第22話 最終試験

 目覚まし時計の時を刻む音だけが室内に響いていた。昨日までのことを少しでも整理する時間が欲しいという想いと、早く終わらせてスッキリさせてしまいたい気持ち……だけど時間は待ってはくれないし都合良く進んでもくれない。

 泣いても笑ってもこのあと午前九時に、この三ヶ月間の成果を見極められるのだ。ここに来るまでにたくさんの人からの想いを受け取った。まだ自分自身のバスマンは見えてこないけど、この想いだけは無駄にするわけにはいかない。

「良し……行ってくるね」

 机の上の写真立て。壮太に抱きかかえられた幼い今日子の姿が写っている。手には幸枝の運転士の人形が握りしめられていた。人形をポケットに忍ばせる。制帽をバッグに入れ肩にかけた。階段を降りて台所を覗くといつものように幸枝が洗い物をしている。

「じゃあお母さん、行ってきます」

 今日子は幸枝の背中に声をかけた。

「危ないことするんじゃないよ? 行っといで」

 幸枝も振り向かず送り出す。まるで子供が遊びに出かける時かのようだった。だけど今日子は知っていた。幸枝は今日本当は早番だったのを無理言って別の人に代わってもらってたのを……

 プレッシャーをかけないように……敢えて普段以上にさりげなく振る舞う幸枝の優しさに、今日子は感謝した。幸枝の背中に黙って敬礼し、今日子は飛び出して行った。

 洗い物をしていた幸枝の手が止まる――

「壮太さん。守ってやってね」



 〝トシオ〟を駐輪場に停め足早に点呼場に向かう。聞いたところによれば〝第二見極め〟はドアを開けた瞬間からスタートするらしい。深呼吸をする。ゆっくりドアを開けた――

「ほう……いい面構えになったじゃねぇか」

 点呼場に入ってすぐ、腕を組み仁王立ちする島崎の姿があった。

 島崎の手から離れて、たくさんのものを見てきた。良いことばかりではなかった。寧ろ辛い現実ばかりだったと思う。それでも……それでもみんな立ち向かって答えを見つけ出していたのだ。


 ――私だって――


「今日はよろしくお願いします」

 今日子は久しぶりに見る師匠の瞳をまっすぐ見据えて礼をした。

「おう。よろしく任せろ」

 ――最終試験が始まった。


 まずは本日の配車表の確認だ。今日子がホワイトボードに目をやるといきなりだが目を疑ってしまう。


 一号車 高梨今日子


「! こ、これ」

 柴田の……壮太のバスだった。今日子が何かの間違いではないかと島崎に振り向く。

「柴田のはからいだ。ほれ」

 島崎は今日子の鼻先に鍵を差し出す。意図ははっきりと見えなかったが柴田の気持ちを感覚で受け取ったような気がした。きっと父と柴田は何らかの親しい間柄だったに違いない。鍵を受け取る……覚悟を決めた。

「点検してきます」



 柴田のバスの前まで来た。少し離れたところに常松がいた。見ると頷いてはくれたがそれ以上のことはなかった。おそらく点検の試験官なのだろう。十分以内に終わらせなければ。

 早速点検に取りかかった。点検ハンマーを片手にタイヤに取りつく。思えば初日に、早くバスに乗りたくて失礼な態度を取ったな……


『ワシはこの跡を、あれらの勲章だと思っとる』


 常松からは整備の大切さを教わった。この人達がいるから安心してバスを走らせることが出来るんだ。

 あとは灯火類の点検……まずい、車体右側面のサイドウインカーが点かない。急いで工具箱からドライバーを取り出しウインカーレンズを開ける。中の電球を確認すると球切れだった。

 運転席横の消耗品入れのボックスから交換用の電球を持ってきて取り付ける。レバーオン……点いた! 急いでレンズを閉める。時間は――

「九分五十二秒。次は点呼じゃ。早く行け」

常松は笑顔で言ってくれた。今日子は点検表を記入して点呼場へ急いだ。

「カカカ! 悪く思うなよ」

常松の手にはすり替えられた電球がひとつあった。


 

 点呼場に入る。制帽を被りネクタイを締め直す。まずは整管、カウンターには初日と同じく門倉がいた。

「宍道湖松江一号車、始業前点検異常無しです。出庫します」

 門倉は点検表に目を通し印鑑をついた。

「許可します……頑張って」

 最後の台詞は小さく小声でエールを送ってくれた。今日子も目で頷く。


 アルコール検知器……大失敗したっけ。もう二度とするもんか。仮ナンバーを入力し息を吹き込む。3……2……1……ピンポーン。良し、大丈夫!


 最後は運管、佐伯が無表情で待ち構えている。いつも小言ばかり言ってみんなに陰口を言われてるけど、今日子は嫌いじゃなかった。こういう人もいないと組織は上手く機能しないことを須賀から教わった。

「宍道湖松江、運転士高梨です。飲酒、体調、車両異常ありません。九時三十五分、美保マリン一号車発車します。点呼お願いします」

 点検表を提出し免許証を提示する。佐伯は両方に目を通し点検表の運管の欄に印鑑をついた。

「確認しました。本日の注意事項は運行表を良く確認し、慌てず確実な運行をよろしくお願いします。では……無事故の誓い及び安全確認復唱お願いします」

 いよいよだ。自分が〝これ〟を言う日が来るなんて……深呼吸をしてタイミングを合わせる。


「「プロとしての誇り責任を持ち、みんなの安全安心守ります! 右ヨシ。左ヨシ。車内ヨシ。前ヨシ!」」


 噛まずに言えた……敬礼をする。佐伯も返してくれた。

「では試験は私も同乗します。発車準備をしてください」

「はい!」



 車内には散り散りバラバラに島崎、永嶋、佐伯が座っていた。松江営業所の重鎮勢揃いである。緊張する。

「よ、よろしくお願いします」

 今日子は頭を下げた。永嶋が口を開く。

「こちらこそ。高梨さん、試験終了……美保マリンの復路が終点に着くまで、我々は一切口を出しません。最後までただの乗客だと思ってやってください」

 注意事項を告げられ今日子は頷いた。運転席に滑り込む。

 目を閉じる……いよいよだよお父さん。力を貸して――


 メインスイイッチを入れ、バスの主電源が入る。


「ニュートラル確認、エンジン始動」


 キーを回す。後ろからエンジン音が響き渡り、壮太と柴田のバスに命が宿る


「光電確認」


「車内灯及び出入口灯点灯」

 車内が明るくなった。


「運賃表示器及び整理券発行機電源ヨシ」

 頭上の運賃表示盤が点灯する。


「系統番号入力。221往路」

 運賃表示盤に〝美保マリン〟と表示された。


「フットブレーキヨシ。サイドブレーキ解除」


 安全確認。

「右ヨシ」


「左ヨシ」


「車内、ヨシ」


「前ヨシ」


 右の安全をもう一度確認しつつ発車合図を入れる。良し……行くぞ。

「発車します!」



 松江駅に着いた。案内のアナウンスを入れ中扉を開ける。乗客は十人ほど……朝のラッシュも一段落したところなので人数は少ない。ただ、終点の美保関ターミナルからコミュニティバスへの接続便だ。猶予は十分間。それ以上の遅れは許されない。

「お待たせしました。マリンプラザ経由美保関ターミナル行きです。発車します」

 中扉を閉める。今日子のバスは駅のターミナルを発車した。

 まずは三つ目の停留所。遠目から人の姿が見える。乗客かも知れないので停車準備に入った。が、その時――

「!」

 降車ボタンも押されてないのに一人の乗客がおもむろに立ち上がった。おそらく〝座席の移動〟だ。乗客の中には座るポジションにやけに拘る人がいる。一度は座って見たものの、シートの具合や見晴らし等が気に入らず急に動き出す人がいる。もう停車のモーションに入っている――


『ブレーキは踏むな!』


 岩田の声が聞こえたような気がする。落ち着いてアナウンスする。

「乗車扱いのため停車します。大変危険ですのでお立ちのお客様、すぐに何かに掴まってください」

 老人はすぐに近くの手すりにしがみついた。それを確認してからゆっくりブレーキをかける。なんとか間に合った。乗客の前で停まることが出来たし、老人も転ぶことはなかった。

「恐れ入ります。走行中の席の移動は大変危険です。お止めくださいます様、お願いいたします」

 丁重に断りを入れる。

『ほう……複合技まで出来るようになってやがる』

 島崎は教え子の成長に感慨深い思いだった。岩田にアナウンスを教えられた時、停車間際にアナウンスをどうしても同時に言うことが出来ず〝作業の分離〟を指導された。それが今のは停車作業中にもかかわらず、車内の乗客にまで気を使いながら停まることが出来た。なかなかの高等技術だ。

 やがて〝県民会館前〟に到着する。ここは松江駅の次に乗客の乗降やバスの出入りが激しい停留所である。すぐに次のバスが入ってくるので速やかに乗降扱いを済ませ、出て行かなければならない。

 待っている乗客はおそらく五、六人。降車ボタンも押されている。

「ご乗車ありがとうございました。県民会館前停車します。バスが完全に停車するまでお待ちください」

 降車案内をしてバスを停車させる。乗降が重なった場合、降車が優先である。二人立ち上がった。まずはこの二人を降ろしてから中扉を開ける。

 ――焦るな。落ち着いて――

 最後の乗客が乗ったのを確認して中扉を閉める。発車合図を出しバスがゆっくり動き出したところで、かなり前方から手を振りながら走って来る中年男性がいた。


『行く先々の停留所で待っている全ての乗客の〝一分〟を無駄にしたんだよ! たった一人の迷惑な駆け込み乗車客のためにな』


 柴田さん……言い方はきつかったけど、ご指導ありがとうございます。

 乗せてあげたい気持ちをぎゅっと堪え、そのままバスを発車させた。マイクを外部出力に切り替える。

『申し訳ありません。次のバスが三十分後に来ます。それまでお待ちください』

 その男性に軽く頭を下げ、今日子はバスを走らせた。

『難しいところだが、正しい判断だと思う。時間は間違えてないのだから……いなかった乗客が悪い。クレームが来たとしても説明は出来る……しかし次の便の時間まで予習してきたのか?』

 佐伯は今日子の判断に間違いは無いと結論付けると同時に、次の便の案内まで出来たことに驚いていた。

 バスは市街地を抜け、そろそろ郊外へと場所を移す。降車ランプが点灯した。次は〝西持田〟停留所だ。ポケットも長く深くない停留所なので比較的停車させやすい。だが、西持田の停留所内に停車させている一般車両がいた。しかも標示板の真ん前に堂々と停めている。バスが停められない。

「……」

 今日子はしばし思案する。


『その人達が安全に降りるまで、アタシらには責任がある。それを邪魔する存在をアタシは許さない』


 早苗さんとまでは行きませんけど、頑張ってみます――

 今日子は停車中の一般車両の後ろにつけて停車させた。

「前の迷惑車両に移動してもらいます。少々お待ちください」

 そう乗客に向けて言うと急ぎ外に出て行った。乗用車の運転席へ駆け寄る――大きく息を吸った。

「バス停内は駐停車禁止場所です。すぐに車両を移動してください!」

 乗用車の窓が閉まっていたのでありったけの声で今日子は叫ぶ。その声は車内の島崎らにも丸聞こえだった。乗用車の運転席のウインドウが開く。ガラの悪そうな男が電話をかけながら睨んでいた。

「今電話してんだ。ちょっと待ってろ」

 迫力に押されそうになるが、悪いことをしてるのは向こうだ。負けるわけにはいかない。

「こ、ここでお客様が降りられるんです。あなたがやっていることは道路交通法違反です。違反点数二点、反則金一万円です!」

「なんだぁ?」

 男は電話を耳から離し今日子を更に睨みつけ凄んだ。

「な、なんなら今から警察呼びましょうか? バスのドライブレコーダーにあなたが違反行為をしてるところがしっかり記録されています。き、切符を切られるのはあなたですよ」

 今日子は負けなかった。悪いことをしているという認識をしてもらわないとまた次がある。早苗の言葉を思い出していた。

「……わぁーった! わぁーったよ。クソが」

 悪態をついて男は走り去って行った。

「も、申し訳ありませんでした。改めてつけ直します。少々お待ちください」

 今日子の勝利でとりあえず収まったが、佐伯は拳を眉間に当て首を捻っていた。下手をすればトラブルになりかねない案件だ。行ってくれたから良かったようなものの……と頭が痛くなる想いだった。

 それとは逆に島崎は笑い出したいのを必死に堪えていた。いつもこういった輩には悩まされているのである。実に痛快な気分だった。

 事務職と現場……立場の違いで受けとめ方も違う。そんな彼らの気持ちに今日子は気づくわけもなく、膝の震えを抑えるのに必死だった。


 ともあれ、なんとか九分遅れで最終試験の前半戦は終了した。現在終点〝美保関ターミナル〟の車庫にて復路に備えて休憩中だった。

 永嶋と佐伯は運行中に入った業務連絡の対応へ出て行き、車内には疲れた顔の今日子と島崎の二人だけが残っていた。

「ひとまずお疲れさん。この一ヶ月、お前なりに濃密な時間を過ごしてきたのはわかった」

 島崎は今日子の二つ後ろの席に座ったまま話し始めた。

「……ありがとうございます」

 島崎とこうして二人だけで話しをするのは久しぶりだな……と感じながら今日子もそのままで返事する。

「二十年前の話な……すまんが聞いてしまった」

「……そうですか。バレちゃいましたか……隠してたわけじゃありませんから、いつかは知られるだろうなとは思ってましたけど。特別扱いされたくなくて……」

 多少とぼけられるかと思っていた島崎だったが、意外にも今日子はあっさりと認めた。

「……柴田は……お前の親父さんの親友だったそうだ。所長は二人の先輩……このバスが事故を起こした日、柴田の腕の中でお前の親父さんは亡くなったんだな」

 やっぱり……やっとわからなかった最後の一ピースが嵌まった感じがした。

「柴田さんは絶対お父さんと何か関係があるような気はしてました」

 今日子はハンドルを撫でながら安堵の表情を浮かべていた。

「あぁ。だから……お前に危ないことさせたくなくてあんな態度を取っていたんだと思う。許してやれ」

 窓の外を見ながら島崎は言う。お節介だったかも知れない。けど、二人がわだかまりを残したままで去りたくはなかった。

「許すも何も……最後の側乗でたくさんのことを教わりました。感謝の言葉しかありません。

 お母さんは、柴田さんのこと何も教えてくれませんでした……けど今なら、その理由もなんとなくわかります」

「強いな……お前は」

 今日子は黙って首を振る。

「悩んでるのか? 運転士としての〝在り方〟に」

 今日子は顔を上げてミラー越しに島崎を見た。島崎は外を向いたままだった。

「お父さんがいなくなってから、私の想いを知ってたお母さんはわざと私からバスを遠ざけました。なるべくバスに乗らないように……必要な時は車や自転車を使って。

 私もいつの頃からかそういう暮らしに慣れてしまって、お母さんの心の負担を少しでも軽くしたいという気持ちもあって……知らず知らずのうちにバスを避けるようになっていました。

 おばあちゃんが亡くなって、お母さんを説得して……やっと待ちに待った教習所に行けるようになって。もう我慢しなくていいんだって──あんなに気持ちが溢れていたのに、今はこんなに近くにバスがいるのに、子供の頃みたいにまっすぐバスを見れないというか…上手く言えないですけど。

 早苗さんは……弱い人達を守るためにバスに乗るって言ってました。教習所の時に知り合った友達は、自分が正しいと思ったことを貫き通すためだとも……私は……良くわからなくて。

 何か思いつけば全て正解のような気もするし、しばらくすれば間違っていたのかもって……同じところをぐるぐる回ってる感じなんです」

 予想通りの反応だった。自分もそうだったなと懐かしく思うと同時に、新しい芽が育ちつつあることが嬉しくて仕方なかった。

「ヒヨっ子どもが偉そうに……松下もその友達とやらも、俺から言わせりゃまだまだなんだよ。わかった気になっているだけだ……一年後、五年後、十年後には、また違うことで頭抱えてるよきっと」

「そうなんですか?」

 意外な返答に今日子は再びミラーに映る島崎を見た。島崎もやっとこちらを向いてくれていた。

「いいんだよそれで……たった三ヶ月でわかった気になってもらったって困る。自分が納得してしまったら、そこで成長が止まっちまうんだ。だから悩み続けろ。俺だって未だに悩んでるんだからな」

「き、教官が?」

 信じられないといった今日子の反応に島崎も苦笑いする。どうやらこの弟子にとって自分は完璧な存在のようだ。

「当たり前だ。この仕事に出口なんかねぇよ。お客の数だけ、正解もあるし間違いもあるんだ」

 今日子はハンドルを握って再び俯く。

「それでもみんな笑って……凄いな」

 まったく厄介な弟子だ。島崎は鼻で息をついて言った。

「ひとつだけ言ってやれるとするなら……そうだな……この街を好きでいろ」

「え?」

 島崎の言葉の意図するところがわからない。

「嬉しいこと……悲しいこと、やりきれないこと。これから色んなことが起こる。だけど心の奥底には常にその気持ちを植えておくんだ。そうすれば何があっても、おのずと正しい方向に進むことが出来るはずだ……お前の産まれ育った街をな」

 なんとなくわかったようなわからないような……今日子はその言葉を忘れないように呟くことしか出来なかった。

「私の産まれ育った街を、好きでいる……」

 島崎は頷く。

「そうだ。今はわからなくていい。ただ、その言葉を忘れないでいてくれ」

 またひとつ、島崎との約束が増えたのかも知れない。いや、何かを託されたような……そんな感じがする。

 

 ――時間が来た。後半戦スタートだ。


 美保マリン線の復路。平日の昼間ということもあり乗客は少ない。三人の乗客を乗せたまま何事も起こることなく、峠を越えて郊外から市街地へとバスは戻ってきた。

 島根大学前で五人のスーツ姿の男。北田町で高齢女性と中年男性。裁判所前を出た時には若い女性二人組も乗り、乗客総勢十二名となっていた。

 もう少しだ……このまま無事に松江駅に到着出来れば試験は終わる。合格出来るかどうかは別としてだが――


 復路県民会館前に到着した。降車客はいない。更に三名の乗車客を乗せたとこで今日子は異変に気づいた。県民会館前の停留所はガラス張りの小さな待合室がある。椅子がいくらか設置してあるのだが、その隅で胸を押さえている苦し気な老婆がいた。

「少々お待ちください」

 今日子はアナウンスをし、急いでその老婆の元へ駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 老婆は息づかいを少し荒くしながらも返事をしてくれた。

「ごめんね……私、心臓が弱くて……こうしてればじき良くなるから。大丈夫だから」

 そう言って頭を下げた。しかし顔色もひどく悪いし汗もかいている。

「おい早くしろよ! 会議があるんだよ」

 後ろでスーツ姿の乗客が急かした。どうする……病院はここから五百メートルの所にある。救急車を呼ぶより直接連れて行った方が早い。しかし試験は中止だろう。島崎も永嶋も黙って前を向いたままだ。どうして何も言ってくれないの――

「駅で電車が出るんだよ。早くしてくれ!」

 どうする……


 どうする……


 どうする――


『バスの中だけは違います。あの中だけは、自分が正しいと思ったことが出来る』


 自分の正しいと思ったことを……今この人から目を逸らしたら、私はずっとこの街をまともに見ることが……想うことが出来なくなる……きっと――


「少し待っていてください」

 今日子はバスに戻り制帽を脱いだ。

「大変申し訳ありません。急病の方を病院へお連れします。今からこのバスは臨時の回送車となります。ご乗車中の皆様……大変申し訳ありませんがここでお降りください」

 今日子は通路の前で深々と頭を下げた。車内にどよめきが起こる。

「ふざけんなよ」

「バスの外で起きたことなんて関係ないでしょ?」

「会議に間に合わなかったら、どう責任取ってくれるんだ!」

 今日子へ向けて数々の罵声が飛ぶ。無理もない。一人の人間のため……それも車外で起こっていることに対して、この運転士は十五名の乗客の予定を狂わそうというのだ。

「申し訳ありません!」

 今日子はありったけの声で再び頭を下げる。騒がしかった車内が一瞬で静まり返った。

「……わ、私はまだまだ駆け出しですが、路線バスの運転士です。このバスに乗っていただいたお客様だけでなく、この街でバスを御利用いただいている全ての方々がお客様だと思っています。

 いくら車外のこととはいえ、バスを待っている方が苦しんでおられるのを……私は見過ごすことが出来ません。

 もし、あの方を見て見ぬふりをしてしまって……万が一もしものことがあったら……私は、私はこれからずっと……皆様のお顔をまともに見ることが出来ない運転士になってしまいます」


 二十年前。父に手を引かれた少女は、その小さな胸に大きな夢を思い描いた。


 最愛の人が突然目の前からいなくなった。ぽっかりと空いた胸を更に抉るように、人殺しの娘だと罵られた。


 言われれば言われるほど頑なになった。想いは募る一方だった。


 母に反対され、祖母が倒れ、気持ちを閉じ込めた。回り道をたくさんした中で、数えきれないほど嫌なものを見てきたと同時に、温かい人の心にも触れることが出来た。


 父が信じた心……大切にした心……それを乗せてバスを走らせていたい。


 その想いから目を逸らすわけにはいかない。


 何故なら私も……


 ――バスマンだからだ――


 今日子は両手をつき土下座をした。額を床にこすり付ける。

「駅行きでしたら数分で次のバスが来ます。どうか……どうかご理解ください!」


 一時の静寂が車内を包む。そして次の瞬間だった。パン! と手を叩く甲高い音が響き渡る。

 驚いた今日子が顔を上げると手を叩き合わせたのは永嶋のようだった。

「……試験は〝終了〟です。お疲れ様でした」

 永嶋は無表情に言った。島崎も佐伯も何も語ろうとはしなかった。


 ――終わったんだ。

 今日子はそう直感していた。

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