第21話 素顔
「じゃ、じゃあヒヨっ子……た、高梨はその運転士の……」
驚愕のあまり島崎は思わず座っていたソファーから立ち上がり、窓の向こうを見ている永嶋に問いかけた。
「そうです。高梨さんは、不運にも亡くなった高梨壮太の忘れ形見ということになります」
今日子と柴田が激しくやり合った直後、今日子の元へ行くことを禁じられた島崎は、所長室で永嶋から全てを聞いたところであった。
「……大きな事故が昔あったことは知っていましたが……誰もこの話になると口を固く閉ざしていたもので……触れてはいけないことなのだと、私もそれ以上は……」
宍道湖交通社内で、あの事故の話をするのはタブーとされていた。事故後五年も後に入ってきた島崎には知る必要の無いことだと、誰もが思っていたのだろう。
「当時の状況を知る人も、異動やら退職やらでみんないなくなりました。松江ではもう私と柴田しか知らないことです」
永嶋が窓の外を見ていると、今日子を乗せた柴田のバスがちょうど帰ってきたところだった。前扉の前で何やら話してるのが見える。
「……生き残った二人の女性から色々状況を伺いました。正に運転士の鑑と言える行動だったと……ただ、一方で無駄死にだったのではないかという声もありました。
高梨くんの直接的な死因は激しい失血によるものでした。結果的にバスから火災は発生しなかった……大人しく動かずにじっと傷口を押さえていれば、救助が来るまで持ちこたえることが出来たんじゃないか……とね」
永嶋は言いながら手で島崎に再び着席を促した。
「そ、それは結果論でしょう?」
島崎は座りながら反論する。同じ運転士として、今日子の父親の行動は理解できる。
「確かに結果論です。事故直後、高梨くんが全ての……ましてや車外で燃料が漏れているか、火災の恐れがあるかなどの状況を把握するのは不可能だったでしょう。だからこそ、最悪の事態を想定して彼は行動したんです」
島崎は深く頷いた。
「しかしその結果に、どうしても納得できない男がいました」
島崎は容易にその名前が想像出来た。
「柴田……」
「そうです。女性客二人に聞いたところ、乗客はもう一人……二十代と思われる若い男性が乗っていたそうです。だが救助隊が到着した時、彼の姿は無かった。
その後、証言を元に彼を捜索してみましたが、ドライブレコーダーも無かった時代です。結局彼を見つけることは出来ませんでした」
島崎は膝の上で拳を力いっぱい握りしめた……逃げたのだ。重傷の今日子の父親を置いて……
「今となってはもう真実は闇の中です。結果、高梨くんは乗客のためにその命を削り、最後は乗客に見捨てられ命を落としました」
なんてことだ。運転士の本文を全うしようとした彼の気持ちが島崎には痛いほど分かった。無念だったろう……目頭が熱くなった。
「事故後、高梨くんの葬儀にも顔を出さず、私に一週間の休暇届を無理やり提出して柴田は姿を消しました」
これも結果論でしかないが、自分の代わりに乗務させてしまったことが許せなかったのかも知れない。もし自分だったとしても、遺族にどんな顔をして会えば良いのかわからないだろうと島崎は思った。
「休暇が終わって再び顔を出した柴田にはもう以前の面影などまるでありませんでした。感情を一切表に出さず無口になり、正確にバスを走らせるだけの男となってしまったのです。
乗客のわがままな要求には断固とした態度を取るようになり、時には憎んでいるのではないかと思うような言動も目立ちはじめました……私はあれ以来、あいつの笑った顔を一度たりとも見ていません」
「無理もない……柴田の心情は理解出来ます」
所長室に重たい空気が流れる。島崎は自分が入社以来十五年と付き合ってきた柴田という男が、本当の姿ではなかったことが何より悲しかった。
「高梨くんのバスをあのまま廃車にしてしまうのがどうしても納得出来なかった私は、 社長を初め方々に頼み込み手を尽くしました……その結果、幸運にも廃車にならずなんとか修理を終えてあのバスは帰ってきたんです。柴田は関係する上役全員に頭を下げ、自分の担当車にさせてくれと懇願しました。
誰も事故……ましてや死人が出たようなバスに乗りたくありません。要求はすんなり受け入れられました。そして、柴田が乗っていたバスも縁起が悪いということで、新車だったにもかかわらず予備車両に格下げとなりました」
「あのバスは縁起なんか悪くない……という証明。ですか」
島崎の推測に永嶋も頷く。
「おそらく。それを立証するかの如く、あれから二十年柴田のバスは事故を起こしていません」
意地もあったろうが、二十年間細心の注意を払いながら運転してきたのだ。容易なことではなかっただろう。
「そして、残された高梨親子ですが……」
永嶋は悲しそうな顔をして話を続けた。
「二人の女性客の証言から、過失は相手側のダンプの運転手にある……そう警察は断定しました。
結果。乗客の命を救った運転士として高梨くんを英雄扱いする報道がされた一方で……乗客が死んだことには間違いない。本当にバスの運転士に過失はなかったのか? そうした報道も一部されたのです」
「そ、そんな」
島崎は憤りを隠せなかった。命をかけて乗客を救った男に対しての冒涜だ。
「当時の社長も関係各所に手を回して、どうか遺族に影響が出るような報道はしないでくれと事態の鎮静化に全力を注ぎました。しかし、一度された報道が広まるのは早かった。
奥さんの職場で、近所で、高梨さんの学校で……心無い者達があることないこと吹聴して回りました。人殺しのバス運転士の妻……娘だと」
人間の温かい心を信じる島崎だったが、この残酷さもまた人間なのだと、久しぶりに思い知らされる……自分の信じる愛した人間が理不尽に貶められるのだ。その情けなさといったら――
「会社が費用を負担するから、どこか静かな場所へ引っ越された方が――と、提案したこともあったようです。けど奥さんは絶対にあの家から逃げ出そうとはしなかった。
ここから逃げたら、主人が人殺しであったと認めるようなものです……と」
なんて強いんだろう。もし自分だったら逃げていたかも知れないと島崎は思った。あの親子の、あの笑顔の下にこんな強さがあったなんて……悲しかったがそれ以上に胸が熱くなった。
「誰もがあの事件を忘れるまで、数年の時間を要しました。奥さんは女手ひとつで体の弱い母親と娘を一生懸命面倒見ました。そして高梨さんは……高梨さんは運転士という仕事に固執していくようになったんです」
今時珍しいとは思っていた。若い娘自らが運転士になりたいなどと……何かしら思うことがあってのことだろうとは察してはいたが、まさかここまでの事情だったとは島崎も想像だにしていなかった。
「――あの日、死に際の高梨くんと柴田の間で、どんなやり取りがあったのかはわかりません。ただ、柴田の高梨さんへのあの頑なな態度を見れば……どんな約束をしたのかはなんとなく想像がつきます」
「さっき高梨が柴田とやり合ってた時にも〝約束〟がどうとか叫んでいたらしいですね」
島崎の言葉に永嶋は苦笑いをし首を振った。
「まったく……一人の男のために周りはえらいとばっちりです」
島崎も同感だった。ため息まじりにこぼす。
「本当に……頑固者同士の意地の張り合いです」
重く、暗い雰囲気が漂っていた室内に、少しだけだがやっと温かい空気が流れた気がした。
「……私がお話し出来ることは以上です。島さん……何かと異論はあるかと思いますが、知ってしまわれた以上は明日の試験まで高梨さんとの接触は控えてくださいよ?
フェアに行われるべきことだと思いますし、今の彼女はいっぱいいっぱいでしょう。これ以上余計なことは考えさせない方が得策だと思います」
ここに呼ばれた時点でそう来るだろうと大方予想出来ていた。何より自分も同感だった。明日までそっとしといてやるのが良いだろう。
「わかりました」
「……何やら運転士としての〝在り方〟について悩んでいるようですが……こればっかりは他人がどうこう言って解決出来る問題でもない」
福田や松下からその辺は聞いていた。自分のスタンス……客との距離感や路上での考え方などのことで思い悩んでいると。
「あいつが追い求めていることは、雲を掴むようなことです。一見答えに辿り着いたような気がしても、しばらくすればまた別のことで悩んでいるでしょう。アメーバのように形を変えて……
もしかしたらバスを降りるまでずっと答えが見つからないかも知れない。そんなことなんです」
両手を繋ぎ合わせて島崎は静かに言った。どことなく嬉しそうに見えるのは、自分にも覚えがあることだからなのだろう。
「わかります。だからこそ自分でもがき、足掻いて苦しむしかない……願わくば、父親との約束がどうこうではなく、彼女自身の心でそれを見つけて欲しいものです」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。雛鳥が巣立ちを目前に飛び立てないでいるもどかしさが、互いに良くわかるからだろう。
「さて、では私はもう一人の頑固者の様子でも見て来ますか。まったく世話が焼けます。
島さんはゆっくりして行ってください。コーヒーもご自由に……あぁ、そうそう。もうこの期に及んで引き止めるような無粋なことは言いませんが、最後の大仕事……ありがとうございました。あと少しです……お願いしますよ」
永嶋はドアの前で深々と頭を下げた。島崎も慌てて立ち上がり礼をした。
一人残された所長室、あまりにも色々なことがありすぎて島崎も少々疲れていた。いよいよ明日なのだ。左の手のひらに右の拳を叩きつける。乾いた音が暗い所長室に響いた。
「頑張れ……ヒヨっ子」
誰もいない車内。何をするでもなく一番後ろ……今日子が座っていた席に腰かけている柴田は、ただ静かに窓の外を見ていた。
もうほとんどの者が退社している。暗くなった松江営業所の敷地を、月明かりだけが照らしていた。
「……どうりで明るいと思った……あの夜みたいだな――」
前の方でノックする音が聞こえた。見ると永嶋が顔だけ覗かせてこちらを見ていた。
「まだ帰ってなかったのか?」
最近今日子とのことで永嶋との関係も少々険悪だった。しかし、今は違う。昔のような気持ちで永嶋を見ることが出来た。
「……俺だって、たまには一人で考え事くらいしますよ」
永嶋はゆっくりと車内に上がってきた。一番後ろ、柴田と反対側の席に座る。
「随分さっぱりした顔になったじゃないか。彼女と派手にやらかした後だっていうのに」
永嶋は意地悪く言った。微笑みながら……
「父親も馬鹿なら娘も相当な大馬鹿だ。私の負けですよ」
少し気恥ずかしそうに柴田は苦笑いしていた。
「その馬鹿を……お前と同じように彼女も二十年間貫き通してきたんだ。並大抵のことではなかったろうよ」
自分に対しても言ってくれていることが伝わってくる。柴田は胸に込み上げてくるものを感じていた。
「喧嘩してる最中に、まるで高梨が甦ってきたんじゃないかっておかしな感覚に陥りました。まっすぐな目で──恥ずかしげもなく恥ずかしいことを堂々と……まさしくアイツの娘でした」
永嶋もまた、昔の柴田と話しているような感じがしていた。人に媚びへつらうことを嫌い、実直でぶっきらぼうな半面、誰よりも性根の優しかった男──
「……もう、いいんじゃないか?」
何に対して? 色々ありすぎてわからない。
「ずっと許せませんでした……身勝手な一般車のドライバーや理不尽な乗客。そしてそれに無理にでも対応しようとする高梨を初めとするこの業界全体が。そうでなければ……アイツは死ななかった」
わかる話だった。日本のバス業界のサービスは世界トップレベルである。国外のバスドライバーはもっと雑でいい加減だと聞く。乗客の方もまた、目的地まで運んでもらう以上のことを運転士に求めたりしないらしい。
「あの〝規制緩和〟以後、状況はさらに厳しくなった。相変わらず過剰なサービスは求められるのに、運転士に対する待遇は悪化する一方だ。尚のこと、あの頑固娘をこんなとこへ来させるわけにはいかなかった」
経営者側として、返す言葉もない。
「……すまん」
「先輩を責めてるんじゃありません。言うなれば、あなたも大きな渦に呑み込まれた被害者です。
長時間労働によるバスの事故は無くなりません……どうして、こんなことになってしまったんですかね」
柴田は永嶋の立場に理解を示しながらも、現状の歯痒さを嘆く。
「業界全体が今必死になって運転士の待遇改善に動いている。バス事故が多発した一時期を思えば、今はまだ――」
「それは認めます。拘束時間は確かに長いが、うちは都会に比べればまだマシな方です。それに、長い空き時間に銀行に行こうが買い物に行こうが自由だ。休みたければ寝てたって文句言われない。しかもその時間を〝拘束手当て〟としてある程度は保証してもらえてる。その点はありがたいと思っています。
けど……まだまだ全然足りません。世の中には俺達よりずっと過酷な条件の中で働いている仲間達がいる……偉い人らにはもっと頑張ってもらわないと」
永嶋は柴田の方を見ずに頷いた。
「あぁ。もっと働きやすい魅力のある環境を作らんことには人も入って来ない。人がいなければ改善も望めん……責任重大だな」
他の運転士仲間が柴田を悪く言わないのは、こういうところがあるからだった。
誰しも会社から睨まれたくない。言いたいことはあっても言わずに我慢するのが普通だろう。だけど柴田は違った。みんなが言いにくかった心の声を、自らのリスクなど省みずにこうして訴えてきたのだ。他の運転士からしてみれば、感謝してもしきれない存在だったのである。
「未だに心の奥底ではアイツがこの仕事をすることに反対してるんです。環境が変わったからといって、事故のリスクが無くなるわけじゃない。
アイツはいつか父親と同じことをします。もしまた……乗客のために命を捨てるようなことになったら……俺は……死ぬまで自分を許せなくなります」
気づいているのかいないのか……柴田の方を見ると頬を伝う涙が一筋落ちて行った。無理もない。自分の腕の中で友が死んで行ったのだ。
「それを限りなくゼロに近づけることは出来るよ。これからの彼女を生かすも殺すも、我々の肩にかかっている。死なせはせんよ」
柴田は黙っていた……しばらく俯いていたが、何かが吹っ切れたように顔を上げた。
「今日、本当に二十年ぶりに昔のような乗務をしました。最初はあの頑固娘に見せつけてやるつもりだったんです。
けど走るにつれてだんだん昔の気持ちを思い出してきて……気がついたら高梨ほどではなかったけど、一生懸命お客さんのためを思って運転してました」
永嶋は何度も頷いていた。目頭が熱くなる。
「……そしたら往路の最後のお客さんがね? 降りる時言うんですよ『今日は久しぶりに良い気持ちで降りられたよ。ありがとうね』って……」
俯く。唇が震える……そして──
「……先輩、先輩俺……やっぱり、この仕事……大好きですわ――」
柴田は泣いた。あの日以来の涙だった。氷のように固く閉ざしてしまった心が、二十年という時を経て……高梨今日子という友の娘に出会って、ようやく溶けようとしていた。
永嶋は柴田のすぐ隣に座り直し肩を抱いた。永嶋だって自分を責めていたのだ。自分がもし高梨を走らせてなかったら……と。
柴田が十字架を背負い続けるなら自分だってそうだと、松江営業所に拘り続けた。本社での役員の話だってあるにはあったが全て断ってきた。
ずっと心配していた後輩がやっと肩の荷を下ろそうとしている。言葉にならない感情が溢れてきて永嶋も泣いていた。
「お疲れさん……頑張ったなあ」
日付はもう変わろうとしていた。暗いバスの中で年甲斐も無く二人の男が泣いている。だけど許して欲しい。二十年、我慢してきたのだから。
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