第18話 涙
長かった教育もついに最終日となった。本来なら島崎との特訓や、今日まで思い悩んできた様々な葛藤が思い出されるのであろうが、本日の配車予定が書かれたホワイトボードを見る限り、そのような感傷に浸っていられる余裕が無いのは明白だった。
一号車 柴田健二 側乗 高梨今日子
「……」
今日子は言葉も出ず配車予定表の前で立ち尽くしていた。これは神のいたずらだろうか……それとも運管のいたずら? 何故よりによって最終日に?
須賀や早苗にヒントを貰い、まだ答えは出ていないながらも気持ちは前に向くようになったというのに……下手をしたら本当の本当に最悪の結果になるかも知れない――
「何をしている」
背後から聞き覚えのある冷たい声がした。背筋が氷りつき瞬時に嫌な汗が流れる感じがした。
「お……おはようございます……」
振り向いて挨拶をする。相変わらず感情の微塵も感じられない表情で柴田は今日子を見下ろしていた。
「発車まで時間も無いぞ。点検は済んだのか? さっさとやってこい」
抑揚無く柴田は言った。
点検ハンマーを片手に今日子は〝あのバス〟の前にいた。まさかこのような形でこのバスを運転することになろうとは……小さい頃の記憶が、断片的ではあるが蘇る。手を繋がれ……山のように大きなこのバスを七歳の今日子は見上げていた。
車内に入る。あの頃と何も変わっていない。左側の一番前、島崎が〝監督席〟と名付けたこの席……見晴らしが良くて運転士の姿も良く見える。今日子のお気に入りの席だった。二度と戻ってはこないあの日々を慈しむように今日子はシートを優しく撫でる。
目頭が熱くなった。今はダメだ……集中しろ!
込み上げてきた感情を必死で抑え込み、柴田との側乗最終訓練に今日子は気持ちを入れ直した。
本日の側乗訓練は柴田指導の元、朝〝東出雲八雲線〟午後〝鹿島線〟夕方〝美保マリン線〟の三本だった。現在二本目の鹿島線復路。今日子は柴田の様子に戸惑いを隠せなかった。
柴田は訓練が始まるやいなや、最後尾の席に座り「始めろ」と言ったっきり言葉を発していなかった。どうせやることなすことケチを付けられるとばかり思っていただけに、あまりにも不気味な感じに今日子は落ち着いて運転することも出来なかった。
ただ、さすがに明日は最終試験である。そこまで初歩的なミスもすることなく、無難に運行出来ていると自分なりに感じてはいた。
駆け込み乗車の高齢者も待ってあげることが出来たし、降車ボタンを押し忘れた中年女性をなんとか停留所の少し先だったが降ろしてあげることも出来た。
まさかとりわけ指摘する箇所が無くて黙っているのだろうか……と、楽観的なことも考えたが、柴田に限ってそれはないだろうと今日子は気を引き締め直した。
やがて鹿島線復路も無事運行が終わり松江営業所に到着した。事務所棟の前に仮停めすると同時に、柴田は無言で点呼場へ歩いて行った。今日子も置いてかれまいと慌てて後に続く。
「指導運転士柴田です。鹿島線及び側乗訓練到着しました」
「……し、しました」
点呼場のカウンターには佐伯がいた。柴田が到着報告をし敬礼する。後ろで遠慮気味に今日子も敬礼した。
「お疲れ様でした柴田さん。本日三本目が終わってから聞くつもりだったのですが、急遽これから本社へ出かけなくてはならなくなりました。
高梨さんですが、明日は予定通り〝見極め〟を行っても問題ありませんか?」
実は本日の訓練指導に柴田を選んだのは何を隠そう佐伯だった。方向性は違えど島崎の次に厳しいと言われる柴田である。元々予定していた試験ではあるのだが、柴田がOKと言ってくれれば安心して実施することが出来る。準備する側は段取りやら何やら色々と大変なのだ。
事実、昨日まで指導を担当してきた運転士達からもこれといって問題は報告されていなかった。なので柴田も小言のひとつやふたつはあるかも知れないが、概ね良好な返事が返ってくるものだと、佐伯にしては少々楽観的な見通しで聞いてみたところだったのである。
だが、佐伯はここ最近の今日子に対する柴田の態度について、永嶋から気をつけるように言われてはいたものの、目の当たりにしたことはなかったために、どこか他人事のように認識してしまっていたのかも知れない。佐伯らしくないミスであった。
「まったく話にならない」
柴田は吐き捨てるように言った。一瞬柴田が何を言ってるのかわからず、今日子を初め佐伯も反応出来ずにいた。整管の門倉、福田や他の運転士も数名が点呼場にいたが、誰も言葉を発せずにいた。
しばしの静寂の後、今度はまるで堰を切ったように柴田が言葉を畳み掛けてくる。
「まず第一に、一本目の東出雲八雲。復路の〝八雲支所前〟降車ボタンを押し忘れた乗客が停留所を通過した後に、慌ててボタンを押した。立ち客もいたというのにバスは急停車し、停留所の遥か百メートル先で降車扱いをした」
柴田は淡々と言った。
「そ、それはお客さんも人間です。ぼーっとしてることだってあります。結果的に降ろしてあげることが出来たんだから良か――」
「停留所以外での乗客の乗降は認められていない!」
今日子の反論に柴田は言葉を被せて遮る。今日子は目で佐伯に助けを求めたが――
「法律で決められています……」
佐伯は今日子の目を見据えて静かに言った。確かに教育中、島崎にそのことは聞いたことがある。だがその時島崎はいたずらっぽく『ま、これもケースバイケースだ。お客さんを一番に考えて柔軟に対応してやれ』と教えられたので、あまり神経質に考えてはいなかった。
「あの客はいつかまた同じことをするぞ? その時の運転士が、お前のしでかしたことのために迷惑を被るんだ〝前の運転士の人は降ろしてくれたのに〟ってな」
今日子はそれ以上言い返す材料は持ち合わせていなかった。
「次に二本目。鹿島線往路〝久米〟三人組の高齢者の女性客が乗ってきたよな?」
「……はい。覚えています」
先ほどの件を引きずっていた今日子は力無く答えた。
「お前はそのひとつ前〝春日南〟を過ぎても送りボタンを押さなかったために久米に進入しても案内は春日南のままだった」
「け、けど発車する時に放送ですぐに間違いに気づいたので、久米発車後に正常に戻しました」
今日子の言い訳を柴田は鼻を鳴らして一蹴する。
「ふん……じゃあ春日南のままバスカードを通してしまった乗客三人はどうなるんだ?」
「……あ」
今日子の背筋が凍りつく。
「春日南から久米は整理券番号がひとつ変わり運賃も上がる。つまり! あの三人の乗客は春日南から乗車したことになり、お前のせいで割高になってしまった運賃を最後まで間違いに気づかずに降りて行ったんだよ」
膝が震えた。自分のミスに気がつかなかったばかりか、乗客にまで迷惑をかけてしまっていたのだ。
「幸い俺の知ってる婆さんらだ。明日事情を話して差額分は返却しておく」
ひとまずその一点についてだけは今日子は胸を撫で下ろした。しかし柴田は更に続ける。
「そして三つ目。鹿島線復路〝県民会館前〟お前随分遠くから手を振って駆け込み乗車してくる老婆を、一分近くまで待って乗せていたよな?」
「は……はい。お客様第一の観点からそうしました」
島崎のいつかの言葉を思い出していた――
『都会じゃ数分置きにバスが来る。けど島根じゃ一時間に一本なんてざらだ。そりゃ駆け込み乗車してでもこのバスに乗らないとって気持ちは理解出来るんだ』
柴田は冷たい視線を今日子から外すことなく更に続けた。
「あそこは松江駅の次にバスの出入りが激しい停留所だ。別に松江駅行きなら無理にお前のバスに乗らなくったってすぐに次のバスが来る。お前は無駄なことをした上に後続のバスにまで迷惑をかけていたんだぞ?」
「え?」
後ろにバスがいたなんて気がつかなかった。
「二台いたんだ。つまりお前は無駄なことをしただけでなく、自分のバスと後続二台の乗車中の客……そして行く先々の停留所で待っている全ての乗客の〝一分〟を無駄にしたんだよ! たった一人の迷惑な駆け込み乗車客のためにな」
愕然とした……何も考えられなかった。
「お前や後ろにいたバスがその後行くバス停に……足の悪い障害者や高齢者が、いつもならもう来ているはずのバスを今か今かと待ってたらどうするんだ?」
「す……すみません」
自分のしでかしたことの意味を今日子はようやく理解した。お客様のために、お客様のためにと早苗のような気持ちでやったことだったのに……
「その安っぽい正義感か何かで、誰からも愛される運転士にでもなったつもりか?」
福田が俯いていた。
「結果的にそれ以上の人達に迷惑をかけてな。お前がやってきたのはただの自己満足に過ぎん」
「柴田さん。もうその辺で……」
佐伯が割って入るが柴田は止まらなかった。
「所詮俺達はバスを走らせるしか能のない運び屋だ。時間通りに走ってやっと全ての乗客を公平に扱ったことになる。誰かに偏れば誰かに皺寄せがいくように出来ている。
都合の良い乗客のわがままを、自分が頼りにされているんだと勘違いしてないか?」
何も言い返せない。拳を握りしめる。
「お前は一ヶ月何を見てきたんだ? 毎日毎日時間に追われ、安全に運行することが俺達の本分であるはずなのに、いつの間にか行き過ぎた接遇に神経をすり減らしている」
唇を噛みしめる。顔が上げられなかった。
「甘い顔で対応すればつけあがること際限なく、自分たちの思い通りにならなければすぐにクレームだ。
こいつらを見てみろ。誰もかれもが疲れ果ててる。一般車両に怯え、乗客に怯え、朝早くから夜遅くまでバスを走らせてる。死んだ魚みたいな目をしてな……」
福田も、他の運転士も何も言わなかった。頷ける部分が多々あったのだろう。
「こんなクソみたいな仕事を続けて、お前はいったい何をするつもりなんだ?」
――ちょっと待って……今、なんて?
「こんなクソみたいな仕事の試験を合格したところで、何になろうというんだ?」
やめて……それ以上言わないで。
「こんな仕事に誇りを持ったところで、所詮クソはクソなんだ」
「……めろ」
柴田の唇が震えてるような気がしたが……今日子の目にはもう入っていなかった。
「く……クソが誇り持って仕事しても……おっ死んでしまうのが……オチだ」
明らかに柴田の様子もおかしかったが、怒りの奔流が流れ出てくる――止められない。
「……さんが、お父さんが愛した仕事を……それ以上馬鹿にするなーっ!」
今日子が〝キレ〟た。皮肉にも佐伯にとっては二度目の光景だった。だが言葉の意味がわからない。
「お父さん?」
「――!」
柴田が今日子の形相に一瞬たじろぐ。間髪入れずに今日子は柴田に掴みかかった。
「それでも……それでも! お父さんはこの仕事を愛していたんだ。謝れ! お父さんに謝れ」
柴田の胸ぐらを掴み今日子は激しく揺さぶる――柴田は額に脂汗をびっしりかいていた。表情は変えなかったが、かなり無理しているように見える。
「お父さんは最高の運転士だったんだ。最高のバスマンだったんだ! お父さんに比べたらお前なんか……お前なんか!」
慟哭……激しい怒りと悲しみの波が今日子を襲っていた。止め処もなく溢れる涙……鼻水も流れ出てぐしゃぐしゃになる。人がいたって構わない。そんなことより今この男が吐き捨てた言葉だけは許すわけにはいかなかった。
柴田は今日子の腕を振り払う。女のくせになんて力だ――
「意味のわかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ? これが最後の警告だ。ここはお前みたいなおめでたいヤツが来るところじゃない……さっさと俺の前から消えろ」
肩で息をしていた今日子だったが視線は柴田から一ミリも外さなかった。まるで別人かのような眼差しで柴田を睨み付ける。
「偉そうなこと言って、出来ないんだろ……自分は客からも愛されない寂しい運転士だから。客のためにって思うお父さんや私が妬ましいだけなんだろ!」
「……んだと?」
「私はお前なんか怖くない。お前がどんなこと言って邪魔してきたって構わない。約束したんだ。お前じゃ逆立ちしたってなれないような……お父さんみたいなバスマンになるんだ!」
「――このっ」
今日子の言葉に再び詰め寄ろうとした柴田だったが、ギリギリで踏みとどまる。そして息を大きく吸って吐いた……
「……わかったよ。今日はまだラスト一本残ってる……もうお前は運転しなくていい。最後は俺が走る。俺が本当に出来ないのかどうか教えてやる。時間になったら来い……」
柴田は少しよろめきながら点呼場を出た。前に停めてあった自分のバスにもたれかかる。
「くそっ……頑固娘め!」
営業所内は大騒ぎだった。新人がベテランにキレたのである。本来なら明日の試験どころの話ではなかったが、一部始終を見ていた佐伯が〝柴田にも非がある〟と永嶋に報告したことで、現時点では喧嘩両成敗となった。
騒ぎを聞きつけた島崎が今日子のとこへ飛んで行こうとしたが、永嶋にきつく止められ現在所長室に軟禁状態であった。
そしておよそ一時間後――運転席には柴田、最後尾の席に今日子を乗せ、十七時十分発美保関ターミナル行きは間もなく発車しようとしていた。
今日子は放心状態で項垂れていた。あろうことか先輩運転士に掴みかかったのだ。明日の試験は良くて延期、最悪解雇になるかも知れない。けどもう何も考えられなかった。柴田に指摘されるようなミスをしたのも自分だったし、キレたのも自分なのだ。
泣き腫らしたひどい顔をミラー越しに見られたくない。今日子は顔を上げられないでいた。そもそも今更柴田の乗務を見たところで何だというのか……もう意味など無いはずだ。
当の柴田はまるで精神統一でもしてるかのように俯いたまま微動だにしなかったが、やがて――
「……発車します」
――良く見ておくんだ――
「……え」
柴田の発車アナウンスと同時に、別の声がどこからか聞こえたような気がした。
松江駅に着いた。夕方ということもあり、家路につく学生や会社員らで車内は賑わっていた。
「二十分発車です……今しばらくお待ちください」
こんなアナウンスまでするんだ……しかも棒読みでもない。ちゃんと言っている。
今日子の前の席に二人組の中年女性が腰掛けた。
「ねぇ、あの愛想の悪い運転士よ……」
「本当。この前時間を間違えて駆け込みで乗ろうとしたらあの人出て行っちゃってね」
「ひどいわねぇ」
「少しくらい待ってくれてもいいのにねぇ」
ひそひそ話が聞こえる。やはり客からの評判は良くないようだ。しかし、先ほどの柴田の話と照らし合わせるなら、非は乗客側にあるような気がする。
「お待たせしました。美保関ターミナル行き発車します。扉が閉まります。ご注意ください」
発車時刻が来た。丁寧なアナウンスと共に扉が閉まる。気がつけば車内はほぼ満車状態になっていたが、柴田は慌てる素振りもなくバスを滑らかにホームから発車させた。
「……上手い」
一番初めの感想はそのひと言に尽きた。以前営業所構内で島崎の運転を見た時も凄いと思ったが、同じ……いや、それ以上かも知れない。
発進、停車、カーブ。どれを取っても体を揺さぶられることはなかった。
二つ目の停留所。乗客が待っていた。柴田は滑るようにポケットへ進入して行く。このタイミングで勢いよく入ってくるバスが怖くて後退りする乗客が多いのだが、柴田はそこまで考えてるようだった。
乗客の手前五メートルで更に静かに減速し、左のミラーが乗客の目の前をかすめる頃には最徐行と言って良いくらいまでスピードは落ちていた。
乗客は一歩も動くことはなかった。中扉をぴたりと乗客の前に合わせてバスは停車した。ここまでの一連の動きに全く淀みがなく、流れるような動きだった。
「お待たせしました。美保関ターミナル行きです。ご乗車ください」
扉を開けアナウンスをする。今日子が窓の外を見るとポケットの縁石とバスの隙間はぴったり十五センチ。まっすぐだ。
「!」
いつか聞いた島崎のお師匠並みのテクニックなのかも知れない。
次に〝県民会館前〟に到着する。ホームには車椅子の男性が手を挙げ、乗車の意思を示していた。
「車椅子のお客様の対応をさせていただきます。少々お待ちください」
柴田はバスを停車させると中扉は開けず、前扉だけ開けて車椅子の男性へと駆け寄る。
「申し訳ありません、このバスは古いために車椅子を積載する装置を備えておりません。失礼ですがどちらまでお行きですか?」
車椅子の男性の前で膝をつき、とても丁寧に柴田は対応していた。
「……な、なんか今日のあの運転士、やけに丁寧じゃない」
「本当。出来るなら最初からしなさいよねぇ」
前の席の二人が愚痴を飛ばしていた。
「それでしたらうちのバスではございませんが、五分後に○○行きの市バスさんが来ます。お乗せ出来るように手配しておきますので、今しばらくお待ちください」
柴田は頭を下げ運転席に戻る。無線を取り営業所へ連絡した。
「宍道湖松江、宍道湖松江。こちら一号車柴田です。県民会館前に車椅子のお客様がおられます。○○○まで行かれるそうです。五分後の市バスさんのバスがちょうど良いと思われますので手配願います」
『宍道湖松江了解。交通局さんへ連絡しておきますので』
今日子は驚きを隠せなかった。これ以上ないほどの接客だったが、それよりも他社のバスの時間まで把握してるなんて。
柴田は車椅子の男性に頭を下げ、バスに乗り込む。中扉を開けて通常の乗車扱いをした。
「大変お待たせしました。美保関ターミナル行きです。ご乗車ください」
この時点で通路も立ち客で埋まるほどの混雑ぶりであったが、時間は……僅か三分しか遅れていなかった。
次は〝西川津〟にバスは近づいて行く。停留所に乗客の姿は見えない。降車ランプも点灯していなかった。
「お降りのお客様いらっしゃいませんでしょうか? ……通過します」
今まさに西川津の停留所を通過しようとした瞬間、降車ランプが点灯する。
「あら、ごめんなさぁい。うっかりしてて……ここで降ろしてくださる?」
前の二人組だ。明らかに故意だろう。日頃の柴田の態度への仕返しかも知れない。
「大変申し訳ありません。停留所以外での乗降は禁止されておりますので、次の停留所でお降りいただきます」
柴田のアナウンスに前の二人は顔を見合せる……口元が歪んでいた。
次の停留所〝大内谷〟に着いた。柴田は前の扉を開ける。
「先ほどのお客様。大変申し訳ありません。こちらでお願いします」
前の二人は明らかに不満そうな態度で運賃箱の方へ歩いて行った。
「どうしてくれるのよ。西川津で降りたかったのに、余計に歩かせるつもり?」
一人が柴田に食ってかかる。わざとなのは柴田もおそらく承知しているのだろうが、柴田は冷静だった。
「停留所に安全に停車させることが出来ない場合は次の停留所までお待ちいただくようにしております。
私には、お客様お二人と後ろにおられる皆様の安全に配慮する義務がございます。急ブレーキを踏んでしまうことで、お客様の身に危険が生じる恐れがございました。どうかご理解ください」
柴田は制帽を脱ぎ、深々と頭を下げた。ここまで運転士に言わせて尚食い下がるのであれば、それはもう立派なクレーマーだろう。後ろの乗客達の冷たい視線が二人に突き刺さった。
「つ、次からは気をつけなさいよ!」
ばつが悪そうに二人組は降りて行った。さすがとしか言い様がない対応だった。
路面を読み、信号を読み……そして自転車や歩行者の動きを読み、柴田のバスは街を縫った。そして気がつけば終点〝美保関ターミナル〟にバスは到着していた。遅れは七分……ラッシュ時、いつもの混み具合だったというのに驚異的な時間だった。
「本日も宍道湖交通御利用くださいましてありがとうございました。間もなく終点美保関ターミナル到着です。お忘れ物がございません様、今一度お確かめになってからお降りください。
本日の御利用誠にありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
夕闇に染まる終点のバス停、柴田の心のこもったアナウンスと共にバスは静かに停車した。
「ありがとうございました……ありがとうございました。はい、カードはこちらにお入れください。ありがとうございました」
大勢の乗客一人一人に、柴田は丁寧に挨拶をする。何人かは柴田に礼を言って降りる乗客もいた。そして最後の乗客の老婆が、柴田の前で歩みを止めて言った。
「あんた……そんな凄い応対が出来るのに、いつもはなんでかね……今日は久しぶりに良い気持ちで降りられたよ。ありがとうね」
老婆の言葉に柴田は一瞬固まっていたが、やがて制帽のつばに指を添え頭を下げた。
「……ありがとうございました」
復路も同じように非の打ち所のない運行を目の当たりにし……ただ、ただ柴田という運転士の凄さに圧倒されるばかりだった。
売り言葉に買い言葉だったとはいえ、身の程もわきまえず柴田の力量を私見で判断してしまったことが、今日子は何より情けなくて恥ずかしかった。
だけど何故――
夜の闇に辺りが包まれている。ヘッドライトの灯りでその闇を振り払いながら、柴田の運転するバスは松江営業所に到着した。
何か言われるかと覚悟していた今日子だったが、柴田は肩で大きく息をついたかと思うと立ち上がり、無言のままバスを降りて行く。
「待ってください!」
前扉から柴田が外に出たところで、今日子は中から声をかけた。
「どうして……どうしてあれほどの技術と心を持っていながら活かそうとしないんですか……?」
いつもの柴田と今しがたの柴田が重ならない。今日子の問いかけに柴田は振り向く……まるで憑き物が落ちたかのような顔をしていた。
「……明日の試験は予定通り行うように佐伯に言っておく。もう何も言わん。お前の好きにしろ。俺も……もう、どうすれば良かったのかわからなくなってきた」
柴田はそう言うと今日子に背を向けて事務所の方へ歩き出した。
「まだ答えを聞いていません! 柴田さんっ」
今日子は尚も柴田を呼び止めた。柴田は今度は振り向かず、背を向けたままひと言だけ言った。
「……高梨なら……高梨壮太なら、もっと上手く乗ってたさ」
柴田の言葉に今日子は聞き間違いではないかと自分の耳を疑った。
「どうしてその名前を……」
それ以上語ろうとしない柴田の背中を、見えなくなるまで今日子は見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます