第20話 八月二十日

 八月に入りついに〝その日〟がやってきた。

 松江営業所の敷地内。社内での御披露目も終わり、今しがたディーラー担当も社内関係者も引き揚げたところだった。

 念願叶い二台の新車は壮太と柴田の担当車となった。水面下での永嶋の力添えがあってこその結果だというのは言うまでもなかった。諸事情により二台一緒の納車とはならなかったが、本日無事に壮太のバスが納車されたのである。

 昨年のこと。この型は新型にモデルチェンジされたばかりなのではあるが、納車されたのは従来型の旧型モデルで、所謂〝売れ残り〟バスであった。

 宍道湖交通でも多数走っている主力バスと同じ型なので、特に真新しさも珍しさも無い見慣れた形をしていた。(だから先輩運転士達もあまり関心を寄せなかったのだが)

 とはいえ、傷ひとつ無いピカピカのボディに宍道湖の空と水面をイメージした鮮やかなブルーが屋根とバンパー下面に、しじみとそれを包み込む〝水〟をイメージされた黒と青のラインが中段横一直線に引かれている。側面と正面には宍道湖交通のシンボルマーク〝二つのしじみ〟が描かれていた。

 邪魔にならないように敷地内の一番隅に移動された壮太の〝しじみバス〟は、只今より高梨一家の御披露目会ということで、ひっそりと執り行われることとなった。壮太が柴田も参加するように誘ったのだが、そういうのは家族水入らずでやってくれと、逃げるように乗務に出ていってしまったために彼の姿は無かった。

 壮太に手を繋がれた少女が山のように大きなバスを至近距離で目の当たりにし、あまりの大きさに口をあんぐり開けたまましばらく動けないでいた。

「どうだ今日子。これがお父さんの新しいバスだぞ」

 壮太は誇らしげに胸を張り、再びバスに目をやった。愛娘にこのバスが見せれる日が来ることを、どんなに心待ちにしていたことか。そんな二人を少し後ろから温かい眼差しで幸枝が見守っている。

「さ、試運転を行います。乗った乗った!」

 壮太は二人を車内に案内する。塵一つ無い広々とした車内に、今日子はまるで誕生日プレゼントを貰ったかのような笑顔で見渡した。

「……お前はここ。一番の特等席だぞ? 幸枝ちゃんはその後ろで見てやってて」

 壮太は今日子を抱え上げて左側の一番前の席に座らせた。その後ろに幸枝が座る。

 運転席に壮太は滑り込み手早く各機器をチェックする。系統番号〝185〟方向幕に回送が表示された。

 新車が納入された時はいきなり乗客を乗せて何か不具合があってもならないので、担当運転士が回送で市内をある程度走行しチェックする習わしになっていた。今回は特別に、家族の同乗が許してもらえたのである。

 壮太は制帽を被りマイクをセットする。次に手袋を嵌めた。今日子は特等席から壮太の一挙手一投足を見逃さないように片時も目を離さないでいる。

「じゃあ行くよ……二人とも準備はいい?」

 心持ち壮太も緊張しているようだった。

「は、発車オーライ!」

「安全運転でね?」

 二人の了解の合図が聞こえてきた。壮太は頷く。

「……右ヨシ。左良ヨシ……車内ヨシ。前ヨシ。発車します!」

 各ポイントを安全確認をし右ウインカーを入れ発車合図をする。ついに壮太のバスは動き出した。

「わぁ……!」

 目の前の展望ガラスの向こうから街が流れ込んでくる――何もかもを見上げることしか出来なかった幼い今日子の瞳に、人も車も、全てが小さく映りこんでいた。

「信号ヨシ。歩行者ナシ」

 安全確認ををしバスは左折する。曲がった先で今日子よりも幼い少年がはしゃいで壮太に手を振っていた。壮太はその子に向かって敬礼をする。子供は飛び上がって一緒にいた親に喜びを伝えていた。

 その父親の姿に、今日子は今すぐ誰かに父を自慢したい気持ちになった。振り向いて幸枝を見ると、今日子の気持ちが分かったみたいで微笑んで頭を撫でてくれた。

 この日。午前中は家族だけの時間を過ごし、午後からは実際の初運行に同乗させてもらい、乗客とふれあいながら仕事をする父を今日子は間近で見ることが出来た。

 父のハンドル捌き、父の横顔、時折こちらを向いて笑ってくれる。すぐ後ろでは母が体を優しく支えてくれていた。父の頼もしい姿と優しい母……それは今日子にとって一生涯忘れることの出来ない温かい光景として、瞼の奥に焼きついたのである。


 夕方。松江営業所に帰ってきた壮太のバスを三人は並んで正面から眺めていた。何を話すでもなくただ静かに……だがそれがまた心地よくもあり、優しいひと時でもあった。

 最初に口を開いたのは今日子だった。

「……アタシもバスマンになりたい」

 今日子は誰に言うでもなくバスを見上げながら独り言のように呟いた。幸枝はまた子供が思いつきで言ったことだろうと苦笑いしてたのだが、壮太は違った。今日子の前に回りしゃがみ込むと、両手を今日子の肩に置き言った。

「……そっか。お前もバスマンになってくれるのか……そりゃあお父さんも安心だ。じゃあ俺も、今日子がバスマンになってくれるまで頑張らないとなぁ」

 壮太は今日子の頭を撫でる。子供の一時の思いつきかも知れない。けど、今日一日の自分の姿を見てこの子は言ってくれたのだ。父親として、こんなに嬉しいことはなかった。

 今日子はまっすぐな瞳で壮太を見つめる。そして力強く頷いた。

「アタシも大きくなったら絶対バスマンになるんだ。約束!」

 壮太は下の瞼に涙を浮かべて笑った。今日子の頭をくしゃくしゃっと撫でる。

「あぁ、約束だ! ……こっちにおいで」

 壮太は今日子の手を引き、バスの運転席側面へ導いた。グリスチューブ交換用の小さな扉があり、その扉を壮太は開けた。幸枝も今日子もこれから何が始まるのかわからなかった。少し心配な面持ちで壮太を見守る。

「ちょっと待ってて……」

 壮太は車内からドライバーを一本持ってきた。そして何をし出すかと思えば、その扉の裏側をガリガリと傷を付け出したのである。

「そ、壮太さん!」

 幸枝は慌てて止めようとしたが――

「いいからいいから」

 壮太は手を止めることなく、ひたすらドライバーを動かし続ける。やがて……

「……出来た。あんまり目立つとこだと怒られちゃうからな。ここで勘弁してくれ」

 そう言うと壮太は立ち上がり二人に〝それ〟を見せた。

 そこには不恰好だが、こう書かれていた。


  2000・8/05 BUSMAN


 ローマ字はまだ今日子は読めない。唇に指を当て首を傾げる。

「今日の記念だ。バスマンになると今日子が言ってくれたことを忘れないように、いつか俺が見た景色を今日子も見れるように……バスマンてな」

「……ほんと?」

 今日子が壮太を見上げて聞いた。壮太は誇らしげに腕を組み頷いて見せた。

「あぁ」

 今日子は満面の笑みで壮太に抱きついた。壮太も今日子を抱き上げる。そして片腕で幸枝も抱き寄せた。夕焼けに染まる松江営業所。三人とバスの影がどこまでも伸びて行く。

 そんな彼らの姿を、休憩室の窓から柴田はそっと見守っていた。この家族を包む幸せがいつまでも続けばいいと願った。


 ひぐらしが鳴いている……自分もそろそろ所帯を持つのも悪くないかもと、柴田はぼんやり考えていた。



 お盆も終わった八月二十日。ここ数日松江は季節外れの長雨で、まるで梅雨に戻ったかのような蒸し暑さだった。雨は運転士は特に嫌がる。道は自然と渋滞するし、乗客の乗降にも時間がかかる。おまけに湿気で窓が曇りやすくて危ないのだ。

 ただ、今日に限って言えば久しぶりに雨はあがっていた。曇天が重くのしかかってはいたものの、先に述べたような心配は今のところ無さそうではあった。


 松江営業所の点呼場に腹を押さえた柴田が調子悪そうに入ってきた。

「どうした? 柴田」

 カウンターにいた永嶋は柴田の様子に声をかけた。後三十分もすれば発車である。

「先輩すいません。なんか今朝から腹の調子が悪くて……なんとか朝の便は我慢したんですけど、ちょっとヤバいかも知れないです」

「薬は飲んだのか?」

 柴田は本当に辛そうだった。

「はい。薬が効いてくれば大丈夫だと思うんですけど、乗務中にもよおしてもなりませんし……このあとの便だけ誰か代わってもらうことは出来ませんか?」

「ふむ……そうだな――」

 永嶋が思案していると入口のドアが開いた。

「俺は~バスマン~男だぜ~……あれ、二人共神妙なお顔でどしたの?」

 謎の歌を歌いながら入ってきたのは壮太だった。

「おぉ、高梨ちょうど良かった。すまんが柴田の代わりに今から〝野井〟走ってもらえないか? 柴田が体調悪くてな……その代わりあくまで柴田の様子を見てだが、回復すれば午後のお前の〝片句〟は柴田に走ってもらうから」(※当然のことながらこの時代の宍道湖交通は現在よりも多くの路線を抱えていた)

「なんだなんだ柴田くん……体調管理も運転士の大事な仕事だよ? まったく何を拾い食いしたのかね」

「……す、すまん」

 大方ただの腹痛だろうと壮太は軽口を飛ばしたが、それを返すほどの余裕も柴田には無いようだった。

「わかりました……お前は休憩室で寝てろ。午後の片句も俺が走るから」

「いや、しかし」

「いいから。永嶋さん点呼お願いします」

 申し訳無さそうにしている柴田を手で制し、壮太は発車準備にかかる。いつも柴田には迷惑をかけているのだ。こんな時くらい力になってやりたいと壮太は思った。



 野井線の往路。間もなく海へと抜ける峠に差しかかろうという時に壮太のバスに無線が入る。

『こちら宍道湖松江、宍道湖松江。二十七号車、至急最寄りの停留所へ停車し応答願います』

 会社からだ。何だろうと思いつつも指示通り少し先にある〝西持田〟の停留所へバスを停車させ、壮太は無線を返した。

「こちら二十七号車ですどうぞ」

『この先、上講武の先で事故が発生しているようです。怪我人はいないようですが、事故車両が横向きになっているために片側交互通行になっています。乗用車の通行は可能らしいですが、大型車の通行は困難らしいです。

 事故車両撤去にはまだまだ時間がかかるとのことですので、御津(みつ)の迂回路を通行してください。乗車中のお客様の降りられる予定の停留所を確認して必要な措置と案内をお願いします』

「……了解しました」

 壮太は一気に陰鬱な気分になった。御津の迂回ルートは普段あまり車も通らない、海岸に沿った崖っぷちの狭い狭い道である。対向車でも来ようものならかわすのも困難なほどで、出来ればバスなどで走りたくない道だった。だが指示は指示である。シートベルトを外し乗客に説明する。

「誠に申し訳ありません。この先で事故が発生しバスが通れなくなっているようです。御津の海岸線を迂回しまので、どちらで降りられるのか確認させてください」

 四人の乗客に壮太は一人一人降車予定を聞いた。

 左側一番前の席。かなりご高齢の老婆――

「私は終点まで……」

 右側中扉付近の席。中年の女性二人組――

「私らは加賀まで行くつもりです」

 左側一番後ろの席。二十代くらいの青年――

「ぼ、ぼくは野波まで……」


 良かった。迂回することで影響のある乗客はいないようだった。後は無事〝あの道〟を抜ければ何も問題はなかった。

「では迂回ルートにて運行します。少々お待ちください」


 御津の海岸線に到着した。狭い道がくねくねと先に延びている。所々対向車が回避出来るポイントはあるが、おかしなところで出くわしたらどちらかが下がるしかない。壮太は大きく息をつき腹を括った。

 ゆっくり、慎重にバスを走らせる。左手はすぐそこが崖だ。一瞬の気の緩みも許されない。ひとつ、またひとつとカーブを抜けて行った。

 やがて一番の難所に差しかかる。ここが一番道幅も狭く見通しが悪い。すぐ先の右カーブの向こうの様子がわからない。壮太は祈るような気持ちだった。

「頼むぞ……ここさえ抜けてしまえば――」

 バスがまさしくそのカーブを曲がろうとした時だった。反対車線から中型のダンプが勢いよく曲がってくる。避けられない――

「! 馬鹿野郎っ……」

 壮太は急ブレーキを踏んだ。次の瞬間激しい衝撃がバス全体を襲い、目の前が真っ白になった。



 松江営業所の点呼場――少し体調の回復した柴田は、午後から走れる旨を申告しに中に入ったとこであった。永嶋を初め、数人の運管が何やら相談をしている。

「……お疲れ様です。どうしたんですか?」

 柴田の声に永嶋が顔を上げた。

「おぉ柴田か。大丈夫なのか?」

「はい。だいぶ楽になりました……何かあったんですか?」

 柴田の問いに永嶋は眉間に皺を寄せて答えた。

「いや、それがな……もう時間のはずなのに高梨がまだ加賀に到着してないみたいなんだ。バスが来ないって苦情が入ってな……」

 永嶋の言葉に何か嫌な感じを覚える。

「え……無線も繋がらないんですか?」

「あぁ、無線も繋がらないし、高梨の携帯にもかけてみたんだが圏外みたいだ」

 ただごとではないのは容易に想像出来た。出来ることならいつもの〝過剰なサービス〟か何かで遅れていると思いたい。けどなんだ? 胸騒ぎがしてならない。

「先輩、俺ちょっと見てきます。会社の軽借りますよ」

 早足で社用の軽自動車の鍵を取り、柴田は出て行こうとした。その背中に永嶋が声をかける。

「今日は事故の影響で御津の迂回ルート走らせてる。頼むぞ?」


「わかりました」



 どれだけかははっきりとしないが、どうやら気を失っていたようだ。少しずつだが脳が覚醒していく。

 目の前にはガラスや計器類が割れたり曲がったりしてめちゃくちゃに破壊され、それが眼前にまで迫っていた。そして暗い……頭上で配線が断裂しているのかスパーク音が聞こえる。

「……そうか……俺、事故して……痛っ!」

 脳が再び目覚めると同時に、体験したことも無いような激しい痛みが全身を襲った。痛みの元を辿って行くと、裂けたアルミ板の鋭利な突起物が右の腹部に深々と突き刺さっており、そこからおびただしい量の血液が流れているようだった。

 再び壮太は気を失いそうになったが、彼にとってはとてつもなく大事なことが脳裏をよぎり、無理矢理意識を保った。

「!……お客さん……皆さん……ぶ、無事ですか……?」

 腹に力が入らず大きな声が出せない。壊れたハンドル部分が腹部を圧迫している。どうやら押し潰される寸前で助かったようだが、ハンドルと腹に刺さった突起物のせいで身動きが取れない。

 かろうじて動く首を左に向ける……一番前に座っていた老婆だろう。座席から投げ出され激しく体を打ちつけたに違いない。あらぬ方向に体はねじ曲がり横たわっていた。

「お客さん……お客さん……くそっ! くそっ」

 壮太の声に老婆はピクリとも反応しなかった。絶命している。その時だった――

「……すけて、た……たすけて」

 後ろの方で絞り出すような声が聞こえる。生存者だ。そうとわかればゆっくりもしていられない。なんとか脱出せねば……

 壮太は呼吸を整え、冷静になるよう努めた。腕時計を見る。運行時間から考えると気を失っていたのは僅か数分だったようだ。ここは携帯の電波も届かないし無線も繋がらない。運良く会社が気づいて救助の連絡をしてくれたとしても、まだまだ先の話だろう。自分でなんとかしなければならない。

 まずはシートベルトを外そう。左手でバックルの解除スイッチを探す……あった。頼む外れてくれ……指でスイッチを押す。ベルトはまるで何事も無かったかのように静かな音を立てて外れてくれた。

「よ、良し……問題はこいつか……」

腹に深く突き刺さった突起物……外そうにも体がこれ以上後ろに行かないので外せない。

 しばし深呼吸しながら考え、ひとつの結論に達する。左手で股の下のシート下部を探り、シートの前後スライドレバーを探し当てた。壮太の考えに間違いが無ければレバーを引くと同時にシートは後ろに動き、突起物も外れ、僅かながら動けるスペースが確保出来るはずだ。


 そう〝痛み〟をまったく考慮に入れなければの話だったが……


 壮太は震える手でレバーをつまんだ。おそらく今から襲ってくるであろう痛みを想像しただけで涙が出てくる。だが、止めるわけにはいかなかった。火災の危険性だってある。生きている人だけでも避難させないと。

「ふー……ふー……行くぞ、行くぞ……3……2……1」

 腹を括る。ありったけの力を込めて歯をくいしばると同時にレバーを操作した。

 壮太の予想通り、足を少し突っ張るだけでシートは簡単に後ろにスライドした。そして腹の突起物も激しい痛みと共に抜くことが出来た。

「……! ぐぁっ……ぅっ……あ゛……がぁ」

 一瞬気が遠くなった。左拳で太股を思い切り叩いてなんとか正気を保つ。通りが良くなった傷口から更に勢い良く血が溢れ出てくる。

 いかん――壮太は僅かに出来た隙間から体を滑らせるようにしてなんとか立ち上がる。視界がとても暗い。血を流し過ぎて暗いのか、本当に暗いのか良くわからなかった。何かに掴まらないと立っていられない。

 傍らにあった手すりに体を預け、シートの背もたれの後ろを探る。確かタオルが数枚あったはずだ。タオルを二枚取る。おぼつかない手でなんとか片側を結び長くすることが出来た。それを胴体に一周させ傷口を強く縛った。

「がっ!……はぁっ……は……は」

 再び激しい痛みが壮太を襲ったが、これでなんとかしばらく出血は抑えられるだろう。

 改めて車内を確認する。もう良く見えない。記憶を頼りに乗客が座っていたであろうと思われる辺りを注視する……いた。

「だ、大丈夫ですか……?」

 壮太は二人の中年女性に声をかける。見たところ大きな怪我はしてないように見えた。

「……は、はい。私は打撲とすり傷程度ですけど、連れが手すりで肩を打ってしまって」

 見ると通路側の女性が肩を押さえ呻いていた。あの衝撃だ。骨折しているかも知れない。

「わかりました……少し待っていてください」

 確かもう一人……若い男がいたはずだ。奥の方へ手すりを伝いながら歩を進める。一番後ろの角でその青年は震えていた。

「……き、君。大丈夫か?」

 青年は頷くばかりで言葉を発することは無かった。ショック状態なのだろうか……両手で自分の二の腕を抱き、一点を見つめて何かぶつぶつ言っている。

 ダメか……手を貸してもらおうかと思ったが期待出来そうにない。怪我はしていないようなので、まずは二人の女性を優先で脱出させねば……

 脱出路は二つ。車両右側後部にある非常口扉か中扉のどちらかだ。壮太は考える。非常口扉は開けるのは容易いが地上から一メートルもの高さがある。怪我をした女性が飛び降りるのは簡単ではない。

 中扉は地上と高さはそう変わらない上に広い。これなら片方の女性が肩を貸しながらでも出ることが出来るだろう。ただ――

「はぁ……は、な……中扉を開けます。そこから逃げてください」

 先ほどまで座っていた運転席周りの状況を思い出す――右手前方にある扉開閉スイッチの辺りも破壊されていたはずだ。戻っても無駄だろう。

 壮太は唯一残された方法を実行するため、中扉左下に位置する〝非常コック〟を手探りで探し出した……これで扉の圧を抜いてやれば手動で開けることが出来る。

 目の前が暗くてはっきりと見えない。おぼつかない手つきでなんとかコックを見つけることに成功し、すぐさま操作する。

 プシューッ! 激しいエアー音と共に中扉の圧が抜けた。これで手動で開く……ただ、中扉は重い。今の自分に開けられるだろうか……

 もう余力も無い。一度しかチャンスは無いだろう。ゆっくり、余分な血を流さないようにゆっくり中扉に手を添える。右手……左手……両足を可能な限り踏ん張った。

「はぁ……はっ……よ、良し。い……行くぞ……」

 先ほどと同じように歯をくいしばる。今まさに、全身全霊の力を込める――

「ぐっ、あ゛ぁーっ!」

 悲鳴とも叫び声ともわからない声を壮太は発した。腹部から大量の血液が流れ出る嫌な感触が伝わる。もう少し……もう少しだ。

「はぁ、あ……がっ、ぐぅっ……」

 ドアはゆっくり動き出した。半分ほど開いたところで壮太は力尽きた。後は自分の体重を預ける――ずるずるとドアはいっぱいまで開いた。

「さ……さぁ、早く行ってください」

 ドアの手前で崩れ落ちながらも、女性に脱出を促す。

「けど、けど運転手さんも大怪我……」

 仰向けになって傷口を押さえる。

「い……いつ火災が発生するかわかりません。私のことより、どこかで電話を借り……て警察と救急に連絡するんです。ここじゃけ……携帯も繋がらない……さぁ……早く!」

 この時代の携帯電話の通信環境は、まだ現在ほど整備されておらず、過疎地になると電波の届かないエリアがまだまだ多かった。

「は、はい! すぐに助けを呼んできます」

 軽症の方の女性が、肩を負傷している女性を支えながら足早に外に出て行った。

 ふっと息をつく。まだやらなければならないことがある。

「……お兄さん……お、お兄さん」

 壮太は息絶え絶えで青年に呼びかける――が、返事は無い。

「……すまんが、前のお、お婆ちゃんを運び……出すのを……手伝ってくれな……いか? はぁ、せめて……ご遺体だけでも……ご、ご遺族に渡した……い」

 もう目が見えない。そして物凄く寒い……血を流し過ぎたようだ。青年の反応を待った。やがてどこからか声が聞こえてくる――

「……ざけんなよ。田舎に帰ろうかと思って、久しぶりにバスに乗ってみたら……なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。死体を運べ? お、俺は何も知らない……関係無いからな!」

 青年は壮太を見下ろしながら言った。そして――いなくなった……

「……お兄さん? ……おに……なんだよ。そっか……そうだよなぁ……怖かった……よなぁ」

 車内に取り残された壮太……だがもう動く力は残っていなかった。老婆の遺体を外に出してやれなかったのが無念でならない。


 社用車を走らせる柴田。壮太が辿ったルートを追いかけてはいたが、未だ発見出来ずにいる。そろそろ御津の迂回路に差しかかるところだった。

「あの馬鹿……どこで何やってんだ」

 すると御津の崖が続く海岸線の前方、見覚えのあるバスが停車しているのが見える。

「いた!」

 急いでアクセルを吹かす。そもそもあんなとこでバスが停車していること自体普通じゃない。

 ――前方に人影が見えた。どちらも女性……片方の女性は肩を押さえ負傷しているように見える。まさか……柴田はその二人の前に車を停めた。

「宍道湖交通の者です。失礼ですが、先で停まっているバスの乗客の方ですか?」

 柴田の問いかけに二人は力なく頷いた。

「はい……事故です。ダンプが凄いスピードで突っ込んできて……私達は先に逃がしてもらいましたけど、まだ人がいます。特に運転手さんは大怪我をしてて……早く救急車を」

 女性の言葉に柴田は最悪の事態を想像する。嫌な汗が全身から吹き出していた。

「申し訳ありません。お乗せしたいのは山々なのですが、救助に行かなければなりません。更に百メートル行ったところに民家があります。そこで電話をお借りして連絡をしてもらえますか?」

 柴田の指示に二人は頷く。

「はい。そうしてください。私達も急ぎます。さぁ……」

 柴田は再び車に乗り込み現場へ急いだ。


 一番道幅が狭くなるカーブで壮太のバスと中型ダンプは衝突したようだった。互いの車両前部が激しく損傷している。

 かろうじて本線の方が片側交互通行をしていたために、運行時間から逆算して事故発生からおよそ二十分の間、一般の車両は通らなかったと見える。もし本線を全面通行止めにしてくれていたら……迂回路の方も車がそれなりに通ったはずだ。今頃は誰かが発見、通報して救助が到着していたかも知れないのに――

 バスに辿り着く。真っ先に中扉が空いているのが見えた。柴田は駆け寄って中を覗き込んだ。

「!」

 そこにはおびただしい出血をして横たわる友の姿があった。顔が驚くほど白い。柴田は急いで壮太を抱きかかえた。

「高梨! おい、高梨!」

 柴田の呼びかけにしばらく壮太は反応しなかった。手遅れなのかという考えが頭をよぎった瞬間だった――

「……柴田……か? やっと来てくれたか……すまん。もう……目も見えないし、耳も良く聞こえないんだわ」

 目の焦点は定まっていないし、体は異様に冷たかった。まずい……まずい。

「す、すぐに救助がくる。それまで頑張れ!」

「……相手の運転手……どうなった?」

 この期に及んで人の心配とは……お人好しにもほどがある。柴田はやりきれなくなった。

「事故起こした張本人だろ? 知るかよ。それより出血を止め――」

 柴田が言い終わらないうちに壮太は彼の腕を掴み首を横に振った。

「……頼む」

「わ、わかった。待ってろ」

 柴田は壮太を再び横に寝かせワイシャツを脱いで患部に当てた。

「すぐ戻る」

 柴田は勢いバスを出て前方のトラックの運転席を確認した。

「……!」

 シートベルトをしてなかったのかも知れない。フロントガラスに激しく頭をぶつけたのだろうか。首がおかしな方向に曲がっていた。

 割れたドアウインドウから腕が垂れ下がっている。念のため脈をみる……反応は無かった。

「……くそっ」

 柴田は力なく壮太の元に戻った。

「……どう……だった?」

「だ、ダメだった……」

 答えながら再び壮太を抱きあげる。血止めのつもりだったのだろう。体に巻いたタオルが真っ赤に染まって濡れている。既にタオルの用を成していなかった。

「……そっか……なぁ。た、頼みがある」

「喋るな。黙ってろよ」

 気がつくと柴田は泣いていた。

「前の方……にもお婆ちゃんが、亡くなってんだ……ど、どうか二人のご遺体だけでも、か……家族に届け……てやって、くれ」

 柴田は声にならない嗚咽を漏らす。なんでこいつは、いつも人の心配ばかりしてるんだ。

「わかった……わかったから。それよりまずは生きてる人間の手当てが先だろうが」

 柴田は外を見渡す。救助が来る気配はまだ無かった。

「や、やっぱり……一度、け……ケチがついたバスは……ダメだったなぁ」

 柴田の流す涙が、壮太の頬に落ちる。

「馬鹿野郎……フロントがちょっとへこんだだけじゃねぇか。あんなの整備に頼めば、一週間で直るよ」

 壮太がふらつく手で柴田を探していた。それに気づいた柴田が手を握る。

「泣いて……泣いてんのか……お前らしく……もない」

「うるせぇ。うるせぇよ」

 もうあり得ないほどに体が冷たい。柴田は神に祈る想いだった。どうか神様……この馬鹿の命を……救ってやってください。

「今日子が……バスの……う、運転士に……なりたいとか……言ってたけど、やっぱ……ダメだなぁ……危なくて……させられないな」

 柴田は涙を流しながら何度も頷いた。

「あぁ! これから先、運転士になりたいなんて今日子ちゃんぬかしやがったら、俺も一緒に全力で止めてやる。約束だ」

 柴田はぎゅっと壮太の手を握った。壮太は笑っているように見えた。

「お、お前が……そう……言ってく……れるなら……安心だ……幸枝ちゃん……き、今日子……ごめ……」



 ――夏休みの宿題をやっていた今日子だったが、誰かに呼ばれたような気がして窓の外の空を見る――

「……」


 言い終わると壮太は眠るように力を失っていく。

「お、おい……高梨……起きろ高梨!」

 柴田は壮太の身体を何度も揺さぶった。しかし、壮太が再び目覚めることは無かった。

「うぉぉぉーっ……ちくしょう、ちくしょう! なんで……なんで」

 

 柴田は力の限り壮太を抱きしめた。バスの車内に柴田の慟哭がこだまする。救急車のサイレンが聞こえてきたのは、それからほどなくしてだった。

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