最終話 いつかきっと
唐突に終わりを告げられた今日子の最終試験。あのあと運転を島崎に交代させられ、何も聞かされることも無いままバスは松江営業所に帰ってきた。
今日子はプレハブ小屋の運転士休憩室で待機を命じられ〝失格〟と最終宣告をされる時をただ待っているしかなかった。
しかし腑に落ちないことがある。試験終了を言い渡されたあの時、それでも老婆を病院へ連れて行かせてください! と、食い下がろうと待合室に視線を移した時……もう老婆の姿はそこには無かった。回復したのだろうか……それとも他の誰かが病院へ? いくら考えてもわかるわけもなく、行き場の無い気持ちは休憩室を彷徨うばかりだった。
握りしめた拳を両膝に置き、俯いたまま顔が上げられない。ここにいる先輩運転士達みんなが自分を笑っているような気がしていたからだ……当然だろう。自らチャンスを棒に振ったのだから……
『高梨さん。高梨さん──点呼場まで』
チャイムの音と共に構内放送が流れる。いよいよか……今日子は処刑台へ上がる想いで事務所棟へと歩いて行った。
点呼場へ入るとカウンターの中に永嶋、佐伯、若月もいた。入口横に島崎。右手には常松……と、何故か早苗の姿もあった。
全員が神妙な面持ちでいる。何も失格を言い渡すだけなのにここまで仰々しくする必要も無いじゃないかと、今日子は悲しくなった。
「こちらへ」
永嶋が自分の前に来るように言った。今日子は見習い用の制帽を両手で持ち、胸に押さえつけながらゆっくり……ゆっくりと永嶋の前へ歩を進めた。永嶋の前で直立不動の姿勢を取る──もう勘弁してください。
点呼場内にしばしの沈黙が流れる……やがて、永嶋はゆっくり口を開いた。
「まずは先に謝っておかなければなりません」
来た。『この度はご縁が無かったということで……』に間違いないだろう。今日子は目を閉じた。この三ヶ月の努力が水に流される瞬間なのだ。平常心でいられるわけがない。
「先ほどの県民会館のお婆さんね」
――どうして所長が? とは思ったが、気になっていたことだ。何か知っているなら教えて欲しい。
「乗合係の沢口さんのお婆さんです。昔演劇の経験がおありになるほどの方で、この度も無理を言ってご出演願いました」
「……へ?」
第四回間抜け声選手権が開催されるならば、メダルは確実と言えるほどの気の抜けた声を今日子は発していた。
「それから、色々野次を飛ばしていた方々は本社から応援に駆けつけてくれた関係者の皆様です」
事態がまったく飲み込めない。周りを見渡すともう我慢出来ないと言った感じで、早苗が吹き出した。
「あんたまだ気がつかないの? ドッキリだよドッキリ! 実は〝あれ〟第二見極めの恒例なんだ。私もあったなぁ……沢口さんのお婆ちゃんいきなり車内で発作起こすんだもん。いやー、あれには参ったわ」
その言葉を皮切りに全員顔がほころび始めた。まだ事態の飲み込めない今日子に佐伯が補足を入れる。
「なかなかテストしたい状況というものがちょうど良く訪れるわけではありません。特に緊急事態などそうそうあるものでもありませんからね……ならばこちらからそういう状況を作り出して、運転士がどう対応するのか見させてもらう。ということです」
「じゃ、じゃあ私は……」
今日子は自分の顔を指差して永嶋に確認する。
「いやぁ、本当に申し訳ありません。ちょっと意地悪だったとは思いますが、これも当社の伝統でね……ただ、一点だけ佐伯くんから〝お小言〟がありますので聞いてください」
わかっているだろうに今日子の質問にまだ永嶋は答えてくれなかった。
「その〝お小言〟って言い方やめてください所長。
えー、では一点だけ。体調の悪い方を救護しようとする姿勢は素晴らしいものです。逆にあの状況で要救護者に気づかない、見て見ぬふりをするような運転士だったならばうちにはいりません。
乗客を降ろして病院へ……という判断も緊急ならば仕方ないでしょう。ただ――!」
「は、はい」
佐伯が珍しく語気を強めて言った。今日子も気圧される。
「その判断を自分でする前に無線を入れるなりして、会社に指示を仰ぎなさい。運管の指示が無い限り、勝手な路線変更は許されません。あくまで私達は乗客役だったので何も言いませんでしたが、あぁいった時に独断ではなく、ちゃんと会社に報告、相談出来る人物なのかどうか──というのも我々にとっては重要なことなんです。
何のためにこれだけの裏方が揃ってると思ってるんですか。頼っていいんです」
「……す、すいません」
最後の方は少し笑っているように見えた。怒ってはないようなので胸を撫で下ろす。
「しかし……土下座は無いねぇ」
永嶋だった。子供のようにいたずらっぽく言う。
「土下座は無いですね」
佐伯も眼鏡を直しながら言った。
「嬢ちゃん土下座までしよったのか? カカカ! そりゃいくらなんでもやり過ぎじゃ」
常松が笑った。点呼場が一転笑いに包まれた。
「ハハハ。あれには参りました。頭を下げて断りを入れればいいんです。お客様だって鬼じゃありません。
けどまぁ、あれだけ文句言われたら土下座したくもなりますか……いやはや、やり過ぎたのはこちらだったかも知れない。申し訳ありません」
永嶋が今日子に詫びを入れる。今日子も恐れ多くて慌てて頭を下げた。
「……では、前置きはこれくらいにしてそろそろ。若月さん――」
「はい」
若月は一枚の紙を永嶋に手渡した。永嶋はそれを両手で持ち、胸の高さまで上げて読み上げる。
「……辞令。高梨今日子」
永嶋の迫力ある声に再び居住まいを正す。
「は、はい!」
「試用運転士の任を解き、本日付けで運行部第二課所属、運転士を命ずる。以上」
耳を疑った。またドッキリではないかと……永嶋に辞令を手渡される。そこには確かに同じことが書かれていし、会社の印鑑も捺印された正式な書類だということが見て取れた──その瞬間、無意識だったが一筋の涙が頬を伝って落ちて行った。
「わ、私……なれたんですか? 運転士に……なれたんですか?」
今日子の問いに永嶋は笑顔で頷いた。今日子が見た初めての永嶋の笑い顔だった。
胸が苦しい。たくさんの想いが込み上げてくる……二十年前に抱いた夢が、やっと叶った瞬間だった。
「高梨今日子さん。頑張ったわね……さぁ」
そう言うと若月は賞状盆を掲げて今日子に見せた。見るとそこには〝腰〟部分にブルーのライン。中央の帽章には宍道湖交通のシンボルマーク〝二つのしじみ〟の意匠が施された制帽と、今日子の顔写真、名前、そして仮番号ではない社員コードが記された社員証が置かれている……どちらも今日子が憧れていたものだった。
「課長こ、これ……」
若月は賞状盆を置くと、社員証が入れられたパスケースのストラップを今日子の首にかけた。次に制帽を優しく被せてやる。
「これからが大変よ。頑張りなさい」
今日子が目を潤ませて会釈をしていると左手に何やら感触があった。見ると早苗が何やら手首に腕時計を巻き付けている。
「早苗さん……これは」
シルバーのデジタル表示の腕時計だった。文字盤の周りがピンクのラインで囲まれており、それがアクセントとなって可愛らしい。
「ヘヘ……これは私達運転士がみんなでお金を出し合ったの。これも慣習でね。新人が一人前になった証として、先輩から送るんだ。
運転士って時間が命でしょ? 万が一車内備えつけの時計が壊れても困らないように……そんないいものじゃないけど、まぁ一応電波時計だから正確だしね。
新人のひとつ前の先輩が手渡すってことになってんだ。だからアンタも次に新人が入ってきたらやるんだからね?」
もう涙を堪えるのに必死だった。なんでこのタイミングでこんな憎らしいことばかりみんなしてくれるんだろう。
「し、所長……」
精一杯我慢して今日子は聞いた。
「き、今日だけ……今日だけ、泣いてもいいですか?」
もう半分泣いているのだが……永嶋は何も言わず笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。あり、がとう……ごじゃいま……す……ヒッ」
ここがゴールではない。スタートラインにやっと立ったに過ぎない。
だが、父との約束を果たせたこと。そしてたくさんの人達から受けとった想いが無駄にならなかったこと……それが何より今日子は嬉しかった。
涙でぐしゃぐしゃの顔になってしまったが、気持ちを抑えられない。佐織にも、福寿会の皆さんにも、西崎社長にも……須賀さんにも報告しないと。
〝良かったな──今日子〟
……どこかで、声が聞こえたような気がした。
点呼場にいたみんなが拍手で今日子を称えていた。そんな中、後ろ手に静かに島崎はドアを開けた。今日子は背を向けているため気づかない。
永嶋が、佐伯が、若月が、常松が、早苗が……みんなが拍手をしながら目で見送る。島崎は入口の前に立ち、何も語ることなく頭を下げた。弟子の巣立ちが別れの時と決めていたからだ。
表にはタクシーが待たせてあった。正門のところで振り向く……悔いはない。晴々とした顔で島崎は頭を下げ、十五年世話になった会社に別れを告げた。
やがて拍手が鳴り止む……今日子は顔を上げて振り向いた。
「見てください教官! 似合いま……教官?」
島崎の姿はどこにもなかった。
「あ、あれ……教官? しょ、所長? 佐伯課長? 教官が……どこに行かれたんですか?」
まるで親鳥の姿が急にいなくなったかのように今日子は狼狽した。誰も何も教えてくれない。悲しげな眼差しで俯くばかりだった。
「い、嫌だな……皆さんどうしちゃったんですか? トイレとかですよね? 若月課長……常松課長……早苗さん!」
みんなの表情がただのトイレなどではないことを物語っていた。嫌な予感しかしない。
その時だった――柴田が室内に入ってきた。
「……柴田さん」
柴田は苦々しげに言った。
「ったく律儀にどいつもこいつも島さんとの約束を守りやがって……かっこつけて行く方はいいが、こいつにはずっと傷が残るだろうが。さよならくらい言わせてやれよ!」
「さ、さよなら?」
今日子は全速力で〝トシオ〟を走らせていた。柴田は全てを話してくれた。
島崎の奥さんは治る見込みのない難病を患っていたこと。療養のために奥さんの故郷であるこの松江に来たこと。その奥さんが昨年、長い闘病生活の末に先立たれたこと……そして自分を育て上げることを最後の仕事とし、実家がある群馬に両親のため帰ってしまうこと……
別れの辛さを誰よりも知っている柴田だったから、黙っていることが出来なかったのかも知れない。
十四時五十九分発岡山行き――あと十五分……時間が無い。
「嘘だ……嘘だ……嘘だ!」
『……あー笑った笑った。お、すまんすまん。話は聞いてると思うが俺が教官の島崎だ。ま、ひとつよろしく頼むわ』
最初は凄く怖い人だと思ってた――
『ば、馬っ鹿野郎! まだ本採用にもなって無いヒヨっ子が何生意気言ってんだ。そういう台詞はな、せめて俺のシゴキを耐え抜いてから言えってんだ!』
本当は誰よりも情に厚い人だった――
『許さねぇぞ? 今度諦めるなんて言ったら』
どんなになっても見捨てないでいてくれた――
『人々の暮らしに最も寄り添った公共交通がバスなんだよ』
この仕事の大切さを教えてくれた――
『年頃の娘っ子がだらしない格好してんじゃねぇ……じゃあ、任せたぞ』
教官――
『ほう……いい面構えになったじゃねぇか』
教官っ――
『ただ、その言葉を忘れないでいてくれ』
「――教官っ!」
「来るんじゃねぇ!」
息を切らし呼び止める今日子に島崎は一喝する。今日子の足が止まった。
松江駅の改札口の前……両手に大きなバッグを持った島崎は振り向かずに言った。
「なんだ……バレちまったのか。誰だまったくおしゃべりな野郎は」
島崎との距離およそ十メートル……だがそれ以上近づけない。
「なんで……なんで黙って行っちゃうんですか! せめて何か言ってくれてからでも良かったじゃないですか」
今日子は溢れんばかりの声で叫んでいた。もう、目の前から大事な人がいなくなるのは……嫌だ。
「湿っぽいのは嫌いなんだよ。送別会だの別れの言葉だの……背中が痒くなっちまう」
島崎は精一杯の強がりを言った。
「教官だって……お師匠を送り出してやれなかったってずっと悔やんでたじゃないですか。自分にされたら嫌なことを人にしたらいけないって……学校で教わりませんでしたか?」
人目もはばからず涙を流していた。道行く人がチラチラ見ていたがそんなの気にしてる場合じゃない。
「学校ってお前……痛いとこつくなぁ」
それでも島崎は振り返ろうとはしない。
「まだ教えてもらいたいこと……いっぱい、いっぱいあったのに――」
「甘ったれんじゃねぇ!」
再び島崎の渇が飛んだ。
「基本は全て教えた……謹慎くらってた時みたいに、あとは自分で考えろってんだ……親父さんのようになるんだろ。強くなれ」
「だからって……ひどすぎます」
泣き腫らした顔で立ち尽くす。いったいどれだけの涙を今日は流したろう。
「何今生の別れみたいなことを……田舎ではまたコミュニティバスにでも乗ろうかと思ってんだ。バスに乗ってりゃまたいつか会える。日本の道は繋がってんだからな! ダハハ」
須賀もいつか似たようなことを言っていた。だからって……群馬と島根じゃ遠すぎる。
「……最後くらい笑ってさよならしようや……頼む」
島崎の肩と声が震えていた……その後ろ姿に今日子は島崎も辛いのだとやっと理解した。
「約束ですよ? いつかきっと……ですよ?」
拳を握りしめ、必死で嗚咽を抑える。
「おぉ。いつかきっとだ……」
島崎は荷物を置いた。
「?」
「右よーし……」
島崎は右手で指差し呼称をする。
今日子も後に続いた。
「み、右ヨシ」
「左よーし」
「左……ヨシ」
「車内、よーし」
「車内……ヨシ」
もう涙で前が良く見えない。
「前良し……」
「…………シ」
「聞こえねーぞ!」
「前、ヨシ!」
「うっし……最後だ。つまんねー運転士に……いや、違うか……つまんねーバスマンになるんじゃねぇぞ? じゃあな!」
――精一杯の感謝を込めて――
「お世話になりました!」
改札奥の階段を島崎は拳を振り上げながら登って行く……その背中を絶対忘れないように、見えなくなるまで笑って見送る……見えなくなるまで……
「わぁぁぁぁっ」
今日子の泣き叫ぶ声が駅構内に響き渡っていた。
――およそ三ヶ月後――
「婆ちゃん荷物はここでいいのかい?」
「ごめんよぉ? 荷物運びまでさせちゃって。さ、あがってお茶でも飲んできな」
老婆は笑顔で家の中から手招きする。
「いや、もう行かなくちゃならねぇ。また今度な」
群馬の山奥。いくら関東圏とはいえ、まだ松江の方が賑やかに思える奥地に島崎の実家はあった。
地元の小さなバス会社で、島崎はコミュニティバスの運転士として新たなスタートを切っていた。ここも例に漏れず運転士不足の会社だったので、経験者の島崎は歓迎して迎えられた。
今までやっていた路線業務よりも更に地域に密着した仕事内容に、これが最後の職場だと心に決め、やりがいを感じながら毎日を忙しく過ごしている。
先日、島根にいる弟子から久しぶりに連絡があった。メールだなんだと今は便利なものが溢れているというのに、残暑見舞いと称してわざわざ手紙を寄越してくるところがいかにもあいつらしくて笑えた――
残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ厳しい暑さが続いていますが、そちらはいかがお過ごしでしょうか?
私の方はというと、毎日が失敗の連続で日々なんとかやっているという感じです。
先日など降車のお客様がおられるのを忘れてしまって、停留所を行き過ぎでしまうという大失態をしでかしてしまいました。佐伯課長にたっぷりしぼられ、ついに初の始末書を書くはめになってしまい反省しきりです。
それから、柴田さんともきちんと今までのことをお話することが出来て……先日、お父さんの命日に初めてお母さんと柴田さんと三人でお墓参りに行くことが叶ったんです。
柴田さんはお母さんにバレないように毎月、月命日の次の日に墓参りに行くことを二十年間やってくれていたそうです。
けどお母さんはしっかりお見通しで「お気持ちは十分いただきました。これからは自分の人生をどうか大事に生きてください」って柴田さんに言いました。そしたらお父さんの前で柴田さん大泣きしてしまって、そりゃもう大変だったんです。
教官は新しい職場にはもう慣れられましたか? 機会があれば、また遊びに行こうって若月課長に誘われました。楽しみです。
それでは、またお便りします。どうかお身体だけはお大事に日々お過ごしください。
八月二十四日 高梨今日子
島崎俊夫様
追伸 楽しいことばかりじゃないけど、いつかきっと、教官が教えてくれた道から、お父さんが見た景色を見られるように頑張ります。
「ったく……ヒヨっ子が偉そうに。
──ほぅ。こりゃまた」
縁側で弟子からの手紙を肴に晩酌のビールをやっていた。夜空には見事なまでの星々が瞬いている……今夜の酒はやけに美味かった。
完
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