰かが腹を切らねば世間は納得せんだろうよ。
確かに敦郎ではまだまだ役不足だ……だがな、環境が人を育てるということもある。あの娘を見とって余計そう思うようになった。後はお前達で盛り立ててやってくれ」
宍道湖交通株式会社 代表取締役社長、岩橋四郎はそう言って今日子が走り去った暗闇を見つめていた。それを受けて望月は秘書としての迷いを断ち切る。
「……承知しました」
二人は待たせてあった黒塗りの車に乗り込んだ。やることがまだまだある……健気にも前を向き歩き始めた先ほどの少女の行く末を案じながら、四郎を乗せた車は夜の街へとその姿を消して行った。
迂闊だった。子供のことだからどこかその辺で泣いているだろうと思っていたのだが甘かった。壮太さんの娘なんだもの……いざとなった時の思いつきや行動力は考慮に入れておくべきだった……
幸枝と久子は瞬く間に姿を消した今日子を手分けして探していた。しかし、今日子が仲良くしている友達の家、近所の空き地や商店……どこを探しても見つけることが出来なかった。もう日が暮れている……今しがた久子と落ち合った幸枝であったが、首を振る久子の姿に改めて落胆する他無かった。
「おばさん、やっぱりもう警察に……」
幸枝の表情に疲労と焦りの色がありありと見て取れる……いつも気丈に振る舞ってはいるが、やはり我が子のこととなるといてもたってもいられないのだろう。同じ女として、母親として……久子にも幸枝の心境は痛いほど理解出来た。
「困ったねぇ……他に思い当たるとこ無いのかい?」
久子はタオルで額の汗を拭きながら聞いた。もう町内中を走り回った。五十も半ばにさしかかった体には堪える。
「……あとは……宍道湖交通くらいしか……けどとても子供が走って行ける距離じゃないし……やっぱりなんかあったんじゃ」
苛立ちがあらぬ妄想を掻き立てる。しかしそれを聞いても久子は冷静だった。やはりここは年の功……踏んで来た場数が違った。
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ! ……じゃあ宍道湖交通の方に行けるそこの県道の先の河原を探して見よう? 途中に駐在もあるし……」
久子は幸枝の手を取る。幸枝は頷いて気持ちを冷静に保つよう努めた。県道を渡ると河原の道にさしかかった。ここから先はもう町内では無い。今日子の知らない場所だった。望みは薄かったが、それでも精一杯声を張り上げて我が子の名を呼ぶ。
「今日子ー? 今日子!」
「今日子ちゃーん?」
「……?」
街灯も無い河原のあぜ道をしばらく進むと、暗闇の中に何やら動く影を二人は見つけた。その影は小さかったが、駆け足でどんどんこちらに近づいて来ているのがわかる……やがて、見覚えのある少女の顔が薄明かりの中で浮かび上がった。
「――今日子!」
「今日子ちゃん!」
「お母さん! 山口のおばちゃん!」
幸枝は無心になって今日子へ駆け寄った。言いたいことは山ほどあったが、まずは娘をおもいっきり抱きしめた。
「お、お母さん痛――」
「いったいどこ行ってたの! あんたにまでなんかあったら……お母さん、お母さん……」
幸枝は今日子の肩に顔を埋めて泣いた。嗚咽が聞こえていたし震えているのがわかる……子供ながらに心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。
「……ごめんなさい」
幸枝は抱きしめていた腕をほどき、先ほどのように今日子の体のあちこちを触った……良かった。酷く汚れてはいるが、新しく怪我をしてるとこは無さそうだ。
「?」
その最中、幸枝は今日子の異変に気づいた。瞳に力がある……夫がいなくなってからというもの、現実から目を逸らし続けていた今日子はずっと幻の中をさまよっていた。虚ろな眼で、夢遊病者のように……それが今はどうしたことだろう。夫が亡くなる以前……いや、それ以上に瞳を輝かせている。
「何があったの?」
幸枝は今日子の頬に手を当てて顔を覗き込んだ。いったい何があればこれだけの変化が起こるのか不思議でならなかった。想像がつかない。
今日子はこれから母親に伝えねばならないことを思うと、子供ながらに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。間違いなくまた悲しませてしまう……
「お母さん、あのね?」
けど、とても大事なことだ。その心配を胸の奥底に閉じ込める。もう、あとは前しか見ない……拳をぎゅっと握りしめた。
「なぁに?」
「私……私バスマンになる!」
小学二年生とは思えないほど決意に満ちた表情で今日子は言った。呆気に取られた幸枝と久子はしばらく言葉を失う……が――
「あ、あんたまだそんな……バスマンはもういいの! もうお母さんたくさんなの! お願いだから、お願いだからもう困らせないで」
幸枝は今日子の両腕を掴み揺すりながら言った。無理も無い……亡くなった夫と同じ道を行くと今日子は宣言したのだ。受け入れられるわけが無かった。
「やだ!」
今日子は溢れんばかりの声で叫んだ。あまりの声量に幸枝も一瞬動きが止まる……
「私がバスマンになってお母さんとお婆ちゃんを守るんだ。強くなるんだ!」
……今日子はまっすぐ幸枝の目を見て言った。そこには夢遊病者のようにうわ言を囁く少女などどこにもいなかった。自信とエネルギーに満ち溢れ、そこにいるだけで元気と笑顔をわけてくれる存在……
「……壮太さん」
幸枝は声にならない声で呟く。今日子の後ろに間違いなく高梨壮太はいた。笑って……幸枝を見つめていた。
「……っ!」
胸に激しく熱いものが込み上げてくる――瞬間、幸枝はもう一度今日子を抱きしめた。下唇をぎゅっと噛みしめる。今日は私の負けでいい。それよりも、あの人と同じ顔でこの子は前を向くと言ってくれたのだ……今はそれだけで十分だった。
「本当に……お父さんそっくり。馬鹿な子」
もう泣くまい。嫌になるほど泣いたのだ。それこそもうたくさんだ……娘が前を向いたなら、私が手を引いてやらないでどうする……生きるんだ……誰に何を言われたって構うもんか。この子がいれば何もいらない。ここで……生きて行こう。
今日子をじっと抱きしめ震える幸枝の背中を久子は優しく撫でた。これからこの親子が歩む道は蕀の道……だけどまっすぐな道……自分に出来ることがあるならば、支えて行ってやりたいと素直に思う。
「さぁさ、本当にお腹が減ったろ? 今度こそご飯食べて温かい風呂に入るんだ」
久子の言葉に幸枝は顔を上げる……今日子と目が合う。互いに疲れ果てていたが微笑んで久子に頷いた。
「……さ、帰ろう」
右手は幸枝に、左手は久子に繋がれ三人は家路に着いた。とんでもない1日だったが、終わってみればまんざらでもない日だったと今日子は思う。今こうして、自分も幸枝も久子も笑っていられるのだから……そしてバスマンになると決め、それを伝えることが出来たのだから。
少女の小さな胸が高鳴る……明日から前だけを見て、しっかりと歩くんだ――
「あ! 流れ星」
今日子の声に幸枝と久子は夜空を見上げる。もうそれは消えてしまったが、それぞれが願い事をそっと祈る……そこには溢れんばかりの星空が輝いていた。どこまでも大きく、広く……傷つき疲れ果てた親子を優しく包み込むかのように……
これより二十年間……柴田は暗闇の中をさまよい、今日子はその暗闇のトンネルの出口……一点の光を目指して突き進むこととなる。
二人が再会するのは、まだまだ先のことであった――
バスマン! 江留賀 実男 @di1103
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます