第19話 2000年

 ミレニアムだとか2000年問題だとか、何かと騒がしい新年を迎えた年ではあったが、半年もすれば世間は何事も無かったかのように、案外普通に穏やかな時間を過ごしていた。

 バス事業の規制緩和政策以前ということもあり、バス運転士を取り巻く環境も現在と比べればまだ良かったと言える時代でもあった。


 梅雨明けの茹だるような蒸し暑さの中、冷房の効いた居酒屋の店内で二人の男が酒を酌み交わしている。

 一方の男。少し小柄で体格が良いわけでもなかったが、エネルギーに満ち溢れた瞳や表情はとても印象的で、どこか人を惹き付けるような魅力を感じさせていた。

 もう一方の男……背丈は成人一般男性の平均のそれであったが、筋肉質で体格が良く、鋭い眼光は相手を射すくめるような威圧感を持った男だった。

「だからよ。この前倒産した鳥取の〝白兎(はくと)バス〟に納車されるはずだった二台の新車が宙に浮いてしまって、困ったディーラーが色々バス会社に営業かけてたんだよ。それをうちが安く買い叩いて、近々入ってくるって話なんだ」

 片方の男〝高梨壮太〟は焼き鳥を口に運びながら言った。何やら企んでる風な顔つきだということは、同僚運転士であり友人でもある〝柴田健二〟にはすぐ分かった。

「お前がそういう顔してる時は絶対何かあるだろ……そもそも新車が入ってくるからなんだ? どうせ先輩らの担当車になるんだろ。お古しか回ってこない俺ら五年目の若僧には関係の無い話だよ」

 柴田はビールを呷る。明日は二人共休みだ。今夜は気兼ね無く飲むことが出来る。

「そう思うだろ? ところがな……山田さんも森下さんも『そんな縁起の悪いバスいらん』て乗り気じゃないらしいんだよ」

 壮太は柴田に顔を近づけ小声で言った。山田、森下とは宍道湖交通松江営業所のベテラン運転士だ。次に新車が入れば担当になるのは彼らだろうと噂されていたのだが、運転士は縁起を担ぐ。事故のリスクと毎日隣り合わせで仕事をするのだ。少しでもケチがついたものは避けたいという心理はわからないでもない。

「だからって俺らにそれを選ぶ権利なんて無いだろ。選ぶのは運管だ」

 柴田は半分呆れ顔で答えた。そもそも新車にそこまで興味はなかった。

「んふふ~ところがだ。我々に融通を利かしてくれる頼もしい先輩がいるではないか柴田くん」

 明らかに壮太は何かを企んでいた。

「……お前また」



 休み明け。松江営業所の広大な敷地の一角に、木造で建てられた古い運転士用の休憩室の建家があった。その裏手……事務所からも整備棟からも見えない死角に運行管理者、永嶋誠二は連れて来られていた。

「お前らなぁ……いい加減にしろよ? 確かに新車は入ってくるらしいけど、それを誰の担当にするかなんて下っ端運管の俺が決められるわけないだろ」

 背が高く大柄な永嶋を中央に右は壮太、左は柴田で脇を固められている。壮太が永嶋の腕を掴み聞いた。

「じゃあ誰が決めるんですか?」

「課長に決まってるだろ。気持ち悪い。はーなーせっての!」

 永嶋が壮太の腕を振り払い左側にいた柴田に視線を移した。

「なぁ、柴田……まさかお前まで」

「ち、違いますよ? 俺は一緒にいるだけで高梨が勝手に……」

「あら、つれないこと言うじゃない柴田くん。一緒に先輩にお願いしてよぉ」

 壮太は今度は柴田の腕にしがみついた。

「き、気持ち悪い! 巻き込むな馬鹿……暑いよ」

 柴田も壮太を引き離そうと必死だったが壮太は離れなかった。見かねた永嶋がとうとう折れた。

「分かった! 分かったよ。ったく……一応順番の運転士の反応みていけそうなら立候補者がいるみたいですけど? って伺い立ててみるわ」

「あ、ありがとうございます! さすが永嶋さん」

 壮太は永嶋を拝んで感謝していた。

「けど期待するなよ? 順番で誰か一人でも〝乗る〟って言えば多分その運転士が優先なんだからな?」

 永嶋の念押しに壮太はわかっているのかわかってないのか、何度も頷いて見せる。その様子に柴田はため息しか出なかった。

「新車が来れば、俺のバスマン人生もより充実するなぁ」

 聞いたこともない単語に二人は首を傾げた。


「「なんだぁ? バスマンて」」



 それから数日経ったある日。柴田がいつものように運行していると、少し先にある反対のバス停に一台の〝しじみバス〟が停まっていた……が、何やら様子がおかしい。

「……?」

 すると中扉の方から老人を背負った壮太が躍り出てくるではないか。

「アイツ……!」

 柴田は〝またか〟という想いに歯噛みする。実はこうした光景を目にするのは初めてではなかった。壮太のこうした〝行き過ぎたサービス〟を目にするのは一度や二度ではない。運転士のサービスとは〝バスに乗ってから降りるまで〟が信条の柴田とは正反対に、壮太はその範疇を度々越えてしまう。当然運行にも遅れが出てしまうし、一度そうしたサービスを経験した乗客は二度目三度目を期待してしまうようになる。

 停車している壮太のバスとすれ違い、今度はミラーを注視していると近くの病院に入って行くのが見えた。百歩譲って老人が急病なら仕方ないだろう。だが壮太の笑った顔から察するにそれほど緊急性を要する事態ではないのは明白だった。


 夕方。営業所で洗車をしている壮太をようやく捕まえることが出来た。運転士はそれぞれが一日の行動がばらばらなのですれ違いも多く、会わないとなると本当に会えない時もある。

「高梨! お前今日またバスから離れて爺さん背負ってただろ? 永嶋先輩にこの前こっぴどく注意されたのにまだ懲りてないのか?」

 壮太は水道の水を止め苦笑いしていた。

「いや~悪い。あの爺さん昨日転んで膝打ったらしくてな。乗る時もかなり時間がかかってたんだ。聞くと病院行くって言うからさ……停留所近くだったし俺が運んだ方が早いと思って」

 やっぱりな理由に柴田はうんざりする。

「だからってなぁ。時間は遅れるしまた他の客から苦情が来たらどうすんだよ? だいたいお前――」

「お前が言うことの方が正しいと思う……うん。けど、けどな? 俺のバスに乗ってくれたお客さんが困ってたら……なんとかしてあげたくなっちまうんだ」

 変わった運転士だと柴田は思っていた。壮太は松江営業所の中で苦情も一番多いが、それと同時に賞詞も一番多い運転士だった。

 普通の運転士の心理なら出過ぎたことはせず、無難にそつなくこなすものだと思う。苦情のリスクがあることなど、見なかったことにして回避するのがセオリーである。

 だけどこの男は違った。乗客のためと一旦判断してしまえば可能な限り手助けをしてしまう。ただ、それを後先考えずにやってしまうから、結果的にそれ以外の客からの苦情が入ってしまうのだ。

 以前など松江駅で身体障害者の乗客の降車扱いをしていた時に、その客がたまたま壮太に『このあとATMに行かなければならないが、ご覧の姿だからお金を下ろすのも一苦労だ』などと世間話のつもりで言ってしまったがために、バスを置き去りにしたままその乗客に肩を貸し、ATMまで行ってお手伝いをするといった前代未聞の騒ぎがあったほどだ。

 次から次へと駅にはバスが入ってくるというのに、壮太が停めているため次のバスが入れず、後続のバスが数珠繋ぎになってしまうという地獄絵図だった。

 結局壮太が帰ってくるまでのおよそ十分間、駅前のバスターミナルは一時機能が麻痺し大混乱となったのである。

 その後業界内外で〝しじみバス駅前運転士失踪事件〟として、しばらくの間語り継がれる伝説となり、松江営業所には数十の苦情と謝辞が綴られた一通の手紙が寄せられた。

 そして、結果的に壮太にはたったひとつの賞詞と引き換えに、謹慎五日間という重い処分が下されたのである。

「気持ちはわかるけど、それでクビにでもなったら元も子もねぇだろ。今日子ちゃんも小学校なんだし、その辺もうちっと考えてやれよ」

 柴田は長いブラシを手に取り洗車の手伝いを始める。理解には苦しむが、こういうやつは嫌いじゃなかった。

「おぉ! 最近今日子のやつ俺のバス好きが遺伝したのか『バスに乗せろ、バスに乗せろ』ってうるせーのなんの……さすが、バスマンの娘!」

 壮太は窓を雑巾で拭きながら誇らしげに謎の単語を言う。

「なぁ、いつも思うけど何なんだよバスマンて」

 柴田はブラシの手を止めて聞いた。

「……ん? あぁ、俺にも良くわからん」

「はぁ?」

 あまりにもな壮太の答えに間の抜けた声しか出せなかった。

「とくに意味なんかねぇよ。強いて言うなら……強い気持ちでバスに携わって何かを成さんとする人……みたいな? 概念的な感じ?」

「いや、余計わかんねーんだけど……」

 確かに余計話がややこしくなった。むしろ〝スーパー運転士〟とか言ってくれた方がまだすっきりする。

「例えば……お前みたいに生真面目に運転士としての職務を忠実に全うしようとする者もバスマンだし、永嶋先輩みたいにいかに安全に、且つ効率良くバスを回すか考える人もバスマンだと思う」

「じゃあバス業界に勤めてるやつはみんなバスマンじゃねぇか」

 率直な感想を柴田はぶつける。

「信念を持ってやってないやつはバスマンじゃない。例え毎日バスに携わる仕事しててもな」

 高梨ワールドに取り込まれそうだ。頭が痛くなってきた。

「じゃあお前はどうなんだよ?」

「俺か?」

 窓拭きをやめて柴田の方を向いた。いつも冗談ぽくしか話さないのに、いつになく真剣な顔つきだった。


「俺は〝歯車〟になりたい。この街を動かす小さな歯車に」


 なんのことかさっぱりわからなかったが、心にだけは響いてしまった。同僚の言葉ごときに若干赤面してしまう。

「俺が運んだ人が、行く先々で何かを作ったり何かを育てたりするんだ。それって凄くないか?

 夕方疲れた顔して乗ってくるお客さん……その人を誰かが待ってる家へと帰る手伝いをするんだぜ? なんかいいだろ」

 物流を良く〝日本の血液〟と例えるが、おそらく高梨が言ってるのはその〝人〟バージョンといったところか。

「何を言い出すかと思えば……お前ってごくごく当たり前のことを〝いかにも〟っぽく言うの好きだよな?」

 茶化してはみたが、羨ましくもあった。こういう考えが出来るとこに惹かれてつるんでるのかも知れない。

「ハハハ……ばれたか。けどそれが今んとこ、俺のバスマンなんだな」

 壮太は再び雑巾を動かし始める。

「ま、なんにせよあんま調子に乗るなよ? お前になんかあったら幸枝さんも今日子ちゃんも路頭に迷っちまう。そういう考えは……嫌いじゃねーけどな」

 柴田は口元を歪ませて微笑んだ。

「……お前って本当、笑顔作るの下手だよなぁ……ぎこちなくて気持ち悪いぞ」

「てめえっ!」

 壮太の冗談に柴田はホースを掴み放水の報復をする。構内に壮太の悲鳴がこだました。

「うそです! ごめん、ごめんて~!」



 次の日の深夜。日付けが変わる少し前に二人の男が高梨家に訪問を知らせるチャイムを鳴らした。

「! 馬鹿――今日子ちゃん起きちゃうだろ」

「んふふ~今日子ー! バスマンが帰ったどぉ」

 泥酔した壮太を担いで柴田は玄関前に立っていた。

 昨年のこと。公営住宅に住んでいた高梨一家だったが、今日子が小学校へ入学したのを機に、壮太と幸枝は意を決してマイホーム購入を決意した。

 といっても新築というほどの余裕も二人には無かったため、程度の良い中古住宅を二ヶ月かけて各地の不動産屋を巡り、悩みに悩んでやっとこの家に決めたのである。

 玄関口の向こうに明かりが灯り人の気配がした。

「幸枝さん夜分遅くにすいません。柴田です」

 怪しい者ではない旨を伝えるため小声で名乗る。やがて静かにドアが開いた。

「柴田さん、こんばん……あらあらあら。いつもご迷惑おかけしてすいません」

 幸枝はパジャマにカーディガンを羽織って出てきた。当然ながらメイクも何もしていないので、少々気恥ずかしそうにしているように見える。

「幸枝さんすいません。もっと早く連れて帰ろうとしたのですが、なかなか言うことを聞かなくて」

「さちえしゃん……すいません! ヒッ」

 柴田は壮太を玄関口に入れ座らせる。

「もう本当にこの人は……ごめんなさいね? さ、上がってお茶でも……」

 当然社交辞令だ。柴田もそこまで非常識ではない。

「いやいや、もう帰りますので。気を使わないでください。高梨のやつ次に入ってくる新車がいよいよ自分の担当になるのが現実味を帯びてきて……ちょっと今日ははしゃぎ過ぎたというか」

 ようやく壮太から解放された柴田は立ち上がり、ハンカチで額の汗を拭きながら言った。

「まぁ、そうだったの? この人今日子とバスの話は毎日のようにするけど、仕事の話は家ではほとんどしないから……新車なんて、危ないことだけしないでいてくれたらそれだけでいいのに――」

 その時、廊下の奥から小さな人影が顔を覗かせた。さらさらの長い髪が寝癖で乱れている。兎のぬいぐるみを小脇に抱え、目をこすっていた。

「……おじさんだぁれ?」

 寝ぼけているようだ。柴田は少し前屈みになり少女の視線の高さに自分を合わせた。

「今日子ちゃんかい? こんばんは」

 今日という日を大事に生きて欲しいから〝今日子〟という表向きの理由と、壮太が若かりし頃……熱狂的に愛した〝某アイドル〟の名前を付けたという裏の理由があった。

 裏の理由は実は柴田しか知らない――

「お父さんの会社の人よ。お父さん連れて帰ってきてくれたの。お礼言いなさい?」

 幸枝は今日子に柴田の説明をしたが、あまり良くわかってないようだった。

「……ふぅん。あんまりバスマンの邪魔しちゃダメよ」

 そう言うと今日子はふらふらとまた奥の方へ消えて行った。

「す、すいません」

 幸枝が申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえいえ。じゃあ俺はこれで――」

「シバター……御苦労であった!」

 帰ろうとする柴田へ壮太が寝ながら別れの言葉で見送る。

「こら――親子揃って!」

 言いながら幸枝は壮太の背中を叩いた。

「はは……いいんですよ。あ、それより高梨のやつ新車が入ったら幸枝さんと今日子ちゃん招待して御披露目会するんだ! って息巻いてましたよ」

「そうなんですか? 本当にもう、勢いがつき出すと止まらなくて……すいません」

 幸枝は言葉とは裏腹に、壮太の背中をさすりながら慈しむような眼差しで見ていた。

「……じゃあこれで……おやすみなさい」

「あ、本当にありがとうございました。お気をつけて――」

 言い終わらないうちにそそくさと柴田は玄関を出てドアを閉めた。

 田んぼから蛙の鳴き声が聞こえる。見上げれば満月が眩しいほどに夜空を照らしていた。

「……どうりで明るいと思った」

 三十路を迎え、身寄りもなくまだ独り身の柴田には、高梨一家の温かさは少々眩し過ぎた。

 これ以上アイツが無茶しないように……世話の焼ける友人を案じ、夏の夜の静けさを心地よく感じながら柴田は家路についた。

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